爛熟の迷宮 ~祝福の果実に身体も心も変えられていく三十人の少女たち~   作:a-ru

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第二十四話『迷宮は何を望む』

 翌朝。

 

「……121.1」

 

「超えたね」

 

 琴音が読み上げた数字を聞いて、隣にいた葵がぽつりと呟いた。

 

「何が?」

 

「120」

 

「昨日も同じこと言ってたよね」

 

「昨日はまだ超えてなかったじゃん」

 

「だからって祝わないで」

 

「祝ってないって」

 

 蛍はため息をつきながら、自分の胸元へ視線を落とした。

 

 昨日から、きっちり二センチ増えている。

 

 もはや見慣れてしまった変化だった。朝になれば決まったように数字が増えているのに、身体のどこかが痛むわけでもなければ、体調を崩すこともない。

 

 もっとも、防具の補助がない教室では、胸の重さまで消えてくれるわけではなかった。立っているだけでも前へ引かれるような重量は以前より確実に増しており、歩けば大きく育った膨らみが揺れるたび、その存在を嫌でも意識させられる。

 

 それでも体調そのものは今日も異様なほど良く、肌にも髪にも不調らしい不調は見当たらなかった。鏡に映る自分も、迷宮へ来る前より明らかに整って見える。

 

 昨日までと違うことがあるとすれば、とうとう120という数字を越えたことくらいだ。

 

「それで、何かある?」

 

 顔を覗き込んできた葵に、蛍は眉を寄せる。

 

「何かって?」

 

「誰かに触りたいとか。ほら、昨日話してたやつ」

 

「朝一番で人に聞くこと?」

 

「だって確認しないと分かんないじゃん」

 

 言われてみればその通りなので、蛍は少しだけ考えてみた。

 

 昨日までと比べて、誰かの身体が妙に気になるだろうか。胸へ触れてみたいとか、昨夜の二人のようにキスをしてみたいとか、そんな感覚が自分の中に生まれていないか。

 

「……ないと思う。少なくとも今は」

 

「そっか」

 

「そんな残念そうな顔しないでよ」

 

「してないって」

 

 そう返す葵は118.9センチ。測定役の琴音は125.1センチまで増え、香奈恵は139.0センチ、麗華も137.1センチになっていた。

 

 昨日あれだけ意識した120という数字を、自分も越えた。それでも、何かが急に切り替わったような感覚はない。

 

 やはり120センチという数字そのものが、明確な境界になっているわけではないのだろう。それが確認できたことには少し安心したものの、それだけですべてを安心していいわけではないことも、蛍には分かっていた。

 

「測定終わった人、そのまま残ってもらえる?」

 

 教室の前方から香奈恵の声が飛んだ。

 

 昨夜の話を覚えているからだろう。いつもの朝より皆の反応は早く、測定を終えた者から自然と机の周辺へ集まってくる。まだ順番を待っていた者たちも、何の話が始まるのか察しているらしく、何度もこちらへ視線を向けていた。

 

 全員の記録が終わるのを待ってから、香奈恵は教室を見回した。

 

「昨日、蛍が言ったことについてなんだけど……私も、探索の進め方を変えた方がいいと思う」

 

 それだけで、先ほどまでの軽い空気が少しだけ重くなった。香奈恵は机の上へ広げられた地図に手を置き、その複雑に伸びた線を見下ろしながら続ける。

 

「今までは、一度に十人前後で探索してたでしょう。無理はせず、疲れたら別の人と交代して、毎日少しずつ進んでいくやり方」

 

「それで問題なかったもんね」

 

 琴音が頷く。

 

「食べ物には困らないし、教室に戻れば怪我も治る。何日以内に最深部へ行かなきゃ駄目、なんて説明もされてないから、時間だけはいくらでもあると思ってた」

 

「そう。私もそう考えてた」

 

 香奈恵の言葉に、蛍も内心で頷いた。

 

 最初こそ一刻も早く帰りたかった。それでも探索のやり方が固まり、教室という安全地帯の存在にも慣れてからは、焦って大怪我をするくらいなら、一日ずつ確実に進んだ方がいいと思うようになっていた。

 

 昨日までは、それが正しいと思っていたのだ。

 

「でも、昨日話したみたいに、身体だけじゃなくて私たちの考え方まで少しずつ変わってる可能性があるなら、その前提では動けない」

 

 香奈恵の声が低くなり、何人かが自分の身体へ視線を落とした。

 

「まだ、そうだって決まったわけじゃないでしょう?」

 

 教室の後ろから慎重な声が上がったが、香奈恵は否定せず、すぐに頷いた。

 

「うん。決まったわけじゃない。昨日のことだって、単に私たちがここでの生活に慣れてきただけかもしれないし、胸の大きさと気持ちの変化に関係があるように見えるのも偶然かもしれない」

 

「だったら――」

 

「ただ、違ってた時が怖いの」

 

 言葉を重ねようとした少女が黙った。

 

「身体の変化なら、こうして毎朝測れば分かるでしょう。昨日より二センチ増えた、今日は何センチになったって。でも、考え方そのものが少しずつ変わっていくとして、自分でその変化に気づける保証はない」

 

 その言葉に、蛍は昨夜考えていたことを思い出す。

 

 帰りたいという気持ちは、今も確かにある。けれど、迷宮へ来たばかりの頃に感じていた「今すぐここから出なければ」という切迫感は、いつの間にか薄れていた。

 

 ただ環境に慣れただけなのか。それとも、慣れたと思うこと自体が何かの影響なのか。今の自分たちには、それを見分ける術すらない。

 

「つまり、昨日までは急ごうと思ってても、明日になったら『別に急がなくていいか』って思ってる可能性もあるってこと?」

 

 誰かが不安そうに尋ねると、琴音が困ったように笑った。

 

「可能性の話だけどね。だから、まだ私たちが『急いだ方がいい』って思えてるうちに急いだ方がいいんじゃないかなって」

 

「……言い方怖いよ」

 

「私も言ってて怖い」

 

 そう答える琴音の口調は軽かったものの、顔には笑みがなかった。

 

「それで、今日はどうする?」

 

 葵が机へ身を乗り出し、地図を覗き込む。

 

「今までより人数増やす?」

 

「そのつもり」

 

 香奈恵は地図から顔を上げ、全員へ向き直った。

 

「ただし、強制はしない。これは絶対。昨日怪我をしてまだ怖いとか、今日は探索に出たくないとか、そういう人まで無理に連れていく気はないから。でも、出られる人には、できれば今日は参加してほしい」

 

「全員?」

 

「行ける人はね。だから……今日、探索に参加してもいいって人は手を上げてもらえる?」

 

 一瞬だけ、教室に迷いが生まれた。

 

 最初に蛍が手を上げ、その隣で葵も続く。琴音と麗華、そして香奈恵自身も腕を上げると、それをきっかけにしたように教室のあちこちから手が伸びていった。

 

 蛍は無意識にその数を追った。十人を越え、十五人、二十人と増えていき、最後まで迷っていた一人がおずおずと手を上げたところで止まる。

 

「……二十五人」

 

 琴音の呟きに、わずかなざわめきが起こった。

 

 三十人中、二十五人。これまで何度か探索へ参加してきた者の、ほとんど全員だった。

 

「でも、二十五人で一緒に歩くの?」

 

 当然の疑問が上がり、別の少女もすぐに続ける。

 

「それは動きづらくない? 前に十人くらいでも狭かった通路あったよね」

 

「じゃあ二つに分ける?」

 

「十二と十三とか?」

 

 次々と案が出始めたところで、一人が遠慮がちに手を上げた。

 

「……ねえ。むしろ逆じゃない?」

 

「逆?」

 

「人数を増やすんじゃなくて、減らした方がいいんじゃないかな」

 

 集まった視線を受けながら、その少女は机の近くに置かれている装備を指した。

 

「今まで十人くらいずつに分けてた装備を、一番強い七人とか八人に集めるの。大きい盾も、回復してくれる杖も、魔力が増える腕輪も、強い武器も全部。二十五人でぞろぞろ歩くより、一番強い組を作って一気に奥へ進んだ方が速くない?」

 

「あ、それはありかも」

 

 葵がすぐに反応した。

 

「人数多くても、通路だと結局前にいる人しか戦えないしね」

 

「魔法や弓だって、後ろに人が多すぎたら射線を取りにくいでしょうし、撤退する時も二十五人固まってる方が危ないでしょうね」

 

 麗華も腕を組みながら同意する。

 

「じゃあ、その八人だけで行く?」

 

 誰かが尋ねると、今度は琴音が地図へ指を置いた。

 

「それだと、別の問題があるよ」

 

「何?」

 

「どの道が正解なのか分かんない」

 

 地図には、これまで調べてきた通路が幾重にも枝分かれしながら描き込まれている。特に昨日到達した神殿のような区画から先には、まだ何本もの空白が残っていた。

 

「一番強い八人が右へ進みました。でも最深部へ繋がってたのは左でした、ってなったら、一日丸ごと無駄になるでしょ? 今の私たちに必要なのは強い敵を倒すことより、どの道が奥へ続いてるのか調べることだと思う」

 

「ああ……そっか」

 

「だったら二組?」

 

「でも十二人とか十三人でも多くない?」

 

 蛍も地図を覗き込みながら口を挟んだ。

 

「一体の敵に十二人全員で攻撃できるわけじゃないし、広い場所ならともかく、普通の通路だと邪魔になると思う」

 

「だったら三組にする?」

 

 葵が地図の上へ指を滑らせる。

 

「二十五人だから、八、八、九くらい?」

 

「それじゃ今までの十人前後とそんなに変わらないでしょう」

 

 誰かが首を傾げたが、葵はすぐに首を振った。

 

「三組とも同じように戦う必要ないじゃん。一組だけ一番強くするの」

 

 そう言いながら、昨日もっとも奥まで調べた道を指差す。

 

「一番奥へ続いてそうなところには、一番いい装備を集めた組が行く。敵がいて、どうしても通らなきゃいけないなら戦ってもいい。残り二組は別の道を調べるだけにして、敵がいたら基本的に戦わず戻る」

 

「偵察だけってこと?」

 

「うん。行き止まりか、まだ先へ続いてるか、それだけ分かればかなり違うでしょ」

 

 琴音はしばらく地図を見つめていたが、やがて納得したように頷いた。

 

「それならいいと思う。一日に三方向調べられるし、強い装備を全部薄く分ける必要もない」

 

「そうね」

 

 香奈恵も考えをまとめるように地図へ視線を落とした。

 

「第一班には、今ある中で一番いい装備を優先して回す。第二班と第三班は戦闘を避けて、地図を広げることだけを優先しましょう」

 

「敵がいても、倒せそうだから倒すっていうのは無し?」

 

「無し。第二と第三は数や特徴を確認して、気づかれていないならそのまま戻る。追われたり、退路を塞がれたりした時だけ戦う」

 

「第一班は?」

 

「第一班も、本当の目的は戦闘じゃない。避けられるなら避ける。ただし、先へ進むためにどうしても倒さなきゃいけない敵なら戦っていい」

 

 これまでとは、明確に方針が違っていた。

 

 昨日までは魔物を倒して新しい装備を手に入れることも、探索の大きな目的の一つだった。勝てそうな相手なら積極的に戦い、少しずつ戦力を増やしながら前へ進んできた。

 

 けれど今日からは、装備を増やすことよりも、一日でも早く奥へ繋がる道を見つけることを優先する。

 

「じゃあ、宝箱を見つけたら?」

 

「すぐ取れるなら取る。でも、わざわざ寄り道はしない」

 

「倒した敵が何か落としたら?」

 

「その場ですぐ拾えるものだけ。探し回るのは無し」

 

「……本当に急ぐんだね」

 

 誰かの呟きに、香奈恵は少しだけ黙った。それから全員の顔を見渡し、最後に地図へ視線を戻す。

 

「魔物を倒すことが目的じゃないから」

 

 昨日までなら当たり前だったことを、確かめるように言葉へする。

 

「今日からは、帰るための道を探すことを一番にしよう」

 

◇ ◇ ◇

 

 三班の編成には、それなりに時間がかかった。

 

 第一班は、蛍と葵を含め、これまでの戦闘で安定して動けていた者を中心に八人。大型盾と白銀の回復杖、魔力を補助する腕輪に加え、手持ちの中でも性能の高い武器を優先して回す。

 

 第二班は香奈恵と琴音を中心とした八人で、琴音が地図を担当し、香奈恵が進退の判断を下す。

 

 残る第三班は麗華を含めた九人。装備こそ第一班には劣るものの、麗華をはじめ遠距離から攻撃できる者を複数入れ、万が一魔物に見つかっても、足止めしながら撤退できる構成にした。

 

「いい? 本当に戦わないからね」

 

 出発直前、香奈恵は念を押すように第二班と第三班を見回した。

 

「勝てそうに見えても戦わない。『これくらいならいける』が一番危ないんだから」

 

「それ、葵に言った方がよくない?」

 

「何で私!?」

 

「前科があるでしょう」

 

「ちょっと、蛍まで!」

 

 いつものような笑いが起こり、重くなっていた空気がわずかに和らぐ。昨夜あれだけ不安な話をしたばかりなのに、朝になればこうして皆で冗談を言える。

 

 そのことを素直に喜んでいいのか。それとも、そんなふうにすぐ日常へ馴染めてしまうことまで疑った方がいいのか、蛍にはもう分からなかった。

 

「それじゃ、行こう」

 

 香奈恵の声とともに教室の扉が開いた。境界を越えると、身につけていた防具に淡い光が戻り、それぞれの身体へ吸いつくように形を変えていく。次いで胸元を下から支えられるような感覚が生まれ、教室にいる間は嫌でも意識していた重みが、ふっと軽くなった。

 

 胸そのものの重量が消えたわけではない。それでも、揺れを抑え、重心まで補正してくれる防具があるだけで身体の動かしやすさはまるで違う。

 

「……やっぱり、こっちだと楽」

 

 隣で葵が胸元を確かめながら呟いた。

 

「うん」

 

 以前なら、百二十センチを越えた身体でこれほど自然に歩けるなど想像もできなかっただろう。けれど今では、その異常さすら探索へ出るたび当たり前になりつつある。

 

 いつもより遥かに多い二十五人が、そうして迷宮の奥へ足を踏み出した。

 

◇ ◇ ◇

 

 結果から言えば、その日の作戦は成功だった。

 

 まず二十五人全員で、すでに安全を確認している道を最短で進む。途中にある既知の分岐には目もくれず、昨日見つけた神殿のような区画まで到達したところで、三班に分かれることになった。

 

「夕方になったら、ここへ戻る。早く調査が終わっても、他の班を追いかけたりはしないこと」

 

 香奈恵が最後の確認をすると、誰かが手を上げる。

 

「時間になっても戻ってきてない班があったら?」

 

「少しだけ待つ。でも、それでも戻らなかったら教室へ戻る。探しに行ったせいで別の班まで帰れなくなる方が危ないから」

 

 言葉だけを聞けば冷たく感じる判断だったが、異論を唱える者はいなかった。迷宮では、助けようとした結果として被害が広がる可能性があることを、もう全員が知っていた。

 

「じゃあ、またあとで」

 

「そっちも気をつけて」

 

「麗華、敵見つけても突っ込まないでよ」

 

「それを私じゃなくて葵に言いなさい!」

 

 最後に軽口を交わしてから、三班はそれぞれ別の道へ進んでいった。

 

 蛍たち第一班が選んだのは、昨日遠くに獣型の魔物を確認した通路だった。

 

 昨日は遠目に一体しか見ていないため、全員が足音を抑えながら慎重に進んでいく。しばらくすると、前方から低い唸り声が聞こえてきた。

 

「止まって」

 

 蛍が手を上げると、後ろを歩いていた者たちもすぐに足を止める。柱の陰から姿を現したのは、昨日見たものと同じ獣だった。

 

 狼に似た四本脚の姿をしているが、その身体は比較にならないほど大きい。肩の位置だけでも蛍の胸元近くまであり、黒灰色の毛皮には硬そうな鱗が混じっている。口元から覗く牙も、小鬼たちが使っていた粗末な刃物などより遥かに鋭そうだった。

 

 しかも一体ではない。最初の獣から少し遅れ、柱の向こうからもう一体が姿を見せる。

 

「二体か」

 

「戻る?」

 

 誰かが尋ねた。蛍は獣の向こうへ視線を送り、通路がさらに先へ続いていることを確認する。

 

「迂回できそう?」

 

「たぶん無理。横道もない」

 

 大型盾を持った少女の返答を聞き、蛍は短く頷いた。

 

「じゃあ戦おう。盾が正面、葵と私は左右から。後ろは近づきすぎないで、前衛が下がれる場所を空けておいて」

 

「了解」

 

 今日の目的は、あくまで探索だ。それでも、先へ進むために必要な戦闘まで避けることはできない。

 

 獣との戦いは、小鬼を相手にしていた時とは明らかに違った。

 

 何より速い。

 

 一体が床を蹴った次の瞬間には大型盾へ真正面から激突し、広い通路に鈍い衝撃音が響き渡った。以前ならその勢いだけで盾役ごと吹き飛ばされていたかもしれないが、強化された身体と装備のおかげか、少女は数歩後退しただけで踏みとどまる。

 

「耐えられる!」

 

「じゃあ右から行く!」

 

 葵が飛び出すのと同時に、蛍は反対側へ回り込んだ。横腹へ振り下ろした剣から伝わってきた手応えは、小鬼とは比べものにならないほど硬い。それでも刃は鱗の隙間へ食い込み、獣が苦しげに身体を捻った。

 

 そこへ後方から矢と魔法が飛び、もう一体の動きを鈍らせる。

 

 前衛が無理に追いすぎず、盾役を中心に距離を調整しながら一体ずつ集中して削っていくと、やがて二体の獣は床へ倒れ、光となって消えていった。

 

「……強かった」

 

 息を整えながら、葵が剣を下ろす。

 

「小鬼より全然速いね。でも、戦えない相手ではなさそう」

 

「装備を集めたのも大きいと思う」

 

 負傷者は一人だけで、腕を爪に掠められた程度だった。白銀の杖を使えば傷はすぐに塞がり、本人も腕を動かして問題がないことを確かめる。

 

「大丈夫?」

 

「うん。もう痛くない」

 

「じゃあ進もう。長く休むのはやめとこう」

 

 全員が頷き、再び奥へ歩き始める。

 

 獣のいた通路を抜けた先には、これまでよりさらに大きな空間が広がっていた。左右へ延びる複数の回廊があり、その一つには下へ続く階段まで見える。壁際には閉ざされた扉もいくつか並んでおり、以前のように一つずつ慎重に調べていたなら、この一帯だけでも数日は必要だっただろう。

 

 けれど今日は、すべてを見る必要はない。地図へ位置だけを書き込み、危険そうな場所には印をつけ、どの道がどちらへ伸びているのかを確かめながら先へ進んでいく。

 

 途中で別の獣も見つけたが、まだこちらには気づいていなかったため、別の回廊へ回って戦闘を避けた。

 

 宝箱らしきものを見つけた時も、蛍は一度足を止めただけだった。

 

「すぐ開けられそう?」

 

「罠がなければ」

 

「じゃあ確認だけしよう。時間かかりそうなら置いていく」

 

 幸いすぐに開き、中からは新しい剣が一本見つかった。それだけを持ち出すと、部屋そのものを細かく調べることなく探索へ戻る。

 

 今までなら、何か見落としていないか念入りに調べていたはずだった。

 

 今日は違う。一つでも多くの部屋を見ることより、一歩でも先へ進む。その先にあるはずの最深部へ、一日でも早く近づくことだけを考えていた。

 

◇ ◇ ◇

 

「おかえり!」

 

 決めていた時間より少し早く神殿区画の集合地点へ戻ると、すでに第二班が待っていた。

 

「そっち早かったね」

 

「行き止まりを一つ見つけたから」

 

 琴音はそう答えながら地図を広げ、今日調べた箇所を指で示した。

 

「こっちの道、途中で二つに分かれてたんだけど、右は完全に行き止まり。左はまだ奥へ続いてたよ」

 

「敵は?」

 

「獣っぽいのが三体いた」

 

「戦った?」

 

「戦ってない。私としてはもうちょっと見たかったんだけど、香奈恵に首根っこ掴まれて戻された」

 

「掴んでないでしょう!」

 

「気持ちの話」

 

「紛らわしい言い方しないで」

 

 そんなやり取りをしているうちに、少し遅れて第三班も姿を見せた。

 

 こちらにも負傷者はいない。それどころか新しい通路を一つ発見し、その途中には下へ続く階段まで見つけたらしい。

 

「階段?」

 

 蛍が聞き返すと、麗華が地図の空白部分へ線を書き込みながら頷いた。

 

「少しだけ下へ降りたわ。ただ、その先ですぐまた道が分かれてたから、今日はそこまでにして戻ってきた」

 

「すごいじゃん」

 

 葵が嬉しそうに身を乗り出す。

 

 三班が持ち帰った情報を一枚の地図へまとめていくと、今朝まで空白だった場所へ次々と新しい線が書き足されていった。

 

 蛍も完成していく地図を覗き込み、その広がりに思わず目を見開く。

 

「……これ、今までの三日分くらい進んでない?」

 

「もっとかも」

 

 琴音も嬉しそうだった。

 

「やっぱり一日で三方向を調べられるのは大きいよ。行き止まりも一つ潰せたし、次に行く場所も絞れる」

 

「じゃあ、明日もこれで行ける?」

 

 誰かが期待を込めて尋ねる。

 

「今日は全員無事だったし」

 

「そうね」

 

 香奈恵も地図を見ながら頷いた。

 

「細かい編成は今日の結果を見て少し変えた方がいいかもしれないけど、基本的には同じやり方でいいと思う」

 

 その言葉を聞いて、蛍は胸の奥が少しだけ軽くなるのを感じた。

 

 昨夜、もっと急がなければならないと思った。

 

 その翌日に、実際これまでより遥かに速く探索を進めることができた。

 

 この調子なら――。

 

 そこまで考えたところで、蛍は自分から先を考えるのをやめた。まだ一日しか成功していない。それでも、希望を持てる結果が出たことまで否定する必要はないだろう。

 

「今日は戻ろうか」

 

 香奈恵の言葉に全員が頷き、再び二十五人でまとまって教室へ帰還した。

 

◇ ◇ ◇

 

 その日の夜。

 

 夕食代わりの赤い果実を食べ、大浴場で一日の汗を流して戻ってくると、教室には久しぶりに少し明るい空気が漂っていた。

 

「今日すごかったよね。三班に分けるの、思ったより良かったかも」

 

「明日は階段の先を見たいな」

 

「でも、第二班が見つけた獣三体の道も気になるよね」

 

「そこは第一班に任せればいいんじゃない?」

 

 床に広げられた地図の周囲には自然と何人もの少女が集まり、今日見つけた場所について楽しそうに話し合っている。蛍も葵と並んで地図を眺めていた。

 

「この辺、一気に広がったね」

 

「うん。今まで何してたんだって思うくらい」

 

「今までは安全第一だったんだから仕方ないよ」

 

「分かってるけどさ」

 

 葵は地図に残された空白部分を指先でなぞりながら、その先に何かを見るように目を細めた。

 

「これ全部調べたら、どこかに最深部あるのかな」

 

「あるんじゃない?」

 

「多分?」

 

「……多分」

 

 結局、そこだけは誰にも断言できない。そんな話をしていると、少し離れたところから遠慮がちな声が聞こえてきた。

 

「……ねえ。今さらなんだけどさ」

 

「どうしたの?」

 

 声を上げた少女は、食べ終えた赤い果実の種を指先で弄びながら、少し言いづらそうに教室を見回した。

 

「この迷宮って、何がしたいんだろうね」

 

 誰もすぐには答えなかった。

 

「何がって……私たちに最深部まで来てほしいんじゃない?」

 

「だったら、こんなに道を分ける必要ある?」

 

「あ……」

 

「魔物だって、邪魔するだけなら置かなくていいよね」

 

「試練とか?」

 

 琴音がゲームを思い出すような顔で口を挟んだ。

 

「よくあるじゃん。試練を乗り越えて強くなれ、みたいな」

 

「何のために強くするのよ」

 

 麗華が即座に返す。

 

「それは……ほら、最後に何かと戦わせるとか?」

 

「そのために毎日胸を二センチずつ大きくする必要がどこにあるの?」

 

「……そこなんだよね」

 

 あまりにも真顔で言われ、教室のあちこちから苦笑が漏れた。

 

「いや、本当に何なのよ」

 

 麗華は自分の胸元を見下ろしてから、うんざりしたように息を吐く。

 

「強くするだけなら、まだ理解できるの。迷宮の中じゃ防具の補助もあるし、前より身体は動く。魔法だって明らかに強くなってる。でも、それなら何でわざわざこんな体型にする必要があるわけ?」

 

「体型だけじゃなくて、見た目そのものも変わってるよね」

 

 別の少女が言う。

 

「肌も髪もずっと綺麗になってるし、ニキビとか肌荒れとかも全然なくなった」

 

「体調だってずっといいよ。寝不足みたいなのもほとんどないし」

 

「そのうえ大浴場まである」

 

「服も防具も身体に合わせて勝手に変わるし、怪我したって教室まで戻れば治るよね」

 

 思いつくままに並べていくほど、蛍は奇妙な感覚を覚えていった。魔物が襲ってくるから、ずっと迷宮は自分たちへ敵意を向けている場所だと思っていた。けれど、改めて考えてみればおかしい。

 

 自分たちを危険へ晒す仕組みがある一方で、同じくらい――あるいはそれ以上に、生き続けさせるためとしか思えない仕組みも用意されている。

 

「……殺したいだけなら、もっと簡単にできるよね」

 

 気づけば、蛍はそんなことを口にしていた。

 

 皆の視線がこちらへ集まったが、否定する声はない。最初に遭遇した酸を吐く魔物も、巨大な守護者も、今日戦った獣たちも、間違いなく危険だった。

 

 それでも、単純に自分たちを殺すことだけが目的なら、安全な教室も、身体を健康に保つ果実も、怪我を治す仕組みも必要ない。

 

「逆に、生かそうとしてるってこと?」

 

 葵が不思議そうに言う。

 

「……何のために?」

 

 誰かが返した一言に、教室が静かになった。その答えを持っている者は、もちろん誰もいない。

 

「実験とか?」

 

「どういう実験?」

 

「人間を迷宮に閉じ込めて、どんなふうに変わっていくか観察するとか」

 

「それなら身体を変えられてるのも説明できる?」

 

「実験って言っちゃえば何でも説明できるでしょ」

 

「嫌だなあ、それ」

 

「……誰かに見られてたりするのかな」

 

「やめてよ」

 

 何人かが反射的に天井を見上げた。もちろん、そこにあるのは見慣れた教室の天井だけで、監視している何者かの姿など見えるはずもない。

 

「……好みの身体にされてる、とか?」

 

 そんな中、別の少女がぽつりと呟いた。

 

「好み?」

 

「ほら、美人にして、肌も髪も綺麗にして、スタイルまで良くしてるじゃん。胸だけは大きすぎる気がするけど」

 

「気がするどころじゃないでしょう」

 

 麗華が呆れたように自分の胸を示す。

 

「それで、その好みの身体にしてどうするのよ?」

 

「この迷宮を作った何者かがいるとして……その男だか誰だかの好みに合わせて私たちを変えて、最後は……嫁にするとか?」

 

「うわ」

 

 葵が露骨に嫌そうな顔をした。

 

「三十人も?」

 

「ハーレムってこと?」

 

「嫌すぎるでしょ、それ」

 

「いや、でも……爆乳好きの変態男がおっぱいに埋もれたいとか……?」

 

 そこまで言った本人が、自分で想像してしまったらしく両腕を擦る。

 

「うわ、自分で言ってて寒気した」

 

「やめてよ! ありそうで嫌なんだけど!」

 

「ありそうって言わないで! 私が一番嫌だから!」

 

 さすがに教室中から笑いが起こった。ただ、その笑いにはどこか、不安な想像を冗談にして追い払おうとするような響きも混じっていた。

 

「でも、それなら一つ変じゃない?」

 

 笑い声が少し収まったところで、琴音が首を傾げる。

 

「私たち同士で触りたくなるようになってるっぽいのは何で?」

 

 それまで緩んでいた空気が、一瞬で止まった。

 

「……そういうのを見るのも好きな変態とか?」

 

「最悪」

 

 麗華が即答した。

 

「本当に最悪。想像したくもない」

 

「自分で言っといて何だけど、私も嫌だよ」

 

「それに、魔物はどう説明するの?」

 

 別の少女が疑問を口にする。

 

「嫁にしたいなら、殺されるかもしれない場所へ放り込むのおかしくない?」

 

「強い子だけ残したいとか?」

 

「選別ってこと?」

 

「じゃあ、弱い子はどうなるの?」

 

「……分かんない」

 

「やっぱり実験じゃない?」

 

「それか、何かと戦わせるために私たちを育ててるとか」

 

「じゃあ魔物と戦うのも訓練?」

 

「それも嫌なんだけど」

 

「結局、どの説でも嫌じゃん」

 

 再び小さな笑いが起きたものの、今度はすぐに消えていった。

 

「……ここで暮らさせたい、とか」

 

 誰かが何気なく呟いた。

 

「え?」

 

「だって、食べ物はあるし、お風呂もあるし、どんな怪我しても戻れば治るでしょ。ここだけ見れば、ずっと生活しようと思えばできるじゃん」

 

「こんなところで一生?」

 

「ないない」

 

「さすがに嫌だよ。私は帰りたい」

 

 口々に否定する声が上がり、蛍も同じ気持ちだった。

 

 ここで一生暮らすなど考えたくもない。家へ帰りたいし、家族にも会いたい。できることなら、迷宮へ来る前の生活に戻りたかった。

 

 その気持ちは、今も間違いなく自分の中にある。けれど蛍は、そこで改めて教室の中を見回した。

 

 ここは完全な安全地帯で、三十人で暮らしても困らないだけの広さがある。身体を清潔に保てる大浴場があり、赤い果実を一つ食べれば空腹も渇きも消え、健康状態まで維持される。

 

 探索中にどれほど酷い傷を負っても、ここまで帰れば跡形もなく治るうえ、迷宮内で使う装備は変わり続ける身体へ勝手に合わせてくれる。

 

 そして何より、自分たちはすでに、その環境を特別なものと思わなくなり始めていた。

 

「……考えても、今は分かんないね」

 

 隣で葵が小さく言った。

 

「うん」

 

「明日も行く?」

 

「行くよ」

 

 そこだけは、迷わず答えられた。

 

 今日の作戦はうまくいった。三班に分かれて探索すれば、これまでよりずっと速い速度で地図を広げられることも分かった。

 

 明日も進む。その次の日も、できるだけ先へ行く。

 

 少なくとも――まだ自分たちが、そうしたいと思えているうちに。

 

 蛍は机の上に残っていた赤い果実へ視線を向けた。もしかすると、この迷宮は自分たちを殺したいわけではないのかもしれない。本来なら、それは少しくらい安心できる答えのはずだった。

 

 けれど今の蛍には、どうしてもそうは思えない。

 

 殺すことが目的ではないのなら、なぜ自分たちを美しく、健康に、そして強くしていくのか。それだけならまだしも、身体の形だけではなく、心のあり方まで少しずつ変えようとしているように見えるのはなぜなのか。

 

 ――この迷宮は、自分たちをいったい何にしたいのだろう。

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