爛熟の迷宮 ~祝福の果実に身体も心も変えられていく三十人の少女たち~   作:a-ru

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無事、完結まで書き上がりました。
以降は毎日更新で、完結まで投稿していく予定です。最後までお付き合いいただければ嬉しいです。


第二十五話『戻れば治る、それでも』

 新しい探索方法を始めてから、最初の二日間はむしろ拍子抜けするほど順調だった。

 

 第一班が最深部へ繋がっていそうな道を優先して奥へ進み、その間に第二班と第三班が別々の分岐を調べ、行き止まりを一つずつ潰していく。敵を見つけても無理には戦わず、危険だと判断した道には地図上で印を付け、その時点で引き返す。

 

 言葉にしてみれば、それだけの方針だった。

 

 けれど三つの班が同時に動くだけで、一日に確認できる範囲は以前とは比べものにならないほど広がった。昨日まで何も描かれていなかった地図の空白へ、探索を終えるたびに何本もの新しい線が伸びていく。

 

「こっちは行き止まりだったよ。途中に部屋が三つあったけど、敵はいなかった」

 

「第三班の方は?」

 

「階段の先まで見たわ。下に降りたところでまた二方向に分かれてたから、今日はそこで戻ってきた」

 

「じゃあ明日は、その二本を優先して見てみようか」

 

 探索を終えて教室へ戻るたび、床に広げられた地図の周りには自然と人が集まった。

 

 新しく見つけた道を誰かが書き込み、別の誰かが魔物を見かけた場所に印を付け、その横へ種類や数を書き足していく。最初の頃には教室を中心として数本の通路が伸びているだけだった地図も、今では何枚もの紙を繋ぎ合わせなければ収まりきらないほど大きくなっていた。

 

 少なくとも、自分たちは確実に進んでいる。そう実感できるだけの成果はあった。

 

 探索範囲が広がったことで、思わぬ副産物もあった。三班制を始めてからの二日間で、青い果実が三個も新しく手に入ったのだ。

 

 強い魔物を倒した後に残されていたものや、新しく見つけた区画の箱から出てきたもので、五個まで減っていた在庫は八個に増えていた。

 

 以前なら一個増えただけでも大騒ぎしていたことを思えば、随分と余裕ができたように感じる。もちろん、それでも貴重なことに変わりはない。青い果実は共同で保管し、今のところ誰も使っていなかった。

 

「これ、本当にこのまま行けるんじゃない?」

 

 ある日の夜、広がった地図を見下ろしていた葵が嬉しそうに声を上げた。

 

「前までは一日かけて一方向くらいだったのに、今は三方向でしょ? 単純に三倍とはいかなくても、かなり早くなってるよね」

 

「行き止まりを早い段階で潰せるのが大きいんだと思う」

 

 琴音が新しい線を鉛筆でなぞりながら答える。

 

「一日かけて進んだ先が全部行き止まりでした、っていうのが今まで一番痛かったから。今なら第二班か第三班がそこを調べてる間にも、第一班は別の道を奥まで進めるし」

 

「だったら最初からこうすればよかったかな」

 

「それは違うでしょう」

 

 香奈恵がすぐに口を挟むと、葵はきょとんとした顔を向けた。

 

「今だからできるのよ。装備も増えたし、みんな迷宮の中でどう動けばいいか分かるようになってきたでしょう? 最初から三班に分けてたら、もっと危なかったと思う」

 

「まあ……それはそうか」

 

 葵が素直に頷き、蛍も香奈恵の意見には同感だった。

 

 第一班へ強力な装備を集中させれば、以前なら見つけた時点で引き返していたような相手とも戦える。第二班と第三班についても、ここまで積み重ねてきた探索経験のおかげで、敵を発見した時に戦うべきか、すぐ撤退すべきかを以前より早く判断できるようになっていた。

 

 そして、変わったのは装備や経験だけではない。

 

 その事実を喜んでいいのかは分からないものの、迷宮の中では蛍たちの身体そのものが以前より明らかに強くなっていた。

 

 走れば速く、剣を振るえば重い一撃を放てる。教室では嫌でも意識させられる巨大な胸の重量も、迷宮へ入って防具の補助を受ければかなり軽減され、戦闘中に足を止めるほどの負担にはならない。

 

 帰るために必要な力が、自分たちの望んでいない身体の変化と一緒に与えられている。そこにはどうしても薄気味悪さが残ったが、だからといって、その力を使わないという選択肢も蛍たちにはなかった。

 

 このまま進めるのではないか。

 

 そんな期待が教室の中に生まれ始めた頃、状況は少しずつ変わり始めた。

 

◇ ◇ ◇

 

「来る!」

 

 警告の声とほぼ同時に、大型盾が前へ突き出された。

 

 次の瞬間、通路の奥から飛び出してきた獣がその盾へ真正面から激突し、硬いもの同士を叩き合わせたような轟音が響き渡る。

 

「っ……!」

 

 盾を構えていた少女の身体が大きく後方へ押し込まれたものの、それでも転倒することなく踏みとどまった。防具による補助に加え、ここまでの生活で身体そのものが強化されているからこそ耐えられた衝撃なのだろう。

 

「葵、左!」

 

「分かった!」

 

 蛍が声を掛けるより早く、葵は獣の側面へ回り込んでいた。

 

 相手は、この数日で何度か戦ってきた獣型の魔物だった。狼に似た四足の身体に、黒灰色の毛皮と硬い鱗。鋭く伸びた牙と、石床すら削る太い爪を持っている。

 

 最初に遭遇した時には二体を相手にするだけでもかなり緊張したが、何度か戦った今なら、攻撃の前触れもある程度は読める。

 

 蛍も、そう思っていた。

 

「後ろ!」

 

 突然上がった声に、蛍は反射的に振り返った。

 

 もう一体いる。

 

 横へ伸びる通路から回り込んできたのか、それとも最初から柱の陰に潜んでいたのかは分からない。ただ一つ確かなのは、その一体がすでに後衛のすぐ近くまで迫っていることだった。

 

「下がって!」

 

 麗華の杖から放たれた光弾が獣の肩へ直撃する。

 

 衝撃で身体が僅かに逸れたものの、勢いまでは止まらない。一番近くにいた少女が咄嗟に槍を構えたが、獣はその穂先を躱すように大きく身体を沈め、そのまま一気に間合いの内側へ飛び込んだ。

 

「きゃ――」

 

 声が途中で途切れ、直後には耳を塞ぎたくなるような悲鳴と、何かが床へ落ちる鈍い音が重なった。

 

「いやああああっ!」

 

 蛍の背筋が凍りついた。

 

 先ほどまで槍を構えていた少女が床へ倒れ込み、右腕を押さえている。肘から少し下に獣の爪が深々と食い込み、完全に切断されてこそいないものの、腕は半ば近くまで裂かれていた。

 

「下がって!」

 

 考えるより先に、蛍は負傷者と獣の間へ割って入り、剣を振るった。

 

 一撃目は避けられたが、追撃しようとした獣の横から葵が斬り込み、注意がそちらへ向いた瞬間を狙って麗華の光弾が顔面へ直撃する。

 

「倒すことより撤退を優先して!」

 

 香奈恵の声が通路へ響いた。

 

「怪我した人を先に下げる! 前衛は道を作って!」

 

 返事をする余裕すらなかった。

 

 蛍と葵が獣を牽制し、大型盾を持った少女が後方へ回る。その間に別の二人が負傷者を抱き起こしたが、裂けた腕を押さえる指の隙間からは血が溢れ、石床へ赤い跡を点々と残していった。

 

「痛い、痛いっ……! 腕、腕が……!」

 

「大丈夫だから! 教室まで戻れば絶対に治るから!」

 

「分かってる! 分かってるけど痛いの! やだ、痛い、痛いっ……!」

 

 泣き叫ぶ声が通路に響き渡る。

 

 白銀の回復杖もすぐに使われた。淡い光が傷口を包み、流れ続けていた血はある程度まで抑えられたものの、浅い傷を治した時のように完全に塞がることはなかった。

 

「これ以上は無理! 教室まで戻るしかない!」

 

「全員撤退!」

 

 その判断だけは迷わなかった。

 

 負傷者を二人がかりで支えている以上、全員が全力で走ることはできない。追ってくる獣を前衛が交代で牽制し、距離が詰まりそうになれば魔法や矢で足止めしながら、どうにか安全を確認済みの区画まで戻っていく。

 

 そこから転移用の魔法陣を経由して教室へ飛び込んだ時には、怪我をしていない者まで肩で息をしていた。

 

 床へ横たえられた少女を、教室の淡い光が包み込む。

 

「……あ」

 

 それまで震えていた声が、そこで初めて止まった。

 

 血に濡れた腕から傷が消えていく。深々と裂けていた肉も、その奥に見えていた骨も、最初からそんな傷など存在しなかったかのように元の形へ戻っていった。

 

 ほんの数秒だった。

 

「治った……?」

 

 本人は信じられないものを見るように、自分の右腕を見つめている。恐る恐る手を開き、指を握り込んでから、今度は肘を曲げてみる。

 

「……動く」

 

「よかった……」

 

 誰かが安堵の息を吐き、その言葉をきっかけに張り詰めていた教室の空気もようやく少しだけ緩んだ。

 

 けれど、負傷していた本人だけは笑わなかった。傷一つ残っていない右腕を左手で抱くように押さえたまま床へ座り込み、しばらく立ち上がろうとしない。治ったはずの右手の指先も、まだ僅かに震えていた。

 

「……大丈夫?」

 

 蛍がそっと声を掛けると、少女は一度だけ頷いた。

 

「うん。もう治ったから……大丈夫」

 

 そう答えたものの、その直後には唇を強く噛んで俯いてしまう。

 

「でも……」

 

 小さく漏れた声は、最後まで言葉にはならなかった。

 

 傷そのものは消えている。けれど、腕を深く切り裂かれた瞬間の痛みも、自分の身体から大量の血が流れ落ちていく恐怖も、治療されたからといって消えてなくなるわけではない。

 

 そのことを、蛍は何も言われなくても理解できた。

 

◇ ◇ ◇

 

 もし、それが特別な一度きりの事故だったのなら、まだよかったのかもしれない。

 

 けれど迷宮の奥へ進むにつれて、似たような出来事は少しずつ増えていった。

 

 もちろん、毎日のように誰かが大怪我をするわけではない。何事も起こらず全員で帰ってこられる日の方が多かったし、危険な相手を見つけた場合には無理をせず撤退するという方針も変えていなかった。

 

 それでも、奥へ進むほど魔物そのものが明らかに強くなっている。

 

 これまで何度か戦った獣型だけではなく、全身を硬い甲殻に覆われた魔物や、人間の身体ほどもある大きな刃を振るう異形まで姿を見せるようになった。

 

 戦わないと決めていても、避けられるとは限らない。敵を見つけて引き返した先から別の魔物が現れることもあれば、撤退中に別の群れと鉢合わせすることもある。

 

 第二班と第三班も戦闘を避けるという決まり自体は守っていたが、それでも逃げるために戦わなければならない場面そのものが以前より増えていた。

 

 ある班では、大型盾で強烈な一撃を受け止めた少女の腕が、その衝撃だけで不自然な方向へ折れ曲がった。

 

「折れた……! 腕、折れた……!」

 

 本人が青ざめながら訴えた瞬間、その班はそれ以上先へ進むことを諦め、すぐに教室へ戻った。

 

 別の班では獣に脚を噛みつかれた少女が自力で歩けなくなり、左右から肩を貸されながら帰ってきた。

 

 さらにその翌日には、刃を持った異形の一撃が太腿へ深々と入り、あと僅かに位置がずれていたら、本当に脚そのものを失っていたのではないかと思うほどの傷を負った者まで出た。

 

 それでも、教室へさえ戻れば全部治った。

 

 折れた骨も、深く裂けた傷も、牙に食い破られた肉も、教室へ入って数秒もすれば元通りになる。

 

 だから、死なない限り問題はない。理屈だけで考えるなら、そう言うこともできた。けれど蛍には、もうそんなふうには考えられなかった。傷が治ることと、痛かったという事実がなかったことになるのは、まったく別の話なのだ。

 

 血を見ることにも、怪我人を見ることにも、最初の頃よりは慣れたつもりだった。それでも、すぐ隣で骨の折れる音を聞けば身体は竦むし、仲間の腕や脚が深く切り裂かれれば、分かっていても悲鳴は出る。

 

 まして、次に同じ目に遭うのが自分かもしれないと思えば、怖くないはずがなかった。

 

 そもそも自分たちは、この迷宮へ来る前まで戦いとは無縁の学生だったのだ。剣を握って何かを殺すことも、魔物に襲われることも、血まみれの仲間を抱えて必死に逃げることも、本来なら一生経験せずに済んだかもしれない。

 

 家族に会いたい。元の生活へ戻りたい。その気持ちは誰にだってある。けれど、そのためなら何度腕を切り裂かれても、何度骨を折られても平気でいられるほど、人間は単純ではなかった。

 

◇ ◇ ◇

 

「……ごめん」

 

 翌朝、探索の準備を始めていたところで、一人の少女が香奈恵へ遠慮がちに声を掛けた。

 

「今日、私……休んでもいい?」

 

 その少女は、腕を深く裂かれた本人だった。傷はもちろん跡形もなく消えており、右腕も問題なく動いている。それでも彼女は、何度も確かめるようにその腕を反対側の手で擦っていた。

 

「昨日は行けたんだけど……今朝起きて、またあそこに行くんだって考えたら、ちょっと気持ち悪くなってきて」

 

 申し訳なさそうに視線を落とす。

 

「明日なら行けるかもしれない。でも今日は……ごめん」

 

「謝らなくていいよ」

 

 香奈恵は迷うことなく答えた。

 

「最初に言ったでしょう。探索は誰にも強制しないって」

 

「でも、みんな行くのに」

 

「だからって、無理して行く理由にはならないでしょう。怖いまま探索して判断が遅れる方が、本人にも周りにも危ないんだから」

 

 香奈恵にそう言われると、少女はようやく少しだけ表情を緩めた。

 

「……ありがとう」

 

 その日の探索へ出たのは二十四人だった。

 

 二十五人から一人減っただけであり、八人ずつ三班に分かれれば、これまでとほとんど変わらない。

 

 実際、その日の探索も大きな問題は起きなかった。

 

 第一班は新しい広間へ到達し、第二班は一本の行き止まりを確認し終え、第三班もさらに下へ続く階段を発見した。

 

 だから蛍も、その時には深く考えなかった。

 

 あれほどの怪我をしたのだから、一日くらい休みたいと思うのは当然だし、数日すればまた一緒に探索へ出るかもしれない。本人だって「明日は行けるかもしれない」と言っていた。

 

 けれど、その一人だけでは終わらなかった。

 

「私も、今日は残る」

 

 翌朝には別の少女が探索の準備をする手を止めた。

 

「昨日あんまり眠れなくてさ。向こうで眠くなって判断が鈍ったら、その方が危ないでしょ?」

 

「分かった。今日は休んで」

 

「それと……私も残っていい?」

 

 さらに一人が続く。

 

「昨日、脚を怪我した子がまだ怖いみたいだから、一緒にいようかなって。本人はもう治ってるって言ってるんだけど」

 

「もちろん。無理して来なくていいよ」

 

 香奈恵は一度も引き止めなかった。引き止められるはずもなかった。探索を強制しないと決めたのは、自分たちなのだから。

 

 そうして数日のうちに、「今日は残る」と言う者が少しずつ増えていった。

 

 一度休んだあと再び探索へ戻ってくる者もいる一方で、代わりに別の誰かが残る。

 

「昨日のあれ、目の前で見ちゃったらちょっと……。今日は無理かも」

 

「私も今日は教室にいる。明日なら行けるかもしれないから」

 

 誰も、「もう二度と探索には行かない」とは言わなかった。

 

 今日は休む。少しだけ残る。明日なら行けるかもしれない。そんな言葉を口にしながら、教室側へ残っていく。どの理由も、責められるようなものではなかった。

 

 蛍自身、目の前で骨を折った人間に対して、「もう治ったんだから一緒に来て」と言えるとは思えない。怖がったまま無理に連れていき、必要な時に身体が動かなければ、本人だけでなく周囲まで危険に晒してしまう。

 

 だから人数が減るたび、その日の参加者に合わせて編成を組み直した。

 

 八人だった班を七人にし、必要なら六人まで減らす。その分だけ戦闘を避ける判断はさらに早くし、少しでも危険だと思えば以前より手前で引き返すようになった。

 

 それでも地図は広がっていく。

 

 昨日より今日、今日より明日と、迷宮の奥へ伸びる線は少しずつではあっても確実に増えている。

 

 探索がうまくいっていないわけではない。帰るための道には、間違いなく近づいている。それなのに蛍の中には、広がり続ける地図とは別の、小さな不安が消えずに残り始めていた。

 

◇ ◇ ◇

 

 新しい方針へ切り替えてから、六日目の朝。

 

「……133.1」

 

 琴音が測定結果をノートへ書き込んだ。

 

 蛍は身体へ巻かれていたメジャーを外してもらいながら、もう驚くこともなく自分の胸元へ視線を落とす。

 

 教室では迷宮用の防具が機能しないため、巨大化した胸の重量はそのまま身体へ掛かってくる。

 

 百三十センチを越えた今となっては、もはや単に「胸が大きい」という言葉だけでは足りなかった。立っていれば常に身体を前方へ引くような重量があり、何気なく振り向いただけでも、僅かに遅れてついてくる大きな質量を意識させられる。

 

 それでも、普通に歩くことはできるし、一人で立ち上がることにも問題はない。

 

 これほどの大きさになってなお日常生活を送れていることを考えれば、胸が育つのと同時に、体幹や骨格、下半身まで、それを支えられるよう少しずつ作り替えられているのだろう。

 

「葵は130.9。私が137.1で……」

 

 琴音がノートの数字を順番に確認していく。

 

「麗華が149.1。香奈恵は……151.0」

 

「……百五十一」

 

 数字を聞いた香奈恵が、露骨に嫌そうな顔で眉を寄せた。

 

「とうとう百五十越えたんだ」

 

 葵が何気なく言うと、香奈恵はすぐに睨むような視線を向ける。

 

「越えたくて越えたわけじゃないんだけど」

 

「分かってるって。言っただけじゃん」

 

 その隣では、麗華も自分の胸元を見下ろしながら深く息を吐いていた。

 

「私も普通に増えれば、明日には百五十を越えるわね」

 

「普通に増えれば、だけどね」

 

「毎日二センチ増えることを『普通』って言ってる時点でもうおかしいのよ」

 

 以前ならそこで少しくらい笑いが起きたかもしれないが、その朝は誰も大きく笑わなかった。測定が一通り終わると、香奈恵は気持ちを切り替えるように手を叩いた。

 

「それじゃ、今日探索に行ける人を確認するね」

 

 その言葉を聞きながら、蛍は何となく教室を見回した。

 

 ほんの数日前までなら、わざわざ確認する必要などほとんどなかった。探索へ参加する二十五人は、朝になれば言われる前から装備を集め、自然と出発の準備を始めていたからだ。

 

 けれど今は、教室の様子が少し違う。

 

 机の近くで武器や装備を確認している者がいる一方で、壁際に座ったまま動こうとしない者もいる。行くかどうか決めかねているのか、探索組と床を何度も交互に見ている者もいた。

 

「今日、行く人は手を上げてもらえる?」

 

 香奈恵が問い掛けると、教室のあちこちから少しずつ腕が上がった。

 

 蛍も手を上げ、その横で葵も続く。琴音、麗華、そして香奈恵自身も当然のように参加する。そこから周囲の人数を数えていた琴音が、やがて小さく呟いた。

 

「……二十一人だね」

 

 その数字を聞いた蛍は、思わず自分でももう一度数え直した。

 

 やはり二十一人だった。

 

「昨日より一人少ないね」

 

「うん」

 

 香奈恵も人数を確認してから、手を上げなかった者たちへ顔を向けた。

 

「休む人は大丈夫? 体調悪いとかじゃない?」

 

「大丈夫。怪我したわけでもないよ」

 

 一人が困ったように笑う。

 

「ただ……昨日の戦闘がちょっと怖くて。今日はやめとこうかなって思っただけ」

 

「分かった。無理しないで」

 

「ごめん」

 

「だから、そういう時は謝らなくていいって」

 

 それはもう、ここ数日ですっかり聞き慣れてしまったやり取りだった。

 

 誰も責めないし、無理に連れていこうともしない。それが正しいことだと蛍も思っているのに、胸の奥には小さな引っ掛かりが残る。

 

 六日前には二十五人いた。

 

 あの日、探索へ出られる者を募った時には、それだけの人数が手を上げていた。

 

 今は二十一人。

 

 減ったのは、まだ四人だけだ。そう考えることもできる。けれど、この人数が明日にはまた二十五人へ戻るという保証は、どこにもなかった。

 

「じゃあ今日は、第一班七人、第二班七人、第三班七人で――」

 

 香奈恵が編成について話し始めたところで、不意に言葉が止まった。

 

「……香奈恵?」

 

 琴音が顔を上げる。

 

「どうしたの?」

 

「いや……ちょっと」

 

 香奈恵は戸惑うような表情を浮かべながら、自分の胸元へ片手を添えた。

 

「なんか今日、妙に重い気がして」

 

「百五十一になったからじゃない?」

 

 葵がそう言うと、香奈恵はすぐに否定するでもなく、僅かに首を傾げた。

 

「それもあるんだろうけど……何て言えばいいんだろう。昨日まで感じてた重さと、少し違うような気がするのよね」

 

 確かめるように両腕で胸を軽く支える。蛍もつられるように、その胸元へ視線を向けた。

 

 見た目だけなら昨日から二センチ増えただけであり、これまでも毎朝同じように増えてきたのだから、それだけなら特別おかしなことではない。

 

「痛いの?」

 

「痛いっていう感じじゃない。ただ……妙に張ってるっていうか」

 

「張ってる?」

 

「うまく説明できないんだけど、少し熱を持ってるような気もするし、中から押されてるみたいな感じもする」

 

 香奈恵自身も何が起きているのか分からないらしく、胸元へ何度か手を当て、感触を確かめるようにしている。

 

「……あ、それ」

 

 少し離れたところから声が上がった。振り向くと、以前から香奈恵と同じか、それ以上に胸の大きかった少女の一人が、自分の胸元を気にするように手を添えていた。

 

「私も、昨日くらいからちょっとそんな感じする」

 

「あなたも?」

 

「うん。最初はまた大きくなったせいかなって思ってたんだけど……何ていうか、いつもの重さと違うんだよね。少し張ってるっていうか」

 

「私もかも」

 

 今度は別の少女がおそるおそる手を上げた。

 

「二日くらい前から、胸の奥が妙に熱い時があって。でも体調が悪いわけじゃないし、普通に動けるから、また身体が変わってるだけかなって放ってた」

 

 それを聞いて、教室の空気が僅かに変わった。一人だけなら、たまたま体調が悪いだけとも考えられる。けれど、同じような違和感を覚えている者が何人もいるとなれば話は別だった。

 

「……それ、二人とも今までの重さとは違うの?」

 

 琴音が尋ねると、二人ともほぼ同時に頷いた。

 

「重いのは前からだけど、これは違うと思う」

 

「うん。なんか中に詰まってるみたいな感じ」

 

「じゃあ、百五十になった瞬間に何か起きるっていう単純な話でもなさそうだね」

 

 琴音はノートへ視線を落としながら、少し考えるように眉を寄せる。

 

「大きさだけじゃなくて、ここにいた日数とか、果実を食べた回数とか……色々重なってる可能性もあるのかな」

 

「それなら余計に分からないわね」

 

 麗華が嫌そうな顔をする。

 

 その時、教室の後ろから別の声が上がった。

 

「……青い果実、使ってみたら?」

 

 何人かが同時に、共同で果実を置いている場所へ視線を向けた。

 

「今、八個あるよね?」

 

「あるけど……使うの?」

 

「今まで五個しかない時だってずっと取っておいたんだし、こういう時に使わないなら、いつ使うの?」

 

 言われて、蛍も青い果実へ目を向ける。確かに以前なら、一つ減らすだけでも慎重になった。けれど今は、探索中に三個追加で見つかり、全部で八個ある。

 

 しかも今回は、単純に胸が大きくなりすぎたから嫌だという話ではない。これまで誰も感じたことのなかった異常が、複数人に同時に出始めている。

 

「私は使っていいと思う」

 

 琴音も頷いた。

 

「青い果実って、こういう時のための安全装置みたいなものかもしれないし。何が起きてるのか分からないまま我慢する方が怖いよ」

 

「でも、また減るよ?」

 

「取っておいて何かあった方が嫌でしょう」

 

 香奈恵は少し迷うように青い果実を見つめていたが、やがて小さく息を吐いた。

 

「……そうね。今回は使ってみた方がいいかも」

 

「香奈恵だけ?」

 

「同じ違和感があるなら、その二人も使った方がいいんじゃない?」

 

 香奈恵より以前から大きかった二人も、顔を見合わせてから頷いた。

 

「私は使いたい。正直、ちょっと怖いし」

 

「私も。これ以上酷くなるの嫌だし」

 

 結局、その朝は三人が青い果実を使うことになった。使い方そのものは、以前と何も変わらない。一口齧れば、独特の甘さが口の中に広がり、食べ終えてしばらくすると身体に変化が表れる。

 

「……146.0」

 

 琴音が香奈恵を測り直して、ノートへ数字を書き込んだ。

 

「ちゃんと五センチ減ってる」

 

「見れば分かるわよ」

 

 香奈恵はそう返しながらも、どこかほっとした顔で胸を両腕に乗せるように支え直した。

 

「……でも、かなり楽になったかも」

 

「張ってる感じは?」

 

「完全になくなったわけじゃないけど、さっきよりはずっとまし。重さも少し減ったし」

 

 他の二人も同じだった。

 

 具体的な数字こそ違ったものの、どちらもこれまで通り約五センチ胸囲が減り、それまで感じていた張りや熱も少し和らいだらしい。

 

「じゃあ、やっぱり大きくなりすぎたせいだったのかな」

 

 葵が首を傾げる。

 

「まだ分かんないよ」

 

 琴音は三人の様子を見ながら答えた。

 

「小さくなって楽になったのは確かだけど、それだけで原因まで同じとは限らないし」

 

「でも、今すぐどうこうって感じではなさそうね」

 

 香奈恵も胸元を確かめながら頷いた。三個使ったことで、青い果実の残りは再び五個になった。少し勿体ないという気持ちがないわけではない。それでも、誰も使ったこと自体を責めようとはしなかった。

 

 未知の変化が始まっているかもしれない以上、貴重だからという理由だけで我慢させる方が危険に思えたからだ。

 

「香奈恵、今日はどうする?」

 

 葵が尋ねる。

 

「探索?」

 

「うん。休んでもいいんじゃない?」

 

 香奈恵は少し考え、何度か身体を動かしてから首を振った。

 

「さっきよりずっと楽になったし、今のところ体調も悪くないから行く。もしまた変だと思ったら、その時点ですぐ戻るわ」

 

「無理はしないでよ?」

 

「分かってる」

 

 香奈恵の顔色は悪くない。他の二人も、少なくとも先ほどまでよりは楽そうに見えた。

 

 青い果実は、今回も確かに効果を発揮している。そのこと自体は間違いなかった。だから蛍も、それ以上強く止める理由までは見つけられなかった。

 

「じゃあ改めて、今日は七人ずつ三班ね」

 

 香奈恵の声に、二十一人がそれぞれの装備を手に取る。

 

 六日前より四人少なくなった探索隊。

 

 それでも地図は昨日より確実に広がっていて、無数にあった分岐も少しずつ絞り込まれている。最深部へ続いているはずの道へ、以前より早い速度で近づいていることだけは間違いない。

 

 まだ進めるし、帰りたいという気持ちも自分の中には残っている。だから今は、進めるうちに進むしかない。蛍はそう自分に言い聞かせながら、仲間たちとともに迷宮へ続く扉へ向かった。

 

 境界を越える直前、何となく振り返る。教室には、探索へ出ない九人が残っている。そのうちの一人が、先ほど香奈恵たちがしていたのとよく似た仕草で、両腕を胸の下へ添えながら僅かに眉を寄せていた。

 

 香奈恵だけではない。青い果実を使った三人だけでもないのかもしれない。その事実が妙に胸へ引っ掛かったものの、今の蛍にはそれ以上の意味までは分からなかった。

 

「いってらっしゃい」

 

「気をつけてね」

 

「無理しないでよ」

 

 教室に残る者たちから、いつものように声が掛かる。それは以前と何も変わらない、探索へ出る仲間を送り出す声だった。

 

 ただ一つ違うのは、いつの間にかその声を掛ける側の人数だけが、少しずつ増え始めていることだった。

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