爛熟の迷宮 ~祝福の果実に身体も心も変えられていく三十人の少女たち~ 作:a-ru
それから、さらに四日が過ぎた。
三班に分かれて探索する方針そのものは変わっていない。参加人数が減ったことで一班あたりの人数は以前より少なくなったものの、それでも三方向を同時に調べられる利点は大きく、地図は毎日のように少しずつ広がり続けていた。
もっとも、迷宮の奥へ進むほど魔物も強くなっているため、以前のように多少の危険なら押し切って進むことはできなくなっている。
道の先に複数の魔物がいると分かれば、その日は場所と数だけを記録して引き返し、翌日になってから装備を集めた第一班が改めて調べる。
そうして危険な場所を一つずつ避けながら、最深部へ繋がっている可能性の高い道を絞り込んでいった。
地図だけを見れば、探索は確実に前へ進んでいる。けれど、探索へ出る人数だけは元に戻らなかった。
一度休んだあと再び参加する者もいる一方で、代わりに別の誰かが「今日は残る」と言う。以前負った大怪我への恐怖が消えない者もいれば、前日に目の前で見た戦闘が頭から離れない者もいる。中には、巨大化した胸の重さがつらく、今日は一日休みたいと申し出る者までいた。
理由はそれぞれであり、誰も参加を強制されることはない。結果として、その日の朝に探索へ出るつもりで準備をしていたのは十九人だった。
「……十九か」
人数を確認した琴音が、ノートの隅へ小さく数字を書き込んだ。
「前は二十五人だったよね」
葵が教室を見回しながら言うと、香奈恵が僅かに表情を曇らせる。
「無理に人数を増やすわけにはいかないわ。今いる人数でできるやり方を考えましょう」
「うん。それは分かってるけど」
葵も、それ以上は何も言わなかった。
探索へ出ない十一人の中には、昨日まで普通に迷宮へ入っていた者もいる。明日になれば再び参加するかもしれないし、そのまま何日か教室に残るかもしれない。
それは本人にすら分からないのだろう。ただ、最初に二十五本上がった手が、日を追うごとに少しずつ減っている。その事実だけは変わらなかった。
「その前に、測定終わらせよう」
琴音がそう言ってメジャーを持ち直す。朝の測定も、いつの間にか歯を磨くことと変わらないほど当たり前の日課になっていた。蛍は上着をずらすと、何の抵抗もなく慣れた動作で腕を上げる。
「……141.1」
「やっぱり二センチずつだね」
「もう驚かなくなった自分が嫌なんだけど」
蛍がため息をつくと、先に測定を終えていた葵が苦笑する。
「私は138.9だったよ。もうちょっとで百四十」
「嬉しくないでしょ」
「全然」
四日前から、蛍も葵もきっちり八センチ増えている。琴音も145.1センチで、こちらもこれまで通り一日二センチという増加量から外れていない。
おかしな数字が出たのは、その次だった。
「麗華、ちょっともう一回」
「何よ」
「いいから、じっとしてて」
琴音が眉を寄せながらメジャーの位置を確かめ、一度緩めてから改めて巻き直す。そうして慎重に目盛りを確認したあと、僅かに躊躇して数字を読み上げた。
「……160.0」
「は?」
麗華から、普段ならまず出さないような間の抜けた声が漏れた。
「百六十?」
「うん」
「待って。四日前は149.1だったでしょう?」
「そう。記録にもちゃんと残ってる」
琴音もノートへ視線を落とし、以前の数字と今の測定結果を見比べる。
間違いではない。
四日前の欄には、確かに149.1と書かれている。これまで通り一日二センチずつ増えたのなら、今日の麗華は157.1センチになっているはずだった。
ところが、実際にはそこからさらに三センチ近く大きい。
「測り間違えてない?」
「だから二回測ったんだけど」
「もう一回」
「分かったって」
不機嫌そうな麗華に急かされ、琴音は三度目の測定を行う。しかし結果はほとんど変わらなかった。
「159.9。誤差を考えても、ほぼ百六十で間違いないよ」
「……何よ、それ」
麗華は嫌そうに眉を寄せ、自分の胸元へ視線を落とした。
数字だけを聞けば、確かに大きくなっている。
毎朝少しずつ身体が変わり続けているせいで、自分自身の変化でありながら一日単位では気づきにくくなっていた。けれど数値を意識して改めて見れば、数日前よりさらに前へ張り出し、厚みを増しているようにも感じられる。
「香奈恵も測ろう」
「嫌な予感しかしないんだけど」
香奈恵は露骨に顔をしかめたが、拒むことはなく琴音の前へ立った。
四日前、青い果実を使った香奈恵の胸囲は151.0から146.0まで減っている。そこから毎日二センチずつ増えたのなら、今日の予想値は154.0センチだ。
琴音がメジャーを回し、数字を確認する。
そして、その表情が固まった。
「……157.2」
「え?」
「157.2」
「ちょっと待って」
香奈恵がすぐに琴音の手元を覗き込む。
「青い果実を食べたあと、百四十六だったわよね?」
「うん」
「だったら、四日で十一センチ以上増えてるじゃない」
「そうなるね」
教室の空気が、じわじわと変わっていく。蛍と葵は、これまで通り八センチ。琴音も同じだった。それに対して麗華と香奈恵は、明らかにこれまでの規則から外れている。
「四日前に青い果実を使った二人も測った方がよくない?」
誰かがそう言い、香奈恵と同じ日に張りや熱を訴えていた二人も前へ呼ばれた。不安そうに顔を見合わせながら順番に測定を受けると、結果は二人とも似たようなものだった。
「……私も十センチ以上増えてる」
「こっちも。青い果実で減った分、ほとんど戻ってるじゃん」
「ほとんどどころじゃないよ。普通に二センチずつ増えたなら、まだここまで戻らないはず」
琴音は過去の記録を確認しながら、次々と数字を書き足していく。
気になって他にも胸の大きな者を何人か測り直してみると、全員ではなかったものの、前回の記録から予想以上に増えている者が複数見つかった。
そして、そうした者たちには一つ共通点があった。
ここ数日の間に、「張る」「熱い」「いつもの重さと違う」と訴えていたことだ。
「やっぱり、前に言ってた違和感と関係あるんじゃない?」
葵が不安そうに尋ねると、琴音はノートを見たまま小さく頷いた。
「多分。でも、何が増えてるのかまでは分からない。今までみたいに身体そのものが成長してるのかもしれないし、それとは別の何かが原因なのかもしれない」
「別の原因って何よ」
「それが分かれば苦労しないって」
麗華は胸を両腕で支えながら、苛立たしげに顔をしかめた。
「私は二、三日前からまた張る感じがあったわよ。昨日なんて、寝る前にはかなり重かったし」
「何で言わなかったの?」
「言ったところで何ができるのよ。胸が重いなんて、今さら全員知ってるでしょう」
「それはそうだけど……」
葵も反論しきれず、言葉を濁した。
実際、その感覚自体はすでに珍しいものではなくなっている。
百三十、百四十センチを越える胸を、防具の補助もない教室の中では自分の身体だけで支えなければならない。重い、邪魔だ、長く立っているより座っていた方が楽だという愚痴なら、もう何度も聞いてきた。
だからこそ、今までとは違う異常がその中に混ざり始めても、すぐには見分けられなかったのかもしれない。
「今日はどうする?」
蛍が香奈恵へ顔を向けると、香奈恵は少し考え込んだあと、両腕を胸の下へ回して一度持ち上げた。
「重いのは重いけど、歩けないわけじゃない。体調そのものも悪くないし……私は行く」
「また変だと思ったら戻る?」
「もちろん」
「麗華は?」
「私も行くわよ。ここで座ってたところで大きくなるなら同じでしょう」
麗華らしい言い方に、何人かから小さな苦笑が漏れた。
結局、その日は十九人で探索へ出ることになった。
◇ ◇ ◇
迷宮へ一歩足を踏み入れると、身につけている防具へ魔力が戻った。
身体の形に合わせて装甲や布地が自動的に調整され、胸元にも下からしっかり支えられるような感覚が生まれる。
「……はあ」
境界を越えた直後、香奈恵が思わず安堵の息を漏らした。
「やっぱり、こっちの方が楽」
「そんなに違う?」
蛍が尋ねると、香奈恵は胸元を確かめながら苦笑する。
「教室にいる時とは全然違うわよ。重さそのものが消えるわけじゃないけど、自分だけで全部支えなくていいから」
その横で、麗華も同意するように頷いた。
「この防具だけは、本当に優秀よね。そもそも誰がこんな身体にしたんだって話は置いておくとして」
「それ自体が迷宮なんじゃない?」
「だから腹が立つのよ」
そんな軽口を交わせる程度には、二人とも体調そのものは悪くなさそうだった。
その日の十九人は、これまで通り三班に分かれて探索を行うことになった。
第一班には蛍と葵、第二班には香奈恵と琴音、第三班には麗華が入り、それぞれ別の道を調べる。以前より一班あたりの人数が減っているため、無理な戦闘は今まで以上に避けることも改めて確認された。
蛍たち第一班が向かったのは、前日に見つけていた下り階段の先だった。
階段を降りるにつれて通路の幅は少しずつ広くなり、壁に刻まれている装飾も、これまで通ってきた場所とは明らかに変わっていく。
「また雰囲気変わったね」
「階層が変わったとか?」
葵が前方を警戒しながら言う。
「そうだったら、最深部に近づいてるって分かりやすいんだけどね」
途中で硬い甲殻に覆われた魔物を一体見つけたものの、幸いこちらには気づいていなかったため、戦闘を避けて別の通路へ回り込んだ。
その先で新しい分岐を二本記録し、うち一本がさらに下へ続いていることも確認できた。
「こっち、かなり深そう」
葵が階段の先を覗き込みながら言った。
「今日は降りない方がいいかな」
「うん。時間もあるし、位置だけ書いて戻ろう」
以前なら、「少しくらいなら」とそのまま先へ進んでいたかもしれない。けれど今は、危険だと思った時点で引き返す判断そのものが早くなっている。
それが経験を積んだ結果なのか。それとも、探索へ出る人数が減っているのと同じように、自分たちの勢いまで少しずつ失われているだけなのか。
蛍にはまだ分からなかった。
少なくともその日については大きな怪我もなく、第一班は予定通り集合地点まで戻ることができた。しばらく待っていると、第二班も少し遅れて帰ってくる。
「お疲れ」
「そっちはどうだった?」
「分岐二つ。片方はさらに下へ続いてる」
「こっちは行き止まり一つと、広い部屋が一つ」
琴音が地図を取り出しながら答える。
その隣で、香奈恵が防具の胸元へ片手を添えていることに蛍は気づいた。
「香奈恵?」
「ん?」
「また何か変?」
「……ちょっとだけ」
香奈恵は、防具越しに胸を確かめるように手を動かした。
「朝より、きつい気がするのよね」
「防具が?」
「うん。さっきまでは普通だったんだけど」
身につけている防具は、身体の変化に合わせて自動的に大きさや形を変える。本来なら、少しくらい身体が変化したところで締めつけられるようなことはないはずだった。
「痛い?」
「痛くはない。ただ……また張ってきた感じがする」
「朝より?」
「多分」
蛍も香奈恵の胸元へ視線を向けた。
防具に覆われているため、教室にいた時ほど輪郭までは分からない。それでも言われてみれば、朝に見た時より胸部の装甲が前方へ押し出されているようにも感じられる。
「……気のせいかな」
「分かんない。戻ったらもう一回測ろう」
「そうね」
そんな話をしているところへ、第三班も戻ってきた。
幸い全員無事だったが、麗華は集合地点へ着くなり大きく息を吐き、防具の胸元へ両手を添えた。
「ちょっと今日、変だわ」
「麗華も?」
「『も』って何よ。香奈恵もなの?」
「朝より張ってるって」
「私もよ。さっきから、防具が妙に胸に押されてる感じがする」
葵が不思議そうに首を傾げる。
「でも、その防具って身体に合わせて勝手に大きさ変わるよね?」
「だから変なのよ」
麗華は苛立ったように言い返した。
「防具が小さくて締めつけてるんじゃないの。胸の内側から、ずっと押し広げられてるみたいな感じがするのよ」
その言葉を聞いた瞬間、蛍の脳裏に朝の会話が蘇った。張る。熱い。中に何かが詰まっているような感覚。数日前から繰り返し聞いてきた同じ言葉が、また出てきている。
「今日はもう戻ろう」
蛍がそう提案すると、反対する者はいなかった。
◇ ◇ ◇
教室へ戻り、身体を覆っていた防具から魔力が失われた、その瞬間だった。
「っ……!」
境界を越えた香奈恵の上体が、僅かに前へ傾いた。
「香奈恵?」
「重……」
香奈恵は反射的に両腕を胸の下へ回し、持ち上げるように支えながら足を止めた。
その表情には、朝にはなかった明確な戸惑いが浮かんでいる。
「大丈夫?」
「大丈夫だけど……ちょっと待って。本当に重い」
少し遅れて教室へ入った麗華も、同じように胸を支えながらその場で立ち止まった。
「何よ、これ……」
迷宮の中では防具が負担を軽減してくれていた。それが教室へ戻ったことで一気に失われ、胸本来の重量を身体だけで受け止めることになったのだろう。
けれど、それだけでは説明できない。
朝だって条件は同じだった。
その時点ですでに百五十センチを大きく越えていた二人は、重いとは言いながらも普通に歩き、自分の身体だけで胸を支えていた。
今は、明らかに朝より負担が増している。
「……ねえ」
葵が香奈恵を見つめながら、何とも言えない顔をした。
「何?」
「いや……何ていうか」
葵は言いづらそうに一度言葉を切り、香奈恵の胸元と顔を交互に見比べる。
「それ、朝より明らかに大きくなってない?」
その一言で、教室が静かになった。
「……え?」
香奈恵自身も、初めて意識したように自分の胸を見下ろす。
両腕へ乗せるように支えられた胸は、朝よりもさらに強く張って見えた。
身につけている服そのものは身体に合わせて形を変えるため、窮屈になったり破れたりはしない。それでも、生地の下にある輪郭が朝より明らかに前へ張り出していることは、毎日一緒に過ごしている蛍たちにも分かった。
「ちょっと待って」
麗華も慌てて自分の胸元へ目を落とす。
「私もじゃない?」
「……大きくなってると思う」
琴音の声が、それまでより一段低くなった。
「思う、じゃなくて測ろう。メジャー取ってくる」
戻ってきた琴音の顔からは、いつもの軽さが消えていた。
「まず香奈恵から」
「分かった」
香奈恵は上着をずらして腕を上げると、測りやすいよう巨大な胸を一度両手で持ち上げて位置を整えた。
そこへ琴音がメジャーを回す。
数字を確認した瞬間、その手が止まった。
「……え」
「何センチ?」
返事がない。
「琴音?」
「163.5」
「……何?」
「百六十三・五」
朝は157.2センチだった。それから半日ほどしか経っていない。もちろん、その間に香奈恵は一度も眠っていない。それにもかかわらず、胸囲は六センチ以上増えている。
「もう一回測って」
「うん」
琴音もすぐにメジャーを巻き直した。
今度は位置がずれていないことを慎重に確認してから数字を読む。
「163.4。ほとんど同じ」
「……嘘でしょう」
香奈恵の顔から血の気が引いた。
「朝から六センチ以上?」
「そうなる」
「私、寝てないわよ?」
「知ってる。ずっと一緒に探索してたし」
答える琴音の声も強張っていた。
これまで胸が大きくなるのは、眠っている間だけだった。一日分なら、朝になった時点で二センチ増えている。眠らなければ変化は先送りされ、その後まとまって眠った時に身体が作り替えられる。
少なくとも、今まではそうだった。
けれど今日の香奈恵は、一度も眠っていない。
「麗華も測ろう」
「……お願い」
麗華もすぐに測定を受ける。
結果は同じだった。
「166.1」
「朝は百六十だったわよね?」
「うん」
「じゃあ私も六センチ……」
その数字を聞いた途端、周囲にいた者たちからざわめきが広がった。
「ちょっと待って。私も今日ずっと張ってたんだけど」
「私も測ってほしい」
「言われてみれば、朝より大きくなってる気がする」
次々に声が上がり始める。
朝の時点ですでに予想以上の増え方をしていた者たち。四日前に青い果実を使った二人。それに、昨日までは「少し張るだけだから」と気にしていなかった者まで加わり、琴音が一人ずつ測っていく。
すると全員ではなかったものの、五人が朝より明らかに大きくなっていることが分かった。少ない者でも三センチほど。四センチ以上増えている者もおり、香奈恵や麗華に至っては六センチを越えている。
「何これ……」
葵が呆然と呟いた。
「今までと全然違うじゃん」
「うん。これはもう、いつもの成長とは別だと思う」
琴音はノートへ新しい数字を書き込みながら、何度も過去の記録と見比べる。
「少なくとも、今までみたいに寝てる間に二センチずつ増える変化じゃない。起きてる間にも何かが増えてる」
「じゃあ、何が増えてるの?」
誰かが尋ねたものの、答えられる者はいなかった。
「青い果実使う?」
しばらくして、別の少女が遠慮がちに声を上げた。
「まだ五個残ってるよね」
「でも、増えてるのも五人でしょう?」
「全員使ったらゼロになるよ」
「それでも、こんな増え方してるんだよ?」
一気に教室がざわつく。
蛍も簡単には答えを出せなかった。青い果実を使えば胸囲が約五センチ減る。それはこれまで何度も確認されている。けれど四日前、実際に青い果実を食べた香奈恵たちでさえ、今また同じ異常を起こしている。
小さくすること自体には意味がある。重さも減るし、張りも少なくとも一時的には和らいだ。けれど、原因そのものまで消せるわけではないのかもしれない。
「ちょっと待って」
議論が続きかけたところで、一人の少女が急に声を上げた。
朝から胸の張りを訴えていた者の一人だった。
「どうしたの?」
「服……」
本人が、自分の胸元を戸惑ったように見下ろしている。蛍もそちらへ視線を向け、すぐに異変へ気づいた。服の一部分だけが、小さく色を変えている。
「汗?」
「でも、そこだけ濡れる?」
場所は胸の先端に当たる辺りで、左右のうち片方だけに小さな染みができていた。少女自身にも心当たりがないらしく、指先でそっとその部分へ触れる。
「……濡れてる」
「何か零したとか?」
「何も飲んでないよ」
「ちょっと確認した方がよくない?」
「……うん」
迷宮へ来たばかりの頃なら、教室の中で服を脱いで身体を確認すること自体に大騒ぎしていたかもしれない。けれど、今はそんなことを気にしている場合ではなかった。少女は特に周囲へ背を向けることもなく上着を外し、自分の胸元を確認する。
「傷とかある?」
「ない。どこも痛くない」
「じゃあ何で濡れて――」
誰かが言いかけたところで、その声が止まった。蛍にも見えた。張り詰めた胸の先に、小さな白い雫が浮かんでいる。
「……え?」
一番驚いたのは、やはり本人だった。
何が起きているのか理解できないまま、指先で恐る恐る触れて確認する。透明ではない。はっきりと白い。
「これ……何?」
誰もすぐには答えなかった。けれど、それがまったく知らないものというわけでもない。自分自身の身体から出ているところを見た経験はなくても、その存在まで知らない者はいなかった。
「……母乳?」
誰かが、信じられないものを口にするように呟いた。一瞬で教室の空気が凍りつく。
「は?」
麗華が聞き返した。
「いや、でも……白いし」
「待って。私たち、誰も妊娠なんてしてないでしょう?」
「分かってるよ!」
「だったら何で出るのよ!」
「私に聞かないでよ!」
困惑した声が次々に重なり、それまで静まり返っていた教室が一気に騒がしくなる。白い雫を見つめていた本人も顔を引きつらせ、自分の身体に何が起きているのか受け入れきれないようだった。
「嘘でしょ……」
その時、少し離れたところから別の小さな声が聞こえた。
「……待って」
全員が振り向く。
声を上げたのは香奈恵だった。
「私も……服、濡れてる」
視線が一斉に香奈恵へ集まった。よく見れば、香奈恵の胸元にも先ほどの少女と同じような小さな染みができている。それを見た麗華まで、慌てて自分の服を確認し始めた。
「ちょっと待ちなさいよ……」
その声には、普段の強気さがほとんど残っていなかった。
蛍は何も言えず、目の前で起きていることを見つめていた。
朝より明らかに大きくなった胸も、眠っていないのに増え続けた数字も、これまでとは違う重さや熱も、中から押し広げられるような張りも、その先に現れた白い液体も、すべてが無関係だとはもう思えなかった。
今まで別々の異変として見えていたものが、一つの答えへ繋がろうとしている。けれど、その答えを素直に受け入れるには、起きていることがあまりにも現実離れしていた。
「……まさか」
隣にいた葵の声が、妙に小さく聞こえた。
「胸がこんなに大きくなってたのって……これのため?」
誰も答えなかった。今の自分たちに、そんなことが分かるはずもない。
それでも蛍は、無意識に自分の胸元へ手を当てていた。今朝の測定では141.1センチ。自分にはまだ、香奈恵たちが訴えていたような張りも熱もなく、白いものが滲んでいる様子もない。
けれど、香奈恵たちとの差はもう二十センチもなかった。
今朝までなら、それは単なる測定結果の違いにすぎなかった。
今は違う。
その数字の先に何が待っているのかを、初めて具体的な形で見せつけられたような気がした。
迷宮は自分たちの身体を美しくし、体調を整え、以前より遥かに強くした。その一方で、胸だけは必要以上と思えるほど大きく育て続けている。
昨日までは、その理由がまったく分からなかった。
けれど今、ほんの僅かではあるものの、その変化に別の目的がある可能性が見えてしまった。
もし、迷宮が自分たちの胸を単に大きくしたかったのではなく――何かを作らせるための器官として育てていたのだとしたら。そこまで考えたところで、蛍は自分から思考を止めた。
まだ何も分かっていない。
分かっていないはずなのに、胸の奥を這い上がってくる嫌な予感だけは、どうしても消えてくれなかった。