爛熟の迷宮 ~祝福の果実に身体も心も変えられていく三十人の少女たち~ 作:a-ru
「ただいまー!」
教室へ戻った葵の声が、いつもより妙に大きく響いた。
けれど、すぐに返事は返ってこない。誰もいないわけではなく、壁際に残っていた四人がこちらを振り向き、そのうち一人が少し遅れて「おかえり」と手を上げた。
今朝、探索へ出ず教室に残ったのは十二人だったはずだ。蛍は迷宮から戻ったことで力を失っていく防具を外しながら、改めて教室の中を見回した。
「……あれ? 他のみんなは?」
「お風呂」
「お風呂?」
聞き返した葵に、残っていた一人が少し困ったように笑った。
「胸の張り、どうにかできないか試してくるって。朝からずっと大浴場にいるよ」
「朝から?」
蛍まで思わず聞き返すと、自分の言葉が誤解を招いたと思ったのか、その少女は慌てて首を横に振った。
「ずっと湯船に浸かってるって意味じゃないよ。昨日の白いやつ、外に出したら少し楽になるんじゃないかって話になって、それで色々試してるみたい」
「それにしたって、朝からでしょう?」
麗華が露骨に眉を寄せた。
探索を終えたばかりの彼女は、防具による補助を失った巨大な胸を両腕で支えながら、教室の奥にある大浴場へ続く方へ視線を向けている。
「今、何時だと思ってるのよ」
「時計ないけど、私たちが戻ってきたんだから夕方くらいじゃない?」
「そういう意味じゃないわよ」
呆れたように返したものの、麗華の顔に浮かんでいるのは苛立ちだけではなかった。
昨日、自分たちの胸から白い液体が出ることを確認したばかりなのだ。それまでなかった異変が突然起きた以上、今日一日の間に教室へ残った者たちへ何か新しい症状が現れていてもおかしくない。
「見に行った方がいい?」
葵がそう言いかけたところで、大浴場の方から複数の足音と話し声が聞こえてきた。
「……帰ってきてるって」
「ほんとに?」
「やば、もうそんな時間だったの?」
聞こえてきた会話に、蛍たちは思わず顔を見合わせた。
しばらくすると、八人の少女たちが髪をタオルで拭きながら教室へ戻ってくる。全員が風呂上がりらしい簡単な格好をしており、中にはまだ濡れた髪先から水滴を落としている者もいた。
それだけなら、別におかしなところはない。
蛍が最初に引っかかったのは、彼女たちの距離だった。
二人でぴったり肩を並べて歩いている者がいる。その隣では、片方がもう一人の腕へ当たり前のように手を添えていた。以前から仲のよかった二人に至っては、歩くたび身体が触れそうなほど近くに寄ったまま教室へ入ってくる。
抱き合っているわけでもなければ、何か特別なことをしているわけでもない。
それなのに、朝に見送った時よりも互いの距離がほんの少し近くなっているように、蛍には見えた。
「おかえり」
「……ただいま」
先に声を掛けてきた図書委員の少女へ答えながら、蛍は思わずその顔を見つめた。
朝の彼女は、立っているだけでも胸の重さを気にして、何度も腕で支えていたはずだ。それが今では表情も明らかに穏やかで、立ったまま話す姿にもずいぶん余裕がある。
「胸、大丈夫なの?」
「うん。朝よりかなり楽になった」
「何したの?」
蛍が尋ねると、図書委員の少女は一瞬だけ言いづらそうに視線を泳がせた。
「その……色々試してて」
「色々って?」
葵も興味を持ったらしく、横から顔を覗き込む。
「最初は自分で出せないかなってやってたんだけど、あんまりうまくいかなくて。それで……他の人に手伝ってもらったら、かなり違ったの」
「手伝ってもらった?」
香奈恵がすぐに反応した。
図書委員の少女は僅かに頬を赤くしたものの、今さら隠しても仕方がないと思ったのだろう。小さく頷いてから、少し恥ずかしそうに続けた。
「うん。自分でやるより、誰かにやってもらった方がずっと出やすかった」
その一言だけで、蛍にも大体の意味は察せられた。
「……胸を?」
「うん」
「他の子が?」
「そう」
図書委員の少女だけでなく、その後ろにいた何人かも同意するように頷く。
「私もやってもらったよ」
「私も」
「自分だとちょっとしか出なかったけど、誰かに手伝ってもらうと結構出た」
「待って」
麗華が片手を上げて、話を遮った。
「ちょっと待ちなさい。あなたたち、朝からずっとそれやってたの?」
「ずっとっていうか……」
図書委員の少女が、すぐ隣に立っていた少女と顔を見合わせる。
「途中でお風呂入ったり、休んだりもしてたよ」
「そういう意味じゃなくて」
「でも、少し楽になって休んでたら、また張ってきて。それで今度は手伝ってもらって、次は私がその子を手伝って……ってやってたら」
説明している途中で、本人も今日一日を改めて思い返したらしい。次第に声が小さくなり、最後には気まずそうに視線を逸らした。
「……気づいたら、みんな帰ってきてた」
「気づいたらって……」
香奈恵まで言葉を失う。
「何時間いたの?」
「分かんない」
「分からない?」
「大浴場、時計ないし。最初は少し試したら戻るつもりだったんだけど……」
別の少女が、こちらも少し気まずそうに苦笑した。
「思ったより楽になったんだよね。それでお風呂入って休んでたら、また少しずつ張ってきたから、もう一回やってもらって」
「それを繰り返してたら、私たちが帰ってくる時間になってたってこと?」
「……そう」
葵が目を丸くする横で、蛍も何と言えばいいのか分からなかった。
彼女たちが大浴場で過ごしていた間、自分たちは迷宮の奥を歩き続けていた。常に魔物の気配へ注意を払い、新しく見つけた通路を記録し、一度はかなり強そうな魔物と遭遇して、全員で息を潜めながら迂回もした。
幸い今日は大きな怪我こそなかったものの、一瞬たりとも完全に気を抜ける時間などなかった。
その同じ時間、探索に出ず大浴場へ行っていた八人は、胸の張りを軽くするため互いに手伝い、休んではまた同じことを繰り返していた。そして気づけば、探索組が帰還する時間になっていたという。
「……でも」
蛍が言葉を探していると、図書委員の少女が自分の胸の下へ腕を添えながら続けた。
「本当に楽になったんだよ」
そう言われれば、否定することはできなかった。
朝の彼女は、立っているだけでも胸を重そうに支えていた。それが今では、ごく普通に立ったまま話している。
「完全になくなるわけじゃないけど、朝みたいな中から押される感じはかなり減ったし。自分でやる時より全然出やすかった」
「どのくらい?」
琴音が尋ねると、図書委員の少女が首を傾げた。
「どのくらいって?」
「時間。楽になったあと、どれくらいでまた張ってくる?」
「ああ……」
少し考えてから、自分の胸元へ視線を落とす。
「正確には分かんない。かなり楽になって、お風呂入って休んでたら、また少しずつ重くなってくる感じかな」
「つまり、一回出したらそれで終わりじゃないんだ」
「多分」
琴音は腕を組み、考え込むように眉を寄せた。
「中に溜まってた分を出しても、身体の中でまた作られてるってことかな」
「……やめてよ」
麗華が露骨に嫌そうな顔をする。
「その言い方、すごく嫌」
「私だって嫌だけど、今のところそう考えるのが一番自然じゃない?」
「自然じゃないでしょう。妊娠もしてないのに出てる時点で、何一つ自然じゃないわよ」
「それはそう」
琴音も、それには反論しなかった。
蛍は二人の会話を聞きながら、昨日目の前で起きた異変を思い返した。
朝に測った時より、眠りもしないまま何センチも大きくなった胸。内側から押し広げられるような重さと張り。そこから滲み出した白い液体。そして今日、その液体を外へ出して楽になっても、時間が経てばまた胸が張ってくるという。
もし琴音の考えが正しいのなら、昨日たまたま大量に溜まっていただけではない。今も彼女たちの身体そのものが、白い液体を作り続けていることになる。
「青い果実は?」
香奈恵が尋ねた。
「使ってないよ」
「誰も?」
「うん。使わなくても何とかなったから」
その答えを聞き、香奈恵は少しだけ安堵したように息を吐いた。
残っている青い果実は五個だけだ。
しかも昨日までの様子を見る限り、胸囲そのものを五センチ減らすことはできても、この新しい症状まで完全に止められるとは限らない。
それなら別の方法で身体の負担を軽減できるうちは、貴重な果実を使わず温存しておくという判断自体は間違っていなかった。
「香奈恵は?」
今度は図書委員の少女が尋ねた。
「え?」
「今日、大丈夫だった?」
その質問に、香奈恵は一瞬だけ返事を遅らせた。
「……迷宮の中では防具の補助があるから平気だったわ。昨日みたいに急に重くなった感じもしなかったし」
「今は?」
「多少は張ってるけど、耐えられないほどじゃない」
「だったら、もしつらくなったら――」
図書委員の少女の言葉が、そこで途切れる。続きが何なのか気づいたのだろう。香奈恵だけでなく、麗華まで同時に彼女へ顔を向けた。
「……手伝うよ?」
少し遠慮がちな言い方ではあったが、その申し出は驚くほど自然だった。
「いや」
麗華が即座に答えた。
「私はいい」
「麗華に言ったわけじゃないんだけど」
「分かってるわよ!」
反射的に声を荒らげた麗華に、周囲から小さな笑いが漏れる。
「何笑ってるのよ!」
「だって麗華、自分のことみたいに反応するから」
「するでしょ! 私だって昨日出たんだから!」
そこまで大声で言ってから、自分が何を口にしたのか気づいたらしい。麗華の頬が僅かに赤くなる。
少し前なら、それを聞いただけでも教室中がさらに騒いでいたかもしれない。
けれど今日は、待機していた少女の一人が特に驚くこともなく、心配そうに麗華を見ただけだった。
「そっか。じゃあ麗華も、つらくなったら言ってね」
「言わない」
「でも重くなったら困るでしょ?」
「青い果実使うわよ」
「残り五個しかないよ?」
「……」
麗華が言葉に詰まる。
誰も彼女をからかっているわけではない。本気で、つらくなったら助けようとしているだけなのだろう。
だからこそ余計に、麗華も強く突っぱねきれないようだった。
「まあ、今すぐ決めなくてもいいでしょう」
香奈恵が間に入り、話をまとめる。
「今日はこのまま様子を見る。もしまた昨日みたいに急激に張ってきたら、その時にどうするか考えればいいわ」
「そうだね」
図書委員の少女も素直に頷いた。
本来なら、話はそこで終わるはずだった。けれど蛍には、どうしても何かが引っかかっていた。
図書委員の少女たちがしたこと自体は、別におかしくない。身体がつらかったから、それを少しでも楽にする方法を試した。一人ではうまくいかなかったので、互いに手を貸した。
誰かに強制されたわけでもなければ、嫌がる相手を無理に触ったわけでもない。実際、朝より身体は楽になっているのだから、悪いことなど何一つしていない。
理屈では、そう思える。
それなのに蛍の目には、先ほどから待機組の少女たちが妙に近く見えていた。
話をしている時も自然に隣へ座り、肩が触れ合っても離れようとしない。誰かが胸の重さを気にして少し姿勢を変えれば、すぐ隣にいる少女が「大丈夫?」と声を掛け、何のためらいもなく背中へ手を添える。
しかも、それは以前から仲のよかった二人だけではなかった。
今朝まではそこまで一緒にいる印象のなかった者同士まで、ずっと前からそうしていたかのように近くにいる。
たった一日で、何かが変わった。そう感じてしまうのは、考えすぎなのだろうか。
「蛍?」
隣から葵に呼ばれ、蛍は我に返った。
「何?」
「いや、ずっとあっち見てたから」
「……ちょっと気になって」
小声で答えると、葵も同じ方向へ視線を向ける。
待機組の何人かは、大浴場で試したことを他の少女たちへ説明していた。声は明るく、昨日初めて白い液体を目にした時のような混乱や怯えは、もうほとんど残っていない。
「……なんか、距離近くない?」
しばらく眺めていた葵が、ぽつりと呟いた。
「やっぱりそう見える?」
「うん。まあ、ずっと一緒にお風呂いたなら、そうなるのかな」
「そうかな」
「分かんない」
葵はそれ以上深く考え込むこともなく、自分の荷物を片づけ始めた。
蛍も待機組から視線を戻す。
考えたところで答えが出ることではない。彼女たちは何も悪いことをしていない。身体が楽になり、互いに助け合う方法を見つけたのなら、それでいいはずだった。
そう納得しようとしても、胸の奥に生まれた小さな違和感だけは消えてくれなかった。
◇ ◇ ◇
翌朝、目を覚ました蛍は、起き上がるより先に自分の胸へ手を添えた。
重量そのものは当然あるものの、感覚は昨日までと変わらない。少なくとも香奈恵たちが訴えていたような、内側へ何かが溜まり、皮膚の下から押し広げられるような感覚はなかった。
身支度を済ませたあとは、いつものように測定を行う。
「143.1」
琴音がメジャーを確認し、その数字をノートへ書き込んだ。
「蛍は今日も二センチ」
「……喜べない安定感だね」
「葵は140.9。で、私が147.1」
「琴音、もう百五十近いじゃん」
葵が何気なく言うと、琴音は自分の胸元を見下ろして露骨に嫌そうな顔をした。
「言わないで。自分でも分かってるから」
「張る感じは?」
「今のところはない。でも、昨日までの流れを見ると……」
そこから先は口にせず、琴音は言葉を濁した。
百五十センチになった瞬間、必ず何かが起きるわけではない。それはすでに分かっている。
それでも、胸の張りや白い液体といった新しい症状が出始めている者の多くが、その近辺まで大きくなっていることも事実だった。
今は何も感じていない琴音にも、いつ同じことが起きるかは分からない。
「今日、探索行く人は?」
測定が一通り終わったところで、香奈恵が教室全体へ声を掛けた。
いつものように手が上がっていく。
蛍も、葵も、琴音も手を上げる。麗華と香奈恵も同じで、昨日まで探索へ出ていた者たちが次々と意思を示した。
けれど、全員を数え終えた香奈恵の表情が僅かに曇った。
「……十六人?」
その数字を聞き、蛍も改めて数え直してみる。
間違いない。昨日は十八人だった。
「昨日より二人減ってる」
「私は今日、ちょっと張るから残る」
一人が申し訳なさそうに手を下ろしながら言った。昨日までは普通に探索へ参加していた少女だった。
「朝から少し変な感じするし、迷宮の中で急に昨日みたいになったら怖いから」
「それなら残った方がいいわね」
香奈恵は迷うことなく頷いた。身体に異変を感じている者を、無理に迷宮へ連れていく理由はない。
問題は、もう一人だった。
「私は……一緒に残る」
そう言った少女へ、香奈恵が顔を向ける。
「何か具合悪いの?」
「ううん。私は平気」
「じゃあ、どうして?」
一瞬だけ答えを迷った少女の視線が、先ほど「張るから残る」と言った相手へ向けられた。
「一人で残すの、ちょっと心配だから」
「でも、他にも残る子はいるわよ?」
「分かってるけど……」
少女は少し言葉を探したあと、困ったように小さく笑った。
「昨日ずっと一緒にいたし。もしまたつらくなったら、私の方がどんな感じか分かるかなって」
その言葉を聞いた瞬間、蛍は昨日から胸の奥に残っていた違和感を思い出した。
「……昨日、手伝ってた相手?」
「うん」
あまりにも自然な返事だった。
香奈恵も僅かに黙り込んだものの、やがて小さく息を吐いた。
「分かった。ただ、本当に今日は行かなくていいのね?」
「うん。今日は残る」
「明日は?」
「分かんない。明日になったら決める」
それも、最近では何度も耳にするようになった答えだった。
今日は休む。明日は行くかもしれない。誰も「もう探索には行かない」とは言わないし、自分から完全に諦めたとも言わない。それでも、実際に迷宮へ続く扉をくぐる人数だけは、少しずつ減り続けていた。
「十六人か……」
葵が呟いた。
「最初、二十五人だったよね」
「そうだね」
「結構減ったなあ」
その声に、残る者を責めるような響きはなかった。ただ事実を口にしただけなのに、それでも教室の空気はほんの少しだけ重くなる。
「人数が減った分、今日はもっと無理しないで行きましょう」
香奈恵が空気を切り替えるように全員を見回した。
「三班は維持するけど、五人、五人、六人に分ける。戦闘になりそうなら、今まで以上に早めに引くこと。誰か一人でも危ないと思ったら戻る。いい?」
「了解」
葵が答え、探索へ出る者たちも次々に頷いた。
そこからは、いつものように準備が始まった。武器を手に取り、防具を身につけ、持っていく道具を確認する。
やっていることだけなら、いつもの朝と何も変わらない。
けれど蛍には、どうしても昨日までと同じには見えなかった。
教室に残る十四人のうち、昨日大浴場にいた者たちは自然と近い場所へ集まっている。今朝になって新しく残ることを決めた二人も、その輪のすぐ近くへ腰を下ろしていた。
「じゃあ、行ってくる」
蛍が声を掛ける。
「気をつけてね」
「無理しないで」
「そっちもね」
返ってくる言葉そのものは、これまでと変わらない。
蛍はそれ以上気にしないようにして扉へ向かったが、その途中、背後から待機組の会話が聞こえてきた。
「今日も張ってきたら、お風呂行く?」
「その方がいいかも」
「昨日みたいに?」
「うん」
ごく何気ない会話だった。それでも蛍は一瞬だけ足を止めかけ、そのまま何も言わず迷宮へ続く扉をくぐった。
境界を越えた瞬間、防具へ魔力が満ちる。教室では常に感じている胸の重量が補助され、身体が一気に動かしやすくなった。もう何度も経験している、いつもの感覚だった。
そのまま歩き出しながら、蛍は背後で閉じていく扉を一度だけ振り返る。
教室そのものは何も変わっていない。それなのに、扉の向こうに残った者たちとの距離だけが、昨日までよりほんの少し遠くなったように感じられた。
◇ ◇ ◇
十六人になったその日の探索は、蛍が想像していた以上に人数の減少を実感させるものになった。
一班あたりで減ったのは、一人か二人にすぎない。数字だけを見れば、それほど大きな違いではないはずだった。
けれど実際に通路を歩いていると、以前なら後ろにいたはずの気配がないことへ何度も気づく。
そして戦闘になれば、その差はさらに分かりやすかった。
「右!」
「分かってる!」
葵が横から飛び込んできた獣型の魔物を盾で弾き、その隙を逃さず蛍が踏み込む。
振り下ろした剣が硬い皮膚へ食い込み、獣の身体が大きく傾いた。そこへ後方から放たれた魔法が直撃し、ようやく魔物の動きが止まる。
「もう一体!」
仲間の声へ反応し、全員がすぐに陣形を整え直した。
以前なら、ある程度の余裕を残したまま前衛を二方向へ振り分けられた場面でも、今は一人の配置を間違えるだけで簡単に穴ができる。
だからといって、戦えなくなったわけではない。むしろ、一人一人の身体能力や魔法の威力そのものは、以前より明らかに向上していた。
身体の変化が進むほど迷宮の中では動きやすくなり、防具による補助も相まって、以前なら苦戦していた魔物を今では少人数でも押し切れる。
結果として、その日の戦闘も大きな怪我を出すことなく終えることができた。
「……人数減ってるのに、普通に勝てるんだよね」
戦闘後、葵が息を整えながらぽつりと言った。
「それ自体はいいことでしょ」
「そうなんだけどさ」
葵は倒れた魔物へ一度目を落としたあと、自分の手を確かめるように何度か握ったり開いたりする。
「前より強くなってるから、人が減っても何とかなっちゃうのが……なんか変な感じ」
その感覚は、蛍にもよく分かった。
以前なら大人数で固まって進むことを前提にしていた場所を、今では十六人で三班に分かれたまま探索できている。
もちろん危険は増しているし、無理をすれば簡単に大怪我へ繋がる。
それでも、身体能力と魔力が高まったことで、人数が減った分をある程度は個々の強さで補えてしまっていた。
迷宮へ来たばかりの頃なら、考えられなかったことだ。
「強くなってるのは助かってるけどね」
蛍がそう答えると、葵は何とも言えない顔で苦笑した。
「助かってるから余計に嫌なんだよね」
蛍も同じように笑い返したものの、胸の奥には少しだけ重いものが残った。
身体は確実に強くなっている。だから、探索へ出る人数が減っても迷宮の奥へ進める。そして探索を続けられてしまう間にも、教室へ残る者だけは少しずつ増えていく。
まるで、最初からそうなることまで見越して、自分たちの身体が強くされているような――。
そこまで考えたところで、蛍は小さく首を振った。
何でも迷宮の意図へ結びつけ始めたらきりがない。今は、少しでも早く最深部へ辿り着くことだけを考えるべきだ。
「先、行こう」
「うん」
再び探索を始めた彼女たちは、その日、新しく二本の下り階段を見つけた。
一方は途中で通路そのものが崩れており、その先へ進むことはできなかった。けれど、もう一本はこれまでよりさらに深い場所へ伸びている。
最深部に近づいている。少なくとも、そう信じられるだけの材料は少しずつ増えていた。
だからこそ蛍も、目の前の探索へ意識を戻そうとした。
それでもふとした瞬間、教室に残った十四人のことが頭をよぎる。今頃、何をしているのだろう。
朝に張りを訴えていた少女は、もう少し楽になっただろうか。昨日と同じように、何人かで大浴場へ行っているのだろうか。
考えたところで、ここからでは何も分からない。
分からないからこそ妙に気になったが、その後も探索は続いた。
何度か魔物を避けながら新しい通路を調べているうちに、蛍も次第に目の前のことへ集中していく。
そして十六人が再び教室へ戻る頃には、朝に覚えた小さな違和感も、一度は意識の隅へ追いやられていた。