爛熟の迷宮 ~祝福の果実に身体も心も変えられていく三十人の少女たち~ 作:これはR-15の範囲内なのか
階段を上り、重い鉄扉を押し開けて教室へと戻った瞬間、張り詰めていた空気がふっと緩んだ。迷宮の冷気から解放され、温かな空気が八人を包み込んだ刹那――カラン、と乾いた金属音が足元で鳴り響いた。
「きゃっ!? な、なに……!?」
葵が慌てて自分の胸元を押さえた。さっきまでジャージの上に吸い付くようにフィットしていたはずの革の胸当てが、境界線を跨いだ瞬間にふっと淡い光を失い、足元の石畳へとポロリと滑り落ちたのだ。
「え、ちょっと待って!? なんで胸当て外れちゃうの!?」
「壊れちゃったの……?」
突然のことに目を丸くする葵の横で、ゲームやサブカルに詳しい小柄な生徒が、床に落ちた胸当てを拾い上げて裏返しながら首を傾げた。
「ううん、壊れてないよ。……防具だけ、かな。剣は普通に持ててるし」
「え? 剣は大丈夫なの?」
「うん。……装備として身体に固定されるタイプだけ、教室じゃ機能しない……とか?」
「なんで?」
「……分かんない。ゲームなら、セーフエリアでは戦闘装備解除とかよくあるけど」
「ゲームじゃないんだけどなぁ……」
困惑混じりに呟く葵の横顔を見ながら、蛍は剣道着の上から自分の胸元へとそっと手を当てた。その下に巻いたサラシは、いつも通りきつく胸を締め付けている。けれど、一晩でわずかに膨らんだ柔肉が内側から押し返してくる感触は、布地を隔てても確かに存在を主張していた。
(迷宮の外では使えない防具……。でも、教室の中にいる限りは戦う必要もないし、困ることはない……よね)
「みんな、戻ったよ!」
探索組の一人が声をかけると、教室内で身を寄せ合っていたクラスメイトたちが、弾かれたように一斉に駆け寄ってきた。
「みんな無事だったの!? よかった……!」
「怪我はない!? 怪物、本当にいたの……!?」
「葵ちゃんが腕を引っ掻かれちゃったの。誰か、救急箱とか見つけてない?」
蛍が呼びかけると、保健委員の生徒が青ざめて駆け寄ってきた。
「消毒液はないけど、綺麗なタオルとお水なら……葵ちゃん、腕見せて!」
「あ、うん。ちょっと血が出ちゃってて。……あれ?」
葵が切り裂かれたジャージの袖をまくり上げ、二の腕を差し出した。だが、その場にいた全員が、息を呑んで葵の腕を凝視したまま固まった。葵自身も、目を丸くして自分の腕を見つめていた。そこにあるはずの、ゴブリンの鋭い爪で引き裂かれた生々しい傷条が、どこにも見当たらなかったのだ。
袖には確かに引き裂かれた痕跡と血痕が残っている。しかし、その下にある肌は傷口が塞がっているどころか、赤みもかさぶたもなく、まるで最初から傷など負っていなかったかのように滑らかで、白く透き通っていた。
「……痛くないの、葵ちゃん?」
「うん……さっき階段を上がってる途中まではズキズキ痛かったのに、教室に入った途端、急に痛みが引いて……血が出てたはずなのに」
葵は恐る恐る指先で二の腕を撫でた。しっとりとした柔らかな皮膚の感触があるだけで、触れても痛痒さすら残っていない。
「嘘……教室に戻ったら、傷が治ったの……?」
「これって、やっぱり絶対セーフティエリアじゃん……!」
仲間たちから、安堵と興奮の入り混じったどよめきが起きた。少なくとも、葵が負った程度の傷なら、この教室に戻れば跡形もなく治るらしい。
待機していた生徒たちから「怪我しないなら怖くないじゃん!」「明日私も行ってみようかな」と軽口が飛び交い始める。だが、それに待ったをかけたのは、怪我を負った当人の葵だった。
「ちょ、ちょっとみんな、調子に乗らないでよ! 確かに傷は消えたけど……切られた瞬間は、熱い鉄棒で引っ掻かれたみたいに本気で痛かったんだから! 痛覚まで消えるわけじゃないんだよ!? 本当に泣きそうだったんだからね!」
葵が涙目で必死に訴えると、周囲の生徒たちは苦笑しながら「ごめんごめん」「でも無事でよかったよ」と宥めた。痛みの記憶は本物だとしても、目に見える傷跡が完全に消え去っているという事実は、少女たちの中から迷宮への恐怖を削ぎ落とすにはあまりにも十分すぎた。
(……怪我が、完全に消える……)
蛍は手にしたショートソードの冷たい柄を握りしめながら、胸の奥でざわつくような違和感を覚えていた。葵の腕には、かすかな傷跡一つ残っていない。昨日、この迷宮に落ちてくる前と寸分違わぬ、滑らかで美しい肌がそこにあるだけだ。不自然なほどの『完璧な修復』。
だがその一方で、引き裂かれた葵のジャージの袖は、ボロボロに破れたまま元には戻っていない。肉体は治っても、衣服の損壊は修復されないのだ。
「それにしても葵ちゃん、ジャージ破けちゃってどうするの? 替えの服なんて持ってきてないでしょ?」
「うーん……そうなんだよね。腕丸出しになっちゃったし……」
困り顔の葵に、待機組の一人が思い出したように指をパチンと鳴らした。
「あ、そういえば! 大浴場の脱衣所に、すごくシンプルな部屋着がいっぱい積んであったよ! 無地のTシャツとハーフパンツみたいなやつ。あれ、着替えに使えそうじゃない?」
「本当!? じゃあ探索で服がボロボロになっても、最悪あれに着替えればなんとかなるかぁ」
誰の持ち物でもない、都合よく用意された衣服。その存在すらも、少女たちは「親切な備品」として受け止めていく。
「ねえ蛍ちゃん、それ! その剣、ちょっと持たせて!」
蛍の思考を遮ったのは、ギャルグループの生徒たちの弾んだ声だった。危険な現実から目を逸らすように、少女たちの関心は一気に「戦利品」へと群がっていく。
「いいけど、本物の刃物だから気をつけてね」
「わ、すごい……! ピカピカじゃん!」
ショートソードを受け取った生徒が、恐る恐る両手で持ち上げる。それを取り囲むように、ソフトボール部やバスケ部の運動部員たちも身を乗り出した。
「うわ、思ってたより全然軽い! もっとズシッと重いのかと思ってた」
「女子の腕力でも片手で振れそうだね。ちょっと構えてみてよ」
「えー、こう? なんか勇者っぽくない!? 写真撮りたい〜、スマホ圏外だけどカメラ動くかな!」
物騒な凶器であるはずの真剣が、教室の中ではまるで演劇の小道具か最新の流行グッズのように扱われ、次々と生徒たちの手から手へと渡っていく。そして、視線はもう一つの戦利品――その小柄な生徒が拾い上げた革の胸当てへと注がれた。
「それって防具? 武器だけじゃなくて防具も出たんだ!」
「うん。でも、何かここに戻ってきたら勝手に外れちゃったんだよね。部屋の中じゃ使えないみたい」
「そうなんだ、ちょっと残念」
「ところでさ。ねえ、ここから出たら、まず何食べたい?」
「私、絶対マックのポテト! 揚げたてのLサイズ一人で二箱食べる!」
「わかる〜! あとスタバの新作も飲みたいよね」
「あの果実、凄い美味しいんだけどあれしか無いのはちょっとねー」
屈託のない笑い声が石室に響く。命の危機から戻ってきた安堵感と、怪我も治るという安心感が、少女たちから警戒心を奪い、他愛もないおしゃべりに夢中にさせていた。
探索組から迷宮の様子を聞き出し、拾った剣を順番に確かめ、今後の探索について話し合う。途中からは緊張の反動で横になる者や、スマホの写真や保存してある小説を見返す者まで現れた。
窓もなく、空腹も疲労も訪れない石室では、誰も時間の経過を意識しなくなっていた。そんな中、ふと教卓の上の時計を見上げた香奈恵が、手を叩いて場を収めた。
「……みんな、そろそろいいかしら。気がつけば、もう夜の七時を回っているわ。……そういえば、みんなお腹空いてない?」
「あ……言われてみれば」
生徒たちが顔を見合わせる。今朝、探索に行く前にあの実を一つ食べたきり、昼食も口にしていなかった。それなのに、誰のお腹も鳴っておらず、激しい空腹や喉の渇きに苛まれることもなかったのだ。
「朝に一個食べただけで、昼も食べずに夜になっちゃったのに……全然お腹が減ってない……」
「本当に一日一つで、二十四時間も身体を持たせてくれるんだ……」
「お腹も減らないし、疲れもしないし、ここ日光も無いから……時間の感覚、おかしくなってるのかも」
「起きてダンジョンに行って帰ってきたのって……二時くらいだったっけ?」
「どうだろ。もっと早くなかった?」
「……私もあんまり覚えてないわ。確かに、時間感覚をきっちりしておかないと何か落とし穴に嵌りそうね。とりあえず、みんなでお風呂行きましょう」
香奈恵の号令で思わぬ時間経過を知った三十人の少女たちは連れ立って大浴場へと向かった。
木の引き戸を引いた先にある脱衣所は、三十人全員が一度に入っても全く手狭さを感じさせない広さを持っていた。壁一面に整然と並んだ無数の脱衣カゴと、山積みにされた清潔なバスタオル、そして肌触りの良いシンプルな無地の部屋着。
さらに浴室の扉を開け放つと、ふわりと甘い花の蜜のような香りを孕んだ湯煙が、少女たちを温かく迎え入れた。
「広っ……! 何回見ても信じられない広さだよね」
「ねー! 銭湯どころか豪華な旅館にある大浴場みたいな広さだよね!」
感嘆の声が上がるのも無理はなかった。石造りの洗い場には、三十基以上のシャワーと鏡がズラリと余裕を持って並び、誰一人として順番待ちをする必要すらない。
そして何より圧巻なのは、空間の中央にどこまでも広がる巨大な岩風呂だった。乳白色の湯が滾々と湧き出るその主浴槽は、三十人の女子高生が一斉に手足を伸ばして身を沈めたとしても、なお半分以上の余白を残すほどの、規格外のスケールを誇っていた。
「シャワー使い放題じゃん! 背中流してあげるから、私の髪も洗ってよー」
「いいよー! あ、そのボディーソープ貸して!」
並んで腰掛け、互いの背中にきめ細やかな泡を滑らせる少女たち。備え付けのソープは驚くほど泡立ちが良く、洗い流すたびに肌がキュッキュッと音を立てて磨き上げられていく。
「それにしても、このシャンプー本当にヤバいよね。実家のサロン専売品より髪がサラサラになるんだけど」
「わかる、乾かしたあとのツヤが異常だよね〜」
キャッキャとはしゃぎながら、三十人は次々と巨大な岩風呂へと身を沈めていった。湯船が広大であるため、全員が入っても窮屈さは微塵もない。乳白色の湯に浸かった少女たちは、思い思いに手足を伸ばし、とろけるようなため息を漏らした。
「ふぁぁぁ……あったまるぅ……」
「ねえ、やっぱり胸張ってない? 谷間が昨日より深くなってる気がする!」
「やだ、見ないでよ! 自分だってツンって上向いてるじゃん!」
「なんかさ、生理前みたいに張っててちょっとムズムズするんだよねー」
湯煙の向こうで、胸元の変化をからかい合う笑い声が心地よく反響する。今朝のざわめきも、湯の温もりに溶かされて「ちょっと大きくなってラッキー」という無邪気なノリへとすり替わっていた。
だが、そんな喧騒から少し離れた湯船の端で、蛍は自分の両手を湯の上に掲げ、じっと凝視していた。
「……蛍ちゃん、やっぱり気にしてる?」
隣に腰掛けたソフトボール部の生徒が、自分の手のひらを見つめながら苦笑混じりに囁いてきた。さらにその奥にいたバスケ部の生徒も、濡れた長い前髪をかき上げながら、複雑な表情で合流してくる。
「うん……。右手のひらにガチガチのマメがあったんだけどさ。さっき身体洗ってるときに見たら、完全に消えてて……」
「私もだよ。バッシュで擦れて硬くなってた足の裏のタコも、指先の硬い皮も、全部なくなってる。触るとフニャフニャで、まるで赤ん坊の足みたい」
「……私も、竹刀のタコが全部消えた」
蛍は、濡れた指先をぎゅっと握りしめてみた。何年もかけて、毎日何百本、何千本と竹刀を振り、素振りを重ねて作り上げてきた武道家の掌。血豆が破れ、皮が剥け、痛みに耐えてようやく皮膚が分厚く硬化した、自分が積み上げてきた時間の痕跡。自分を守り、鍛え抜いてきた努力の結晶。
それが、たった二日、この湯に浸かっただけで跡形もなく溶かされていた。
胸などの変化以上に、この事実が蛍の心を冷たく締め付けていた。傷を治した。マメを消した。肌を滑らかにした。
(じゃあ――この場所は、何を基準に『治すべきもの』を決めているのだろう……?)
誰にも許可を取ることなく、本人の意志など関係なく、この場所は私たちの身体を、何か決められた基準に沿って勝手に作り変えているように感じる。傷ついた皮膚を元に戻す。硬いタコさえ残さない。ただひたすらに柔らかく、滑らかで、傷一つない肉体へと仕立て直していく。
(……そういえば……)
思考の糸を手繰り寄せながら、蛍は初日の朝――あの教壇の木に群がった瞬間を思い出していた。あの時、麗華さんがかじり、自分たちも我先にと手を伸ばした、あの赤い果実。
(なんで私たち……あんなに簡単に、口にしちゃったんだろう)
見知らぬ異世界に放り出され、パニックになっていたとはいえ、相手は得体の知れない木の実だ。毒があるかもしれない、寄生虫がいるかもしれない。普段の自分たちなら、誰かが拾ってきた正体不明の野いちごですら、絶対に口に運んだりしなかったはずだ。
それなのに、あの時は石板の甘言を何の疑いもなく信じ込み、まるで飢えた獣のように競い合って貪ってしまった。
――あの、濃厚に甘い香り。
嗅いだ瞬間、唾液が溢れ、思考のブレーキがふっと外れたような感覚。洗脳や強制ではない。食べるという選択をしたのは、間違いなく自分自身の意志だ。
けれど迷宮は、最初から「そう選ばざるを得なくなる空気」を部屋中に満たし、彼女たちの警戒心を甘く、静かに溶かしていたのではないか。
そして――この異常なまでに広大な湯船。三十人のためだけにしては、あまりにも広すぎる。背筋をかすめる不穏な思考を、蛍は湯をすくって顔を洗うことで無理やり振り払った。
「……そろそろ上がりましょうか。長湯すると湯あたりしちゃうわ」
香奈恵の声で、少女たちはこの心地よい湯を名残惜しみながら、次々と浴槽を後にした。
脱衣所に積まれていた柔らかな部屋着に袖を通す。締め付けのない薄手の生地は肌触りが抜群に良いものの、下着をつけずに着ると、胸元の膨らみや先端の形が布越しに心もとなく浮き彫りになってしまう。少女たちは互いに少し照れ笑いを浮かべながらも、その解放感に身を委ねて教室へと戻っていった。
「机、全部後ろと壁際に寄せちゃおう!」
「よっこらしょ……よし、これで床が広く使えるね」
机と椅子を全員で協力して運び、教室の中央に広大なスペースを作り出す。脱衣所から持ってきた清潔な大判バスタオルを床一面に敷き詰め、その上に薄手の毛布を並べていく。三十人が雑魚寝できる、即席の巨大な寝床が完成した。
「すごい! なんか秘密基地みたいでワクワクする!」
「誰が隣にする? 私、葵ちゃんの隣がいい〜」
まるで修学旅行のような空気の中、一人の生徒が教室の入り口脇の石壁を指差した。
「ねえ、これ見て! スイッチみたいなのあるよ!」
見れば、天井で青白く光る鉱石へと繋がる壁の窪みに、金属製の小さなレバーが取り付けられていた。生徒が恐る恐るそのレバーを押し下げると――。
カチリ。
硬質な音が響き、光が消えた。天井の鉱石が吸い込まれるように輝きを失い、教室は一瞬で漆黒の闇に包まれた。
「きゃっ!?」「本当に消えた!」
「すごーい、電気のスイッチまであるんだ!」
暗闇の中で、誰かが「おやすみ」と小さく笑った。あちこちから、同じように「おやすみ」「また明日ね」と穏やかな声が重なり合うように返ってくる。
今夜初めて訪れた完全な暗闇。それなのに、不思議なほど誰も怯えていなかった。昨夜は青白い鉱石の明かりが残っていたにもかかわらず、「お母さんに会いたい」「家に帰りたい」という声があちこちから聞こえていたのに。それが今夜は、まるで最初からなかったかのように消え去っていた。
その温かな静寂の真ん中で、タオルの上に横たわった蛍は、ふと気づいて息を呑んだ。
――今日はもう、誰も「家に帰りたい」と言っていない。
飢えのない果実を与えられ、滑らかな湯に浸かり、清潔な寝床を与えられただけで、たった二日にしてこの異常な環境を受け入れ始めていたのだ。
静かに、確実に、自分たちの心が飼い慣らされていく。闇の中、仲間たちの穏やかな寝息を聞きながら、蛍は冷え切った自らの手のひらを強く握りしめた。