爛熟の迷宮 ~祝福の果実に身体も心も変えられていく三十人の少女たち~ 作:a-ru
結局、大浴場での話し合いは、明確な結論が出ないまま終わった。
誰かが無理やり触られていたわけではなく、嫌がっている相手へ何かを強制した者もいない。
胸の張りを楽にするために始めた行為が、途中から触れられることそのものを心地よいと感じるものへ変わっていったとしても、続けることを選んでいたのは本人たちだった。
そこまで確認してしまうと、香奈恵にも蛍にも、それ以上強く何かを言うことはできなかった。
「……とりあえず、一回出ようか」
香奈恵がそう促すと、待機組の十四人も素直に頷いた。
さすがに先ほどまでのことを見られた気まずさは残っているらしく、図書委員の少女も立ち上がる時には少しだけ視線を伏せていた。ただ、それでも昨日のように慌てて距離を取る様子はなく、隣にいた少女と並んで脱衣所へ向かう時も自然と肩が近い。
別の二人も、小声で何かを話しながら寄り添うように歩いている。
つい先ほどまで互いの身体へ触れ、抱き合い、キスまでしていたのだから、それ以前と同じ距離へすぐ戻れるはずもないのかもしれない。
そんな考えが自然に浮かんだところで、蛍は自分自身の思考に気づき、僅かに眉を寄せた。
「蛍?」
「……何でもない」
葵へそう返しながら、最後の一人が脱衣所へ消えていくのを見送る。
やがて十四人が着替えを終えて教室へ戻ると、大浴場には今日一日迷宮を歩き回ってきた十六人だけが残された。
「……私たちも入る?」
葵がぽつりと言った。
「入るでしょう。こっちは一日中迷宮歩いてたのよ」
麗華が即座に返す。
言葉だけならいつも通りだったが、浴場の奥へ一度視線を向けたあと、ほんの僅かに目を逸らしたのを蛍は見逃さなかった。
もっとも、それを指摘する気にはなれない。
蛍自身も似たようなものだった。
一日迷宮を歩き続けたのだから、汗は流したい。防具を外した今は胸の重量もそのまま身体へ掛かっており、温かい湯へ浸かって少しでも疲れを取れるなら、その方がいい。
大浴場へ入ること自体には、何の問題もないはずだった。
問題があるとすれば――。
「……ねえ」
十六人が身体と髪を洗い終え、広い湯船へ入り始めた頃、葵が辺りを見回しながら声を上げた。
「何?」
蛍が聞き返す。
葵はすぐには答えず、もう一度周囲を見回してから、少しだけ声を落とした。
「なんか今日、みんな遠くない?」
「言わないで」
麗華が間髪入れず返した。蛍も思わず周囲を見る。
確かに遠い。
この大浴場は、元々三十人全員が入っても余裕があるほど広い。十六人しかいなければ自然と空間が空くこと自体はおかしくないが、今日のそれは明らかにいつもと違っていた。
誰かが「離れて入ろう」と言ったわけでもないのに、全員が何となく一人分ほどの間隔を空けている。
いつもなら肩が触れそうな距離へ誰かが入ってきても気にしなかったはずなのに、今日は相手が近いと感じれば、ほんの少し身体をずらす。洗い場でも、わざわざ一つ空けて座っていた者が何人かいた。
「やっぱりみんな気にしてるじゃん」
「あなたもでしょうが」
「まあ、そうだけど」
葵も否定しなかった。蛍自身、隣にいる葵との間には普段より少し広い空間がある。その距離を意識した瞬間、先ほど目にした光景が勝手に頭へ浮かんだ。
互いの胸へ手を添えたまま唇を重ねていた二人。背後から抱きしめられ、胸を支えられながら身体を預けていた図書委員の少女。そして、さらに浴場の奥では――。
「……っ」
そこまで思い出したところで、蛍は意識を無理やり切り替えた。
横を見ると、葵も落ち着かない様子で湯の表面を指先で弄っている。琴音は妙に姿勢よく座り、麗華に至っては誰とも目を合わせようとしていなかった。
「……麗華、顔赤くない?」
「お風呂だからでしょう!」
「まだそんな浸かってないじゃん」
「葵」
香奈恵が小声で止める。
「からかうのはそのくらいにして」
「はーい」
素直に引き下がった葵を確認してから、香奈恵は教室へ続く方向へ一度視線を向けた。
「それと……少し声を落としましょう」
「やっぱり?」
琴音が尋ねる。
「ええ。教室にいるあの子たちへ聞こえるところで話す内容ではないと思う」
その言葉に、何人かが頷いた。
別に陰口を言いたいわけではない。ただ、本人たちの前で「さっきのはおかしい」などと話し合えば、どうしたって責めているように聞こえてしまう。
それは蛍も避けたかった。
待機組の十四人は誰かを傷つけたわけではない。それどころか、互いに助け合った結果として身体の負担は確実に軽くなっている。
だからこそ話が難しかった。
「……で」
麗華が声を潜める。
「どうするのよ、あれ」
誰もすぐには答えなかった。僅かに揺れた湯が、浴槽の縁へ触れる音だけが続く。
「どうするって言われても……」
葵が困ったように言った。
「止める?」
「止めるって、何を?」
琴音が聞き返す。
「だから……胸を触ったりとか?」
「張ってるのを楽にするために?」
「いや、それは必要なんじゃない?」
「じゃあキス?」
「……それ止める権利、私たちにある?」
「ないと思う」
別の一人が小さく答えると、自然と全員の視線がそちらへ向いた。少女は少し居心地悪そうに肩をすくめる。
「だって、嫌がってないんでしょ? 本人たち」
「嫌がってないどころか……」
葵が途中で言葉を濁した。
続きを口にしなくても、その場にいる全員には分かっていた。むしろ、かなり気持ちよさそうだった。それを言葉にするのが妙に憚られただけだ。
「そこが一番問題なのよ」
麗華が低い声で言った。
「嫌だからやってるなら、やめればいいだけでしょ。でも、あの子たち……自分たちからやってたじゃない」
「うん」
琴音が頷く。
「だから、単純に止めても意味ないと思う」
「意味ないって?」
「私たちが『それおかしいから禁止』って言ったところで、本人たちからしたら身体は楽になるし、嫌でもないし、むしろ気持ちいい。なのに何で駄目なの、ってなるでしょ」
「……なるでしょうね」
香奈恵も、その点は認めるしかなかった。麗華は不満そうだったが、反論はしない。蛍も同じことを考えていた。
少なくとも図書委員の少女たちは、自分たちが何をしているのか理解していた。質問にも答えられたし、嫌なら止めるとも言っていた。
誰かから命令されたわけでもない。そのうえで、自分たちから続きを選んでいる。
「でも」
香奈恵が静かに口を開いた。
「あのままでいいとも思わない」
全員の視線が集まる。
「さっき、私たち何回呼んだ?」
「二回……いや、浴場の前でも呼んだから三回くらい?」
葵が答える。
「それでも誰も気づかなかった」
「……十四人全員ね」
麗華が呟いた。
「そこは駄目でしょう」
香奈恵の声音が僅かに強くなる。
「触れ合うこと自体がどうこう以前に、周りで何が起きても分からなくなるほど夢中になるのは危険よ。もし探索組が戻ってきたんじゃなくて、何か別の異常が起きていたら?」
「それは確かに」
琴音が頷く。
「教室側で何か起きても、大浴場に全員いたら分からないしね」
「そういうこと」
香奈恵は静かに息を吐いた。
「だから少なくとも、全員で教室を空けるのはやめてもらった方がいいと思う」
「何人かは残る?」
「交代でもいいし。そこは本人たちと相談ね」
「でも」
葵が首を傾げた。
「教室に残った子が一人とか二人だけで、そっちも張ってきたら?」
「その時は浴場へ行けばいいでしょう。その代わり、先に誰か戻るとか」
「結局交代制か」
「多分、それが一番現実的じゃない?」
琴音がそうまとめる。
それなら蛍も反対はなかった。ただ、問題はそこだけではない。
「……ねえ」
蛍が口を開いた。
「昨日までは、あそこまでじゃなかったよね」
何を指しているのかは、全員に伝わった。
「昨日は……胸の張りを楽にするためだった」
香奈恵が答える。
「少なくとも、最初は」
「今日は、張りがなくなってからも続けてた」
蛍が言う。
「しかも……」
その先まで口にしようとして、さすがに言葉に詰まった。
琴音が代わりに小さく続ける。
「かなり先まで進んでたね」
「ぼかさないでよ」
麗華が嫌そうな顔をする。
「ぼかした方がいいかなって」
「だったら最初から言わないで」
「でも話し合うなら避けられなくない?」
「それはそうだけど……!」
麗華がまた僅かに赤くなる。葵が何か言いそうになったものの、香奈恵に一瞥されて口を閉じたことで、張り詰めていた空気がほんの少しだけ緩んだ。
けれど琴音の表情は、すぐに真面目なものへ戻る。
「私が気になるのは、あれが急すぎることかな」
「急?」
「昨日までは、身体を楽にするために触ってたんでしょ?」
「うん」
「それが今日には、楽になったあとも触られてたい、抱き合いたい、キスしたいってなってる」
麗華の眉間に皺が寄った。
「だから、それがおかしいって言ってるのよ」
「うん。おかしい」
琴音はあっさり認めた。
「でも、本人たちは普通に選んでる」
その一言で、また空気が静かになった。湯気がゆっくりと天井へ昇っていく。
「……洗脳?」
葵が小さく言った。
「そこまで単純じゃない気がする」
琴音が答える。
「何が違うの?」
「洗脳って言われると、考え方そのものを無理やり変えられてる感じするじゃん」
「実際変わってない?」
「変わってる。でも……もっと、条件を並べられてる感じがする」
「条件?」
「胸が張ったら苦しい。誰かに触ってもらったら楽になる。触られると気持ちいい。誰かの近くにいると落ち着く」
琴音は一つずつ確かめるように言葉を並べていく。
「それだけ揃ってたら、そりゃ誰かと一緒にいたくならない?」
誰も答えなかった。否定できなかったからだ。
「じゃあ迷宮が、そうなるように仕組んでるってこと?」
葵が尋ねる。
「分かんない。そこまでは」
琴音は首を横へ振った。
「ただ……命令されなくても、自然にそういう選択をしたくなる身体にはされてるのかも」
蛍の胸の奥へ、冷たいものが落ちる。
「……選べるようにして、選びたくなるようにされてる?」
思わず口にすると、琴音が蛍を見る。
「……そんな感じ」
「最悪ね」
麗華が吐き捨てるように言った。
その直後、彼女はほんの僅かに眉を寄せ、自分の胸の下へ腕を添え直した。
防具を外してから、時間が経つほど重さが戻ってきている。蛍には、それが単純に胸そのものの重量だけではないことが分かった。
「麗華、大丈夫?」
「……平気よ」
返事は早かった。けれど麗華は、胸元へ添えた腕をすぐには下ろさなかった。
「張ってる?」
琴音が尋ねると、麗華は少し嫌そうな顔をしたあと、小さく息を吐いた。
「……多少はね。でも昨日みたいに急に膨らんでる感じじゃないし、これくらいなら我慢できる」
「私も似たようなものよ」
香奈恵が続けた。
彼女も先ほどから、時折無意識に胸の位置を直している。
「迷宮の中では防具が支えてくれるから、ほとんど気にならなかった。でも戻ってから少しずつ重くなってる感じはあるわ」
「じゃあ、やっぱり今も作られてるってこと?」
葵の言葉に、香奈恵が僅かに表情を曇らせる。
「多分ね」
白い液体が出るようになった身体が、探索へ出ている間だけその機能を止めているとは考えにくい。
防具に支えられて気づきにくかっただけで、二人の胸の中にも少しずつ溜まり続けているのだろう。少なくとも今は、二人ともまだ耐えられると判断している。ただ、それだけだった。
「……だから」
香奈恵の声が少しだけ低くなる。
「私たちだって、他人事じゃない」
その言葉で、全員が黙った。
蛍も無意識に自分の胸へ視線を落とす。
今朝測った時は143.1センチ。葵は140.9センチ。琴音は147.1センチ。そして香奈恵と麗華には、すでに白い液体が出る症状まで始まっている。
大浴場で見た十四人と、自分たちの間に、明確な線が引かれているわけではなかった。
「……ねえ」
葵が、今度は少し言いづらそうに口を開く。
「これさ……私たちも、あと何日かしたらああなるのかな」
誰もすぐには答えなかった。そして、ほとんど同時に何人かの視線が琴音へ向いた。
「……何で私見るの」
琴音が露骨に顔をしかめる。
「いや」
葵が気まずそうに笑った。
「一番近いから」
「百五十がスイッチじゃないって分かってるでしょ」
「分かってるけど」
「琴音は今、張る感じないの?」
蛍が尋ねる。
「今のところはないよ」
そう答えながらも、琴音は自分の胸元を一度見下ろした。
「でも……まあ、いつ来るかは分かんない」
その声音からは、普段の軽さが少し消えていた。
「私は絶対ああならないから」
麗華が突然言った。
全員が彼女を見る。
「何よ」
「いや……」
琴音が僅かに口元を引きつらせた。
「麗華、その台詞すごいフラグっぽい」
「琴音!」
抑えていた声が思わず大きくなり、香奈恵が慌てて人差し指を口元へ当てる。
「静かに!」
「……っ」
麗華が口を閉じる。
その様子がおかしくて、何人かが小さく笑った。張り詰めていた空気が、ほんの少しだけ緩む。
「でもさ」
葵が笑いを堪えながら言った。
「麗華、もう症状自体は出てるよね」
「それとこれとは別でしょ」
「何が別なの?」
「全部よ!」
「だから声」
「……っ!」
今度こそ麗華が黙り込む。
蛍も小さく笑った。笑えたこと自体に、少しだけ安心する。けれど、その安心は長く続かなかった。
「……ほんとに、笑い事じゃないんだけどね」
琴音がぽつりと言った。
さっきまで麗華をからかっていた本人とは思えないほど、静かな声だった。琴音は湯の中で、自分の胸を下から支えるように腕を回している。
「私たち、あの子たちがおかしくなったみたいに話してるけど……数日前まで、同じように一緒に探索してたんだよね」
「……うん」
蛍が答えた。
「図書委員の子だって、最初からああだったわけじゃない」
怖がっていた。胸が大きくなることにも、迷宮へ出ることにも。青い果実をこっそり使ったほどだった。それが今は、自分から誰かへ身体を預けていた。
「変わったの、あの子たちだけなのかな」
琴音の問いに、返事をする者はいなかった。
蛍は改めて浴場を見渡した。十六人全員が、何となく互いから距離を取って座っている。
まるで誰かへ近づけば、自分まで先ほどの十四人と同じところへ引き込まれてしまうかのように。
そんなことがあるはずはない。ただ隣へ座っただけで何かが起きるわけでもないし、それくらい全員分かっている。それでも、今は距離を取らずにはいられなかった。
「……とりあえず」
香奈恵が口を開く。
「今決められることだけ決めましょう」
全員が彼女を見る。
「待機組が胸の張りを軽くするために助け合うこと自体は、止めない」
麗華が何か言いかけたものの、香奈恵はそのまま続けた。
「嫌がっている子がいない限り、そこまで私たちが決めることじゃないでしょう」
「……まあね」
「ただし、十四人全員が教室を空けるのはやめてもらう。大浴場へ行くなら何人かは教室に残って、交代する」
「それは賛成」
琴音が頷く。
「それと、周りの声に誰も気づかなくなるほど続けるのも駄目。何かあった時に危ないから」
「でも本人たち、夢中になったら分かんなくない?」
葵が言う。
「だから交代で誰かが見てるとか、ある程度区切る方法を考えるのよ」
「時計ないけど」
「……そこも何とかしましょう」
「難しいね」
「難しくても必要でしょう」
香奈恵が少し疲れたように息を吐く。
「あと、身体に新しい変化があったら隠さず報告すること。これは探索組も待機組も同じ」
その言葉には全員が頷いた。
そこまで決めたところで、話は一度途切れた。
誰かが湯を掬う音だけが響く。話し合ったところで、あの十四人が元に戻るわけではない。そもそも、本人たちは戻りたいと思っているのだろうか。
そんな疑問が浮かび、蛍はすぐに考えるのをやめた。今はまだ分からない。
「そろそろ出る?」
葵が尋ねる。
「そうね」
香奈恵が頷いた。
迷宮から戻ってきてから随分時間が経っている。明日も探索を続けるなら、休めるうちに休んだ方がいい。
一人、また一人と湯船から立ち上がっていく。
蛍もそれに続こうとして――。
「……琴音?」
隣から葵の声がした。
振り返ると、琴音だけがまだ湯船の中に残っていた。胸元へ片手を添え、僅かに眉を寄せている。
「どうしたの?」
蛍が尋ねる。
「いや……」
琴音は一度そう答えたものの、そのまま胸へ触れた手を少し動かし、何かを確かめるようにしばらく黙り込んだ。
「琴音?」
「……気のせいかもしれないけど」
その言葉に、香奈恵と麗華まで動きを止める。琴音は、自分でも信じたくないものを確かめるような顔で胸元を見下ろしていた。
「ちょっと……熱いような気がする」
誰も、すぐには返事をしなかった。
つい先ほどまで広すぎるほどに感じていた大浴場が、その瞬間だけ妙に狭くなったような気がした。