爛熟の迷宮 ~祝福の果実に身体も心も変えられていく三十人の少女たち~ 作:a-ru
翌日、青い果実は三個出た。
最初の一個を見つけた時には、昨日に続いて運がいいくらいにしか思わなかった。二個目が落ちた時にはさすがに琴音が首を傾げ、そして三個目を拾った頃には、誰も素直に喜べなくなっていた。
「……今日、これで三個目だよね」
掌の上に乗せた青い果実を見ながら、葵が確認するように言う。
「昨日が二個。今日が三個」
琴音が指を折って数えながら、怪訝そうに眉を寄せた。
「その前まで、何日まともに出てなかったっけ」
「覚えてないくらい」
蛍も、そう答えるしかなかった。
青い果実そのものを初めて見た頃には、ここまで貴重なものになるとは思っていなかった。それが本当に必要になり始めた頃からほとんど姿を見せなくなり、残りが五個になった時には、一つ使うだけでも迷うようになっていた。
ところが昨日は二個。そして今日は、まだ探索を終えてもいないのに三個も手に入っている。
「何なのよ、本当に」
麗華が苛立たしそうに吐き捨てる。
「今まで出し惜しみしてたみたいじゃない」
「迷宮が意図的に出してるかどうかも分からないけどね」
琴音はそう言ったものの、その声には自信がなかった。
蛍も何も言えない。魔物を倒した時に何が落ちるのか、それがどんな仕組みで決まっているのかなど、自分たちには何一つ分かっていない。
偶然なのかもしれない。
それでも、昨日から急に増え始めたという事実だけは変わらなかった。
「出るなら持って帰りましょう」
しばらく果実を見つめていた香奈恵が、ひとまず結論を出した。
「理由を考えるのはあと。今は一個でも多い方が助かるわ」
反対する者はいなかった。
昨日六個だった在庫は、この三個を加えて九個になった。ほんの二日前まで五個しかなかったことを考えれば、それだけでも随分な余裕に思える。
もっとも、その余裕が探索へ出る人数まで戻してくれるわけではなかった。
◇ ◇ ◇
十二人で出たその日の探索は、大きな問題もなく終わった。
新しい階層へ続く道を一本確認し、魔物との戦闘も数度あったものの、怪我らしい怪我をした者はいない。
胸を中心に身体の変化は進み続けているが、それに伴って力も魔力も上がっている。人数こそ以前より減ったものの、一人一人の戦闘能力だけを見れば、むしろ前より高くなっていた。
だから、十二人でも進めてしまう。
その事実が、蛍には少し不気味だった。
十二人でも進めるし、十三人でも進めた。その前は十六人、さらに遡れば十九人で探索していた時期もある。
人数が減るたびに厳しくはなっているはずなのに、それでも身体の強化が不足分を埋め、結局は奥へ進めてしまう。
なら、いったいどこまで減っても進めるのだろう。その答えには、翌朝になるとまた一つ近づいた。
「今日は……残る」
探索へ向かう者を確認している最中、一人が手を上げなかった。
「具合悪い?」
香奈恵が尋ねる。
「ううん。そこまでじゃないんだけど」
彼女は胸元へ手を置いた。すでに白い液体が出始めている一人で、朝から何度も重そうに支え直している。
「昨日帰ってきてから、ずっと重くて。防具着ければ楽になるのは分かってるけど……そこまでして行かなくてもいいかなって」
以前なら、その言葉に誰かが「一日休んだら」と気軽に返していたかもしれない。けれど今は、誰も簡単には口を挟めなかった。昨日まで十三人だった探索組が十二人になった理由を、全員がその目で見ている。
「分かった」
香奈恵も引き留めなかった。
「今日は休んで」
「うん」
そこで話は終わるはずだった。
しかし、その隣にいたもう一人も、少し迷った末に上げかけていた手を下ろした。
「私も残る」
「あなたも?」
「一人にするの心配だし」
そう言われた女性が申し訳なさそうな顔をする。
「大丈夫だよ?」
「いいの。私も今日はちょっと疲れてるし」
それ以上、香奈恵は何も言わなかった。
その日の探索へ出たのは十人だった。
二人とも「もう行かない」とは言っていない。ただ、今日は残る。それだけのはずだった。
けれど蛍は、迷宮へ続く扉をくぐる直前に一度だけ振り返った。
二人はもう待機組の輪の中へ入り、近くにいた者たちと話している。その姿を見ていると、本当に明日になればこちらへ戻ってくるのか、蛍には分からなかった。
◇ ◇ ◇
その日、青い果実はさらに四個出た。
「……四個目」
三度目の戦闘を終えたあと、琴音が地面から四個目の青い果実を拾い上げた。
昨日は三個。それだけでも十分おかしいと思っていたのに、今日はさらに多い。最初の頃なら喜んでいたはずの青い果実を前にしても、もう誰も歓声を上げなかった。
琴音がそれを収納へ加えると、在庫は十三個になった。
「さすがにおかしくない?」
葵が言う。
「昨日からだけで七個だよ?」
「今まで何だったのよ」
麗華が吐き捨てる。
「本当に必要になってから全然出なかったくせに」
苛立っている理由は、果実が出たことそのものではない。むしろ助かっているからこそ、これほど都合よく状況が変わったことが余計に気味悪く感じられるのだろう。
香奈恵も収納した果実をしばらく見つめていたが、やがて小さく息を吐いた。
「……一度、使いましょうか」
麗華が顔を上げる。
「私たち?」
「私と麗華と琴音。三人とも、今のままでは教室に戻ってからの負担が大きすぎる」
「でも」
「十三個あるわ」
香奈恵が静かに続ける。
「三個使っても十個残る。それに、この二日間の出方を見るなら……少なくとも、前よりは余裕がある」
麗華はすぐには答えなかった。
青い果実一個で、およそ五センチ。
以前なら五センチ減るだけでも十分に大きな変化だった。それが今では、香奈恵や麗華ほど大きくなってしまうと、数字だけを見れば小さな差に思えてしまう。
けれど、胸に掛かる実際の重さは確実に減る。
「……使う」
最初に答えたのは麗華だった。
「一個だけ」
念を押すように付け加える。
「全部使えばもっと減らせるけど、今ここで使い切って、あとで必要になった時にない方が困るもの」
「同感」
琴音も頷いた。
「帰れることになった時に残ってたら、その時使えるかもしれないし」
琴音のその言葉に、蛍は少しだけ胸を突かれた。
考えてみれば当然だった。青い果実は胸を小さくできるのだから、今すぐ必要でもない分まで使い切る理由はない。いつか本当に最深部へ辿り着き、帰れるようになった時に残っていれば、その分だけでも元の身体へ近づけるかもしれない。
そんな希望を残しておく意味は、今の自分たちにとって決して小さくなかった。
結局、その日は香奈恵、麗華、琴音の三人だけが一個ずつ使うことになった。教室へ戻ってから果実を口にすると、変化はすぐに現れた。
「……はぁ」
麗華が、久しぶりに心から安堵したような息を吐く。両腕で支えていた胸をゆっくり持ち上げ、その重さを確かめるように身体を起こした。
「全然違う」
「五センチでも?」
葵が聞く。
「当たり前でしょ。どれだけ重いと思ってるのよ」
口調こそいつもの麗華だったが、その顔には明らかな余裕が戻っている。
香奈恵も似たようなものだった。立ち上がる時にはまだ胸を支える必要があるものの、昨日までのように、一度姿勢を整えなければ歩き出せないほどではない。
「これなら、かなり楽ね」
「でも、張るのは残ってるでしょ?」
蛍が尋ねる。
「ええ」
香奈恵は胸元へ手を添えた。
「そこは昨日の子と同じ。軽くはなったけど、中の感覚までなくなったわけじゃない」
琴音も、自分の身体を確かめながら頷いた。
「それでも、重さが減るだけでかなり違うよ」
青い果実は、この変化そのものを止められない。
それでも、役に立たないわけではなかった。少なくとも今の自分たちにとっては、探索を続けるための負担を確実に減らしてくれる。そのことが分かっただけでも大きかった。
◇ ◇ ◇
一方で、教室へ残る者たちの身体は、青い果実を使った三人とは正反対の方向へ変わり続けていた。
「……ねえ」
三日目の朝、麗華が少し離れた場所で話している待機組へ視線を向けた。
「何?」
蛍が答えると、麗華はしばらくその一角を眺めたまま言った。
「最近あの子たち、明らかに大きくなってない?」
蛍もそちらへ目を向ける。言われるまでもなく、薄々気づいていた。
待機組の多くは、もう上半身に服を着ていない。以前は入浴の前後だけだった者も、今では朝から何も着ずに過ごしている。
理由を尋ねれば、「どうせまた張るから」「着たり脱いだりする方が面倒だから」と返ってくる。それだけでも以前とは大きく違うが、麗華が言っているのは服装のことではなかった。
「……やっぱりそう見えるよね」
琴音も待機組を見ながら呟く。
「普通に毎日二センチずつ増えてるだけじゃ、あそこまで早くならないと思う」
待機組の中には、もはや香奈恵や麗華より明らかに大きな者も珍しくなくなっていた。
しかも、不思議なのは大きさだけではない。
聞いたこともないほどの胸囲になっているというのに、その形は少しも崩れていなかった。重みに潰れて垂れ下がるのではなく、不自然なほど綺麗な丸みを保ったまま、つんと前方へ大きく張り出している。
あれほど巨大なのに、醜いとは思えない。むしろ、どこまで大きくなっても美しく整った形を保ち続けていることの方が、蛍には薄気味悪かった。
毎朝欠かさず行っていた測定も、待機組の間ではいつの間にか曖昧になっている。それでも、たまに思い出したように測ってみれば、
「私、202センチだった」
「え、まだそれくらい? 私、昨日219センチだったよ」
「私は231センチ。……多分。一昨日測った数字だけど」
そんな数字が、ごく普通の会話として出てくるようになっていた。
「また増えてるじゃん」
「そうみたい」
それだけで会話が終わる。少し前まで、百五十を超えたことに三十人全員が息を呑んでいたのが、まるで遠い出来事のようだった。
「そういえば私、昨日ちょっと腕立てしようとしたんだけど」
別の一人が、何でもない話の続きのように口を挟んだ。
「胸が先に床についた」
「ああ、分かる」
「肘ほとんど曲げられないよね」
「もう壁に手ついてやるしかなくない?」
何人かが笑う。
「私は仰向けで寝づらくなった方が困るかな」
「重い?」
「うん。上に乗ってくる感じして息苦しいし。最近ずっと横向き」
まるで肩凝りや寝癖の話でもしているような口調だった。
少し前の自分たちなら、そんな身体になったと知っただけで大騒ぎしていたはずなのに、今の待機組から聞こえてくるのは、どうすれば少し楽に眠れるか、どうすれば日常生活で邪魔にならないかという話ばかりだった。
「自分で楽にしようとするのも、最近ちょっと面倒なんだよね」
一人が巨大な胸を片腕で抱え直しながら言った。
「一応届くんだけど、片方支えながらもう片方に腕回すの大変だし。それに、自分でやってもそんなに出ないし」
「だったら最初から誰かにお願いした方が早いよね」
「うん。ちゃんと楽になるし」
「慣れるよ」
最後の一言だけが、妙に蛍の耳に残った。
「……たぶん、あれのせいよね」
麗華が嫌そうに呟く。
蛍にも、何を指しているのかは分かった。直接受け取っている、あの白い液体。教室の中でも、もう隠そうとはしなくなった行為。
「多分」
琴音が答える。
「同じ子が一日で普通よりずっと増えてることもあるし。あれを飲んでる子の方が、増え方が大きい気がする」
「最悪」
麗華が露骨に顔をしかめた。
「自分たちで増やし合ってるってこと?」
「まだ確定じゃないけど」
「ほぼそうでしょうが」
麗華の言葉に、琴音も否定はしなかった。
少し離れた待機組では、そんなこちらの会話とは関係なく、何人かが笑いながら話している。聞こえていないのか、それとも聞こえていても気にするほどのことではなくなったのか、蛍には分からなかった。
ただ、以前のように数字が増えるたび顔を曇らせる姿は、もうほとんど見なくなっていた。
張ってくれば誰かに頼り、楽になれば今度は相手を手伝う。そうして白い液体が待機組の間を巡るたび、今度は受け取った側の胸までさらに大きくなり、やがてその子もまた誰かに助けを求める。
それを何度も繰り返しているうちに、誰が最初だったのかさえ分からなくなっていた。少なくとも蛍には、もう一人一人が勝手に大きくなっているだけとは思えなかった。
「……私たちは使って減らしてるのにね」
葵が小さく言う。
同じ教室にいるのに、自分たちは少しでも小さくしようと青い果実を使い、待機組は互いに助け合うことを繰り返した結果、さらに大きくなっている。
しかも当人たちは、その違いを以前ほど問題だとは感じていない。
その奇妙な対比に、誰も返事をすることができなかった。
◇ ◇ ◇
探索へ出る人数も、それと並行するように減り続けた。
三日目。
十人のうち一人が、途中で魔物の攻撃を受けかけた。
防具があり、身体能力も以前より上がっている。結果だけを見れば、傷一つ負っていない。それでも、振り下ろされた爪が顔のすぐ横を掠めた瞬間から、彼女の動きは目に見えて硬くなった。
教室へ戻ったあとも本人は何度も「大丈夫」と言っていたが、翌朝、探索へ行ける者を尋ねられても手は上がらなかった。
「……今日は無理」
それだけだった。
誰も責めなかった。そしてもう一人も、その朝になって探索をやめた。
「私も残る」
「具合悪い?」
「そうじゃないけど」
少し迷ったあと、彼女は待機組へ目を向けた。
「昨日ずっと考えてたんだけど……別に、毎日行かなくてもいいかなって」
「明日は?」
香奈恵が尋ねる。
「分かんない」
彼女は少し困ったように笑った。
「行きたくなったら行く」
その日、探索へ出たのは八人だった。
そして青い果実は、また三個出て、帰ってきた時には在庫が十三個まで戻っており、その夜、蛍と葵も一個ずつ使うことにした。
理由は単純だった。
朝から続いていた熱が、もう無視できないほどはっきりした張りへ変わり始めていたからだ。
「……あ」
果実の効果が現れ、胸の重さが少しずつ軽くなっていく。蛍は思わず両手で胸を持ち上げ、その感触を確かめた。
「どう?」
葵が尋ねる。
「楽」
「やっぱり?」
「うん。かなり」
葵もすでに一個食べ終えている。
お互い、見た目だけなら十分すぎるほど大きいままだった。それでも身体を起こした時に感じる前への引っ張られ方も、胸を支える腕に掛かる重さも、はっきり違っている。
「五センチって、今でも結構大きいんだね」
「数字だけ見てると感覚おかしくなるけどね」
蛍は苦笑する。
百五十を超え、百六十へ近づき、それ以上になってくると、五センチ程度なら小さな差のように感じてしまう。けれど実際に減ってみれば、身体は明らかに楽だった。
「これなら、まだ行けそう」
葵がそう言うと、蛍も素直に頷いた。
その時には、青い果実がなぜ急に増え始めたのかなど、深く考えていなかった。身体が軽くなったのなら、もう少し先まで進める。
今は、それだけで十分だった。
◇ ◇ ◇
四日目には、探索組は六人になっていた。
前日に八人で出たうちの二人が、朝になって手を上げなかったからだ。
一人は白い液体が出始め、帰還後の重さに耐えきれず、とうとう待機組へ助けを求めた。もう一人は、その女性と以前から特に仲が良かった。
「私も今日は残る」
そう言って、その隣へ座る。
「明日は?」
香奈恵が聞く。
少し迷ったあと、彼女は苦笑した。
「……多分、残る」
もう「明日は行く」とさえ言わなかった。
六人で向かった迷宮でも、青い果実の異常な出やすさは変わらなかった。
最初の一個が落ちても、もう誰も驚かない。二個目を拾った時には葵が小さく息を吐いただけで、三個目に至っては琴音が何も言わず収納へ放り込んだ。そして帰還する直前、また魔物の足元に見慣れた青色が転がった。
「……また」
麗華が、四個目の果実を露骨に睨みつける。数日前までなら見つけるだけで安心したはずのものを、今では素直に喜ぶ気にもなれなかった。
「……十五個」
琴音が現在の在庫を確認する。
「昨日、蛍と葵が一個ずつ使って十一個になってたから、今日の四個で十五」
「十五……」
葵が、数字を確かめるように呟く。
ほんの数日前まで五個しかなかった。それが、蛍たち五人が一個ずつ使ったにもかかわらず、今では十五個も残っている。
「本当に何なのよ」
麗華が吐き捨てる。
「必要になった途端、こんなに出る?」
「必要になったから出てる、とまでは言えないけど」
琴音も手にした果実を見る。
「偶然って言うには、ちょっと多いよね」
「でも、助かってる」
葵がぽつりと言った。
それもまた事実だった。
香奈恵も麗華も琴音も、一個使ったことで以前より明らかに動きやすくなった。蛍と葵も同じで、胸の中で作られ続けるものまでは止まらず、時間が経てばまた重くなってくるとはいえ、五センチ分の身体そのものが減った効果は大きい。
青い果実がなければ、五人のうち誰かがすでに探索を休んでいた可能性さえあった。
「今は使いすぎないようにしましょう」
香奈恵が言う。
「十五個あっても、いつまた出なくなるか分からない。これ以上つらくなったら使う。でも、残せる分は残しておく」
「帰る時のために?」
蛍が聞く。
「それもあるわ」
香奈恵は迷わず頷いた。
「もし本当に帰れるなら、その時に少しでも戻せる方がいいでしょう?」
「……そうね」
麗華が即座に同意した。
その返事だけには、少しの迷いもなかった。
◇ ◇ ◇
六人で教室へ戻った翌朝。
最後の一人が、手を上げなかった。
「……今日は残る」
香奈恵が彼女を見る。
「身体?」
「それも少しあるけど」
彼女は胸元を支えながら、困ったように笑った。
「昨日、帰ってきた時に思ったんだ」
「何を?」
「もう十分かなって」
その言葉に、蛍は一瞬何も言えなかった。
「十分?」
「結構頑張ったじゃん、私たち」
彼女はそう言って、少しだけ笑う。
「何回も怪我して、怖い思いもして。それでもずっと奥まで行って」
「でも、最深部はまだ――」
葵が言いかける。
「うん」
彼女は否定しなかった。
「だから、行く人を止めるつもりはないよ」
そう言って、待機組の方へ視線を向ける。
二十四人になった彼女たちは、朝から思い思いに過ごしていた。
上半身に服を着ている者の方が、もう少ない。巨大になった胸を互いに支えるように寄り添っている者もいれば、昨日の夜から一緒にいたのか、隣同士で眠そうに話している者もいる。
朝から何でもない話をしながら笑っている者たちもいて、そこには探索へ出る直前のような緊張は欠片もなかった。
「でも私は、もういいかな」
彼女は胸を支えていた腕を少し動かしながら、穏やかに続けた。
「これも重いし。毎日命懸けで歩くより、ここにいたい」
「……分かった」
香奈恵は、それ以上何も言わなかった。
そして改めて探索へ出る者を数えてみれば、手を上げたままなのは蛍、葵、香奈恵、麗華、琴音だけだった。
五人。
迷宮へ来た時には三十人いて、一番多い頃には、そのうち二十五人が探索へ出ていた。それが今では、教室から立ち上がろうとしている者を数えるのに、片手で足りてしまう。
「……五人?」
葵が改めて周囲を見回す。
「本当に?」
「何度数えても五人よ」
麗華が答えた。口調こそいつも通りだったが、その表情にも僅かな緊張が浮かんでいる。
「どうする?」
琴音が聞く。
「五人でも行く?」
教室が静かになり、待機組も自然とこちらへ視線を向けた。
一人が心配そうに尋ねる。
「今日も行くの?」
「うん」
蛍が答える。
「五人しかいないのに?」
「五人いるから」
自分でも少し変な答えだとは思った。けれど、他に言いようがなかった。
「無理しなくていいんだよ?」
別の少女が言う。
「ここにいても大丈夫だし」
「帰ってきたら、また楽にしてあげるから」
その言葉に、麗華の眉がぴくりと動いた。
「……その『帰ってきたら』って言い方やめて」
「え?」
「何でもない」
相手に悪意がないことくらい、麗華にも分かっているのだろう。それ以上は何も言わなかった。
「蛍は行くの?」
葵が改めて尋ねる。
「行く」
そこに迷いはなかった。
「ここまで来たんだから、もう少し進みたい」
「じゃあ私も」
葵が笑う。
「蛍だけ行かせるわけにいかないし」
「私は最深部が本当にあるのか確認したい」
琴音も頷いた。
「ここまで来て、実はあと一階でしたとかだったら絶対後悔する」
「私は残る気ないわよ」
麗華も続く。
青い果実を使ったことで胸の負担は多少軽くなっている。それでも待機組の胸と比べれば、まるで自分だけはこれ以上大きくなることを拒んでいるようにさえ見えた。
「こんなところで終わるために、ここまで耐えたんじゃないんだから」
最後に、全員の視線が香奈恵へ向いた。香奈恵はすぐには答えず、教室に残る二十五人をゆっくり見渡した。以前なら、ここで何とか探索へ戻るよう説得していたかもしれない。
けれど今、香奈恵の口からその言葉は出てこなかった。
誰かに押さえつけられている者はいない。怪我で動けないわけでもなく、二十五人は自分たちでここへ残ることを選び、互いに助け合いながら穏やかに過ごしている。
香奈恵はしばらくそんな仲間たちを見つめたあと、小さく息を吐いた。
「……分かった」
そして、蛍たちの方へ向き直る。
「五人で行きましょう」
葵が小さく息を吐いた。
「ほんとに五人になっちゃったね」
「そうね」
香奈恵は静かに答える。
「だから今まで以上に無理はしない。危ないと思ったらすぐ戻る。青い果実も十五個あるし、必要なら使う」
「了解」
蛍が頷き、立ち上がった。
葵、琴音、麗華、香奈恵も続く。以前なら、誰かが探索へ向かう準備を始めれば、教室中が一気に慌ただしくなった。武器を確かめ、防具を身につけ、今日調べる場所を確認しながら、十人、二十人と扉の前へ集まっていた。
今は違う。
立ち上がったのは、たった五人だけだった。
「気をつけてね」
「無理しないでね」
「いってらっしゃい」
二十五人から掛けられる声に見送られながら、蛍たちは迷宮へ続く扉へ向かった。
振り返れば、巨大になった胸を互いに預けるようにして、仲間たちが思い思いに過ごしている。上半身に何も着ていない者も、もう珍しくない。
最近では二百センチを超えたという数字さえ普通に聞くようになったというのに、その表情は迷宮を歩き続けていた頃よりずっと穏やかだった。
蛍はしばらくその光景を見つめてから、前へ向き直った。
自分たち五人だって、元の身体とはほど遠い。それでも青い果実を一個ずつ使ったおかげで、数日前より負担は明らかに軽くなっている。
探索へ出る人数は、これまでで最も少ない。なのに皮肉なことに、身体だけを見れば、ここ数日の中では今が一番動きやすかった。
手元には、まだ十五個の青い果実もある。これなら、もう少し進める。そう思えるだけの余裕は戻っていた。
蛍は迷宮へ続く扉へ手を掛ける。
五人になったからといって、突然最深部が現れるわけではない。今日もまた同じような通路を歩き、同じように新しい階段を見つけ、その先にまた何もないのかもしれない。
それでも、ここまで来て確かめずに終わることだけはしたくなかった。
本当に最深部など存在しないのか。
それとも、まだ自分たちがそこへ辿り着いていないだけなのか。
「行こう」
蛍が扉を開くと、葵たち四人もその後へ続いた。
こうして残った五人は、今日も迷宮の奥へ向かって歩き出した。