爛熟の迷宮 ~祝福の果実に身体も心も変えられていく三十人の少女たち~ 作:a-ru
竜の一撃で教室へ送り返されてから、しばらく五人はその場を動けなかった。
身体には傷一つない。火傷もなければ、どこかを折ったような痛みもないというのに、迷宮へ向かった時に身につけていたものだけが、綺麗さっぱり消えている。
蛍には、その光景に覚えがあった。
まだこの迷宮へ来たばかりの頃、強酸を持つスライムに襲われた時もそうだった。全身を焼かれ、死ぬ寸前まで追い込まれた身体は教室へ戻された時には完全に治っていたのに、酸で溶かされた衣服までは元に戻らなかった。
今回も、同じなのだろう。
あの白いブレスに呑み込まれた瞬間、自分たちの身体と一緒に、武器も、防具も、衣服も焼き払われた。そして死に至るより早く肉体だけが回収され、何事もなかったかのように修復された。
そう考えれば、今の状況にも説明はついた。
説明がついてしまった。
「……とりあえず、服着ようよ」
最初にそう言ったのは葵だった。
両腕で身体を隠しながら、いつもの明るさが抜け落ちた声で教室の端を指す。
「そうね……」
香奈恵もようやく我に返ったように頷いた。
大浴場の脱衣所や教室の片隅には、迷宮が最初から用意していた部屋着がまだ残っている。身体がここまで大きくなった今では、以前と同じように着ることなどできないものも多かったが、伸縮性のある大きめのシャツやハーフパンツなら何とか使えた。
「服なら、まだそっちにあるよ」
待機組の一人が、何でもないことのように教えてくれる。
「ありがとう……」
蛍は答え、葵たちと一緒に着替えへ向かった。
その途中でも、二十五人から奇異な目を向けられることはなかった。
考えてみれば当然なのかもしれない。今では待機組の多くが、朝から上半身に何も着ないまま過ごしている。突然五人が何も身につけずに現れたところで、驚かれたのは最初だけだった。
むしろ気にしているのは、蛍たちの方だ。
「……なんか、私たちだけ慌ててるの変な感じする」
大きめのシャツへ腕を通しながら、葵がぼそりと言った。
「変じゃないわよ」
すぐ横で麗華が答える。
「服を着るのが普通でしょうが」
「いや、それはそうなんだけどさ」
葵は待機組の方をちらりと見る。
「向こう、全然気にしてないし」
「向こうが慣れすぎなのよ」
麗華は即答したものの、それ以上は何も言わなかった。
蛍もシャツを着込み、ハーフパンツを穿く。靴も教室へ残してあったものを履けば、とりあえず普段通りの格好には戻った。
けれど、それだけだった。
腰へ手を伸ばしても、そこに剣はない。葵の盾もない。香奈恵の装備も、琴音の弓も、麗華が使っていた魔導具も失われたままだ。
「……本当に全部なくなったんだね」
葵が静かに言う。
「ええ」
香奈恵が答えた。
幸い、教室へ置いていった荷物までは消えていない。青い果実も十五個、そのまま残されている。
それでも、探索に必要だったものについては、ほとんど一からやり直しだった。ここまで何日もかけて集め、交換し、何度も命を預けてきた装備が、竜の一撃だけで消えた。
「……どうする?」
琴音が尋ねた。けれど、その問いが誰に向けられたものなのか、蛍には分からなかった。答えを求めているというより、五人全員が胸の内に抱えていた迷いを、琴音が代わりに口にしただけなのかもしれない。
もう一度、あの竜へ挑むのか。そして挑むとしても、武器も防具も失った今の自分たちに、いったい何ができるのか。
「正直さ」
葵が床へ座り込んだ。
「私、あれに勝てる気しない」
誰も否定しなかった。
「だって、何もできなかったじゃん。近づく前に終わったし」
「……そうね」
麗華が珍しく素直に同意する。
「今までの装備でも、攻撃を一発受けただけで全部なくなった。教室に残ってる適当な武器を持って行ったところで、結果は同じでしょうね」
「むしろもっと悪いと思う」
琴音も力なく付け加え、それきり会話は途切れた。
少し離れた場所では、待機組の二十五人がこちらを気遣うように様子を窺っている。その姿を見ていると、このまま探索をやめるという選択肢が、以前よりもずっと現実的なものに思えてきた。
もう誰かに責められることもないだろう。二十五人がそうしたように、ここで赤い果実を食べながら暮らしていけば、魔物に襲われることも、怪我をすることもない。身体が苦しくなれば助けてくれる相手もいて、少なくとも命の危険に怯え続ける必要はなくなる。
それでも本当に、ここで終わっていいのだろうか。
そんなことを考えた時、蛍の頭に、巨大な扉の前で見たものが浮かんだ。
「……魔法陣」
同じことを考えたのか、麗華が先に口にした。
全員が顔を上げる。
「あったよね」
葵が呟く。
「扉の前に」
『対価 胸囲+30cm』
嫌でも、あの文字が思い出される。
「使うしかないのかな」
葵が自分の胸元へ目を落とした。
「少なくとも、今までと同じ装備で再挑戦するのは無理だと思う」
琴音が答える。
「そもそも、その装備もなくなったし」
「……分かってるわよ」
麗華が苛立たしそうに言い、教室に残してある青い果実へ視線を向けた。
「十五個」
「全部使えば七十五センチ分」
琴音はすぐに計算した。
「でも交換一回で三十センチ。六個使って、やっと一回分」
「五人分の武器だけでも五回」
香奈恵が続ける。
「防具まで揃えるなら十回。葵の盾も必要だと考えれば、それ以上になるわね」
「……全然足りないじゃん」
「最初から全部戻せる量じゃない」
教室に重い空気が落ちる。
そんな中で、琴音がふと待機組の方へ目を向けた。
「……待って」
「何?」
「交換陣って、乗った人がその装備を使わないと駄目なのかな」
葵が首を傾げる。
「どういうこと?」
「装備だけ持ち出せるなら、誰が交換しても同じなんじゃないかってこと」
琴音は少し言いにくそうに続けた。
「例えば……待機組の誰かに乗ってもらうとか」
一瞬、誰も答えなかった。けれど、琴音の言葉の意味は、蛍にもすぐに分かった。
教室には二十五人の待機組がいる。その多くは自分たちよりもずっと大きくなっていて、つい先ほども、胸囲が三十センチ増えるという対価を聞いて「それくらいなら」とあっさり口にしていた。
「……できるなら」
麗華がぽつりと呟いた。
「それが一番合理的じゃない?」
「麗華」
「分かってるわよ」
香奈恵が何か言うより先に、麗華が返す。
「嫌がってる相手に無理やりやらせるって話じゃないでしょ。本人がいいって言うなら――」
「駄目よ」
香奈恵がはっきりと言った。
麗華が眉を寄せる。
「何でよ」
「進みたいのは私たちだから」
「だからって」
「そのための対価を、もう探索しないと決めた子たちにだけ払わせるの?」
麗華が口を閉じる。
「でも、三十くらいならいいよ?」
すると、少し離れたところから気の抜けたような声が飛んできた。
視線を向ければ、待機組の一人が大きくなった胸を抱えながら、何でもないことのように笑っている。
「必要なら私、乗ってもいいけど」
「私もいいよ」
「装備いるんでしょ?」
「何回か乗れば足りる?」
次々と声が上がる。
誰も嫌そうな顔をしていなかった。それどころか、自分たちもようやく探索組の役に立てるとでも思っているように見える。
「ほら」
麗華が香奈恵を見る。
「本人たちもこう言ってるじゃない」
「それでもよ」
香奈恵は譲らなかった。
「私たちが帰りたいから先へ進む。それなら、そのための対価まで誰かに押しつけるのは違うと思う」
「別に押しつけられてるなんて思ってないよ?」
待機組の一人が不思議そうに首を傾げる。
「いつも蛍たちばっかり危ないことしてるんだし、このくらい手伝わせてよ」
その言葉に、香奈恵もすぐには返せなかった。
蛍にも、どちらが正しいのかは分からない。待機組の子たちは本当に嫌がっているようには見えないし、今の彼女たちにとって三十センチ大きくなることは、以前ほど重大なことではなくなっているのかもしれない。
それでも、自分たちが先へ進むための対価を、最初から誰かに任せてしまうことには、どうしても引っかかるものがあった。
「……私も、香奈恵に賛成」
蛍がそう口にすると、自然と皆の視線が集まった。
「進みたいって決めたのは私たちだから。少なくとも、最初から全部を誰かに払ってもらうのは違うと思う」
葵は少しだけ迷うように待機組へ目を向けたものの、やがて小さく頷いた。
「うん。私も、その方がいいかな」
琴音も異論はないらしく、黙ったまま頷く。残った麗華だけがしばらく何も言わずにいたが、やがて諦めたように大きく息を吐いた。
「……分かったわよ」
そう言って顔を背ける。
「自分で払えばいいんでしょう」
「麗華、別に――」
「ただし」
蛍の言葉を遮って、麗華が続けた。
「平等に五人で分けるのはなし」
「え?」
「あんたと葵は前衛でしょうが」
麗華が二人を見る。
「二人まで重くなって動けなくなったら、誰があの化け物のところまで近づくのよ」
「でも、それじゃ」
「これは罰ゲームを平等に分ける話じゃないわ」
香奈恵も静かに言った。
「勝つための役割分担よ」
「私もそう思う」
琴音が頷く。
「私は後ろから撃つだけだし、香奈恵も麗華も基本は後衛。装備の補助があるなら、多少大きくなっても二人より影響は少ないはず」
「多少ってレベルじゃないでしょ……」
葵が引きつった声を漏らす。
「だから、一気にはやらない」
琴音が答えた。
「一回交換する。その状態で迷宮を少し歩いてみる。走れるか、魔法が使えるか、ちゃんと戦えるか確認して、それから次を考える」
そのやり方なら、蛍にも反対する理由はなかった。いきなり何度も交換するのではなく、まずは一度だけ試して、その身体で本当に迷宮を動けるのか確かめる。駄目なら、そこで止めて別の方法を考えればいい。
「……分かった」
蛍は慎重に頷いた。
◇
五人は再び転移陣を使い、巨大な扉の前へ戻った。
最初に交換陣へ乗ったのは香奈恵だった。
「私から試すわ」
「本当にいいの?」
「言い出した以上、誰かがやらないと始まらないでしょう」
そう答えて、香奈恵は魔法陣の中央へ進む。まず選んだのは、自分が使うための防具だった。
足元に刻まれた文字が淡く輝き、『対価 胸囲+30cm』という表示が浮かび上がる。その直後、魔法陣から立ち上った光が香奈恵の全身を包み込んだ。
「……っ」
思わず胸元へ手を添える。
変化そのものは長く続かなかった。けれど光が収まった時には、ただでさえ巨大だった胸がさらに大きく膨らみ、身体の前方へ重々しく張り出している。
「どう?」
蛍が尋ねると、香奈恵は少し身体を揺らして感触を確かめた。
「……重いわね。でも、防具を着ければ」
交換したばかりの防具へ腕を通すと、装備は香奈恵の身体に合わせて形を変え、大きくなった胸まで無理なく包み込んでいく。
そのまま肩を回し、腰を捻り、何度か足を動かしてみる。
「……大丈夫そう」
「走れそう?」
「試してみるわ」
五人で近くの通路まで移動し、香奈恵は短い距離を軽く走ってみた。
胸囲はさらに三十センチ増えている。それなのに、新しい防具の補助が働いているためか、動きが目に見えて鈍ることはなかった。
「補助、かなり強いね」
琴音が観察するように言う。
「じゃあ次、私」
麗華が交換陣へ乗った。
「本当にいいの?」
蛍が思わず尋ねる。
「何回聞くつもり?」
「でも」
「嫌に決まってるでしょ」
麗華は即答した。
「三十センチよ? 嫌じゃないわけないじゃない」
それでも魔法陣から降りようとはしなかった。
「でも、ここでやめたら帰れるかどうかすら分からないままでしょう」
足元の文字を見る。
「最深部まで行けば願いが叶うって書いてあったんだから、本当に何でも願えるなら、身体を元に戻してそのまま帰るくらいできるかもしれないじゃない」
「できるかどうかは分からないよ」
「分かってるわよ」
麗華は少しだけ笑った。
それが希望から出た笑みなのか、自分自身を納得させるためのものなのか、蛍には分からなかった。
「だから確かめに行くんでしょう」
魔法陣が光り、麗華の胸もさらに三十センチ分大きくなる。続いて琴音も交換を済ませ、三人が一度ずつ対価を払ったところで、今度は実際にその身体と装備で戦えるか確かめることにした。
扉へ続くこの通路では、これまで魔物の姿を見かけていない。そこで五人は少し引き返し、以前なら魔物と遭遇していた区画まで戻って試し打ちをすることにした。
まず確かめたのは、身体の動きだった。
三十センチずつ増えた香奈恵たちは、見た目だけなら明らかに以前より巨大になっている。それでも新しい防具を身につけている間は、歩くだけでなく軽く走ることもでき、方向転換にも大きな支障はない。
それだけでも十分な成果だったが、交換した装備の性能は、五人の予想をさらに上回っていた。
麗華が試しに魔法を放てば、これまでなら意識を集中させてから発動していた一撃が、ほとんど間を置かずに飛んでいく。威力も明らかに増しており、着弾した石壁が大きく抉れたのを見て、本人が一番驚いた顔をしていた。
琴音の装備も同じだった。しばらく進んだ先でようやく遭遇した魔物へ矢を放つと、以前なら何度か攻撃を重ねて倒していた相手が、ほとんど抵抗する間もなく一撃で消えていく。
「……強すぎない?」
葵が呆然と呟いた。
「うん。今までの装備と、全然違う」
琴音も手にした武器を見つめながら答える。
三十センチという対価は、やはりただ大きくなるだけのものではなかった。それに見合うだけの力が、確かに与えられている。
「三十センチ取るだけのことはあるってことね」
麗華は複雑そうな顔で、自分の装備へ視線を落とした。
胸は確かに大きくなった。けれど、それでも動ける。それどころか、交換した装備を身につけた今の方が、以前よりはるかに強い。
その事実を確認してしまえば、次の交換をためらう理由も少しずつ薄れていった。
一度交換しては、少し手前の区画まで戻って動きを確かめる。問題がなければ、さらにもう一度。そうして慎重に繰り返しているはずなのに、香奈恵たち三人の胸は目に見えて大きくなっていった。
教室で二百センチを超えた待機組を見た時ですら、あれほど異常だと思っていた。それなのに、気づけば三人はその大きさを追い越し、二百五十センチを超えてなお、まだ戦えることを確認している。
交換するたびに短い距離を走り、身体を捻り、魔法や攻撃を試す。そのたびに返ってくる答えは、同じだった。
「まだいける」
「私も」
「問題ない」
胸が大きくなるほど、本来なら増していくはずの負担も、新しい防具を身につけている間はほとんど感じなかった。多少の動きづらさこそ出てきているものの、少なくとも戦闘に支障が出るほどではない。
そうして三人がそれぞれ何度も対価を払い、必要な装備を揃えていった頃には、その胸囲はとうとう三百センチ前後にまで達していた。
蛍は改めて、少し離れたところに並ぶ三人を見る。
大きい、という言葉だけではもう足りなかった。
前方へ大きく張り出した胸は、それだけで上半身の印象をほとんど塗り替えてしまっている。両腕を自然に下ろせば左右へ押し広げられ、正面から見れば腰や腹部が胸の陰へ隠れてしまうほどだった。
それでも形そのものが崩れているわけではない。聞いたこともないような大きさになってなお、不自然なほど整った丸みを保っている。その巨大な重量を、防具だけが当然のように受け止めていた。
教室で二百センチを超えた待機組を初めて見た時には、それだけでも十分に異常だと思った。今、その中でも特に大きな子たちより、目の前の三人の方がさらに大きい。
なのに迷宮の中では歩けるし、走れる。魔法を撃つことも、攻撃を避けることもできる。
「……ここまで来ると、感覚おかしくなるね」
琴音が自分の身体を見下ろしながら、困ったように笑った。
「三百近いのに、普通に歩ける」
「普通ではないでしょう」
麗華が即座に返す。
「装備が支えてるだけよ」
「それはそうなんだけど……」
実際、教室へ戻って防具を外せば話はまるで違うだろう。それでも、今必要なのは迷宮の中で戦えるかどうかだった。
その意味では、答えはもう出ている。
三人はまだ戦える。
そして必要としていた装備も、ほとんど揃っていた。香奈恵たち自身が使うものだけでなく、蛍の剣や葵の武器と盾も、三人が対価を引き受けて交換している。
「私たちも一回くらい乗った方がよくない?」
葵が何度目か分からない提案をした。
「駄目」
今度は麗華まで即答した。
「あんたたちはそのまま」
「でもさ」
「走って」
「え?」
「今ここで全力で走ってみなさい」
言われるまま、蛍と葵は少し距離を取ると、そのまま通路を駆けた。香奈恵たち三人も後を追う。
三人も決して遅くはない。今の装備による補助があるおかげで、以前の自分たちなら到底出せなかったような速度で動けている。
それでも、前を走る蛍と葵との差ははっきりしていた。
踏み込みの鋭さも、加速してからの伸びも、方向転換の軽さも違う。竜の攻撃を掻い潜って懐へ飛び込む役目を考えれば、その差をわざわざ失う理由はなかった。
「ほら」
麗華が息を整えながら言う。
「あの竜相手に、その差を捨てる意味ある?」
「……ないね」
葵もようやく諦めた。
その時、琴音が交換陣の一つへ目を向けた。
「……あと一個」
「何?」
「これ、かなり良さそう」
そこに置かれていたのは、魔力をさらに増幅するらしい小さな装飾品だった。
今の装備だけでも、五人の戦力は以前とは比べものにならないほど上がっている。少し手前の区画で試した限りでは、これまで苦戦していた魔物でさえ簡単に倒せるほどだった。
それでも、相手は一度目の挑戦で五人に何もさせず、たった一度の攻撃で全員を教室へ送り返した竜だ。
十分かどうかを判断できるほど、あの竜とはまだまともに戦えてすらいない。
「もう十分じゃない?」
蛍が言う。
「そうかもしれない」
琴音は答えた。
「でも……一回だけ試したい」
「琴音?」
「私たち、三百近くまで来てもまだ動けてるでしょ。だったらもう一回増えても、本当に大丈夫なのか確認しておきたい」
その言葉に、誰もすぐには賛成できなかった。
けれど、一度目の挑戦で準備不足を思い知らされたばかりだ。中途半端に済ませて、あとになって「あれも取っておけばよかった」と後悔することだけは避けたかった。
「一回だけよ」
香奈恵が言った。
「少しでもおかしかったら、そこで終わり」
「うん」
琴音が交換陣の中央へ立つと、ほどなく足元から光が立ち上り、その身体を包み込んだ。
さらに三十センチ。
何度も経験した変化が収まった時には、琴音の胸囲は三百三十センチ近くに達していた。
「……どう?」
葵に尋ねられ、琴音はすぐには答えず、まず交換陣の外へ足を踏み出した。
「……っ!」
途端に、身体が大きく前へ引かれる。
「琴音!」
「大丈夫。転んではないから……」
咄嗟に両腕で胸を支えて踏みとどまったものの、二歩目は先ほどまでより明らかに慎重だった。
「……重い」
「さっきまでと違う?」
「全然違う。急に重くなった感じがする」
防具そのものは正常に働いているように見える。それでも、三百センチ前後までなら身体全体を支えてくれていた補助が、今は明らかに足りていなかった。
歩くだけなら何とかなる。けれど速度を上げようとすれば、前方へ大きく張り出した胸の重量に身体が引かれ、足運びが追いつかない。試しに方向を変えようとした時にも勢いを殺しきれず、琴音は何歩かよろめいてからようやく身体を止めた。
「……これじゃ、戦うのは無理かも」
琴音は息を整えながら、自分の身体を見下ろした。
「じゃあ、青い果実を使おう」
蛍が言う。
「三十センチ増えて駄目になったなら、その分だけ戻せばいい」
「六個か……」
葵が小さく顔をしかめた。
教室に残してある青い果実は十五個。六個使えば、一気に九個まで減ることになる。
それでも、このままでは琴音を戦力として数えられない。
「取りに戻ろうか」
琴音がそう言いかけたところで、香奈恵が止めた。
「待って。琴音はここにいた方がいいわ」
「でも」
「今でもまともに走れないでしょう。教室に戻ったら、防具の補助もなくなるのよ」
その言葉に、琴音は黙り込んだ。
迷宮の中にいる今でさえ、胸の重さに身体を引かれている。ここでは防具が全身を支えてくれているが、教室ではその補助が働かない。
「……確かに、戻ったら動けるか分からないかも」
「私たちも同じね」
麗華が自分の胸元へ視線を落とした。
琴音ほどではないとはいえ、香奈恵も麗華もすでに三百センチ前後まで大きくなっている。防具の補助がなくなる教室へ今戻って、まともに動ける保証はなかった。
「蛍か葵、どっちかお願いできる?」
香奈恵に言われ、葵がすぐに手を上げる。
「じゃあ私行ってくる。六個でいいんだよね?」
「うん。お願い」
葵は大きな転移陣へ向かい、その中央へ足を踏み入れた。
ほどなく白い光が身体を包み、一瞬で姿が消える。
それからさほど待たず、再び魔法陣が輝いた。
「取ってきた!」
戻ってきた葵の手には、青い果実が六個抱えられていた。
「ありがとう」
琴音は一つを受け取り、そのまま口にした。
一個、二個と食べるたびに、前方へ張り出していた胸が少しずつ縮んでいった。
六個目を食べ終え、変化が完全に収まる頃には、先ほど増えた三十センチ分がほぼ消えている。
「……どう?」
蛍が尋ねる。
琴音は慎重に一歩踏み出し、続けて何度か身体を動かした。今度は胸の重さに引かれてよろめくこともない。
短く走ってから方向を変えてみても、足運びはきちんとついてくる。
「戻った」
琴音が安堵したように息を吐く。
「これなら戦える」
「じゃあ、やっぱりこの辺りが限界なのね」
香奈恵が三人の身体を見比べながら言った。
三百センチ前後なら、防具の補助を受けて戦える。けれど、それを大きく超えれば途端に身体の重さを支えきれなくなる。
少なくとも五人には、そう見えた。
これ以上、交換陣を使うのは危険だった。残った青い果実も九個しかない。
五人はそれ以上の交換を諦め、今ある装備で竜へ挑むことにした。
結果として、必要なものはすべて揃っている。
蛍の剣、葵の武器と盾、五人分の防具。そして香奈恵、琴音、麗華が使う武器や魔導具も、これまでとは比べものにならないほど強力なものへ変わっていた。琴音が最後に交換した装飾品も、青い果実で身体を戻したあとまで手元に残っている。
その性能については、ここまで何度も確認してきた。以前なら何度も攻撃しなければ倒せなかった魔物を一撃で仕留められるほど、五人の戦力は明らかに上がっている。
あとは、その力があの竜にどこまで通用するのか。
最後に互いの装備を確かめ、五人は巨大な扉の前へ並んだ。
「……すごいね、これ」
葵が新しい盾を軽く持ち上げながら呟いた。
「今までの相手なら、もう負ける気しないかも」
「今までの相手なら、ね」
麗華が冷静に付け加える。
誰も否定しなかった。これから戦う相手は、その『今まで』には入っていない。
香奈恵、麗華、琴音の三人は、教室で特に大きかった待機組さえ上回るほどの身体になっている。蛍と葵も、元の姿とはすでに比べものにならない。
手元に残った青い果実は九個。
それでも、今できる準備はすべてした。
「じゃあさ」
葵が四人の顔を順番に見て、少しだけ笑った。
「これで負けたら、今度こそ三十人で仲良く教室暮らしだね」
「……プレッシャー掛けるつもり?」
琴音が苦笑する。
「逆だよ。負けても死ぬわけじゃないって話」
「私は嫌よ」
麗華が間髪入れずに返した。
「絶対に勝って帰るから」
「私も」
蛍も頷く。
香奈恵が五人を見渡してから、巨大な扉へ向き直った。
「なら、勝ちましょう」
大げさな言葉ではなかった。
けれど、それで十分だった。
蛍は新しい剣の柄を握り直す。
「行こう」
今度こそ五人は、竜の待つ扉へ手を掛けた。