爛熟の迷宮 ~祝福の果実に身体も心も変えられていく三十人の少女たち~ 作:a-ru
重い扉を押し開く音が、静まり返った通路へ響いていく。
開いた隙間から流れ込んでくる空気は、前に来た時と何も変わらなかった。冷たく、重く、広間の奥にいる何かの存在を肌へ直接押しつけてくるような空気に、蛍は新しい剣の柄を握る手へ自然と力を込めた。
一度目は、何もできなかった。
扉を開き、竜の姿を確認し、戦う覚悟を固めるよりも早く、たった一度の攻撃ですべてが終わった。武器も、防具も、身につけていた服さえ残らず、自分たちは教室へ送り返された。
けれど、今度は違う。
「行くよ」
「うん」
隣で葵が盾を構える。
二人で扉を十分に押し開き、その向こうへ五人揃って足を踏み入れると、広間の奥には前回と同じ竜が待っていた。
黒い鱗に覆われた巨体。地面を踏み砕けそうなほど太い四肢に、背中へ折り畳まれた巨大な翼。ゆっくりと身体を起こしただけで、体育館ほどもある広間が急に狭くなったように感じられる。
やがて竜も侵入者へ気づき、低い唸り声とともに巨大な頭部を持ち上げた。
「来る!」
香奈恵の声とほとんど同時に、竜が大きく口を開く。
最初から、あの攻撃だった。
周囲の空気が一気に吸い寄せられ、口の奥へ白い光が集まり始める。けれど、一度目とは違って、五人はその場で立ち尽くしたりはしなかった。
「麗華、琴音!」
「分かってる!」
「もう撃ってる!」
後方から放たれた麗華の魔法が竜の口元で炸裂し、間髪を入れずに琴音の矢がその直後を追う。さらに二射、三射と以前では考えられなかった速度で攻撃が重なり、巨大な頭部が強引に横へ弾かれた。
直後、竜の口から白い奔流が吐き出される。
しかし、その射線上に五人の姿はなかった。狙いを逸らされたブレスが広間の壁へ直撃し、轟音とともに大量の石材を吹き飛ばす。
「……止められた!」
葵が思わず声を上げる。
「止めたんじゃない、逸らしただけ! 来るよ!」
香奈恵の声を背中で聞きながら、蛍はすでに地面を蹴っていた。
身体が軽い――そう錯覚するほど、新しい防具の補助は強力だった。一歩踏み込むたびに身体そのものを押し出してくれるような感覚があり、竜がこちらへ頭を向け直すよりも早く、その懐へ潜り込める。
「はああっ!」
勢いのまま剣を振り抜くと、刃は硬い鱗へ食い込み、そのまま深く走った。
赤い血が散る。
「通った……!」
一度目には試すことすらできなかった攻撃が、今度は確かに届いている。竜が怒りの咆哮を上げ、巨大な前脚を振り下ろした。
「蛍!」
すぐさま葵が二人の間へ滑り込み、盾を構える。
巨大な爪と盾が正面から激突し、耳を塞ぎたくなるような金属音が広間に響き渡った。葵の身体が石床の上を大きく滑ったものの、それでも吹き飛ばされることはない。
「葵!」
「大丈夫! これ、すっごい硬い!」
強がりだけではなかった。あれほど巨大な竜の一撃を真正面から受け止めたにもかかわらず、盾にも防具にも目立った損傷は見当たらない。
そこへ後方から香奈恵の支援が飛び、身体の奥から新たな力が湧き上がる。蛍の踏み込みはさらに鋭くなり、葵もすぐに姿勢を立て直して前へ出た。
「もう一回!」
葵が盾を構えて注意を引きつけ、その横を蛍が駆け抜ける。
二人が竜の正面を押さえている間にも、後方から三人の攻撃が絶え間なく飛んできた。琴音の矢が翼の付け根へ深々と突き刺さり、麗華の魔法が開いた傷口へ正確に食い込む。香奈恵も支援だけに徹するのではなく、隙を見つけるたびに攻撃へ加わっていた。
竜が苛立ったように身を捻り、長大な尾を薙ぎ払う。
「下!」
蛍と葵が同時に身を沈めると、巨大な尾が頭上を唸りながら通り過ぎていった。その先では香奈恵たち三人もそれぞれ左右へ散り、攻撃範囲から逃れている。
あれほど大きくなった胸でありながら、まだ動けている。新しい防具の補助が働いている限り、三人は確かに戦力として竜と渡り合えていた。
「本当に動けてる……!」
「感心してる場合じゃないでしょ!」
麗華が叫びながら魔法を放ち、光弾が竜の側頭部へ直撃する。巨体が大きく揺れた。蛍はその隙を逃さず、首の付け根へ剣を叩き込む。
「っ……硬い!」
さすがに深くは入らない。それでも鱗の表面には確かな傷が刻まれ、すぐさま琴音の矢が同じ場所へ突き刺さった。さらに麗華の魔法が炸裂し、傷ついた鱗が弾け飛ぶ。
「そこ!」
「分かってる!」
葵が一気に間合いを詰め、盾で竜の前脚を強く押し返す。その隙に蛍が開いた傷へもう一度剣を振り下ろすと、今度は先ほどより深く刃が食い込んだ。
竜が苦痛の咆哮を上げる。
(……勝てる)
蛍の胸に、初めてそんな考えが浮かんだ。
もちろん、一方的な戦いではない。こちらも何度も攻撃を受け、盾で防ぎ、防具の力に助けられている。ほんの一度でも判断を誤れば、前回と同じように一瞬で形勢をひっくり返されるだろう。
それでも、今度はちゃんと戦えている。そして五人の攻撃は、確実に竜を追い詰めていた。
「もう少し!」
葵が声を上げる。
「油断しないで!」
香奈恵の警告が飛んだ、その直後だった。
竜が大きく翼を広げ、強烈な風圧が広間全体を駆け抜ける。
「きゃっ!」
蛍は咄嗟に腕で顔を庇う。その間に竜は翼を使って大きく後方へ跳び、五人との距離を一気に広げた。
広間の中央へ着地した巨体が、ゆっくりと低く沈み込む。
それを見た瞬間、嫌な予感が背筋を走った。
「……まずい」
琴音の声が聞こえる。
竜が再び口を開き、周囲の空気が勢いよく吸い寄せられ始めた。
また、ブレスだ。
「さっきみたいに!」
麗華が魔法を放ち、琴音の矢も続く。香奈恵の攻撃まで加わり、竜の頭部へ立て続けに直撃した。それでも、今度は止まらなかった。
「嘘……!」
竜は低く頭を下げたまま攻撃を受け切り、口の奥では白い光が膨れ上がり続けている。
「もう一回!」
琴音がさらに矢を放つ。それでも足りない。
蛍は咄嗟に周囲を確認した。
自分と葵は竜へ近づきすぎている。その後方には香奈恵たち三人がいて、このまま真正面へブレスを吐かれれば、五人全員が射線に入る。
「横へ!」
香奈恵が叫び、蛍もすぐに地面を蹴ろうとした。しかし、間に合わない。竜の口元に集まった白い光は、すでに限界まで膨れ上がっていた。
「琴音、逃げて!」
「無理!」
琴音は逃げるどころか、その場で弓を引き絞り、竜の口元へ狙いを定めていた。
「最後まで撃つ!」
「琴音!」
放たれた矢が竜の顔へ突き刺さる。一本、二本と続けざまに撃ち込みながら、琴音は最後まで攻撃の手を止めなかった。
少しでも多く削れば、ブレスを吐いた後にできる隙も大きくなる。おそらく、そう判断したのだろう。そして香奈恵と麗華も、自分たちが逃げるためには動かなかった。
「蛍!」
「え――」
突然、横腹へ衝撃が走る。
麗華の魔法だった。
攻撃に使っていたものとは比べものにならないほど威力を抑えた魔力弾。それでも、不意を突かれた蛍の身体を射線の外へ弾き飛ばすには十分だった。
「ちょっ――!」
石床を転がりながら反対側へ目を向けると、今度は香奈恵の魔力弾が葵へ直撃している。
「葵!」
盾ごと身体を弾かれた葵が、蛍とは反対側へ転がっていく。そこでようやく、蛍は二人の意図を理解した。
自分と葵だけが、竜の正面から外されている。
琴音はまだ弓を構えたまま最後の矢を放ち続け、香奈恵と麗華も、もう自分たちが逃げるだけの時間を残していなかった。
「三人とも!」
「行って!」
誰の声だったのかは分からなかった。
その直後、竜が息を吐いた。世界が白く染まる。轟音と熱風が広間を貫き、蛍は床へ伏せたまま顔を上げることすらできなかった。
ほんの一瞬だった。
光が収まった時には、三人の姿も消えていた。
「……っ」
教室へ送られたのだ。
頭では分かっている。死んだわけではなく、以前の自分たちと同じように、死亡する寸前で回収されたはずだ。それでも、自分と葵を逃がすために三人があの攻撃を受けたという事実が、蛍の胸を強く締めつけた。
「蛍!」
葵の声が飛ぶ。
「前!」
顔を上げる。
ブレスを吐き切った竜が、大きく首を下げていた。
呼吸を整えるように動きが止まり、その口元には琴音が最後まで撃ち続けた矢が何本も突き刺さっている。首の付け根にも、五人で何度も攻撃を重ねて開いた大きな傷が残っていた。
今までで一番大きな隙だった。
「……行くよ」
「うん!」
蛍と葵はほとんど同時に地面を蹴った。
竜が頭を持ち上げようとするが、遅い。先に辿り着いた葵が盾を構え、そのまま全体重を乗せるようにして竜の顎へ叩き込んだ
「上げさせない!」
巨大な頭部が横へ逸れる。
蛍はその脇を駆け抜け、三人が作ってくれた傷へ狙いを定めた。鱗が剥がれ、柔らかな肉が露出した首の付け根へ、剣を両手で構える。これを外したら、次はない。
「はあああああっ!」
踏み込みと同時に刃を突き込む。剣は露出した肉へ深く食い込み、それでも足りないとばかりに、蛍は柄を握る両手へさらに力を込めた。
竜の巨体が大きく震え、広間そのものを揺らすような咆哮が響き渡る。それでもなお倒れることはなく、最後の抵抗とばかりに巨大な前脚が持ち上がった。
「蛍!」
振り下ろされる爪と蛍の間へ、葵が盾を構えて割って入る。
凄まじい衝撃に身体が沈み、両膝が石床へつきそうになる。それでも葵は歯を食いしばって踏みとどまり、盾ごと押し潰そうとする前脚を力の限り押し返した。
「今!」
「分かってる!」
その声に背中を押されるように、蛍は深く刺さっていた剣を引き抜いた。
狙う場所はもう迷わない。
五人で何度も攻撃を重ね、三人が最後まで残してくれた、首の付け根の傷。そこへ今度は上段から、残っている力のすべてを込めて刃を叩き込んだ。
剣が傷口へ深々と沈む。
竜の身体が一度だけ大きく強張り――やがて、それまで全身を支えていた力が抜けていった。巨大な頭部が石床へ叩きつけられ、その衝撃が広間全体を震わせる。
それでも蛍と葵は、すぐには構えを解かなかった。
荒い息を吐きながら、蛍は剣を、葵は盾を構えたまま倒れた巨体を見つめ続ける。あれだけの力を持った相手だ。次の瞬間には再び頭を持ち上げ、何事もなかったように襲いかかってくるのではないかという警戒を、どうしても捨てきれなかった。
けれど、竜はもう動かなかった。
しばらくして黒い鱗の端から細かな光の粒が浮かび上がると、それは徐々に全身へ広がっていった。巨大な身体が輪郭を失い、無数の光となって静かに崩れていく。
「……倒した?」
葵が、まだ信じ切れないような声で呟く。蛍が答えるよりも先に、最後に残っていた竜の頭部まで光へ溶け、巨大な敵の姿は広間から完全に消え去った。
あとに残ったのは、戦いで無数の傷を刻まれた石床と、蛍と葵の荒い呼吸だけだった。そのまま二人が立ち尽くしていると、静寂を破るように、広間の奥から低く重い音が響き始めた。
「……何?」
葵とともに振り向く。
竜がいた場所よりさらに奥。これまで一枚の壁にしか見えなかった石造りの部分が、ゆっくりと左右へ分かれていく。
その向こうから現れたのは、さらに地下へ続いているらしい一本の通路だった。
これまでの迷宮とはどこか違う、暗く静かな道。
蛍はしばらく、その先を見つめた。
竜を倒したことで初めて開いた道が、どこへ続いているのか。今となっては、考えるまでもなかった。
「……最深部」
葵が小さく呟いた。
「多分」
蛍は答えた。
本当なら、ここまで辿り着いたことを喜んでもいいはずだった。竜を倒し、ようやく最深部へ続く道まで開いたのだから。
それでも蛍の視線は、すぐに広間の入口へ戻っていた。
「三人のところに戻ろう」
「うん」
二人は迷うことなく踵を返し、竜の消えた広間を後にした。
◇
転移陣を使って教室へ戻ると、香奈恵たち三人はすでに待機組に囲まれていた。
身体には傷一つ残っていない。ただし、竜のブレスに呑まれた時に身につけていた防具や衣服については、やはり何一つ戻っていなかった。
三人とも待機組から大きなタオルや部屋着を掛けてもらい、その場へ座り込んでいる。防具の補助がなくなった今では、三百センチ前後まで大きくなった身体を自力で支えるだけでも相当な負担なのだろう。
教室へ現れた蛍たちを見つけると、麗華が真っ先に顔を上げた。
「……どうだった?」
蛍は一度息を整えてから、はっきりと頷く。
「倒した」
一瞬、教室が静まり返った。
「本当に?」
「うん」
今度は葵が笑った。
「倒したよ。ちゃんと」
その言葉を合図にしたように、あちこちから歓声が上がる。
「やった!」
「すごい!」
「じゃあ、もうすぐ終わり?」
「蛍ちゃんたち、帰れるんだね!」
「よかったね」
二十五人の声が一斉に重なり、香奈恵もようやく安堵したように目を閉じた。
「……よかった」
「三人のおかげだよ」
蛍がそう言うと、香奈恵たちへ視線を向ける。
「私と葵だけじゃ無理だった」
「それなら、やった甲斐あったじゃない」
麗華が疲れたように笑った。
「で、竜の先は?」
「道が開いた」
その一言で、三人の表情が一気に変わった。
「じゃあ行こう」
香奈恵は当然のようにそう言って身体を起こそうとする。
けれど、防具の補助を失った身体は思うようについてこない。すぐ近くにいた待機組の二人が気づいて肩を貸すと、香奈恵は小さく礼を言いながら、どうにか身体を起こした。
「大丈夫?」
「ありがとう。少しだけ手伝って」
一歩進むだけでも明らかに大変そうだった。それでも香奈恵は待機組に支えられながら白い転移陣まで辿り着き、その中央へ身体を収める。
蛍も当然、そのまま足元から光が立ち上がるものだと思っていた。
けれど、何も起きなかった。
「……あれ?」
香奈恵が訝しげに足元を見る。
白い線はいつも通りそこにあるのに、いくら待っても光が強くなる様子はない。
「もう少し真ん中じゃない?」
葵がそう言うと、香奈恵は周囲に支えてもらいながら位置を変えてみた。
「いるわよ」
それでも結果は変わらない。
「ちょっと代わって」
今度は麗華が待機組に身体を支えてもらいながら進み、香奈恵と入れ替わるように魔法陣の中央へ入った。
やはり、何も起きなかった。
「……何よ、これ」
麗華が眉を寄せる。
「壊れた?」
「だったら蛍たちも戻れないはず」
琴音の言葉を聞き、蛍はすぐに魔法陣へ足を踏み入れた。
「試してみる」
いつも通り、足元から白い光が立ち上がる。
「あ――」
一瞬で視界が切り替わり、次に目へ映ったのは巨大な扉の前だった。
「動いてる……」
蛍は確認だけ済ませると、すぐにもう一度同じ魔法陣へ乗り、教室へ戻る。そこで待っていた全員の視線が、一斉に蛍へ集まった。
「普通に使えた」
その一言で、教室の空気が変わった。
「じゃあ……私たちだけ?」
麗華が呟く。
誰も答えられなかった。
「私も試す」
琴音も周囲に身体を支えてもらいながら転移陣へ入り、その場でしばらく待ってみる。けれど、やはり何も起こらない。
「……なんで?」
琴音は足元の白い線を見つめたまま呟いた。
「さっきまで向こうにいたのに」
香奈恵も麗華も同じだった。位置を変えたり、少し時間を置いてから試したりしてみても、結果は変わらない。蛍と葵には反応するのに、三人が乗った時だけ、白い線は何事もなかったように沈黙したままだった。
「……何が違うんだろ」
葵が困ったように、反応しない魔法陣と三人を交互に見る。
「竜を倒したから、何か変わったとか?」
「でも、それなら蛍も使えないはずでしょう」
麗華がすぐに返した。
実際、蛍はつい先ほど同じ魔法陣を使って扉の前まで転移し、そのまま教室へ戻ってきている。魔法陣そのものが使えなくなったわけではない。
「じゃあ……私たちの方に何かあるってこと?」
琴音が自分たち三人を見回し、やがて視線を胸元へ落とした。
「もしかして、胸の大きさ……?」
「大きさ?」
「三百センチを超えてると、転移できないとか」
その言葉に、蛍も改めて三人を見る。香奈恵と麗華は、交換を重ねた結果、三百センチを少し超えていたはずだ。
「でも、琴音は……」
葵が何かを思い出したように眉を寄せた。
「最初に三百近くまで増えた時って、まだ超えてなかったよね?」
「たぶん……」
琴音も考え込む。
一度の交換で増えるのは三十センチ。香奈恵と麗華は必要な装備を揃えるまでに何度も交換し、三百センチを少し超えたところまで大きくなっていた。
けれど琴音は、その時点では二人よりわずかに小さかった。
「じゃあ、なんで琴音も駄目なの?」
「……あ」
琴音の表情が止まった。
「そのあと、検証でもう一回やった」
魔力を増幅する装飾品を取るために、最後にもう一度だけ交換陣へ乗った。その時には三百三十センチ近くまで増え、まともに戦えないほど身体が重くなったため、青い果実を六個使って増えた分を戻している。
「でも、戻したよね?」
蛍が確認すると、琴音は自分の身体を見下ろしながら頷いた。
「うん。今は、あの交換をする前とほとんど同じくらい」
「なのに駄目……」
麗華が低く呟く。
もし三百センチ前後に何かの境目があるのだとしても、単純に今の身体の大きさだけで決まっているわけではないのかもしれない。
一度そこを超えたこと自体が、何かを変えてしまったのだとしたら。蛍はそこまで考えたものの、確かめる方法のない推測を口にすることはできなかった。
「……やめよう」
香奈恵が静かに言った。
「今考えても、答えは出ないわ」
「でも!」
麗華が思わず声を上げる。
「ここまで来たのに! 私たちだって帰るために……!」
怒っているというより、縋るような声だった。
「分かってる」
香奈恵が答える。
「私も帰りたい」
その一言で、麗華はそれ以上何も言えなくなった。
教室に静けさが戻る。待機組の二十五人も、今度ばかりは誰一人として「ここにいればいい」と軽く口にすることはなかった。
蛍は白い魔法陣へ目を向ける。自分と葵なら使える。香奈恵、麗華、琴音の三人には反応しない。そして竜を倒した先には、最深部らしい道が開いている。
その時、最初の日に見た言葉が脳裏へ蘇った。
『奈落の迷宮――生きて最深部に至る者に、一度の願いを』
「……願い」
蛍が呟くと、香奈恵が顔を上げる。
「最深部まで行けば、一度だけ願いが叶う」
「そう書いてあったね」
葵も気づいたように顔を上げた。なら、まだ終わってはいない。
「私たちが先へ行って、願いを使えば……三人も戻せるかもしれない」
それが本当に可能なのかは分からない。そもそも、何でも叶うと書かれていたわけでもない。それでも今の五人には、ほかに試せる方法が残されていなかった。
「……そうね」
しばらく考えてから、香奈恵が頷いた。
「なら、二人は行って」
「香奈恵」
「ここまで来たのよ。今さら止まる理由はないでしょう?」
麗華も俯いたまま、小さく息を吐いた。
「……絶対、何とかしなさいよ」
「うん」
「私はこんな身体のまま一生ここにいるつもりないから」
「分かってる」
「本当に分かってる?」
「分かってるよ」
蛍がそう答えると、麗華はようやく顔を上げた。隣では琴音が、少し困ったように笑っている。
「何でも願えるなら、全員まとめて帰還とかできるといいね」
「それを最初に試す」
「お願い」
そこで香奈恵は、教室へ残っていた青い果実九個にも目を向けた。
「それも持って行きなさい」
「でも、三人が……」
「琴音が六個使って三十センチ戻しても、転移陣は反応しなかったでしょう」
香奈恵は自分の胸元へ視線を落とし、小さく息を吐いた。
「だったら、私たちが今さら使ったところで戻れる保証はないわ。それより、帰れることになった時に二人が使いなさい。ここまで来たんだから」
蛍は少し迷ったものの、最後には頷いた。
「……分かった」
九個の青い果実を袋へ入れる。
ここへ来た時には三十人だった。
それから探索へ出る人数は少しずつ減り続け、最後には五人になった。その五人で竜を倒し、ようやく最深部への道を開いたというのに、今そこへ進めるのは自分と葵しかいない。
「行こう、蛍」
葵が白い魔法陣へ立つ。
「うん」
蛍もその隣へ並んだ。
「行ってくる」
「行ってらっしゃい」
香奈恵が答える。
「絶対戻ってきなさいよ」
麗華の声が続き、
「待ってるから」
琴音も笑った。
足元から白い光が立ち上がり、教室も、二十五人の待機組も、香奈恵たち三人の姿も、少しずつ光の向こうへ消えていった。
◇
巨大な扉の前へ戻った時、隣にいるのはもう葵だけだった。
二人で竜のいた広間を抜けると、その奥には戦いのあとに開いた細い通路が続いている。松明は一つも見当たらないのに、床と壁そのものが淡い白色に輝き、二人の行く先だけを静かに照らしていた。
「……二人になっちゃったね」
葵がぽつりと言う。
「うん」
「最初は三十人いたのに」
「うん」
それ以上、何かを言う必要はなかった。
蛍は剣の柄を握り直し、まっすぐ前を見る。
この先に何があるのか。本当に願いは叶うのか。自分たちは元の世界へ帰れるのか。そして、香奈恵たち三人まで連れ戻すことができるのか。
何一つ分からない。それでも、ここまで来て立ち止まるつもりはなかった。
「行こう」
「うん」
蛍と葵は肩を並べ、そのまま二人だけで、奈落の迷宮の最深部へ続く白い道を歩き始めた。