爛熟の迷宮 ~祝福の果実に身体も心も変えられていく三十人の少女たち~ 作:a-ru
最深部を後にした蛍と葵は、ほとんど言葉を交わさないまま白い通路を引き返した。
来る時には、この先に何が待っているのか分からなかった。けれど今は違う。迷宮が何のために作られ、自分たちが何として扱われていたのかを知ってしまった。
教室に残った二十八人がこの先どうなるのか。そして、自分たち二人だけなら元の世界へ帰ることができることまで、すべて分かってしまった。
本来なら、もっと喜んでいてもいいはずだった。
「……蛍」
「うん?」
「何から話せばいいと思う?」
隣を歩く葵に尋ねられ、蛍はしばらく考えたものの、結局答えを出せなかった。
「分かんない」
「だよね……」
願いが本当に存在したというだけなら、良い知らせだった。けれど、それを使えるのは最深部まで辿り着いた本人だけで、他の誰かを帰すことはできない。
香奈恵たちが転移陣を使えなくなった理由も、待機組の二十五人がこのまま残った場合に何が待っているのかも分かり、さらには自分たち三十人が最初の飼育対象ではなかったことまで知ってしまった。
話さなければならないことが、多すぎる。
「……とりあえず、全部話すしかないよね」
「うん」
竜の消えた広間を抜けた二人が転移陣へ入ると、白い光が視界を覆い、次の瞬間には見慣れた教室の風景が目の前へ戻ってきた。
「蛍ちゃん!」
「葵ちゃんも帰ってきた!」
「どうだった!?」
二人の姿が現れた途端、教室のあちこちから声が飛んできた。
座っていた者たちが一斉にこちらを向き、比較的動きやすい者はそのまま二人の周囲へ集まってくる。香奈恵と麗華、琴音の三人も少し離れた場所にいたが、近くの子たちに身体を支えてもらいながら、真っ先にこちらへ視線を向けていた。
「最深部まで行けた?」
「何があったの?」
「願いは?」
「帰れそう?」
次々に飛んでくる質問に、蛍は思わず葵へ視線を向けた。葵も同じように困った顔をしており、どう切り出すべきか決めかねているらしい。
そんな二人の様子から何かを察したのか、香奈恵が周囲を見回した。
「……簡単な話ではなさそうね。とりあえず、二人とも座ったら? 立ったまま全部話せるような内容でもないんでしょう」
「うん」
香奈恵の一言で騒がしかった教室も少しずつ静まり、蛍と葵は中央へ腰を下ろした。その周囲を囲むように二十八人も集まってきて、やがて全員の視線が二人へ向けられる。
蛍はその視線を受けながら、一度大きく息を整えた。
「まず……最深部には行けたよ」
その一言で、何人もの顔が明るくなった。
「やっぱり!」
「じゃあ願いもあった?」
「……うん。本当にあった」
今度こそ歓声が上がった。
「やった!」
「じゃあ帰れるじゃん!」
「蛍ちゃんたち、やっと帰れるんだ!」
自分たちのことのように喜んでくれる声を聞きながら、蛍は胸の奥が重くなるのを感じた。
「ただ……願いには条件があった」
喜びの声が少しずつ収まっていく。
「条件?」
「願いを使えるのは、最深部まで辿り着いた本人だけ。それに、願いで何かを変えられるのも、その本人だけなんだって」
麗華の眉が寄った。
「……つまり?」
「私の願いで、三十人全員を元の世界へ帰すことはできない。香奈恵たち三人だけを帰すことも無理だった」
それまで喜びに沸いていた教室の空気が変わった。
「じゃあ……」
琴音が静かに尋ねる。
「帰れるのは、蛍と葵だけ?」
「今のところは、そうなる」
「……そっか」
琴音はそれだけ言って黙り込み、代わって香奈恵が少し考えてから次の確認をした。
「身体を元に戻して、その上で帰ることは?」
「それも無理。一回の願いでできるのは一つだけみたい」
今度は葵が答える。
「身体を元通りにすること自体はできる。でも、そうしたらこっちに残る。元の世界へ帰るなら、この身体のまま」
「……ずいぶん融通の利かない願いね」
麗華が露骨に嫌そうな顔をする。
「でも、最初から『一度の願い』って書いてあったから」
「嘘ではない、と」
「うん」
「そういうところだけ律儀なの、本当に腹が立つわね」
麗華らしい反応に何人かから小さな笑いが漏れ、その笑いが消えるのを待ってから蛍は続けた。
「ただ……私と葵が帰ったら、皆との繋がりが全部なくなるわけじゃないみたい」
「え?」
今度は待機組から声が上がった。
「どういうこと?」
「元の世界とここの間で、連絡を取ること自体はできるって」
「本当に?」
「じゃあ、帰った後も話せるの?」
「うん。ただし、私たち三十人の間だけ」
喜びかけた空気が、そこでわずかに止まった。
「三十人だけ?」
「この迷宮に連れてこられて、向こうに登録されてる人じゃないと通信の相手にはできないんだって。だから、私と葵が帰った後に皆と連絡することはできる。でも……家族と直接話すことはできない」
「……そっか」
誰かが小さく呟いた。それまで多少明るくなっていた教室も、家族という言葉が出ただけで再び重い空気に包まれる。
「じゃあ、お母さんたちには……」
一人が恐る恐る尋ねる。
「私たちが生きてることも伝えちゃ駄目なの?」
「それは大丈夫」
「え?」
「皆が生きていて、無事に暮らしているってことまでは話していいって」
その言葉に、いくつもの顔が上がった。
「本当に?」
「うん。ただ、どこにいるのかとか、どうして帰れないのかとか、迷宮のことは話せない」
「もし話したら?」
葵が少し苦い顔をした。
「話した人は、こことの通信を永久に使えなくなるって」
「永久に……?」
「うん」
また教室が静かになる。
「じゃあ蛍ちゃんたちが、本当のことを誰かに話したら……」
「皆とは二度と連絡できなくなる」
「厳し……」
「何でそこまで隠したいの?」
「それも聞いたよ」
蛍は首を横に振った。
「でも、そこは答えてくれなかった」
「答えてくれないこともあるんだ」
「うん」
それでも、家族へ生存を知らせられるという事実に救われた者は少なくなかった。
「……生きてるって、伝えてもらえるんだ」
一人が俯きながら呟く。
「うん」
「元気だって?」
「それも大丈夫」
「そっか……」
その子は目元を押さえながら、小さく息を吐いた。
「それだけでも、よかった」
「ずっと死んだと思われるよりはいいよね」
「うん……」
「私も伝えてほしい」
「私も」
次々に上がる声に、蛍は一つずつ頷いた。
「分かった。ちゃんと伝える」
もちろん、それがどれほど難しいことになるのかは分からない。三十人が突然失踪し、そのうち二人だけが戻ったうえで、「残りの二十八人は生きている」とだけ告げながら、どこにいるのかは説明しないのだ。
到底、簡単に納得してもらえる話ではないだろう。それでも、何も伝えられないよりはずっといい。
「それと……」
蛍は改めて皆を見回した。
「最深部で、この迷宮が何なのかも聞いてきた」
今度は誰も口を挟まなかった。
蛍と葵は、最深部で知ったことを順番に話していった。
ここが人間の女性を育成し、魔力を含んだ分泌物を生産させるための施設だったこと。赤い果実は食事や水分の代わりになる一方で、身体を作り替えるためのものでもあり、自分たちの胸がここまで大きくなったのも、そこから生み出される分泌物を増やすためだったこと。
さらには、教室や浴場でさえ自分たちを安全に暮らさせ、育成を続けるために用意された場所だったのだと説明していくと、話が進むほど教室から声が消えていった。
「……つまりさ」
しばらくして、一人が恐る恐る口を開く。
「私たちって……飼われてたってこと?」
蛍は少しだけ答えるのをためらった。
「向こうは、『飼育施設』って言ってた」
「うわぁ……」
「さすがにそれは嫌」
「私たちがずっと拠点って呼んでたところ、飼育区画だったんだ……」
「言い方が最悪すぎる……」
嫌悪感の混じった声があちこちから上がり、中には今まで見慣れていた自分自身の身体を、改めて確かめるように見下ろす者もいた。
やがて、一人が遠慮がちに尋ねる。
「じゃあ……私たちが、もう探索しなくていいかなって思うようになったのも、迷宮にそう思わされてたってこと?」
「それも聞いた」
蛍はできるだけ正確に伝える。
「頭を直接いじったり、記憶を書き換えたり、人格を変えたりはしてないって。残ると決めた意思そのものは、本人のものだって」
「じゃあ……私たちが決めたってこと?」
「うん。ただ、何もされてないわけじゃなかった」
蛍はそこで少し言葉を選んだ。
「ここにいると安心しやすくしたり、誰かに身体を触ってもらうと楽になるようにしたり、皆と一緒にいることを心地いいって感じやすくなるような仕組みは、身体の方に組み込まれてるみたい」
「……それ、結構やってない?」
「私もそう思った」
蛍が素直に答えると、小さな笑いが起きた。
その中で、一人が隣にいる友人を見る。
「でも……この子と一緒にいたいって思ってるのまで、作られた気持ちじゃないんだよね?」
「少なくとも、迷宮はそう答えてた。意思を決めるのは本人だって」
「そっか」
その子は少し考えたあと、隣の友人へ身体を寄せた。
「じゃあ……それなら、まあいいかな」
「いいの?」
「飼育って言われるのは嫌だけど」
苦笑しながら肩をすくめる。
「この子と一緒にいたいっていうのまで嘘じゃないなら」
隣の子も、少し照れたように笑った。
蛍はその様子を見てから、次の話へ進んだ。
「それで……皆がこのまま育っていって、全員が『成熟』した後にどうなるのかも聞いた」
「成熟?」
「三人と関係ある話?」
「うん。でも先に、全員の話からした方が分かりやすいと思う」
皆の視線が再び蛍へ集まった。
「私、最初は全員が育ち切ったら、この迷宮の役目も終わるのかなって思ったんだけど……違った」
「違うの?」
「全員が成熟したら、探索と育成の期間が終わる。その後は『維持・生産工程』っていうのに移るんだって」
「……また嫌な名前」
麗華が顔をしかめる。
「具体的には?」
「一日に何回か、胸に溜まった分泌物を機械で回収されるようになるみたい」
「機械で?」
「うん。全員が成熟したら、教室にそういう設備を用意するって」
「それ以外は?」
「自由」
「……え?」
何人かが同時に聞き返した。
「自由って、どういうこと?」
「そのまま。働かされたり、ずっと何かをやらされたりもしない。食べて、お風呂に入って、皆で好きに過ごして、一日に何回か回収される。それだけみたい」
「…………」
皆が何とも言えない顔になる。
「それ……今とあんまり変わらなくない?」
一人がぽつりと言った。
「私も思った」
「今は皆で助け合ってるのが、機械になるだけ?」
「たぶん」
「魔物とも戦わなくてよくなるの?」
「全員が成熟したら、もう探索自体が必要なくなるって」
「……本当に?」
「うん」
戸惑っていた表情の中に、少しずつ別の感情が混じり始める。
「でも、そんな生活ずっとしてたら暇にならない?」
「それも聞いたよ」
今度は葵が答えた。
「退屈したり、ストレスが溜まったりしたら、希望に合わせて娯楽を用意してくれるって」
「娯楽?」
「本とか、映像とか、音楽とか、ゲームとか、運動できるものとか。向こうが作れるものだけだけど」
「ゲームあるの?」
琴音が思わず顔を上げた。
「そこだけ急に反応するの?」
麗華が呆れたように言う。
「いや、重要でしょ」
「琴音らしいけど……」
何人かが笑った。
「でも、何でそこまでしてくれるの?」
別の子が尋ねる。
「皆を幸せにしたいから、ではないみたい」
葵が苦笑する。
「そこも聞いたら、即否定された」
「即なんだ……」
「健康で精神的にも安定してる方が、長く質のいい分泌物を作れるからだって」
「ああ……」
「徹底してるなぁ……」
蛍も同じことを思った。安全な場所を与え、できるだけ穏やかに暮らさせ、退屈すれば娯楽まで用意する。けれど、それは決して自分たちを幸せにすること自体が目的なのではなく、健康な状態で長く暮らしてもらう方が、この施設にとって都合がいいからにすぎない。
「長くって……どのくらい?」
一人が尋ねる。
「それも、ちょっと問題があって」
蛍は自分の手を見下ろした。
「私たち、普通の人よりかなり長生きする身体に変えられてるみたい」
「……え?」
「何それ?」
今度こそ大きなどよめきが起こった。
「老化しにくくされて、病気にもかかりにくくなって、身体も長く健康に保てるようになってるって」
「いつの間に!?」
「赤い果実?」
「多分、それだけじゃなくて今までの育成全部だと思う」
「どれくらい生きるの?」
「正確には分からないって。でも、普通の人よりは大幅に長いらしい」
「……待って」
一人が額を押さえた。
「私たち、胸だけじゃなくて寿命まで変わってるの?」
「うん」
「蛍ちゃんたちが帰っても?」
「戻らないって」
「うわぁ……」
驚きの声がしばらく続いたものの、やがて待機組の一人が考え込むように呟いた。
「でも……ここに残るなら、その方がいいのかな」
何人かがそちらを見る。
「だって、皆でずっとここにいるんでしょ? 一人ずつ歳を取って先に死んでいくとかじゃなくて、皆で長くいられるなら……」
「ああ……」
「それはそうかも」
「病気にもなりにくいんだよね?」
「そうみたい」
「ご飯も水も困らなくて、お風呂もあって、魔物とも戦わなくてよくなって、暇なら欲しいものまで出してもらえて……」
「時々搾られるけど」
「その言い方やめてよ」
教室にまた小さな笑いが起こった。
その笑いが落ち着いたところで、蛍はさらに一つ、言いづらい事実を口にする。
「あと……私たち、この施設に来た最初の人間じゃないみたい」
「……え?」
空気が再び止まった。
「どういうこと?」
「迷宮が、『過去の飼育記録』って言ったの」
葵が代わりに説明する。
「昔は、精神や意思決定に直接干渉することも試したみたい。でも、そうすると分泌物の質が落ちたんだって」
「……試した?」
「うん」
「じゃあ……前にも私たちみたいな人がいたってこと?」
「それは肯定された」
誰もすぐには言葉を返せなかった。
「何人いたの?」
「それは教えてくれなかった」
「今どうしてるの?」
「それも分からない」
「この迷宮だけなの?」
「聞いたけど、答えてくれなかった」
静けさが広がった。今まで聞かされた話も十分に異常だったが、これはそれとはまた違う種類の不気味さがあった。
「じゃあ、このやり方も……」
一人が小さく呟く。
「前の人たちで色々試して、今みたいになったってこと?」
「多分」
蛍は頷いた。
「直接心を変えるより、自分の意思で探索させて、魔力を使わせた方が、成熟した後に作られる分泌物の質が良くなるんだって」
「それで願いまで本物にしたの?」
「うん。帰れる可能性が本当にある方が、自分から探索を続ける理由になるから」
「でも、それじゃ蛍ちゃんたちみたいに本当に帰っちゃう人もいるじゃん」
「それも織り込み済みみたい」
「……そこまで?」
「何人か帰ったとしても、今のやり方の方が全体として効率がいいって」
しばらく誰も何も言わなかったが、やがて麗華が深いため息をついた。
「本当に、どこまで行っても私たちのためじゃないのね」
「うん」
「でも……」
待機組の一人が迷うように口を開いた。
「私たちが残るって決めたことまで嘘になるわけじゃないんだよね?」
「ならないと思う」
蛍はそう答えながら、それこそがこの迷宮のやり方なのだろうと思った。
意思を直接奪うのではなく、自分で決めさせ、自分の足で歩かせ、進むか残るか、最後に帰るかまで本人に選ばせる。それでも、本人がそう選んだという事実まで偽物になるわけではない。
「私……やっぱり残るかな」
一人が言った。
「私も」
「飼育って言われるのは嫌だけど……」
「うん」
「でも、真相を知ったからって、急にここが嫌になるかって言われると……ならない」
「私もかな」
「家族には会いたいけど」
そこで少しだけ声が沈む。
「でも、蛍ちゃんたちが生きてるって伝えてくれるんだよね?」
「うん」
「それに、二人とは帰った後も話せる」
「うん」
「だったら……私はここでいい」
別の子も小さく頷く。
「私も。皆と一緒にいたい」
次々に同じような声が続いていく。
蛍は、真相を知れば二十五人の気持ちが変わるかもしれないと、どこかで思っていた。自分たちが飼育対象だったことも、ここへ残ることを心地よいと感じやすい身体へ変えられていたことも、過去の誰かを使った試行錯誤の末に今の仕組みが作られていたことも知れば、やはり帰りたいと言い出す者が増えるのではないかと。
けれど、現実はそれほど単純ではなかった。
迷宮の思惑を知ったところで、ここで過ごした時間まで消えるわけではない。安全な教室へ戻ってほっとした気持ちも、隣にいる友人と過ごした日々も、一緒にいたいと思う気持ちも、全部本物なのだ。
そのうえ今では、残った先に待っている生活がどんなものなのかまで分かっている。それでも残ると選ぶのであれば、その気持ちを蛍が否定することはできなかった。
「それで……」
蛍は香奈恵たち三人を見る。
「三人が転移陣を使えなくなった理由も分かった」
香奈恵が真っ直ぐこちらを見る。
「聞かせて」
「迷宮では、『成熟完了』っていう状態になったって判断されてるみたい」
「成熟完了……?」
麗華が露骨に嫌そうな顔をした。
「また嫌な言葉が出てきたわね」
「身体の成長とか、魔力への適応とか、分泌するための身体の状態とか、これまでの育成の進み具合とか……色々まとめて判断してるみたい」
「三百センチを超えたから、というだけではないのね」
「うん。胸囲だけじゃないって」
香奈恵が静かに自分の身体へ目を落とす。
「それで、成熟完了になると?」
「もう探索を続けさせる必要がないって」
蛍は少しだけ言葉に詰まりながら続けた。
「育成が終わった個体は、そのまま教室に残して……維持と生産の方に移すって」
「…………」
数秒の沈黙の後、麗華が吐き捨てるように言った。
「最悪」
「麗華……」
「だってそうでしょう? 勝手に身体をこんなにしておいて、『十分育ったから、もう危ないところへ行かなくていいです』ってことでしょう?」
「……迷宮からしたら、そうみたい」
「腹が立つわ」
麗華は本気で不機嫌そうだった。
待機組の中から、少し遠慮がちな声が上がる。
「でも……もう魔物と戦わなくていいし、その後も自由に暮らせるなら、迷宮からしたら本気で大事にしてるつもりなのかな」
麗華がそちらを見る。
「それが余計に腹立つのよ」
「ああ……」
「なんとなく分かる」
少しだけ空気が緩んだところで、今度は琴音が尋ねた。
「青い果実で小さくしても駄目なの?」
「うん。一度成熟完了になったら、身体を小さくしても解除されないって」
「……そっか」
そこで蛍は言葉を止めた。琴音のことだけはどうしても言いづらかったが、本人にだけ隠すわけにもいかない。
「琴音」
「うん?」
「もう一つ……聞いたんだ」
琴音が蛍を見る。
「最後に、魔法の装備を取るためにもう一回交換したでしょ?」
「うん」
「あれをする前は……まだ成熟完了にはなってなかったって」
琴音の表情が止まった。
「……え」
「だから、あの一回をしなかったら、琴音はまだ探索を続ける側だったみたい」
教室が静まり返った。
琴音はしばらく蛍を見たまま固まっていたが、やがてゆっくりと自分の胸元へ視線を落とした。
「……そっか」
「琴音」
葵が心配そうに名前を呼ぶ。
「ごめん」
「何で葵が謝るの?」
「だって……私たちも止めなかったし」
「そんなの、誰にも分からなかったじゃん」
琴音は顔を上げる。少しだけ無理をしているようには見えたが、それでも笑おうとしていた。
「私だって、少しでも強い装備があった方がいいって思って自分でやったんだよ? 一回交換したら二度と戻れないなんて、分かるわけないって」
「でも……」
「それに」
葵が何か言おうとするのを、琴音が遮った。
「あの装備がなかったら、本当に竜に勝てたかどうかも分からないでしょ?」
蛍は答えられなかった。
確かに、あの一回をしなければ琴音は今も探索を続ける対象だった。けれど、その交換をしなかった世界で竜との戦いがどうなったのかなど、誰にも分からないのだ。
「結果論よ」
香奈恵が静かに言った。
「誰か一人の責任にするような話じゃないわ」
「そうね」
麗華も頷く。
「勝つために必要だと思って皆で交換したんだから、琴音だけが後悔することじゃないでしょう」
「……ありがと」
琴音は小さく笑った。
それからしばらく、教室には静かな時間が流れた。
やがて香奈恵が蛍と葵へ視線を向ける。
「それで」
「うん?」
「二人はどうするの?」
蛍は葵を見る。最深部から戻る途中にも、そのことだけは二人とも考えていた。
「……帰るつもり」
蛍がそう答えた瞬間、思いがけないほど近くから声が上がった。
「えっ」
「帰っちゃうの?」
「……うん」
待機組の一人が、驚いた顔で蛍を見ていた。
「そっか……」
帰れるのだから帰る。それが当然だと皆も頭では分かっていたはずなのに、本人の口からはっきり告げられたことで、急に別れが現実味を帯びたらしい。
「通信はできるけど……」
別の子が寂しそうに続ける。
「もう直接は会えないんだよね?」
「……多分」
元の世界へ戻った後、こちらへ再び来る方法は用意されていない。声を聞いたり連絡を取ったりすることはできても、同じ場所で顔を合わせることは、もう二度とないのかもしれない。
「やだな……」
「え?」
「だって、一緒にいたいのに」
あまりにも素直な言葉だった。
「私も寂しい」
「話せるって聞いて安心したけど……それとは違うよ」
「うん。離れてても連絡できるのと、一緒に暮らしてるのは違うもん」
「ずっと一緒だったのに」
誰も「帰るな」と責めているわけではない。ただ、離れたくないという気持ちを、そのまま口にしているだけなのだろう。
その時、一人が何かに気づいたように蛍と葵を見る。
「でもさ……本当にそのまま帰って大丈夫なの?」
「え?」
「何が?」
「皆、最近もうあんまり気にしてないかもしれないけど……私たち、こっちに来た時とは物凄く見た目変わってるよ?」
「あ……」
その子は蛍と葵を上から下まで見る。
「顔だって前よりずっと綺麗になってるし、肌も髪も変なくらい綺麗だし。それに、胸もお尻も太ももも……全部そのままで帰るんでしょ?」
蛍は自分の身体を見下ろした。毎日少しずつ変わってきたせいで、今ではすっかり見慣れてしまっているが、元の世界の人間から見ればどう映るのか。まして、迷宮へ来る前の自分を知っている相手ならなおさらだ。
「……絶対、物凄く目立つよね」
「それは……」
否定できなかった。
「しかもさ」
別の子が口を挟む。
「私たち、たぶん学校から全員まとめて突然いなくなったことになってるよね?」
その一言で、教室の空気が少し変わった。
「……あ」
「そういえば……」
「三十人全員?」
「多分」
「大事件じゃん」
蛍も、その可能性を考えたことがなかったわけではない。ただ、ここでは生き延びることだけで精一杯で、帰った後の生活などずっと先のことだと思っていたのだ。
「三十人まとめて消えて、そのうち二人だけ急に戻ってくるんだよ?」
一人が続ける。
「しかも、失踪した時とは全然違う身体になって」
「絶対警察来るよね」
「病院にも連れていかれそう」
「学校どころじゃないんじゃ……」
「ネットとかにも出るかも」
「しかも、本当のことは説明できないんでしょ?」
「……うん」
その一言が一番重かった。
何があったのかを聞かれても、すべてを話すことはできない。二十八人が生きていることまでは伝えられても、どこにいるのか、なぜ戻れないのか、そしてなぜ蛍と葵だけが帰ってきたのかを正確に説明することはできないのだ。
「だったらさ……」
最初に蛍を引き止めた子が、少し躊躇しながら口を開いた。
「変な目で見られながら向こうで暮らすくらいなら……ここで一緒に暮らさない?」
「……え?」
「ここなら皆同じだよ」
その子は教室を見回した。
「誰も蛍ちゃんたちを変だって言わないし、食べ物にも困らない。もう少し育ったら探索だってしなくてよくなるんでしょ?」
「欲しいものも、ある程度は出してもらえるみたいだし」
「病気にもなりにくい」
「長生きもする」
「それに、ずっと皆でいられるよ」
そんな言葉が次々に重なる。
「帰った後でも話せるなら、無理して帰らなくてもいいんじゃないかなって……ちょっと思う」
「私も、一緒にいてほしい」
「うん……」
「帰れるのに帰るなって言うのは駄目だって分かってるけど」
「向こうで奇異の目で見られて、何があったのかも言えないまま暮らすくらいなら、ここでもいいんじゃない?」
蛍はすぐには返事ができなかった。言われていることには、ちゃんと理由がある。
帰ったところで、以前とまったく同じ日常がそのまま待っているわけではない。大きく変わった姿を見られ、どこにいたのか、残りの二十八人はどうしたのかと追及されるだろう。それなのに、真実をすべて話すことはできない。
一方で、ここに残れば皆がいる。危険な探索もいずれ終わり、食べ物や水に困ることもなく、病気にもなりにくい。退屈すれば娯楽まで用意され、皆と一緒に長い時間を過ごせる。
それだけを並べれば、決して悲惨な生活には見えなかった。
ほんの一瞬だけ、蛍の中に考えが浮かぶ。
――それでも、いいのかもしれない。
帰らずに、皆と一緒にここで暮らしていく。そんな未来も、今では十分に選べるものに思えてしまった。
「蛍」
名前を呼ばれて我に返ると、香奈恵が落ち着いた表情でこちらを見ていた。
「決めるのは、あなたたちよ」
その声も静かだった。
「帰った後が大変だからという理由だけで、今ここで帰る権利を捨てる必要はないわ」
「……うん」
「それに」
香奈恵は少しだけ間を置いた。
「二人が帰れば、私たちが生きていることを家族に伝えてもらえるんでしょう?」
蛍は顔を上げた。
「……うん」
「だったら、それも二人にしかできないことよ」
教室が静かになる。
「私たちは家族と直接話せない。でも二人が向こうへ帰れば、少なくとも生きていることは伝えてもらえる」
香奈恵は周囲の子たちを見回した。
「それを望んでいる子だっているでしょう?」
「……うん」
一人が小さく答えた。
「伝えてほしい」
別の子も頷く。
「私も」
「生きてるってだけでいいから」
「私もお願い」
次々に声が上がり、蛍は一人ずつ顔を見ながら頷いた。
「……分かった。ちゃんと伝える」
帰る理由は、自分たちのためだけではない。二十八人がまだ生きているのだと向こう側へ伝えられるのは、自分と葵だけなのだ。
「だから」
香奈恵が蛍たちへ視線を戻す。
「この子たちが寂しがるのも分かるけど、それと二人が帰るかどうかは別の話よ」
「分かってるよ」
最初に引き止めた子が、少しだけ唇を尖らせる。
「本気で帰るなって言ってるわけじゃないもん」
「ただ一緒にいたいだけ」
「……うん」
「通信できても、直接会えなくなるのは寂しいから」
その言葉に責めるような響きはなかった。
そこで蛍は、待機組の二十五人にとって、この教室がもう単なる「帰ることを諦めた場所」ではないのだと改めて理解した。長い時間を一緒に過ごしてきた友人がいて、自分たちなりの日常ができており、その中には蛍と葵もいる。
だからこそ離れたくない。その気持ちは、迷宮の仕組みだけでは説明できない、ごく普通のものなのだろう。
「……ごめん」
蛍が言うと、すぐに何人かが首を振った。
「だから謝らないでって」
「帰りたいなら帰った方がいいよ」
「私たちはここにいたいけど、蛍ちゃんたちは違うんでしょ?」
「……うん」
「じゃあ、帰らなきゃ」
そう言った本人が、今にも泣きそうな顔で笑う。
「でも、寂しいのは許してね」
「……うん」
「あと、ちゃんと連絡してよ」
「もちろん」
「私たちが生きてるって、家族にも伝えて」
「それも絶対に」
「迷宮のこと喋って通信切られたら許さないからね」
「それは私も嫌だよ」
蛍が答えると、教室に小さな笑いが広がった。
隣を見ると、葵はすでに目元を押さえている。
「……葵、泣いてる?」
「まだ泣いてない!」
「いや、もう泣いてるでしょ」
「だってさぁ……!」
つられて蛍も笑った。
ここが何のために作られた場所なのかを知ったばかりだというのに、不思議なくらい、いつもの教室だった。
少しして、香奈恵が改めて二人を見る。
「蛍、葵」
「うん」
「二人は帰りなさい」
今度ははっきりと言った。
「私たちまで帰れないからって、二人がここに残る理由にはならないでしょう」
蛍が何か言うより先に、麗華も頷いた。
「そうよ。ここまで来て帰らないなんて、何のためにあんな竜を倒したのよ」
「麗華……」
「私は帰れないことにものすごく腹が立ってるけど」
麗華は不機嫌そうな顔のまま続ける。
「だからって、蛍たちまで付き合わせたいとは思わないわ。それに、私が生きてることくらいは向こうに伝えてもらいたいし」
琴音も、小さく笑った。
「私も。帰れる人は帰った方がいいよ」
三人とも、本当なら帰りたかったはずだ。今では残った先に、安全で自由で、しかも長く生きられる生活が待っていることまで分かっている。
それでも、「帰れない」と「帰らない」は同じではない。
その違いを誰よりも分かっている三人から言われたからこそ、その言葉は重かった。
蛍はしばらく三人を見つめたあと、ようやく頷く。
「……分かった」
そして、今度こそ口にした。
「私、帰るよ」
「私も」
葵も続く。
その言葉に、待機組からまた小さく声が漏れた。
「ほんとに帰っちゃうんだ……」
「だから、帰っても話せるって」
「分かってるけど、直接会えないじゃん」
「それは……うん」
「やっぱり寂しい」
蛍は皆の顔を見回した。
このまま最深部へ戻れば、二人は帰れる。それでも、どうしても今すぐそうする気にはなれず、どうやら葵も同じことを考えているらしい。
「ねえ、蛍」
「なに?」
「願いって、今日使わなくてもいいんだよね?」
「うん。迷宮にいる間は権利が残るって言ってた」
「じゃあさ……」
葵は少し照れたように教室を見回した。
「もうちょっとだけ、ここにいない?」
一瞬の沈黙のあと、待機組から一斉に声が上がった。
「ほんと!?」
「いいの!?」
「やった!」
「ちょっと」
香奈恵が呆れたように眉を寄せる。
「あなたたち、二人を引き止めすぎよ」
「引き止めてないよ!」
「ちょっとだけって言ったもん!」
「最後くらいいいじゃん!」
あちこちから言い返され、香奈恵が深いため息をついた。
その光景に、蛍も思わず笑ってしまう。
「私も……少しくらいならいいと思う」
「蛍まで」
「だって、帰った後も話せるって分かったけど、それでも今みたいに一緒にはいられないから」
同じ場所で顔を合わせ、隣に座ってくだらない話をし、笑えばその表情がすぐ目の前に見える。手を伸ばせば届く距離に誰かがいる――そんな今では当たり前になった時間は、帰ってしまえばもう終わるのだ。
「ちゃんとお別れしてから帰りたい」
そう言うと、今度は誰も反対しなかった。
香奈恵も最後には仕方なさそうに笑う。
「……数日くらいなら、いいんじゃない?」
「香奈恵!」
「ただし」
嬉しそうな声を遮って、香奈恵は蛍と葵をまっすぐ見る。
「帰るって決めたことまで変えないこと。いい?」
「うん」
「分かってる」
二人が揃って答える。
そこで蛍は、教室の隅に置かれた袋へ目を向けた。中には九個の青い果実が残っている。
香奈恵たちの成熟完了を取り消すことはできなかったが、自分たちが帰る時には使える。身体そのものを元へ戻すことはできなくても、今より少しでも小さくしてから元の世界へ帰った方がいいだろう。
ただ、それも今すぐである必要はない。帰ることはもう決めたのだから、あと数日くらいは皆と一緒にいたかった。
「じゃあ……もう少しだけ、よろしく」
蛍がそう言うと、教室のあちこちから嬉しそうな声が返ってきた。
「うん!」
「もちろん!」
「最後まで一緒にいよう!」
「帰ったら絶対連絡してね!」
「家族にも、生きてるって伝えて!」
「分かってるよ」
笑い声が重なる。
その声を聞きながら、蛍は胸の奥に奇妙な寂しさを覚えた。
帰ることを選んだ自分と葵。真相を知った上で、ここに残ることを選んだ二十五人。そして、帰ることを望みながら、その道だけを失ってしまった三人。
同じ場所へ連れてこられ、同じように身体を変えられた三十人だったのに、最後には全員が同じ答えを選ぶことはできなかった。
それでも、完全に切り離されるわけではない。帰った後も声を交わすことはできるし、二十八人が生きていることを、その家族へ伝えることもできる。
そして何より、今はまだ三十人で同じ場所にいる。
別れるまで、あと少し。その時間くらいは迷宮が何を考えているのかなど気にせず、ただ皆と一緒に過ごしたかった。