爛熟の迷宮 ~祝福の果実に身体も心も変えられていく三十人の少女たち~   作:a-ru

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第三十九話『最後の数日』

 帰ると決めてから迎えた翌朝も、教室の景色はほとんど変わらなかった。

 

 蛍が目を覚ました時には、すでに起きている者たちの話し声が聞こえていた。少し離れたところでは、二人の女子が床に座って昨日の続きを話しており、そのうち一人は友人から分泌物を飲ませてもらいながら、何でもないことのように会話へ相槌を打っている。

 

「それでさ、帰ったら蛍ちゃんに何伝えてもらう?」

 

「まだ決めてない。お母さんには、とりあえず元気って……あ、ちょっと待って」

 

 一度言葉を止め、飲み終えてから顔を上げる。

 

「……うん。それだけでいいかな。元気にしてるって」

 

「本当にそれだけ?」

 

「だって、ここのこと言えないんでしょ? 変に伝言増やしても困らせるだけだし」

 

 そんな会話を聞きながら、蛍は身体を起こした。

 

 昨日、ここが何のために作られ、自分たちが何として育てられていたのかを知った。その先にどんな生活が待っているのかまで聞かされたというのに、一晩眠れば目の前にあるのは、昨日までとほとんど変わらない朝だった。

 

「おはよ、蛍」

 

「おはよう」

 

 すでに起きていた葵が手を振ってくる。

 

 蛍も立ち上がろうとして、ふと違和感を覚えた。

 

「……あれ?」

 

「どうしたの?」

 

「お腹、空いてない」

 

「え?」

 

 葵がきょとんとする。

 

 これまでは朝になれば、程度の差こそあれ必ず赤い果実を食べたくなった。空腹というより、身体そのものが必要としているような感覚に近かったのだが、今日はそれがまったくない。

 

「昨日の夜、赤いの食べた?」

 

「食べてないよ。最深部から戻って、そのまま皆と話して……」

 

 葵もそこで気づいたらしく、お腹へ手を当てた。

 

「私も空いてない」

 

「喉は?」

 

「全然」

 

 二人で顔を見合わせていると、少し離れた場所から琴音が声を掛けてきた。

 

「それ、私たちもだよ」

 

「琴音も?」

 

「うん。というか、昨日から食べてない」

 

 琴音の隣では香奈恵も頷き、麗華は巨大な胸を支えるように座ったまま、少し呆れた表情をしていた。

 

「赤い果実を取りに行こうと思ったんだけど、必要ないのよ。お腹も空かないし、喉も渇かない」

 

「三人は成熟したから……?」

 

「多分ね。でも、それなら蛍と葵まで同じなのは変じゃない?」

 

「私たちは成熟してないしね」

 

 少なくとも、転移陣を使えなくなるような状態にはなっていない。

 

「……聞いてみる?」

 

 葵の一言に、蛍は頷いた。

 

 そこで少し考え、別の問題に気づく。

 

「でも聞くって、また最深部まで行くの?」

 

「あ」

 

 教室から転移陣で竜のいた場所まで移動することはできるが、そこから白い通路を歩いてコアのところまで行かなければならない。

 

 今後も何か疑問が出るたびに、それを繰り返すのはさすがに面倒だった。

 

「……ねえ、蛍」

 

「うん」

 

「コアって、こっちに来てもらえないのかな」

 

「来るって……あの台座ごと?」

 

「いや、別に本体じゃなくてもいいけど。昨日の透明な板みたいなの、教室に置いてもらうとか」

 

「できるのかな」

 

「聞くだけ聞いてみようよ」

 

 結局、その日の午前中に蛍と葵は一度だけ最深部へ戻ることになった。

 

 すでに竜のいない広間を横切り、白い通路を進んで円形の部屋へ入る。昨日と何一つ変わらない台座の前へ立つと、透明な板に文字が浮かんだ。

 

『願望実行権保有個体 二名を確認』

 

『質問を受け付けます』

 

「まず聞きたいんだけど、私たち、昨日から赤い果実食べてないのにお腹空かないんだけど」

 

『正常です』

 

「やっぱり?」

 

『成熟完了個体、および願望実行権取得個体は、育成用栄養体の定期摂取対象から除外されます』

 

「願いを叶えられるようになったら、もう食べなくていいってこと?」

 

『肯定』

 

「香奈恵たちも?」

 

『肯定』

 

「じゃあ、食べなくても死なない?」

 

『生命維持に必要な栄養、水分、魔力は維持機能により補完されます』

 

 葵が感心したように声を漏らす。

 

「本当にもう食事いらないんだ……」

 

「でも、食べること自体はできるの?」

 

『可能です』

 

「普通の料理とかも?」

 

『可能です』

 

「それは後で聞こう」

 

 何やら急に目を輝かせ始めた葵を制してから、蛍は本題を切り出した。

 

「それとさ。毎回ここまで質問しに来るの、大変なんだけど」

 

『質問を受け付けます』

 

「教室からここに質問できるようにできない? 昨日みたいな板を置くとか」

 

 返答までの間は、ほとんどなかった。

 

『可能です』

 

「できるの!?」

 

 葵が素っ頓狂な声を上げる。

 

「じゃあ、最初から置いてくれてもよかったんじゃないの?」

 

『要求がありませんでした』

 

「……そういうところだよね、この迷宮」

 

 蛍は思わずため息をついた。

 

「じゃあ、教室に置いて。皆が質問したり、必要なものを頼んだりできるように」

 

『要望を受理しました』

 

「それだけ?」

 

『肯定』

 

「……じゃあ帰ろっか」

 

「うん」

 

 二人が教室へ戻ると、すでに壁際に見覚えのある透明な板が浮かんでいた。

 

「早っ!」

 

「蛍ちゃん、これ何!?」

 

「コアと話せる端末。毎回最深部に行くの面倒だから、置いてもらった」

 

「そんなことできたの?」

 

「できたみたい」

 

「もっと早く頼めばよかったじゃん!」

 

「知らなかったんだから仕方ないでしょ!」

 

 人が集まり始める。

 

 昨日までなら、得体の知れない迷宮の機能を前にすれば、もう少し警戒したかもしれない。けれど今では、自分たちが何のために世話されているのかまで分かっている。そうなると警戒するより、使えるものは使わせてもらおうという気持ちの方が強かった。

 

「ねえ、これに欲しい物言えばいいの?」

 

『質問を受け付けます』

 

「喋った!」

 

「昨日からずっとこうだよ」

 

「じゃあ、本当に本とか出せる?」

 

『提供可能です』

 

「漫画も?」

 

『提供可能です』

 

「ゲームは?」

 

 琴音がすぐに割って入る。

 

『提供可能です』

 

「ゲーム機も?」

 

『提供可能です』

 

「新しいゲームも?」

 

『施設機能上再現可能な範囲で提供可能です』

 

「…………」

 

 琴音が黙り込んだ。

 

「琴音?」

 

「いや……ちょっと待って」

 

 その表情があまりにも真剣なので、蛍は嫌な予感がした。

 

「私、帰りたい派だったんだけどさ」

 

「うん」

 

「働かなくてもよくて、病気にもなりにくくて、ご飯の心配もなくて……一生ゲームし放題?」

 

『長期的な娯楽利用は可能です』

 

「…………」

 

「琴音」

 

「ちょっと、揺らがないでよ」

 

 今度は麗華の声が飛んできた。

 

「え?」

 

「あなたまで何を言い出すのよ。帰れるなら帰るって話だったでしょう」

 

「いや、私はもう帰れないけど」

 

「そういう意味じゃなくて」

 

 麗華は少し苛立ったように息を吐く。

 

「ここがどれだけ快適になったって、私は帰りたいわよ。仕事だって好きだったんだから」

 

「ああ……麗華、撮影とか好きだったもんね」

 

「好きだったわよ。大変なこともあったけど、自分で選んだ仕事だったし、向こうには家族も知り合いもいる。それを『こっちなら楽だから』の一言で全部いらないことにはできないでしょう」

 

 そう言ってから、麗華は蛍と葵を見る。

 

「だから二人もちょっと揺らがないでよ。帰れる人まで『ここ快適かも』とか言い出したら、本気で腹が立つから」

 

「まだ何も言ってないよ」

 

「葵は絶対ちょっと考えた顔してた」

 

「えっ」

 

「してた」

 

 蛍まで同意すると、葵が慌てて首を振った。

 

「だって、食べ物も好きなだけ出るって聞いたら、ちょっとくらい考えるでしょ!」

 

「考えない」

 

「即答!?」

 

 そんなやり取りを横で聞いていた琴音が、透明な板を見つめながら深くため息をついた。

 

「でもさぁ……これも迷宮の罠なんだろうね」

 

「罠?」

 

「だって昨日聞いたじゃん。直接心を変えるんじゃなくて、本人に自分で選ばせる方が都合がいいって」

 

 琴音は端末を指さす。

 

「ゲームしたいって言ったらゲームをくれる。甘い物が欲しいって言ったら、多分それもくれる。本人が欲しがった物を出してるだけだから、強制でも何でもない」

 

「……うん」

 

「で、それが積み重なって、私みたいに『ここでいいかも』って自分で思い始めたら、少なくとも迷宮としては困らないわけでしょ」

 

「確かに」

 

「少なくとも私には効いてる」

 

「効いてるんだ……」

 

 琴音は真顔で頷いた。

 

「一生ゲームし放題は強いよ」

 

「琴音……」

 

 呆れた声が重なり、教室に笑いが広がった。

 

 そこで別の子が、おずおずと端末の前へ出る。

 

「ねえ。ご飯も出せるんだよね?」

 

『可能です』

 

「私たち、成熟したらお腹空かなくなるんでしょ?」

 

『成熟完了個体については、生存維持を目的とした摂食は不要です』

 

「でも、食べること自体はできる?」

 

『可能です』

 

「ケーキとかも?」

 

『提供可能です』

 

 その瞬間、教室の空気が変わった。

 

「ほんとに!?」

 

「ケーキ出せるの!?」

 

「アイスは?」

 

「プリン!」

 

「ちょっと待って、皆急に元気になりすぎ!」

 

 蛍が止める間もなく、一人が端末へ向かって勢いよく宣言する。

 

「甘い物を食べると気分が良くなるので、ストレス軽減のためにケーキを要求します!」

 

「言い方!」

 

『要望を受理しました』

 

「通った!」

 

「ええっ!?」

 

 歓声が上がった。

 

 ほどなくして教室の一角に、新しく長いテーブルと何種類ものケーキが現れる。

 

「すごい!」

 

「本当に出た!」

 

「チョコある!」

 

「これ食べ放題!?」

 

『過剰摂取による健康上の問題が発生しない範囲で、追加提供可能です』

 

「やった!」

 

「待って。それ実質食べ放題じゃない?」

 

「私たち病気にもなりにくいんでしょ?」

 

「だからって限度はあるでしょ」

 

 昨日、自分たちが飼育されていると知ったばかりの人間たちとは思えない盛り上がりだった。

 

 もっとも、迷宮に遠慮する理由などないのかもしれない。

 

 どうせ飼うつもりなら、使えるものは使わせてもらう。

 

 そんな開き直りが、皆の中に生まれ始めているようだった。

 

「蛍ちゃんも食べようよ」

 

「お腹空いてないんだけど」

 

「お腹空いてなくてもケーキは食べられるでしょ」

 

「それは……まあ」

 

 勧められて一口食べてみれば、普通に美味しかった。

 

 むしろ元の世界で食べた有名店のものと比べても遜色がない気がする。

 

「……美味しい」

 

「でしょ?」

 

「なんであなたが作ったみたいな顔してるの」

 

「ストレス解消、大事だから」

 

「便利な言葉になってない?」

 

「迷宮も認めてるから問題なし!」

 

 反論しにくい。

 

 結局その日の午後は、三十人でケーキを食べながら過ごすことになった。

 

 もはや空腹を満たすためではなく、ただ美味しいから食べる。生きるための食事を必要としなくなった彼女たちにとって、食べるという行為そのものが娯楽へ変わりつつあるらしい。

 

 そんな生活が始まってから、数日が過ぎた。

 

 蛍と葵は最深部へ辿り着き、香奈恵たち三人はすでに成熟を完了している。待機組の二十五人も以前からほとんど探索へ戻る気を失っていたため、今では誰一人として教室の外へ出ようとはせず、この中だけで一日が終わるようになっていた。

 

 誰かが本を読み、別の誰かがゲームをし、何人かは新しく用意してもらった映像を眺めている。その隣では友人から分泌物を飲ませてもらいながら当たり前のように話をする者がいて、さらにその横では数人がケーキの追加を端末へ頼んでいた。

 

 外から見れば、どこを切り取っても異常な光景のはずだった。

 

 けれど、この数週間をここで過ごしてきた蛍にとっては、それがすっかり見慣れた日常になっている。

 

「……私たち、本当に変わったよね」

 

 ある日の午後、蛍が何となく呟くと、隣でアイスを食べていた葵が首を傾げた。

 

「またその話?」

 

「いや、改めて見たらさ」

 

 蛍は教室を見回す。

 

 顔つきそのものが別人になったわけではなく、昔から知っている相手なら今でも誰が誰なのかはすぐ分かる。けれど、それ以外の部分は大きく変わっていた。

 

 肌は全員が不自然なほど滑らかで、髪も何も手入れをしていないとは思えないほど艶やかだ。元々整っていた麗華だけではなく、誰もが以前よりはっきりと美しくなっている。

 

 身体も同じだった。細く絞られた腰の下には、大きく丸みを帯びて後ろへ張り出した腰回りが続き、太ももにも柔らかな肉がついている。

 

 そして何より目を引く胸は、待機組の多くがすでに三百センチ前後に達していた。個人差はあるものの、大きな者では三百五十センチへ届きそうなほどに育っており、少し上体を動かすだけでも、どたぷん、と音でもしそうな巨大な乳房が大きく揺れる。

 

 それほどの身体をした女性が二十人以上、同じ教室の中で当たり前のように本を読み、ゲームをして、甘い物を食べながら雑談しているのだ。

 

「……冷静に見るとすごいよね」

 

「だから、毎日見てるから慣れただけだって」

 

 近くにいた一人が笑った。

 

「美人にしてくれたこと自体は、ちょっと嬉しいけどね」

 

「それは分かる」

 

「肌荒れしなくなったし」

 

「髪もずっと綺麗だし」

 

「お尻とか脚も前より形いいしね」

 

「でもさぁ」

 

 別の子が自分の胸元を見下ろす。

 

「おっぱい、ここまで大きくしなくてもよかったよね」

 

「それは本当にそう」

 

「百センチくらいで十分だった」

 

「今、百センチって聞くと小さい気がするの怖くない?」

 

「感覚壊れてるよ、私たち」

 

 笑い声が上がる。

 

 葵も自分の胸を見下ろして苦笑した。

 

「まあ、迷宮の目的がおっぱいだったみたいだからね」

 

「言い方」

 

「でも間違ってないじゃん」

 

「否定できないのが嫌なんだけど」

 

 また笑い声が広がった。

 

 ただ、そこで蛍は一つ気になることに気づいた。

 

「……そういえば」

 

「何?」

 

「最近、皆の胸、前ほど大きくなってなくない?」

 

 最初の頃は一日単位でも違いが分かった。

 

 途中からはさらに成長速度が増し、分泌物を飲んだ者については短い間にも目に見えて変化していたはずだ。

 

 ところが、ここ数日は違う。

 

 三百センチを超えた辺りから、多くの者の成長が明らかに鈍っていた。

 

「私も思ってた」

 

「測ってみる?」

 

「昨日測った子、いたよね」

 

「ほとんど変わってなかったよ」

 

「じゃあ、止まるの?」

 

 当然のように、皆の視線が壁際の端末へ向かった。

 

 数日前までは何か知りたければ命懸けで迷宮を進まなければならなかったのに、今では少し疑問に思えばすぐ聞ける。

 

 便利になったものだ。

 

「ねえ」

 

『質問を受け付けます』

 

「私たちの胸って、ずっと大きくなり続けるわけじゃないの?」

 

『肯定』

 

「止まるんだ?」

 

『各個体について、長期維持に適した発達量へ到達した時点で、乳房を含む主要育成部位の拡張は停止します』

 

「どのくらい?」

 

『個体差があります』

 

「大体でいいから」

 

『現育成群では、胸囲約三百センチから三百五十センチの範囲に収束する個体が多数を占めます』

 

「……やっぱり、その辺で止まるんだ」

 

 蛍は周囲を見る。

 

 ちょうど今の皆の身体が、その範囲に入り始めている。

 

「もっと大きくした方が、いっぱい作れるんじゃないの?」

 

 葵が尋ねる。

 

『一定以上の身体肥大は、運動能力低下、日常行動への支障、身体的負荷および精神的ストレスの増大を招きます』

 

「それが駄目なの?」

 

『長期的な健康維持および魔力性分泌物の品質・生産効率が低下します』

 

「……だから止めるんだ」

 

『肯定』

 

「動けなくなるまで大きくしても意味がないってこと?」

 

『概ね正確です』

 

 葵が自分の胸元を見下ろす。

 

「三百センチは動ける範囲なんだ……」

 

「この迷宮基準ではね」

 

「基準がおかしい」

 

 もっとも、それでも教室では一人で自由に動けない者が少なくない。三百センチ級ともなれば、迷宮内の装備による補助がない状態では、立ち上がるだけでも友人の手を借りることがある。

 

「でもさ」

 

 一人が端末へ向かう。

 

「実際、私たち今でも結構動くの大変なんだけど?」

 

『生活補助設備の追加提供が可能です』

 

「あるの!?」

 

『要望があれば提供します』

 

「また要望待ちだった!」

 

「本当に聞かないと何もしないね!」

 

 その日のうちに、大きな身体でも楽に座れる椅子や寝具、移動を助ける簡単な補助具が教室へ追加された。

 

 ますます快適になっていく。

 

「……これ、本当に罠じゃない?」

 

 新しい椅子へ身体を預けながら琴音が呟く。

 

「まだ言ってるの?」

 

「だって、困ったことを言えば全部改善されるんだよ?」

 

「長期間飼うつもりだからでしょうね」

 

 麗華が冷めた声で答える。

 

「ストレスを溜められると困るから」

 

「でも、この椅子めちゃくちゃ楽」

 

「琴音」

 

「事実は事実じゃん」

 

 その横でゲーム機を握っているのだから、説得力があるのかないのか分からない。

 

 そんな数日の間に、待機組の中にも新しく成熟完了と判定される者が出始めた。

 

 本人がそれに気づくのは簡単だった。

 

 朝になっても赤い果実が欲しくならないのだ。

 

「私、今日お腹空いてない」

 

「じゃあ成熟したんじゃない?」

 

「聞いてみる?」

 

『当該個体の成熟完了を確認しています』

 

「やっぱり!」

 

「おめでとう……でいいのかな?」

 

「うーん……?」

 

 何とも言えない顔で笑い合う。

 

 以前なら、「成熟完了」という言葉を聞くだけでも嫌な気分になっただろう。今でも決して好きな言葉ではないが、すでにここへ残ることを選んだ者たちにとって、それはもう生活を大きく変える出来事ではなくなっていた。

 

 赤い果実を食べる必要がなくなり、身体の成長もやがて止まる。そして、いずれ全員が同じ状態へ到達すれば、探索という段階そのものが完全に終わる。

 

 その意味を知った上で、それでも彼女たちは笑っていた。

 

「そういえば蛍と葵は、帰ったらどうするの?」

 

 別の日、ケーキを囲んでいる時にそんなことを聞かれた。

 

「どうするって?」

 

「生活。学校とか」

 

「ああ……」

 

 蛍は思わず葵を見る。

 

「葵、陸上どうするの?」

 

「…………」

 

 葵の動きが止まった。

 

「迷宮では走れてたけど、それ装備が支えてくれてたからだよね?」

 

「……うん」

 

「地球では?」

 

「…………」

 

 今度は葵が自分の胸を見る。

 

 待機組ほどではない。

 

 けれど元の世界の常識から考えれば、それでも十分どころではなく大きい。

 

「これ全部、自力?」

 

「多分」

 

「全力疾走……」

 

 葵が本気で絶望したような顔になる。

 

「無理じゃない?」

 

「言わないで!」

 

 教室に笑いが起きる。

 

「蛍も剣道は?」

 

「……あ」

 

「防具着られる?」

 

「特注?」

 

「特注でも胸当てどうするの」

 

「…………」

 

「蛍も終わった」

 

「勝手に終わらせないで」

 

「じゃあ二人ともスポーツ引退?」

 

「嫌だなぁ……」

 

 葵が机へ突っ伏しかけ、胸が邪魔になって途中で諦める。

 

「私、走るの好きだったのに」

 

「私は剣道……どうなるんだろ」

 

「だから青い果実があるんじゃない?」

 

 一人が教室の隅を指した。

 

 袋の中には、まだ九個残っている。

 

「あれ全部使えば、ちょっとはマシになるでしょ」

 

「ちょっとは、ね」

 

「でも普通にはならないよね」

 

「それは言わない約束」

 

 葵が顔を覆った。

 

 笑いながらも、蛍は改めて思った。

 

 自分たちは帰ることができる。けれど、帰ったからといって元通りになるわけではなく、ここで変えられた身体も、異常なほど長くなった寿命も、迷宮で身についたものもすべて抱えて生きていくことになる。

 

 それでも帰りたいという気持ちは、少なくとも蛍の中では変わっていなかった。

 

「だからさ」

 

 麗華がケーキを食べ終えながら、念を押すように言う。

 

「帰れる二人はちゃんと帰りなさいよ」

 

「またその話?」

 

「だって葵、さっき『ケーキ食べ放題いいな』って言ってたでしょう」

 

「言ったけど!」

 

「私は仕事が好きだったの。家族にも会いたいし、元の生活にも戻りたい。ここがどれだけ快適になっても、それは変わらないわ」

 

 麗華は少しだけ視線を落とした。

 

「帰れないからここで暮らすしかないのと、自分から帰らないことを選ぶのは違うんだから」

 

「……うん」

 

 その隣で、琴音がゲームの画面から目を上げる。

 

「私はちょっと怪しくなってきたけど」

 

「琴音!」

 

「だって一生ゲームできるんだよ?」

 

「昨日からずっとそれね!」

 

「いや、でも考えてよ。新作っぽいゲームまで作ってくれるんだよ?」

 

「迷宮に順応しすぎでしょう!」

 

「これも罠だから」

 

「分かってて引っかかってるじゃない!」

 

 麗華の声に、また皆が笑う。

 

 その笑い声を聞きながら、蛍は教室を見回した。

 

 誰かが誰かの分泌物を飲みながらゲームの話をし、胸囲三百センチを超える身体でケーキを食べ、欲しい物があれば飼育施設の端末へ頼む。

 

 どう考えても正常ではない。

 

 それでも、この場所にいる全員がその異常さを知った上で笑っている。

 

 知らないから受け入れているのではない。

 

 何をされ、何のためにここへ置かれているのかまで知った上で、それでも今の生活を続けている。

 

 それが少しだけ不思議で、けれど以前よりもずっと納得できるようになっていた。

 

 数日の間に、蛍と葵は家族へ伝えてほしい言葉も一人ずつ聞いて回った。

 

 ほとんどは短かった。

 

「生きてるって言って」

 

「元気だって」

 

「心配しないでって伝えて。……無理だろうけど」

 

「お母さんには、ごめんって」

 

「それ言ったら余計心配するんじゃない?」

 

「じゃあ、元気だけでいい」

 

 迷宮のことを話せない以上、伝えられる内容には限界がある。

 

 それでも二十八人にとって、自分が死んだと思われたままになるよりはずっとよかった。

 

 蛍は一人ずつ聞きながら、忘れないように何度も頭の中で繰り返した。

 

 そして数日目の夜。

 

 教室の明かりが少し落ち、眠る準備を始める者が増えた頃、葵が隣へ座った。

 

「蛍」

 

「うん?」

 

「そろそろかな」

 

 何のことかは聞くまでもなかった。

 

 楽しかった。

 

 数日だけと決めて残った時間は、想像していたよりずっと穏やかだった。

 

 けれど、このままいつまでも先延ばしにしていれば、本当に帰る理由を見失ってしまいそうな気もする。

 

 蛍は教室を見回した。

 

 香奈恵は誰かと話している。

 

 麗華は新しく用意された鏡の前で髪を整えており、琴音は今日もゲーム機を手放していない。

 

 待機組の皆も、それぞれ好きなように過ごしている。

 

 明日からも、この場所ではきっと同じような日々が続くのだろう。

 

 ただ、その中に蛍と葵はいなくなる。

 

「……うん」

 

 蛍は小さく頷いた。

 

「明日にしようか」

 

「うん」

 

 葵も頷く。

 

 教室の隅には、帰還前に使うため取っておいた九個の青い果実がある。

 

 最深部には、まだ二人分の願いが残っている。

 

 帰る準備は、もうできていた。

 

 あと一晩。

 

 それが、三十人全員で同じ場所に眠る最後の夜になる。

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