爛熟の迷宮 ~祝福の果実に身体も心も変えられていく三十人の少女たち~   作:これはR-15の範囲内なのか

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第四話『拒絶の代償』

 三日目の朝。

 

 教室を包んでいたのは、昨日までの「修学旅行のような」朗らかな空気ではなかった。

 

 深い泥のような眠りから覚めた少女たちは、誰もが重苦しい倦怠感と、胸元に巣食う妙な熱っぽさに顔をしかめていた。それが気のせいなどではなく、自分たちの身体に『異常な変化』が起き続けているという事実が、着替えを始めた瞬間に決定的な絶望となって突きつけられた。

 

「……嘘でしょ、痛っ……!」

 

「ねえ、ちょっと……これ、どういうこと……!?」

 

 大浴場の脱衣所から、昨日とは質の違う、悲痛な悲鳴が次々と上がり始めた。

 

 神崎蛍は、制服のシャツに袖を通しながら、鏡の前に立つクラスメイトたちの姿を見て息を呑んだ。

 

 昨日、わずかに感じていた胸の膨らみは、確実に今日も成長を続けていた。たかが数センチの膨張と笑うかもしれない。だが、下着という身体に密着する布地の中において、その質量増加は致命的だった。

 

「だめ、カップに胸が収まらない……っ。お肉が溢れちゃって服の上からでも段差がわかるし……!」

 

「無理、ワイヤーが胸のお肉に食い込んで痛いよぉ……っ!」

 

 元から豊満だった生徒たちは、昨日まで無理やり身につけていたブラジャーが完全に凶器へと変わっていた。カップの容量が限界を超え、はち切れんばかりに膨らんだ柔肉が無惨に溢れ出し、硬いワイヤーが大きくなった胸を容赦なく圧迫している。

 

 貧乳・並乳のグループですら、昨日のお祭り騒ぎは完全に消え失せていた。昨日まで綺麗にフィットしていたはずの下着は、今や彼女たちの胸を締め付け、皮膚を赤く擦り上げている。

 

 蛍自身も、震える手で剣道着の下にサラシを巻き直そうとし、絶句した。

 

(……潰しきれない……っ)

 

 昨日までは、きつく巻けば平らに誤魔化すことができていた。だが今は、布をきつく締め上げようとすると、増えた胸の肉が行き場を失って横や上下にムニッと逃げてしまう。無理に平らにしようと押し潰せば、圧迫されて擦れた先端からツンとした鋭い痺れが下腹へと抜け、膝の力がカクンと抜けてしまうのだ。

 

「……こんなの、絶対におかしいわ!!」

 

 鏡の前で、篠宮麗華が叩きつけるように自らのブラジャーを床に投げ捨てた。

 

 グラビアアイドルとして徹底的に磨き上げられていた彼女の均整の取れたプロポーションには、すでに目に見える狂いが生じ始めていた。シャツのボタンを留めようとしても、第二ボタンから第三ボタンの間がパツパツに張り詰めて、はしたない谷間の影が丸見えになってしまっている。

 

「気のせいなんかじゃない。昨日も今日も、確実に大きくなってる! 一晩寝るだけで下着が入らなくなるなんて、人間の身体で起きるわけないじゃない! あの果実よ……あの気味の悪い実のせいで、私たちの身体、おかしくされてるんだわ!」

 

 麗華のヒステリックな叫びに、誰も反論できなかった。飢えも渇きも消し去る魔法の果実。それが、自分たちの肉体を都合よく作り変えるための「劇薬」であることに、少女たちもようやく気づき始めていたのだ。

 

「……麗華さんの言う通りかもしれないわ」

 

 委員長の香奈恵が、硬い声で口を開いた。彼女もまた、ブラジャーをつけるのを諦め、ノーブラのまま制服のシャツを羽織っていた。胸元が不自然に浮き上がり、動くたびに柔らかな肉が布地を擦るのがはっきりとわかる。

 

「今日は、あの果実を食べるのはやめましょう。水は大浴場でどうにか確保できる。だから、一日くらい食べなくても死にはしないはずよ。今日はあの果実なしで耐えてみましょう」

 

「……賛成。こんな風に身体を弄られるくらいなら、お腹が空く方がずっとマシよ。ダンジョンで何か食べ物も見付かるかもしれないし」

 

「私も……これ以上大きくなったら、本当に着るものがなくなっちゃう……」

 

 恐怖に駆られた少女たちは、次々と香奈恵の提案に頷いた。

 

 この閉鎖空間において、唯一の食料である果実を断つ。それは長く続けられる選択ではなかったが、自らの肉体が制御不能なバケモノじみたサイズへと変異していく恐怖は、飢えへの不安を容易く上回ったのだ。

 

「それじゃあ、今日も探索組は準備をして。今日は深く潜ることが目的じゃない。果実以外の水や食料を探す。昨日到達した場所より少し先を確認して、身体に異常が出たら即撤退」

 

 香奈恵の号令で、八人の探索組が再び重厚な鉄扉の前に立った。

 

 昨日の戦闘でジャージの袖を引き裂かれた葵は、大浴場に積まれていた「無地のシンプルな部屋着」のロングTシャツを身にまとっていた。伸縮性があり肌触りも良いが、生地が薄すぎるため、下着を着けられない今の葵の胸元は、柔らかな二つの起伏と微かな先端の突起を、残酷なほど如実に浮き彫りにしていた。

 

「……なんか、スースーして恥ずかしいな……」

 

 葵が頬を赤らめながら両腕で胸を隠すように抱え込む。

 

「大丈夫だよ、葵ちゃん。これを着れば見えなくなるから」

 

 蛍が、足元の石畳に転がったままになっていた革の胸当てを拾い上げ、葵に手渡す。昨日、教室に戻った瞬間に強制解除された迷宮の防具だ。

 

 鉄扉の向こう側――冷え切った地下の空気が漂う階段へと足を踏み入れた瞬間、葵が胸当てを押し当てると、革は再び燐光を帯びて生き物のように伸縮し、大きさを増した葵の胸に吸い付くようにピタリとフィットした。

 

「あ……。すごい、昨日より大きくなってるのに、全然苦しくない。むしろ、しっかり支えられてて……すごく楽……」

 

 葵がふうっと安堵の息を吐く。

 

 薄い部屋着のままでは、歩くたびに重みで揺れ、布地が擦れて落ち着かなかった胸元が、魔法の防具によって完璧に保護され、心地よい安定感をもたらしてくれたのだ。

 

(やっぱり、防具はこの迷宮の中でしか機能しない。……教室の中では、あの重みと擦れに耐えなきゃいけないんだ)

 

 蛍は自分の胸元をぎゅっと制服越しに押さえつけながら、竹刀を握り直した。サラシで潰しきれなかった膨らみが、歩くたびに微細な揺れを生み、神経をチリチリと逆撫でしてくる。

 

「行くわよ。怪我は戻れば治るといっても、絶対に無理はしないこと」

 

 香奈恵の指示で、八人は警戒しながら階段を下りていく。だが、最初の広間を抜け、昨日のゴブリンと遭遇した二つ目の広間へと足を踏み入れたとき、少女たちは自分たちの身体を襲う「決定的な違和感」に気づかされた。

 

「……はぁっ……くっ……」

 

「ちょっと、待って……。うまく、走れない……っ」

 

 まだ二つ目の広間だというのに、誰の足取りもぎこちなく、ひどく息が乱れていた。

 

 スタミナが切れたわけではない。だが、一切の支えを持たないまま胸元に追加された見知らぬ「肉の重み」が、運動部として培ってきた身体の重心を、決定的に狂わせていたのだ。

 

「身体のバランスが……おかしい……」

 

 蛍も、中段に構えた竹刀の切先が、踏み込むたびにわずかにブレるのを感じて歯を食いしばった。

 

 いや、それだけではない。

 

「んっ……ぅ……っ!」

 

 ノーブラのまま制服を着ている香奈恵たちをはじめ、サラシで無理やり押し潰していた蛍ですら、一歩踏み出すたびに激しい羞恥と不快感に顔を歪めていた。

 

 走るたびに、増大した胸が容赦なく上下に弾み、皮膚と布地が強烈に摩擦を引き起こす。果実の摂取を止めたことで、肥大化の過程で過敏に研ぎ澄まされた神経が剥き出しになっていたのだ。布が擦れるたびに、脳髄を痺れさせるような甘く痛い刺激が全身を駆け巡り、下腹からごっそりと力を奪っていく。

 

「走れ、ない……っ。胸が揺れて……擦れて痛くて……力が入らないよぉ……っ!」

 

 バスケ部の生徒が、胸を両腕で抱え込むようにして床にへたり込んだ。迷宮の防具という『揺れを抑える檻』がなければ、戦士として走ることすらままならない。自らの肉体が変質してしまったという事実を、これ以上ないほど残酷な形で突きつけられ、少女たちはただ不釣り合いな重い肉塊をぶら下げて喘ぐだけの『獲物』へと成り下がっていた。

 

 ピチャリ、ピチャリ。

 

 不気味な水音が、前方の暗闇から響いた。

 

 松明の明かりの先に現れたのは、昨日遭遇したスライム――よりも一回り大きく、体液を赤黒く変色させた強酸性の原生生物の群れだった。

 

「……っ! 来るわ、構えて!」

 

 香奈恵が叫ぶが、へたり込んだ仲間たちはすぐに立ち上がれない。

 

「やぁッ……!!」

 

 蛍が無理やり丹田に力を込め、飛びかかってきたスライムの一体に向けて竹刀を振り下ろす。だが、ステップを踏み込んだ瞬間の衝撃で、制服の中で柔らかな肉が大きく弾み、サラシの布地と強烈に擦れ合った。

 

「あッ……!?」

 

 全身を貫いた強烈な電流のような痺れに、蛍の手から完全に力が抜け、竹刀の軌道がぐんと逸れた。

 

 空を切った竹刀が石畳を叩く。

 

 その決定的な隙を見逃すはずもなく、赤いスライムの触手が鞭のようにしなり、蛍の制服の胸元へと叩きつけられた。

 

「蛍っ!!」

 

 葵の悲鳴が響く中、ジュゥッ、という肉の焼けるような不快な音と白煙が上がった。

 

「きゃあああああっ……!!」

 

 石室の天井を突き破るような、蛍の絶叫が木霊した。

 

 触手が触れた瞬間、制服のブレザーとシャツが、まるで熱した鉄板に落とされたバターのようにジュクジュクと泡を立てて瞬時に融解した。

 

 それだけではない。胸元を何重にも固く締め付け、蛍の「戦士としての矜持」を守り続けていたサラシの白布が、強烈な酸によってドロドロに溶け崩れていく。

 

「熱いっ、痛い、痛いぃっ……!!」

 

 布地を食い破った赤黒い溶解液が、直接、蛍の白く透き通った柔肌へと滴り落ちた。皮膚が焼け爛れ、肉が焦げる生々しい異臭が立ち上る。無防備に晒された柔らかな膨らみと、敏感に尖った先端を無慈悲な強酸が舐め溶かしていく激痛に、蛍は竹刀を取り落とし、床を転げ回って悶絶した。

 

「蛍っ!!」

 

 葵が叫ぶ。だが、周囲の生徒たちは、あまりの凄惨な光景に血の気を引き、金縛りに遭ったようにその場に立ち尽くしていた。

 

 痛覚が消えるわけではない。昨日の葵の言葉が、最悪の形で証明されていた。怪我は治ると分かっていても、目の前で友人の身体が溶かされ、響き渡る絶叫を聞けば、思春期の少女たちの精神など一瞬で粉砕されてしまう。

 

 ピチャリ、ピチャリ。

 

 獲物の抵抗が消えたことを察知したスライムの群れが、蠢きながら蛍へと覆いかぶさっていった。赤黒い粘液が蛍の手足を、胴体を、そして顔面までも呑み込み、全身の衣服を溶かしながら肉を溶かし尽くそうと貪り始める。

 

「ごぼっ……! あ……ぁ……っ、たす……け……っ」

 

 泡立つ粘液の奥で、蛍の細い指先が虚空を掻いた。

 

 死ぬ。このまま、ドロドロに溶かされて、骨すら残らず消えてしまう――。

 

 少女たちの絶望が極限に達し、香奈恵が悲鳴混じりに武器を構えようとした、その刹那だった。

 

 キィィィィン――!!

 

 初日の教室で聞いた、あの鼓膜を劈くような高周波の金属音が響き渡った。スライムに覆い尽くされていた蛍の身体から、目の眩むような青白い燐光が爆発的に吹き荒れる。複雑な幾何学模様の光条が蛍の周囲を円形に走り抜けたかと思うと、

 

 ――ボッ!!

 

 空気が爆縮するような重い衝撃音とともに、スライムの群れが四方へと激しく吹き飛ばされた。

 

 そして。

 

 光が収まった石畳の上には、ただ空気を焼く白煙が漂っているだけで――蛍の姿は、跡形もなく掻き消えていた。

 

「……え?」

 

 葵が呆然と呟いた。

 

 血痕も、肉片もない。まるで最初からそこに誰も存在しなかったかのように、ぽっかりと空白が生まれていた。

 

「蛍ちゃんが……消えた……?」

 

「嘘でしょ……食べられちゃったの……!?」

 

「いやぁぁぁぁっ!!」

 

 何が起きたのか理解できない生徒たちの口から、狂乱の悲鳴が決壊した。吹き飛ばされたスライムたちが、再び核をぎらつかせながら、獲物を求めて鎌首をもたげる。

 

「に、逃げてっ!!」

 

 香奈恵が喉も裂けんばかりに絶叫した。もはや陣形も連携もなかった。武器を投げ捨て、七人の少女たちは背中を向け、なりふり構わず階段へと向かって走り出した。

 

 走るたびに、ノーブラの胸が激しく暴れ、布地と擦れて下腹に甘く痛い刺激を叩き込んでくる。だが、背後から迫る死の気配は、その快楽のノイズすらも上回る恐怖となって少女たちの足を駆り立てた。

 

「はぁっ、はぁっ、いやっ、来ないでぇっ……!!」

 

 階段を駆け上がり、転がり込むようにして重い鉄扉へと手をかける。七人はもつれ合いながら教室の中へと雪崩れ込み、全員の力で鉄扉を押し閉めて、ガシャンと閂を叩き落とした。

 

「はぁっ……はぁっ……! うそ、嘘でしょ……蛍ちゃんが……!」

 

 葵が涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら床に崩れ落ちる。教室に残っていた待機組の生徒たちも、ただならぬ叫び声と血相を変えて逃げ込んできた七人の姿を見て、一斉に駆け寄ってきた。

 

「ちょっと、どうしたの!? 何があったの!?」

 

「神崎さんは!? 神崎さんはどこなの!?」

 

 口々に叫ぶクラスメイトたち。だが、その喧騒を切り裂くように、教室の隅――教壇のすぐ脇から、か細い呻き声が聞こえた。

 

「……っ……う……ぁ……」

 

「……え?」

 

 全員の視線が、一斉に教壇へと向けられた。そこに、横たわっていた。

 

「蛍……!?」

 

 葵が悲鳴を上げて駆け寄る。床に倒れ伏していたのは、間違いなく神崎蛍だった。スライムの強酸によって引き裂かれ、焼かれていたはずの肉体は――教室の治癒によって、傷口一つなく、赤みすら残さず、滑らかな白い肌へと完全に修復されていた。

 

 だが。衣服は、元には戻らない。

 

 それだけではなかった。スライムに襲われた際、蛍が石畳へ取り落とした竹刀も、彼女とともには戻ってきていなかった。あの迷宮のどこかに、置き去りにされたままだ

 

 蛍の制服のブレザー、シャツ、そして胸を潰していたサラシは、完全にドロドロに溶け去っていた。焼け残ったスカートの切れ端を腰に引っ掛けているだけで、上半身は完全な全裸。

 

 昨日よりも確実に膨らみを増し、乳白色の艶を帯びた豊かな二つの果実が、荒い呼吸に合わせて上下し、桜色の先端を何の覆いもなく、教室の青白い光の下に無防備に晒し出していた。

 

「あ……あぁ……っ」

 

 傷は治っているはずなのに、全身を焼き溶かされた激痛の記憶が消えないのか、蛍は自分の両腕で、見慣れない膨らみを帯びた胸元をぎゅっと抱きかかえ、ガチガチと歯を鳴らして震えていた。

 

 死の淵に瀕した者を、強制的に回収する転移。そして、傷を癒やし、再びこの部屋へと閉じ込めるシステム。

 

 少女たちは、震える手で自らの胸を押さえながら、目の前の光景に絶句していた。

 

 少なくとも、簡単には死なせてもくれない。

 

 この場所は、傷を癒やすための病院などではなく――どれほど損壊しても、傷だけを消し、その時点での『完全な肉体』へと強制的に修復して、閉じ込め続ける逃げ場のない牢獄なのだと。

 

 言葉にこそ出さなかったが、悪意としか思えないその仕組みが、三十人の少女たちの心をゆっくりと、確実に侵食し始めていた。

 

 教室の中は、水を打ったような静寂に支配されていた。誰も声を発することができない。

 

 無惨に溶かされた衣服の残骸、全裸の上半身を抱きしめて床にうずくまる蛍、そしてガチガチと鳴り響く歯の根の音だけが、静寂の底で響いていた。

 

「……あ、あぁ……っ、痛い……痛いぃっ……!」

 

 蛍の口から、掠れた嗚咽が漏れ続ける。

 

 傷口は完全に塞がっているはずだった。二の腕も、鎖骨も、露わになった双丘も、赤み一つなく陶器のように滑らかな肌に戻っている。

 

 だが、蛍の脳裏には、強酸に肉を焼かれ、先端をドロドロに溶かされた瞬間の「地獄のような激痛」が生々しく焼き付いて離れなかった。

 

 痛い。肉が焦げている。まだ火を押し付けられているように熱い。

 

 肉体が修復されても、神経が刻み込まれた恐怖と『幻痛』までは、この教室の結界でも癒やすことはできなかったのだ。あまりの苦痛の記憶に、蛍は床に爪を立て、涙と涎を垂らしながら身を捩る。

 

 その時だった。

 

 ――ポトッ。

 

 静かな石室に、重い何かが落ちる音が小さく響いた。教壇の脇。誰も触れていないはずの瑞々しい低木から、熟れきった深紅の果実が一つ、自ら枝を離れて床の石畳へと転がり落ちたのだ。

 

 そして、まるで生き物のように、緩やかな傾斜を滑るようにして――コロン、コロンと音を立てながら、倒れ伏す蛍の目の前でピタリと止まった。

 

「……っ……」

 

 誰かが息を呑んだ。あたかも、激痛に狂う蛍を見下ろし、「これを食べなさい」と差し出しているかのように。

 

 滴るような露を湛えた、妖しく輝く深紅の果肉。そこから立ち上る濃厚で甘美な香りが、蛍の鼻腔を直撃した。

途端に、蛍の脳裏へ、教壇の脇の石板に刻まれていた文字が、まるで直接網膜を灼くように鮮明にフラッシュバックした。

 

『祝福の果実。一つ食せば飢えも渇きも癒え、美しき肉体と活力を保たん』

 

(……これを、食べれば……?)

 

 朝、香奈恵たちと交わした「今日は食べない」という誓い。身体が化け物のように作り変えられてしまうという恐怖。そんな理性的な思考のすべてが、今まさに全身を焼き尽くさんとする幻痛の前に、ガラガラと音を立てて崩れ去っていく。

 

 痛い。もう嫌だ。この苦しみから逃れられるなら、何だっていい――。

 

 震える指先が、這うようにして赤い果実へと伸びた。葵が「蛍ちゃん……?」と小さく声を上げたが、止めることはできなかった。蛍は両手で果実を鷲掴みにすると、すがるように、自らの口元へと引き寄せた。

 

 そして――。

 

 シャクッ!!

 

 貪るような咀嚼音が、教室に響き渡った。噛み砕いた瞬間、とろけるような甘い果汁が爆発し、蛍の口腔を満たした。喉を伝って胃の腑へと落ちていく熱い雫。

 

 その刹那。

 

「……っ、ぁあ……っ!」

 

 蛍の背筋が、ピクンと弓なりに跳ね上がった。果汁が血肉に溶け込んだ瞬間、あれほど蛍を狂わせていた全身の激痛と恐怖が、まるで嘘のようにフッと消え失せたのだ。

 

 痛みだけではない。午前中からずっと身体を苛んでいた脱力感、胸元が擦れる不快な苛立ち、そしてスライムに生きたまま溶かされたという記憶は消えていない。ただ、それに伴う恐怖と苦痛だけが急速に遠ざかっていく。全身の毛細血管を駆け巡る甘く温かな魔力によって、蕩けるように麻痺させられていく。

 

「……あ……は……っ」

 

 蛍の口から、苦痛の悲鳴ではなく、とろけるような甘いため息が漏れ出た。全身の力が抜け、床に突っ伏したまま、蛍はぼんやりとした瞳で自らの両手を見つめた。震えは完全に止まっていた。傷跡のない滑らかな肌には、再び内側から発光するような極上のツヤが戻り、失われていた活力が爆発的な勢いで全身を満たしていく。

 

 そして――トクトク、トクトク。

 

 露わになった無防備な胸の奥で、再び小さな心臓が目覚めたように、甘い熱を帯びた脈動が刻まれ始めた。肉体をさらに熟成させ、作り変えるための魔力が、再び蛍の胎内を駆け巡り始めたのだ。

 

「……治った……? 蛍ちゃん、痛くないの……?」

 

 恐る恐る近寄ってきた葵の問いに、蛍は力なく、しかし夢心地のような表情で小さく頷くことしかできなかった。

 

 助かった。あの地獄のような苦しみから解放された。その圧倒的な安堵の裏で、蛍の理性の奥底に、冷え切った絶望が突き刺さる。

 

(私……食べちゃった……。自分の意志で……この実を……)

 

 ただ、痛みに耐えかねて、恐怖から逃げるために、悪魔の果実へと自ら口づけをしてしまったのだ。

 

 朝、「断食」を宣言した三十人の少女たち。その目の前で、上半身を剥き出しにした最も強く迷宮を警戒し、抵抗し続けていた蛍が、果実の魔力に溺れて甘美な吐息を漏らしている。

 

 教室を満たす甘い香りと、蛍の艶めく柔肌を見つめながら、残された二十九人の少女たちは、喉をごくりと鳴らした。

 

 誰も口には出さなかった。だが、彼女たちの心に打ち立てられていたはずの「抵抗」の旗は、この瞬間、音を立ててへし折られていた。

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