爛熟の迷宮 ~祝福の果実に身体も心も変えられていく三十人の少女たち~ 作:これはR-15の範囲内なのか
「……蛍ちゃん、本当に大丈夫なの……?」
葵が震える声で尋ねると、床に座り込んでいた蛍は、どこか夢から覚めたような表情でゆっくりと顔を上げた。
先ほどまで激痛に狂い、涙と涎にまみれて床を掻きむしっていた姿が嘘のように、その瞳には澄んだ光が宿っていた。
「うん……。嘘みたいに、痛くないの。さっきまであんなに熱くて痛かったのに……全部、消えちゃった」
蛍は自分の手を見つめ、それからそっと胸元へと触れた。
スライムの酸で焼き溶かされた皮膚は跡形もなく、陶器のように滑らかな白肌が指先に吸い付く。果汁がもたらした強烈な魔力は、全身の疲労を吹き飛ばしただけでなく、細胞の隅々にまで甘い活力を満たしていた。
「本当だ……。顔色もすごく良くなってるし、呼吸も落ち着いてる……」
保健委員の生徒が恐る恐る近寄り、蛍の額や首筋に触れて目を丸くした。さっきまで痛みにうずくまり苦しんでいた人間が、赤い実をたった一口貪っただけで、まるで極上の休息をとった後のようにエネルギーを漲らせている。
「よかったぁ……! 本当に死んじゃうんじゃないかって思ったよ……!」
「無事でよかった、本当に……っ」
クラスメイトたちから、安堵の涙と声がこぼれ出した。
蛍がこのまま死んでしまうのではないかという最悪の恐怖からひとまず解放され、少女たちはお互いに肩を抱き合い、胸を撫で下ろす。だが――その歓喜の輪の底に、奇妙な冷たさが沈んでいるのを、誰もが心のどこかで感じ取っていた。
蛍の肌は、異常なほどに艶めいていた。艶やかに潤った唇、血色の良い薔薇色の頬、そして何より、衣服を失って無防備に晒された両胸の圧倒的な瑞々しさ。サラシを失ったことで隠す術のなくなった双丘は、昨日よりも確実に重みを増し、蛍が息を吸うたびに、弾力のある柔肉がふわりと揺れる。
「……神崎さん、これ着て」
香奈恵が、大浴場から持ってきた例の無地の部屋着――薄手のロングTシャツを差し出した。蛍はハッと我に返ったように頬を真っ赤に染め、両腕で胸を隠しながらシャツを受け取った。
「あ、ありがとう、橘さん……」
頭から被ったTシャツは肌触りこそ極上だが、下着を一切身につけていない蛍の身体にはあまりにも心もとなかった。胸を押し潰すものは何もない。
薄い綿布越しに、ふっくらと持ち上がった二つの膨らみの輪郭がそのまま浮かび上がり、擦れた先端がツンと布地を押し上げてしまう。サラシという鎧を奪われた蛍は、羞恥に耐えるように俯き、裾をぎゅっと握りしめるしかなかった。
(……助かったんだ。痛くないし、身体も元気になったし……これで、よかったんだよね……?)
自分に言い聞かせる蛍の背中に、クラスメイトたちの複雑な視線が突き刺さる。仲間が無事だったのは嬉しい。けれど、朝にあれほど固く誓った「果実を断つ」という約束を、既に探索組のエースと見なされていた蛍が真っ先に破り、その実の恩恵に浴して潤っているという事実。
その異様な回復力を見せつけられたことで、彼女たちの心には、安堵と同じくらい深い「気味の悪さ」が刻み込まれていた。
そして――時間が経つにつれて、教室の空気は再び重く沈み始めた。
ぐうぅぅ……。ぎゅるるるる……っ。
時計の針が正午を回る頃には、二十九人の少女たちの腹は、もはや隠しようもなく悲鳴を上げ始めていた。
「お腹……空いたぁ……」
「昨日まで全然平気だったのに……こんなに急に来るの……?」
まだ、この時点では耐えられた。空腹は強烈だったが、立って歩くことも、会話を交わすこともできる。少女たちは互いに励まし合いながら、「一日くらいなら大丈夫」と何度も自分たちに言い聞かせた。
だが、午後三時を過ぎた頃から、様子が変わり始めた。
最初に現れたのは、鉛を詰め込まれたような倦怠感だった。立ち上がるだけで膝が重く、数歩歩くだけで息が上がる。床に横になる生徒が一人、また一人と増えていった。
「なんか……身体、重い……」
「眠いっていうより、力が入らない……」
シャワーの湯を冷まして水分だけはどうにか補給できた。だが、いくら飲んでも空腹は一向に紛れず、身体に力が戻る気配もない。腹の底には何も入っていないはずなのに、身体だけが時間が過ぎるごとに重くなり、鉛でも流し込まれたような倦怠感が手足へ広がっていく。
夕方五時を回る頃には、今度は肌や髪にまで異変が現れ始めた。
「……ねえ、私の手、こんなに乾燥してたっけ?」
一人が震える声で呟いた。昨日まで滑らかだった指先は白く粉を吹き、頬は乾いて突っ張っている。髪も少しずつ艶を失い、指を通すたびに引っかかるようになっていた。
「嘘……朝はこんなんじゃなかったよね?」
「果実を食べてないから……?」
「……待って。これ、元に戻ってるだけじゃないよ」
自分の手の甲を見つめていた生徒が、青ざめた顔で呟いた。
「私、あの実を食べる前だって、こんなに肌荒れしてなかった……。こんなに身体が重くもなかったよ」
「じゃあ……これって……」
その先を口にする者はいなかった。果実によって与えられていたものが失われただけではない。食べる前の自分たちよりも、さらに悪い状態へと身体が落ちている――。
その事実には全員が薄々勘づいていたものの、誰もはっきりと言葉にしたくなかった。
午後七時。教室は、昨日までとは別の場所のように静まり返っていた。雑談をする気力もなく、二十九人の少女たちは壁にもたれたり、床に横になったりして、ただ時間が過ぎるのを待っていた。そんな空気に耐え兼ねたのか、香奈恵がようやく口を開いた。
「……もう今日はお風呂に入って休みましょう。温かいお湯に浸かれば、少しは空腹も紛れるかもしれないわ。眠れなくてもいい。横になって、少しでも体力を使わないようにしましょう」
その言葉に、異論を唱える気力のある者はいなかった。這うようにして立ち上がった二十九人の少女たちは、足を引きずりながら大浴場へと向かった。
「……結界は通れるんだ」
「一度食べればいいってことなのかな……」
木の引き戸を開け、服を脱ぎ捨てて浴室へと足を踏み入れた少女たち。だが、乳白色の巨大な湯船に身を沈めた瞬間、安堵のため息ではなく、悲鳴に近い呻きがあちこちから上がった。
「痛っ……!? なにこれ……お湯が染みる……っ!」
「肌が……ヒリヒリする……!」
昨日まで、あれほど極楽のように身体を包み込んでくれた温い湯。それが今、まるで細かい針の束で撫でられているかのように、皮膚をチクチクと刺激してきたのだ。
「うそ……私の肌、なんでこんなにガサガサなの……!?」
鏡の前に座った生徒が、すがるように自らの顔や腕を撫でて絶叫した。昨日まで陶器のように白く輝き、艶めいていたはずの肌が、たった半日足らずで粉を吹いたように乾燥し、キメが荒れ果てていた。
「嘘でしょ、化粧水……化粧水どこ!? 乳液もないの……!?」
濡れた身体のまま脱衣所へ駆け戻り、棚をひっくり返すように探しても、あるのは無愛想な部屋着とタオルだけ。元の世界なら当たり前に使っていたパックも保湿クリームもないこの石室では、荒れていく肌を少しでも労わる術すらなかった。
シャンプーを泡立てようとしても、あんなにサラサラだった髪はギシギシと指に絡まり、潤いを失ってパサついている。頬は不健康にこけ、目の下には濃い青紫色のクマが浮かび上がっていた。
「嫌……っ! なにこれ、私の顔じゃない……!」
「私も……背中も腕も、カサカサで痒いよぉ……っ!」
脱衣所の鏡の前で、麗華もまた、自らの顔を凝視して息を呑んでいた。グラビアアイドルとして何よりも大切にしてきた、瑞々しい肌と艶やかな唇が、見る影もなく干からびている。それなのに――鏡に映る胸元だけは、昨日までに増した重みをそのまま残し、元の姿へ戻る気配すらなかった。
全身が飢えと衰弱に蝕まれていく中でも、すでに変化してしまった身体だけは元へ戻る気配がないのだ。
「……こんなの、あんまりよ……っ」
麗華は唇を噛み締め、爪が食い込むほどきつく自らの胸を抱きしめた。果実の加護を失ったことで剥ぎ取られたのは、単なる体力だけではなかった。
果実によって与えられていた瑞々しい肌も、艶のある髪も失われ、それどころか元の自分たちよりもさらに不健康な姿へと衰えていく。自分たちの身体が何か得体の知れない力に管理されていたという事実だけが、残酷なほど鮮明になっていく。
そんな中。湯船の片隅で、ただ一人だけ、濡れた黒髪をかき上げている蛍の姿があった。
「…………」
蛍の肌には、カサつきなど微塵もなかった。湯を弾くみずみずしい皮膚は透き通るように白く、乳白色の湯面から覗く胸元は、昨日よりもさらに一回りふくよかに実り、しっとりとした極上の弾力を湛えていた。
たった一つ、あの実を口にしたというだけで。
飢えに喘ぎ、肌を荒らして縮こまる仲間たちの中で、蛍だけが、まるで同じ時間を過ごしていないかのように、健康な姿を保っていた。
誰一人、蛍に話しかける者はいなかった。嫉妬と、恐怖と、羨望。ドロドロとした感情が湯煙の中に渦巻き、浴室を息が詰まるような沈黙が覆い尽くしていた。
風呂から上がり、配給された無地の部屋着に袖を通した少女たちは会話を交わす気力すらなく、カチリ、とレバーが倒され、教室が完全な暗闇に沈む。
「……おやすみ……」
誰かが掠れた声で呟いたが、返す声は少なかった。
どうにかして寝ようとしたが、眠れる者はほとんどいなかった。空腹で胃が痛む。身体が冷える。全身に力が入らない。それでも皆、耐えていた。そこから時計の針が進むたびに、暗闇の中から小さな呻き声が増えていった。
そして――時計の針が日付を跨いだ頃。
カサリ……。
布団代わりにしているタオルの上を、何かが這いずるような小さな衣擦れの音が響いた。一人ではない。二つ、三つの気配が、暗闇の中で息を殺しながら、音を立てないようにゆっくりと動いていた。
(……誰……?)
薄い意識の中で、蛍は目を開けた。暗闇に目が慣れてくると、青白い鉱石のかすかな残光の中に、四つん這いになって床を這う複数の人影が浮かび上がった。
影たちは、教壇の脇へと向かっていた。あそこには何があるか。言うまでもなかった。昼に蛍が口にした一つを除き――枝には二十九個の熟れきった深紅の果実が、妖しい夜露を湛えて実っているはずだった。
「……ぁ……っ」
教壇の前にたどり着いた一つの影が、震える手を伸ばした。細い指先が、艶やかな果実をもぎ取る。プチリ、と枝が千切れる音が、静寂の教室に信じられないほど明瞭に響き渡った。
もはや、周りの目を気にする余裕すら残っていなかった。影は両手で果実を口元へと押し込み、貪るように歯を立てた。
シャクッ……ジュチュッ……。
甘い果汁が爆ぜる、生々しい咀嚼音。その瞬間、暗闇の奥から、喉を鳴らすような甘いため息が漏れ聞こえた。
「……んんっ……あぁ……っ……」
果汁を飲み干した影の身体が、快楽に震えるように弓なりにしなるのが見えた。カサついていた肌に瞬時に潤いが戻り、萎えかけていた肉体に猛烈な活力が蘇っていく気配が、空気の揺らぎだけで伝わってくる。
「……わたし、も……」
「もう、無理……お腹空いた……っ」
耐えきれなくなった別の影たちが、我先にと低木へと群がっていった。シャクッ、シャクッ、と暗闇の中で重なり合う甘美な咀嚼音。それは、飢えに負けた少女たちが、自らの尊厳と引き換えに、悪魔の飼育を受け入れた音だった。
タオルの寝床の中で、じっと息を殺していた残りの生徒たちも、その音を聞いていた。止めに入る者はいなかった。誰一人として、彼女たちを裏切り者と責めることなどできなかった。
暗闇を満たす、あの熟れきった果実のむせ返るような甘い香り。
「あんなものに屈しちゃダメだ」「理性を保たなきゃ」と必死に言い聞かせているはずなのに、飢えた肉体はあまりにも残酷に従順だった。
じゅわり、と奥歯の付け根から熱い唾液が止めどなく溢れ出し、口の中を満たしていく。ごくり、と喉を鳴らして飲み込む音すら、この静寂の中では「私も食べたい」という卑しい告白のように響いてしまいそうで――少女たちは固く唇を噛み締め、涙を浮かべて枕に顔を押し当てていた。
誰も止めなかった時点で、結束に最初の亀裂が入った。明日の朝、果実を貪った者と、頑なに拒み続けた者の間に、どれほど残酷な格差が広がっているのか。破滅へのカウントダウンは、夜の闇に紛れて、静かに加速していた。