爛熟の迷宮 ~祝福の果実に身体も心も変えられていく三十人の少女たち~   作:これはR-15の範囲内なのか

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第八話『たった一つの救い』

「きゃああっ!?」

 

 ドサッ、と乾いた音を立てて、蛍の身体が教室の床へと投げ出された。

 

 頭部に傷はない。血も流れていない。迷宮の緊急送還システムが、致命傷を負う寸前で蛍を安全地帯へと引き戻したのだ。

 

 ガラガラと音を立てて床に散らばる戦利品。無傷のチェストプロテクター二着、ショートソード一振り。そして――冷たい青い光を妖しく放つ、たった一つの小さな果実。

 

「蛍ちゃん……っ!?」

 

 駆け寄ろうとした葵の目の前で、蛍の身体に異変が起きていた。

 

 迷宮の境界線を越えたことで、あの大玉スイカのような異常膨張の呪いが解け、胸は、罠にかかる直前――通算三センチだけ増えた状態へと急速に戻っていった。

 

 だが――。

 

「はっ……ぁ……っ、なに……これ……っ!?」

 

 トラップの異常な快感、そして防具の麻酔が切れた反動。隠蔽されていた極限の筋肉疲労と、一度限界まで引き伸ばされて過敏になりきった神経が、元に戻った胸の先端から下腹部へとツンと疼きとなって逆流した。

 

 蛍は荒い息を吐きながら、床に両手をついて四つん這いに崩れ落ちた。腰に力が入らない。下半身がじんと熱く痺れ、立っていることすらできない。

 

「蛍ちゃん、何があったの……?」

 

「……罠。『試行の洗礼』って……それで、身体が急に……」

 

 そこまで答えるのが精一杯だった。蛍自身にも、あれが攻撃だったのか、何かの試験だったのかすら分からない。無双の慢心から、ゴブリンの棍棒で頭を砕かれる寸前まで追い詰められた敗北。そして、床に転がる「青い果実」を前に、教室の空気は凍りついていた。

 

「それ、なに……? その、青い色した果実」

 

 静まり返った教室の中、震える声が落ちた。

 

 声の主は、篠宮麗華だった。

 

 カサついた肌に、目の下の濃い隈。昨夜の飢えと衰弱に耐え抜き、今朝も頑なに赤い果実を拒み続けている。蛍が生きて戻ったことに一瞬だけ安堵を浮かべたものの、その視線はすぐに、石畳を転がった青い光へと吸い寄せられた。

 

 細く乾いた指先が、妖しく冷たい燐光を放つ小さな実に触れる。その瞬間――麗華の身体が、雷に打たれたかのように硬直した。

 

「……っ!?」

 

 蛍がスライムの跡地で感じたのと全く同じ、脳裏へ直接冷徹な文字が焼き付けられる感覚。麗華の瞳孔が限界まで見開かれ、浅い呼吸が喉の奥で止まった。

 

『浄化の蒼果。肥えゆく肉を鎮め、身体を清めん』

 

「……うそ……」

 

 麗華の唇から、掠れた呟きが零れ落ちた。指先から伝わってくるのは、燃えるように熱を帯びていた胸元を瞬時に鎮めるような、澄み切った氷のような冷気。

 

「これ……胸を、小さくできるの……? 元の……元の身体に戻れるの……!?」

 

 その悲鳴のような叫びが響き渡った瞬間、教室の空気が爆発するように沸騰した。

 

「えっ……!? 今、なんて言ったの!?」

 

「小さくできるって……本当!?」

 

「元のサイズに戻れるの!?」

 

 床に座り込んでいた生徒たち、壁にもたれて衰弱していた生徒たちが、飢えた獣のように一斉に教壇の前へと群がってきた。誰もが、毎日一センチずつ自分を侵食していく肉体の変化に怯え狂っていたのだ。

 

 胸が張るたびに削られていく尊厳、下着が食い込む屈辱、歩くたびに揺れる不快感。それらをすべて帳消しにできるかもしれない「奇跡」が、今、目の前にある。

 

「見せて、麗華ちゃん! それ、本当に効くの!?」

 

「私に頂戴よ! 昨日から胸がパンパンで痛くて死にそうなの!」

 

「私だって! もう元のブラジャー入らなくなっちゃったんだよ!?」

 

 差し伸べられる無数の手。取り囲むクラスメイトたちの眼光には、友人に対する優しさなど微塵もなく、剥き出しの執着と欲望がぎらついていた。

 

「寄らないで……っ! 触らないでよ!」

 

 麗華は青い果実を両手で胸元に抱え込み、威嚇するように身を引いた。長い爪を立て、まるで宝物を奪われまいとする獣のように仲間たちを睨みつける。

 

「私が……私が一番必要なのよ! 元から大きかったのに、これ以上変えられたら……私の人生全部めちゃくちゃになっちゃうのよ……っ!」

 

「あんただけが特別だと思わないでよ!」

 

「そうだよ、あたしたちだって嫌なのに我慢してんだよ!」

 

 口論が一瞬で怒号へと跳ね上がる。友情も、クラスの調和も、たった一つの青い果実の前に消し飛んでいた。

 

「……あの、ちょっといいかな」

 

 ヒステリックな怒声が飛び交う教室に、場違いなほど低く、平坦な声が割り込んだ。

 

 群がる生徒たちの隙間を縫って、すっと前に進み出てきたのは――ダボダボのカーディガンに両手を埋めた、小柄な少女だった。重たい前髪が眉も瞳も完全に覆い隠し、表情を読み取らせない。

 

(あ……あの子は……)

 

 床に突っ伏したままの蛍の脳裏に、記憶の断片が繋がった。昨日の探索後、床に落ちた胸当てを拾い上げ、武器と防具の仕様を淡々と推測していた生徒。確か、三島琴音――いつも教室の隅でゲーム機や文庫本を開き、誰とも群れずに過ごしていたクラスメイトだ。

 

 琴音は騒ぎ立てるギャルたちの視線を意に介する様子もなく、長い前髪の奥から、麗華の手の中にある青い果実をじっと見据えた。

 

「……なんで、蛍さんが持ち帰ってきたのに、麗華さんが使うことになってるの?」

 

「……は?」

 

 麗華が毒気を抜かれたように、怒りの混じった目を琴音に向けた。琴音は眉一つ動かさず、淡々と事実を積み上げるように続ける。

 

「それ、蛍さんが命がけで持ち帰ってきたものだよね。篠宮さんが一番必要かどうかも、まだ誰にも分からないと思う」

 

「な、何言ってるのよ! 緊急事態なのよ!? 今そんなこと言ってる場合じゃ――」

 

「それに、仕様の話をするとね」

 麗華の切羽詰まった反論を、琴音はあっさりと遮った。ただ、そう言いながらも琴音は誰とも目を合わせようとはしなかった。重たい前髪の奥の視線は、麗華ではなく、その手の中にある青い果実だけに注がれている。

 

 人と話すことには慣れていなくても、「分からないものの仕様を整理する」ことだけは、彼女にとって馴染みのある作業らしい。説明に入った途端、それまでのおずおずとした様子が嘘のように、声から迷いが消えていた。

「赤い実は、少なくとも今のところ、なくなってもいつの間にか補充されてる。でも、その青い実は違う。今まで一度も見てないし、蛍さんが魔物を倒して初めて出てきた」

 

 琴音は少しだけ首を傾げた。

 

「ゲームで言うなら……レアドロップ、かな。説明文を見る限り、身体の変化を戻す効果がある可能性は高いと思う。でも、どのくらい戻るのか、本当に元通りになるのかまでは分からない」

 

 琴音の冷静な分析に、騒ぎ立てていた生徒たちが息を呑み、急速に静まり返った。怪物の存在も、怪我が治る奇跡も、すでに誰もが受け入れざるを得ない現実だ。オタクの戯言として切り捨てる者は、ここにはもう一人もいなかった。

 

「本物……本物なんだよね!?」

 

 麗華がすがるように果実を強く握りしめる。

 

「じゃあ、これを食べれば元通りに――」

 

「……でも、それ、一つしかないよ」

 

 琴音の冷徹な一言が、鋭い氷の針のように全員の心臓を刺し貫いた。

 

「ここにいるのは三十人。……青い実は、たった一つ。それに、まだ分からないことが多すぎる」

 

「……分からないこと?」

 

「どのくらい戻るのか。効果は一度きりなのか。食べたあとに赤い実を食べたら、また変化が始まるのか。そもそも、本当に説明文どおりの効果だけなのか」

 

 琴音は淡々と指を折っていった。

 

「今ここで誰か一人が食べちゃったら、やり直しはできない。一個しかない以上、別の人で試したり、条件を変えて確かめたりもできない」

 

 教室が、凍りついた。

 

 元の身体まで戻れるのかもしれない。ほんの少ししか戻らないのかもしれない。そしてたとえ戻れたとしても、翌日また赤い果実を口にすれば、変化が再開する可能性すらある。誰にも、何一つ確かなことは分からなかった。

 

「そんな……嘘でしょ……?」

 

「じゃあ、食べても意味ないってこと……!?」

 

「効くなら、意味はあると思う。でも、一人に使えば終わりかもしれない。次がいつ手に入るかも分からない。だから……私は、今すぐ誰かが食べるのは反対」

 

 琴音の言葉に、教室中の視線が青い果実へ集まった。

 

「少なくとも、今分かってることを整理した方がいいと思う。……それでも使うって決めるなら、一番切実に必要としてる人が誰なのか、全員で決めるべきじゃないかな」

 

 琴音の平坦な声が途切れた瞬間、教室は水を打ったような静寂に包まれた。

 

 怒号も、悲鳴も、綺麗に消え去っていた。代わりに広がったのは、先ほどまでとは質の違う、肺の奥まで凍りつくような冷たい沈黙だった。しかし、その沈黙を破るように麗華の怒号が響く。

 

「ふざけないで! こんな状態で、いつまで待てっていうのよ!?」

 

「分からない。だから勝手に食べちゃ駄目だって言ってる」

 

 その言葉に麗華は不満を顔に表していたがひとまず黙る。

 

「……とりあえず、それは私が預かるわ」

 

 香奈恵が静かに手を差し出した。麗華は青い果実を抱えたまま、しばらく動かなかった。だが二十数人の視線を浴び、やがて歯を食いしばりながら香奈恵の掌へと押しつける。

 

「……絶対、勝手に誰かに渡さないでよ」

 

「分かってる。全員で決めるまで、誰にも使わせない」

 

 青い果実は、香奈恵の提案でタオルに幾重にも包まれ、教卓の一番下の引き出しへと収められた。鍵などない。だが、「全員で決めるまでは誰も触らない」という約束そのものが、今の彼女たちに用意できる唯一の鍵だった。

 

 ――一番、切実に必要としている者。

 

 誰かが息を呑む音が、異様なほど明瞭に響いた。少女たちの視線が、無言のまま互いの身体へと巡り始める。

 

 誰が一番苦しんでいるのか。誰が一番、元の身体から遠ざかっているのか。そして――たった一つしかない救いを、誰に優先して与えるべきなのか。昨日までなら心配するために向けられていた視線に、初めて「比較」という冷たい色が混じっていた。

 

 救いになるはずだった奇跡の戦利品は、少女たちを救済するどころか、疑心暗鬼と剥き出しのエゴを暴き立てる、最も残酷な毒となった。教卓の一番下――幾重ものタオルに包まれたその奥で、青い果実だけが冷たい光を放っていた。

 

 床に突っ伏したままの蛍は、荒い息の下で、ただぎゅっと拳を握りしめる。命を削って持ち帰った代償が、この氷のような沈黙だった。

 

 答えの出ない問いを前に、三十人の少女たちは、互いの顔と身体をこれまでとは違う目で見つめながら息を殺していた。

 

 破滅へのカウントダウンが止まらない密室の中で、これまで見て見ぬふりをしていた亀裂が、もう誰の目にもはっきりと見える深さまで広がっていた。

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