爛熟の迷宮 ~祝福の果実に身体も心も変えられていく三十人の少女たち~ 作:これはR-15の範囲内なのか
教卓の引き出しに青い果実が封印されてから、数分間。教室は重苦しい沈黙に包まれていた。誰も口を開かない。けれど、少女たちの頭の中では同じような考えが芽吹き、熱病のように広がり始めていた。
「……ねえ」
静寂を破ったのは、ソフトボール部の生徒だった。初日に蛍たちと探索へ出た彼女も、昨日から何も口にしていない。今ではすっかり精気を失い、壁に背を預けたまま床へ座り込んでいる。
「もし、あの青い果実を食べたら……胸の大きさが元に戻るんだよね?」
「いえ、確証はないわ」
香奈恵は期待を煽らないよう、慎重に言葉を選んだ。
「分かっているのは、あの説明文らしきものから、赤い果実とは対照的な性質を持っていそうだと推測できることだけ。実際にどこまで戻るのかは、まだ誰にも分からない」
あくまで事実だけを並べた回答だった。だが、すでに限界へ近づいている少女たちにとって、それは「効果がない」という否定ではない。
「……でも、可能性はあるんでしょ?」
案の定、ソフトボール部の少女が食いついた。乾いた唇を舐めると、その熱っぽい視線が香奈恵から教壇脇の赤い低木へ移る。
「だったら……赤い果実を食べて体力を戻して……みんなでダンジョンに潜ればいいんじゃないの?」
「え……?」
「だって、蛍ちゃんは一人で青い果実を見つけてきたんだよ? だったら、もっと人数をかけて奥まで探せば、もっと多くの青い果実が見つかるかもしれないじゃん!」
その言葉が落ちた瞬間だった。張り詰めていた教室の空気が、一気に変わる。昨日から彼女たちを締めつけていた絶望の糸がぷつりと切れ、その代わりに『希望』という名の熱が、次々と少女たちの瞳へ灯っていった。
「確かに……! それなら、今これ以上胸が大きくなっても、後で青い果実を食べれば全部チャラにできるかもしれないってことだよね!?」
「防具や武器だって、また手に入るかもしれないし!」
「絶対そっちの方がいいよ! どっちにしてもダンジョンを攻略しないと帰れないんでしょ!?」
次々と上がる賛同の声。それは、彼女たちが抱えていた二つの恐怖――何も食べられない苦しみと、自分の身体が変わっていくことへの恐怖。そのどちらからも逃れられるかもしれない、あまりにも都合のいい答えだった。
赤い果実を食べるのは、身体を変えるためではない。青い果実を探し、元に戻るため。そして最深部へ辿り着き、この場所から帰るため。そう考えてしまえば、赤い果実へ手を伸ばすことにも理由ができる。
「……でも、青い果実が必ず出るとは限らないよ」
熱を帯び始めた教室に、琴音の小さな声が差し込んだ。何人かが振り返る。琴音は相変わらず誰とも目を合わせようとはせず、教卓の引き出しへ視線を落としたまま続けた。
「蛍さんが一個持って帰っただけ。ドロップ率も分からないし、どの魔物が落とすのかも分からない」
「でも、蛍ちゃんが手に入れて帰ってきたんだから、ゼロじゃないんでしょ?」
すぐさま誰かが返す。琴音はわずかに黙り込んだあと、小さく頷いた。
「……うん。ゼロじゃない。でも、どれくらいの確率なのかは分からない」
それ以上は、琴音にも何も言えなかった。蛍が青い果実を一つ持ち帰った。それだけが、今ある唯一の実例だ。このゲームじみた状況には、答え合わせをしてくれる攻略情報などどこにもない。何体倒せば次が出るのか。それ以前に、同じ魔物がもう一度落とすのかどうかさえ分からない。
けれど――少女たちが欲しかったのは、正確な確率ではなかった。ゼロではない。今は、その言葉だけで十分だった。
「どうせ、このまま食べなくても動けないんだし……」
「そうだよ。これは変わるために食べるんじゃなくて、元に戻る方法を探すために食べるんだよ」
その言葉に、何人もの視線が教壇脇の赤い果実へ吸い寄せられた。けれど、誰もすぐには立ち上がらない。理屈では納得できても、昨日まで恐れていたものへ自分から手を伸ばすとなれば話は別だ。誰かが最初の一歩を踏み出してくれるのを待つように、少女たちは互いの顔を窺っていた。
そんな中――予想外の人物が立ち上がる。
「……分かった」
立ち上がった少女を見て、香奈恵が目を見開く。
「麗華……?」
篠宮麗華だった。昨日、誰よりも強く赤い果実を拒絶していた少女が、壁に手をつきながら、ふらつく足取りで教壇へ向かっていく。
「青い果実が迷宮にあるなら、探しに行く」
「でも麗華、まだ何も――」
「分かってるわよ」
香奈恵の言葉を遮り、麗華は赤い果実を睨みつけた。
「もう一個出る保証なんてない。どれくらい戻るのかも分からない。そんなことくらい分かってる」
一歩、また一歩。昨日までなら、近づくことさえ嫌だった赤い低木の前へ、麗華は自分から立った。
「だからって、ここで何もしないで待ってたら、絶対に見つからないでしょ」
枝へ伸ばした指が、一瞬だけ止まる。この果実を口にすることは、迷宮に屈することと同じだ。昨日までの麗華なら、そう考えていた。けれど今は、その先に別の可能性がある。迷宮の奥には、自分たちを元へ戻してくれるかもしれないものが存在している。それを知ってしまった今、何もせず衰弱していくことの方が、麗華にはずっと恐ろしく思えた。
「これは諦めて食べるんじゃない」
自分自身へ言い聞かせるように呟いて、麗華は赤い果実を摘み取った。
「取り戻すために食べるの」
そして、迷いを断ち切るように口にする。変化はすぐに現れた。青ざめていた頬に血色が戻り、浅かった呼吸がゆっくりと整っていく。今にも崩れ落ちそうだった足から震えが消え、麗華は自分の力だけで真っ直ぐ立てるようになった。
「……やっぱり、効くんだ」
誰かがぽつりと呟いた。その一言を合図にしたかのように、一人、また一人と少女たちが立ち上がる。
「待って」
だが、教壇へ向かいかけた彼女たちを香奈恵が制した。
「食べることと、全員で迷宮に行くことは別よ。今ある防具は三つ。武器だって人数分はない。体力が戻ったからって、三十人で押しかければ安全になるわけじゃない」
「じゃあ、どうするの?」
「まずは装備を増やす」
香奈恵は迷いなく答えた。
「人数を決めて浅いところを回るの。そこで武器と防具を集める。それから少しずつ探索できる人数を増やしていく。青い果実を探すにしても、まずはそれからよ」
「私も行く」
間髪を容れず、麗華が声を上げた。
「麗華、あなた昨日まで――」
「だから行くのよ」
振り返った麗華の顔には、昨日までとは違う種類の切迫感が浮かんでいた。
「青い果実が必要なのは、私も同じなんだから」
「じゃあ、今日のうちに行く?」
誰かの一言をきっかけに、教室のあちこちでスマートフォンが取り出された。圏外の表示は相変わらずだったが、時計だけは正常に動いている。まだ夕方まではかなり時間があった。
それを確認すると、今度は「今日行く人を決めよう」という声が自然と上がり始めた。先ほどまで赤い果実へ手を伸ばすことさえ躊躇していたのが嘘のように、探索に名乗りを上げようとする生徒までいる。
「待って。今日は深くまで行かないわよ」
浮き足立ちかけた教室を、香奈恵が制した。
「目的は青い果実じゃなくて、まず装備を増やすこと。浅いところを回って、余裕を残して戻る。それでいい?」
反対する声はなかった。もっとも、「余裕を残して」と言っても、迷宮の中に昼夜があるのかさえ彼女たちには分からない。時計が夕方を示したからといって、あの地下空間が暗くなる保証もなかった。
「……それも分からないんだよね」
琴音が小さく呟く。赤い果実は飢えも渇きも癒し、疲労すらほとんど消してしまう。ならば睡眠まで必要なくなるのか――そんな疑問も出たが、結論はすぐに出た。
「分からないけど、試す必要なくない?」
葵が露骨に嫌そうな顔をする。
「徹夜して集中力落ちた状態で魔物と戦うとか絶対やだよ。眠れるなら普通に寝ようよ」
「それには賛成」
蛍も頷いた。
赤い果実が、どこまで自分たちを支えてくれるのかは分からない。けれど、分からないことを確かめるためだけに危険を冒す必要もない。少なくとも今は、それ以上試そうと言い出す者はいなかった。
「それじゃあ、今日行ける人」
香奈恵がそう告げると、今度こそ何本もの手が上がった。蛍、葵、麗華。香奈恵自身も当然のように人数へ入る。初日の探索に参加したソフトボール部の少女も手を挙げ、そのほかにも運動部を中心に数人が続いた。昨日までなら考えられなかった光景だった。
もちろん、全員ではない。教室の後ろでは、手を膝の上へ置いたまま俯いている者もいる。魔物と戦う恐怖は、青い果実が一つ見つかったからといって消えるようなものではなかった。
「……私、まだ無理かも」
ぽつりと漏れた声に、何人かが無言で頷く。
「それでいいと思う」
香奈恵も無理に促そうとはしなかった。
「今日の目的は人数を増やすことじゃないもの。まず装備を持ち帰る。それから――」
「……でも」
その言葉を遮ったのは琴音だった。探索への参加を表明するでもなく、教室の隅で膝を抱えたまま、おずおずと手を挙げている。
「どうしたの?」
「この教室って……ずっと安全なのかな」
思いがけない言葉に、教室が静まった。
「どういうこと?」
「ゲームだと、安全だと思ってた拠点に敵が来ることって、たまにあるから。襲撃イベントとか……それまで入ってこなかった敵が、途中から入ってくるようになったり」
「え」
何人かの顔が強張った。
「ちょ、ちょっと待って。この教室って安全地帯なんじゃないの?」
「ごめん。今からダンジョンに行くって時に、変なこと言って……。今のところは傷も治るし、魔物も入ってきてない。でも、『これからも絶対そうです』って説明されたわけじゃないから」
その言葉に、蛍はわずかに眉を寄せる。
「……そうなの? 葵、ゲームってそういうもの?」
「私に聞かれてもなあ……。ずっと陸上ばっかだったし」
葵が困ったように頬を掻くと、教室の何人かから小さな笑いが漏れた。張り詰めていた空気が、ほんの少しだけ緩む。
「まあ、あるにはあるよ」
別の生徒が答えた。
「絶対ここでもそうなるって意味じゃないけど。でも確かに、もし何かあったときに一度も魔物と戦ったことありませんっていうのも怖くない?」
今度は誰もすぐには答えなかった。戦いたくない。だが、戦わずに済む保証もない。少女たちはここへ来て初めて、その二つが同じ意味ではないことに気づかされていた。
「……武器が揃ってからなら」
やがて、今まで手を挙げていなかった少女が小さく呟いた。
「探索してくれるみんなには申し訳ないけど……ちゃんと防具とか武器があるなら、一回くらいは行ってみてもいいかも」
「私も……それなら」
同意する声が、ぽつぽつと続く。香奈恵はそれを聞きながら、しばらく考え込んだ。
「じゃあ、そうしましょう」
やがて顔を上げる。
「今日は経験のある人を中心に浅い階層を回って、装備を集める。数が揃ってきたら、行きたい人から少しずつ交代で探索に参加する。ただし、無理強いはしない。それでいい?」
今度は、教室のあちこちから頷きが返ってきた。それは彼女たちなりに考えた、安全のための取り決めだった。誰か一人に危険を押しつけないため。もしもの時、自分の身くらいは守れるようになるため。そして、青い果実を探すため。
「蛍も行くの? さっき戻ってきたばっかりじゃん」
真っ先に眉をひそめたのは葵だった。先ほどまで床に倒れ込んでいた幼馴染が、もうショートソードを手に立っている。その姿を見れば、心配になるのも当然だった。
「……うん。でも、もう動ける。それに今日は浅いところだけなんでしょう?」
蛍はその場で軽く足を動かしてみせる。身体の奥にはまだ先ほどの戦闘の名残がある気もしたが、少なくとも歩くことにも、剣を振るうことにも支障はなさそうだった。
「だからって無茶は駄目だからね」
葵はまだ納得しきっていない顔で蛍を睨む。
「本当に無理はしないこと」
香奈恵も念を押すように続けた。
「今日は神崎さんに先頭を任せるけれど、少しでも変だと思ったらすぐ戻るわよ」
「うん、分かった」
「それじゃあ――いのちだいじに!」
香奈恵が妙に力を込めて言い切った。
「死にかけたら教室に戻されるみたいだけど、それだって何度でも同じように助かる保証はないんだから。特に神崎さん。次も同じように戻されるとは限らないんだから気をつけること!」
「委員長、意外とゲーム知ってるね」
「そのくらいは知ってるわよ」
少しむっとした香奈恵の返事に、教室から笑いが起こった。
ここ数日の張り詰めた空気が嘘のように、教室には久しぶりの笑い声が広がった。その空気に背中を押されるように、探索メンバーは装備を確かめ、再び迷宮へ続く鉄扉をくぐっていく。
青い果実を探すため。自分たちの身体を取り戻すため。いつか、この場所から帰るため。誰もがそう信じていた。そして誰も気づいていなかった。昨日まであれほど恐ろしかったはずの扉を――今では自分たちの手で開くことに、ほとんど迷いがなくなっていたことに。