どこか遠くの方から、声が聞こえます。
必死そうな声。焦りを感じる声。中性的に聞こえますが、イントネーションの豊富さから女の人の声だとわかります。女性にしては低めのその声は、どこか安心感すら抱くような温かさを備えています。
そんな声に意識を預けていると、体が揺さぶられるのを感じました。地震でも起きたか、あるいは建物が攻撃を受けているのだろうかと周りを見渡そうとして、そこでようやく自身が瞼を閉じていることを自覚できました。
そうなると、先程の揺れは私自身の身体が揺さぶられているということになるのでしょう。
もう一度身体を揺すられて、ようやく私の意識は覚醒することを選んだようでした。
「大丈夫!?」
瞼の隙間から飛び込んできたのは、優しそうな相貌の大人の女性でした。心配そうにこちらを覗き込む垂れ目の双眼が私を真っ直ぐに見つめていて、低めの声とのギャップに私は思わずどきりとしてしまいます。
身体が硬直を決め込んでしまったので、彼女の姿をまじまじと見つめてみます。
栗毛のボブカット。身長は今の座り込んでいる様を考えるに恐らく160前後でしょうか。女性だと一目で判断できるほど主張している彼女の胸元は、彼女の容姿を論ずる際に外すわけにはいかないでしょう。
そんな場違いなことを考えている私の五感が少しずつ戻ってきて、後頭部の痛みと共に安心する香りを認識できるようになりました。
お日様の匂い。
彼女から感じる安心感は、これが大きな要因を占めているようにも思ってしまいます。
「大きな音が聞こえたから戻ってきたんだけど、大丈夫? 怪我はない?」
それを聞いた私はようやく動くようになった身体を動かし、辺りを見回します。
真っ先に目に入ったのは、この場にいるのが目の前の女性だけではないということでした。建物の入り口みたいなところから、メガネをかけた黒髪の女性が焦りと心配、そして僅かばかりの苛立ちをないまぜにしたような表情を浮かべていました。制服的には恐らく連邦生徒会の人で、もしかしたら仕事の途中だったのかもしれません。
彼女を無視してまじまじと目の前の女性を観察してしまったことに少しだけ罪悪感を抱きます。
そして次に目に入ったのは、私の後ろにある階段。上の方に自然光が見えるあたり、ここは地下なのでしょう。つまり、ここは建物地下へと続く階段ということになりましょうか。
そこまで状況を見て、先程の女性の言葉を振り返ります。
彼女は大きな音が聞こえたと言っていました。それが示すことは一つしかありません。
「だ、大丈夫です……! し、失礼しました!」
きっと、私は階段から落ちたのです。それで大きな音を立ててしまって、この人と黒髪の連邦生徒会の人の時間を奪ってしまった。
私は自分の鈍臭い失態に恥ずかしくなって、がばりと身体を起こしてその場を辞します。
一段飛ばしで駆け上がっても足が絡まなかったのに、なぜ先程は階段から落ちるなんて間抜けな真似をしてしまったのでしょう。
後ろから待ってという声が聞こえましたが、無視しました。
大体ここはどこなのでしょうか。連邦生徒会の生徒がいるということは、普通の生徒には用が無い場所のはずです。そんな場所に足を踏み入れているという焦りの感情もありました。
階段を上り切って、外に出ます。連邦生徒会の生徒がいたのでD.U.地区の可能性が高いとは思っていましたが、思っていたより中心街からは離れた場所のようです。
ミレニアムの摩天楼が科学的な発展の賜物だとすればD.U.地区は商業的に発展した結果のビル街ですから、いろいろな店が揃っていて、いろんな自治区の生徒が買い物と観光に訪れます。
逆に言えば日常生活では買い物以外で来ることはないのですが、ひとまずここに来た用事を済ませることに致しましょう。
辺りを見回せば戦闘の痕跡が見受けられましたので、巻き込まれないように慎重に動きます。
ヘルメット団の姿が見えたのですが、彼らはこんな街中で悪さをするような子たちだったでしょうか。相手をしているのもいくつかの学園の混成部隊のようですし、先程お会いした方の護衛で来ていたのかもしれません。
となれば結構大きな騒動だったりするのでしょうか。
「……………………おや?」
そんなことを考えながら目的地を脳内で設定しようとして、思考がフリーズします。
別に何か衝撃的なものを見たわけでもありません。目の前の光景は多少は非日常ではありますが、しかし銃撃戦はいつどこで起きてもおかしくないものですので。
なので、私の思考が止まった理由は私の内側にしかありません。
正確に言えば思考がフリーズしたのではなく、思考が一切回らなかった。答えを引き出そうとした引き出しには何も入っていなかったのです。
ええ。そうなのです。恥ずかしながら、自分がどこに行こうとしていたのかわからないことに気が付いてしまいました。
何をしようとしていたのか。どこに戻ればいいのか。一体どうしてこんな場所に来ていたのか。
そのどれの答えも自身が持っていないということを理解してしまいました。
であればもう一つだけわからないことがあるはずだと思って自身に問いを投げてみて、返ってきた予想通りの回答に努めて平静を保ちながら空を仰ぎます。
「さて、ここからどうしましょうか?」
乾いた笑いが込み上げてきますが、悲観的な行動はそれぐらいで留められています。
絶望的な状況ですが、しかし私の焦りはサボタージュしているようで、冷静に現状の分析を可能にしてくれています。
今の状況の原因は明白。階段から落ちて頭でも打ったのでしょう。あまりにもありきたりで、そして愚かな自分に反吐が出ます。
ですが過去の私が何を思っていたのであれ、代償を払えるのは今の私だけ。
ここからの歩みをどこへ向けるか、私は定めねばなりません。
「まずは、私の居場所に戻るとしましょうか」
制服に目を降ろし、自身の貧相な身体を検めながらまず一つ安堵の息を吐きました。
見たところ手入れがされて綺麗な服。不良の類ではなさそうです。少なくとも日常的に入浴と洗濯は可能な境遇ではあるでしょう。
であれば、制服を調べれば学校ぐらいはわかるはず。
体の無意識で取り出したスマートフォンで、パシャリと一枚自撮りを撮って、そのまま検索に掛けました。するとあっさりと学校名が判明しました。三大校や観光で有名な学校ではないようなので、地元の学校を受けたのでなければ過去の私は有名校に受かるような勉学の才はなかったようです。
ひとまず向かうべきところはわかったので、手元のスマートフォンへと目を落とします。
何とも無骨なスマートフォン。飾り気がなく、年頃の女子が持っているとは思えないほどです。私の美学的にも少し反しています。確かに潔いのはいいことですが、しかしもう少し、華美でない程度に日々を潤すアクセントは欲しいところ。
そこでスマートフォンを眺めているうちに、取り出したこの端末が情報の宝庫であることに気が付きました。
まず先程手癖のように取り出したあたり、スマートフォンを日常遣いしていたのは間違いないはずです。先程開いた時は指紋認証ですが、一応暗証番号もかかっている様子。こちらは思い出せないので、今後も指紋認証で開けるようにしておきましょう。
そして学校への電車がある駅へ向かいながら、スマートフォンの中身を検めます。歩きスマホにはなってしまいますが、この状況なのでお許しを頂きたいところです。
ホーム画面からして僅かばかりの違和感がありましたが、ひとまず情報が多いであろう写真フォルダを開いて、思わず足を止めてしまいました。
「あなたは……」
違和感の正体に気が付きました。写真フォルダのアプリを落としてホーム画面を確認して、それは疑念に進化し、メッセージアプリを開いて確信に変わります。
深く考えるのはやめておきました。学校に到着すればわかることだと思われたので。
写真フォルダに唯一存在する自撮り写真を開き、私は自分の容姿を確認することにします。
紫色の髪。明るい系統ではなく、闇を讃えるような暗色。瞳の紫は明るくはありませんが、髪の色よりはずっと淡く薄めの色で光を宿しています。髪型はショートカット。綺麗に切り揃えられているように見えて粗が見つかるので、自分で切っているかまだ未熟な人に任せているのかもしれません。
顔の系統はクール系でしょうか。私が真顔なのが原因かもしれませんが、あまり庇護欲をそそられるような見た目ではありませんね。瞼は一重で、若干釣り目気味ではありますが、それでも目の大きさ故か厳しい印象には見えません。左目の目尻に涙ぼくろがあるのも、その印象を強めている要因の一つかもしれません。
化粧は、見る限りではしていなさそうですね。肌の手入れもあまり積極的な印象は受けません。
全体的な印象ではありますが、以前の私はあまり女子高生らしいことをしていなかったような印象を受けますね。私とは美学が異なるようですが、私がこの身体にいるうちは私の好きにさせていただくとしましょう。
さて、駅に到着したので学校に戻るとしましょうか。学校に行けば、住居や諸々の所属が分かるでしょうから。
願わくば、今日が誰かとの待ち合わせではないことを。約束を反故にされた恨みというのは、後に尾を引くほど残るものですから。
今日出会った子のほとんどは三大校と呼ばれる大きな学校の生徒たちだったらしく、そこに多少なりとも繋がりができたのは、今後の活動を考えると良いことだったのかもしれない。
だからこそ、そうでない二人との出会いは異質に思えてしまう。
一人は『災厄の狐』と呼ばれた、今回の矯正局からの脱走及びシャーレの入っていた建物を占拠していた狐坂ワカモとの邂逅。彼女の正体はこの事務所についてから調べて判明したことではあるが、だからこそどうしてあそこで退いたのだろうと思ってしまう。
彼女からすれば、自分を拘束して人質とすることが最も適策だったはずだ。
それをしなかったのは彼女の気まぐれか、あるいは何か別の理由があったのだろうか。
「まあ、そのおかげで無事にいろいろ終えられたわけだけど」
過ぎたことは一旦置いておこう、とワカモのことを脇に置いて、もう一人について考える。
泣きぼくろが特徴的な、紫色の少女。階段から落ちたようだけど、どうしてあの場にいたのかはわからない。リンちゃんは
名前は聞けなかったけれど、制服に特徴があったからか彼女のことを調べることはできた。
音無イナ。学校はどこにでもあるような普通の学校。三大校でもなければ、特に観光で強みがあるわけでもない。言ってしまえば、地元を離れたくない生徒が行くそれなりのランクの学校だ。
調べてしまえばわかる。彼女には特に特筆すべき部分はない。
だからこそ、わからない。どうして今日ここに来ていたのだろうか。ここはD.U.の中心からは離れている。用が無ければわざわざこっち側には来ないはずなのだ。
「あ、できてる」
物言わず止まったコーヒーメーカーに別れを告げて、マグカップを持って自席へ戻る。
彼女に対する思考は止まらない。そのちぐはぐな様子が脳裏に焼き付いて離れないからだ。
まず一つ目につくのは、身長とその肉付きのアンバランスさ。背丈はあるのに、いろいろと栄養が足りていない印象を受けた。自分よりも5センチ以上は高いであろうその身長に対して、体重は自分よりもずっと軽そうだった。
もう一つは、後頭部に浮かんだ不思議な光輪の違和感。
ヘイローと呼ぶらしいそれは、生徒たちからするとあまりくっきりとは見えなくて、自分以外にはただの輪っかにしか見えていないようだ。だからこそ個性が見えるそのヘイローに、彼女の異常さが物語られていることに誰も気が付かない。
ヘイローが違う。
データで見た彼女の後頭部には、まるで地獄の番犬が首に巻いていそうなデザインの棘があるタイプの首輪が、赤に白が
けれど、この目で直接見た彼女のヘイローは淡いオレンジ色のアネモネだった。
別人かもしれないとも思ったけれどあの紫色は特徴的で、アロナ曰くデータベースを見る限り彼女以外の該当者は考えられないとのこと。
であれば、ヘイローが違うということは何を意味するのだろう。そのデザインが人の個性を表すのであれば、データベース上のヘイローが逆さまの薔薇と首輪であることも気になる。そのどちらについても、無視してはいけない何かの
あと一つ、何か重要な違和感があったはずなのだが、一体何だっただろうか。
そのまま深く考え込もうとした先生の耳に、着信を伝える
『先生、七神行政官から先程提出した書類への指摘が届いています』
「えぇ!?」
先生が有するタブレット、『シッテムの箱』。
その中で過ごす白い案内人に導かれて、先生はキヴォトスで起こる事件に巻き込まれていくこととなる。
リンちゃんからの連絡に意識が向いて、その日あった紫色の少女のことは、すっかり意識から抜け落ちてしまっていた。
久々に敬語一人称で書きたくなりました。対戦よろしくお願いします。