絶望少女になってしまった凡人の苦難 作:絶望に味を占めるな!
朝食会、などという仰々しい名前をつけたのは石丸清多夏だった。
「いいか諸君! このような非常事態だからこそ、規則正しい生活が重要なのだ! 毎朝七時半、全員で食堂に集合し、互いの無事を確認する! 異論はあるかね!」
朝っぱらから食堂いっぱいに響き渡った大声に、江ノ島盾子は千切ったパンを口へ放り込みながら片手で耳を塞ぎ、「朝から声でっか……鼓膜まで生活指導されそうなんだけど」と顔をしかめた。その横で朝日奈葵が吹き出し、大神さくらも僅かに目元を和らげながら「だが、皆で顔を合わせるという案には我も賛成だ。単独行動を避ける意味でも有効だろう」と頷けば、石丸は待ってましたと言わんばかりに背筋をさらに伸ばした。
「その通りだ、大神君!」
「いや、そこまで褒めてなくない?」
盾子がすかさず挟んだ一言に、朝日奈が今度こそ声を上げて笑い、苗木誠も困ったように口元を緩める。
――笑えている。
鉄板で塞がれた窓、外部へ繋がらない通信設備、校舎の至る所に設置された監視カメラ、そして、ここから出たければ誰かを殺せと告げた悪趣味な白黒のぬいぐるみ。どう考えても笑える状況ではないというのに、それでもまだ誰かのしょうもないやり取りで笑い声が起こり、食器の触れ合う音が鳴り、人が生きている気配が食堂を満たしている。
盾子は紙コップに残ったコーヒーを口元まで運び、湯気越しに何気なく周囲へ目を巡らせた。
桑田怜恩は頬杖をつきながら舞園さやかの方へ何度も視線を送っており、本人は巧妙に隠しているつもりなのだろうが、視線の頻度も戻すまでの時間も一定すぎて、盾子の目には分かりやすいにも程があった。
――最初のクロ。
思考が勝手に答えを出した瞬間、盾子はゆっくりとコーヒーをテーブルへ戻した。
その少し先では、舞園が朝日奈と会話を交わしながら柔らかく笑っており、カメラの前で幾度となく見せてきた完璧な笑顔とは違う、肩の力の抜けた素の表情がそこにある。
――最初の被害者。
止める間もなく、視線を動かすたびに知識が連鎖していく。
不二咲千尋。
大和田紋土。
石丸清多夏。
山田一二三。
セレスティア・ルーデンベルク。
大神さくら。
名前を認識するだけで、脳が死因と犯人と事件の順序を引き出し、誰が誰を疑い、どんな証拠が学級裁判で決定打となり、最後に何が残るのかまで勝手に並べてしまう。
原作知識。
前世の記憶。
それに今の自分が持つ、見たものを無差別に解析して先まで繋げようとする思考。
その三つが重なれば、人間一人を見るだけで、その人間の現在より先に結末が見えてしまう。
「……盾子ちゃん?」
隣から呼ばれ、盾子は瞬きを一つして現実へ意識を戻した。
「ん?」
顔を向けるのと同時に口角を持ち上げれば、そこにいた戦刃むくろは盾子の顔ではなく、テーブルの下へ落ちかけた右手を見ていた。自分でも気づかないうちにスプーンを強く握り込んでいたらしく、細い柄が掌へ食い込み、指の関節だけが白くなっている。
「なになに、お姉ちゃん? 朝っぱらから妹の顔に見惚れちゃった感じ? ま、分かるけど。あたし今日も超カワイイし?」
「そういうんじゃなくて」
「えー? 照れなくていーって。ウチら美人姉妹じゃーん?」
冗談めかして肩をぶつけると、むくろは僅かに身体を揺らしながらも笑わず、盾子の右手から視線を上げた。昔からそうだったが、この姉は人付き合いについては残念なほど不器用なくせに、自分の妹の些細な変化だけは妙に見逃さない。
「……無理してない?」
声が小さかったのは、周囲へ聞かせないためだろう。
盾子は一瞬だけ笑みを消したが、すぐにスプーンから指を離し、掌に残った赤い跡をテーブルの下へ隠した。
「だいじょーぶだって」
軽い声で返すと、むくろはなおも何か言いたそうに唇を動かしかけたものの、結局それ以上は追及せず、自分の皿へ視線を戻した。
その沈黙に、盾子は内心で小さく息を吐く。
今、生きている。
まずそれだけを見る。
桑田は生きている、舞園も生きている、不二咲も、大和田も、石丸も、ここにいる全員がまだ自分の足で歩き、自分の意思で話し、自分の知らないことを考えている。
未来ではない。
結果でもない。
今を見ろ。
先へ追うな。
そう自分に命じるのは、前世を思い出してから何度繰り返したか分からない習慣だった。
「つーか石丸さぁ、毎朝七時半は普通に早くね? ギャルの美容には睡眠が必要なんですけどー」
意識的に思考を打ち切り、盾子が頬杖をついて話題を振ると、石丸は待っていたようにこちらへ向き直った。
「江ノ島君! 夜更かしをせず早寝を徹底すれば、十分な睡眠時間は確保できるはずだ!」
「正論で殴ってくるのやめてもらえます?」
「正論ならば問題ないだろう!」
「ほら、そういうとこ!」
食堂にまた笑いが起こり、その輪の中で苗木まで小さく肩を揺らしているのが目に入ると、盾子は何となくそちらへ視線を移した。
苗木誠。
超高校級の幸運。
原作の主人公。
そして、江ノ島盾子を最後に打ち破る男。
知識の中にある苗木は、巨大なモニター越しにも絶望を否定し続け、死の恐怖さえ振り切って仲間へ希望を訴えかけていた。しかし目の前の少年は、石丸の声量に苦笑しながらバターの小袋を上手く開けられず、端を何度も引っ張っているだけの、ごく普通の高校生にしか見えない。
記憶の中の「主人公」と、今そこで朝食を食べている人間が、どうにも綺麗には重ならなかった。
「江ノ島さん?」
長く見すぎたのか、ようやく袋を開けた苗木が不思議そうに首を傾げる。
「ん?」
「いや、こっち見てたから」
「見てた見てた。超見てた」
「えっ」
「苗木ってさぁ、やっぱフツーだなーって思って」
「急に失礼だな!?」
思わず声を上げた苗木に、隣の舞園が口元へ手を添えながら可笑しそうに笑い、「でも、苗木君らしくていいと思いますよ」と追撃すれば、苗木は今度こそ肩を落とした。
「舞園さんまで……」
「褒めてますよ?」
「本当に?」
どうでもいい。
あまりにもどうでもいい朝だ。
原作にも攻略情報にも存在しない、誰が何を食べたとか、どんな冗談で笑ったとか、それだけの時間。
けれど盾子は、そんなものが思った以上に嫌いではなかった。
むしろ心地よいとさえ思った瞬間、頭の奥で「これが全部壊れたら」という思考が芽を出しかけ、盾子は意識的にその先を踏み潰した。
考えるな。
今を見ろ。
まだ何も壊れていない。
朝食が終わりに近づくにつれて、食堂の中では椅子を引く音が増え、各々が今日どう動くかを話し始めた。
十神白夜は他の誰よりも早く席を立ち、周囲を一瞥すると「朝食会など時間の無駄だ。馴れ合いたい奴だけで勝手に続けろ」と言い残して出口へ向かったが、当然のように腐川冬子が慌てて椅子から立ち上がり、その背中を追いかける。
「ま、待ってください白夜様ぁ!」
「ついてくるな」
「はいぃ! ……でもついていきます!」
「どういう会話だよ、それ」
パンを咥えた桑田が呆れた顔で呟き、近くでは葉隠康比呂が「今日の俺の占いだと単独行動は三割の確率で危険だべ。つまり逆に七割は安全ってことだな!」と胸を張っていたが、その数字の根拠を訊く者はいなかった。
一方、山田一二三はセレスティア・ルーデンベルクの向かいへ身を乗り出し、「セレス殿、この閉鎖空間における文化的娯楽の確保についてぜひ一つご相談が――」と話を切り出しかけたものの、最後まで言い終える前に「お断りします」と涼しい笑顔で切り捨てられた。
「まだ内容を申し上げておりませんぞ!?」
「あなたのお顔を見れば十分です」
「顔で企画書を落とされた!」
「相変わらず容赦なー」
盾子が椅子から立ちながら口を挟むと、セレスは紅茶のカップを傾けたままゆっくりと視線だけをこちらへ向けた。
「江ノ島さんほどではありませんわ」
「あたし超優しくない?」
「以前、わたくしから随分と巻き上げた方の台詞とは思えませんわね」
「ちょ、まだ根に持ってんの?」
「まさか。わたくし、過去の勝敗など気にいたしませんの」
柔らかく微笑んではいるが、その目はまるで笑っていない。
「絶対ウソじゃん」
二人の会話を聞いていた山田が、首を傾げながら何度も視線を往復させる。
「お二人は以前からお知り合いなので?」
「旅行先でちょっとねー」
「ほんの些細な賭けをいたしましたの」
「で、あたしが圧勝」
「江ノ島さん?」
「はい、黙りまーす」
セレスの微笑みが一段深くなったのを見て、盾子は両手を上げて降参を示した。
懐かしい、と自然に思ったことへ自分で少し驚く。
まだ希望ヶ峰へ入学するより前、旅行先で偶然出会った安広多恵子――今はセレスティア・ルーデンベルクを名乗っている少女は、盾子にとって珍しく、途中で予測を外してきた相手だった。確率や癖を読み、勝率を積み上げても、合理性を無視するような選択を平然と混ぜてくるせいで、結果として勝ったにもかかわらず途中の何手かは本気で分からなかった。
あの時、楽しかった。
絶望したからではない。
分からなかったから、面白かった。
その感覚は、今でも盾子が大切にしているものの一つだった。
「盾子ちゃん」
食堂を出ようとしたところで背後から声を掛けられ、振り返ると舞園が椅子から立ち上がったところだった。
「あとで少し、お話しませんか?」
「いいよー。女子トーク? 恋バナ? 誰が気になるとかなら、あたし守秘義務ガバガバだけど」
「それは相談相手として最悪じゃないですか」
「でも聞きたいっしょ?」
「ふふ、そういう話も楽しそうですね」
舞園は可笑しそうに笑い、いつものように綺麗に目尻を下げた。
今はまだ、本当にいつもの笑い方だった。
「じゃ、あとでねー」
盾子は軽く手を振り、そのまま食堂を出た。
廊下へ出て角を一つ曲がり、食堂からの話し声が壁越しに遠ざかった途端、盾子は歩みを止めて壁へ背中を預け、肺に残っていた息をまとめて吐き出した。
「…………つっかれた」
先ほどまで一段高く弾ませていた声は、誰もいない廊下へ落ちた瞬間に低くなり、表情からも自然に笑みが抜けていく。
別に、普段の明るさが全部演技というわけではない。
派手な服は好きだし、メイクも好きで、流行を見るのも楽しい。モデルとしてカメラを向けられれば気分だって上がるし、大勢で騒ぐことそのものが嫌いなわけでもなかった。
ただ、十数人の人間を同時に視界へ入れながら、その全員について何も考えないようにするという行為が、ひどく疲れる。
正確には、何も考えないことなどできない。
桑田が舞園へ視線を向ける頻度から好意の強さを拾い、十神が食堂へ入った直後に出入口と窓を確認したことから警戒の優先順位を読み、朝日奈が無意識に大神の近くへ席を取っていることから安心できる距離を測り、苗木が誰かの発言へ反応するまでの時間から思考の癖を辿る。
全部、見た瞬間に頭へ入ってくる。
だから盾子がやっているのは、分析を止めることではない。
出てきた結果の先へ行かないことだ。
何をする可能性が高い、誰と誰が衝突する、このまま進めば何日後に関係が崩れる――そうした未来へ枝を伸ばそうとする思考を途中で切り、今見えているものへ意識を戻す。
「……昔よりマシだけどさ」
自分でも聞き取れる程度の声で呟き、肩を回して凝りをほぐしていると、廊下の向こうから静かな声が飛んできた。
「無理しすぎると、そのうち倒れるわよ」
「うわっ、ビビったんですけど」
反射的に顔を上げれば、少し離れた位置に霧切響子が立っていた。
「気配消して歩くの禁止してくんない?」
「普通に歩いていただけよ」
「嘘つけ。あんた絶対忍者適性あるから」
霧切は返事をせず、そのまま足音の少ない歩き方で盾子の隣まで来ると、同じように壁へ背を預けるでもなく、少し距離を空けた位置で立ち止まった。
「あなた、何か知っているの?」
前置きもなく放たれた言葉に、盾子は目を細める。
「何が?」
「この状況について」
「知らない知らない。知ってたらとっくに脱出してるし、モノクマなんてバラして燃えないゴミに出してるって」
「そう」
霧切はそれ以上追及せず、ただ盾子の顔を数秒観察した。
あっさり引いたからこそ、逆に嫌な感じがする。
「何よ」
「別に」
「絶対なんか思ってるじゃん」
「あなたは昔から、分かりやすい時と分かりにくい時の差が激しいと思っただけよ」
「……それ褒めてる?」
「好きに受け取ればいいわ」
霧切は会話を終えたように歩き出したが、数歩進んだところで不意に足を止め、肩越しに振り返った。
「ただ、一つだけ」
「ん?」
「何かに気づいても、一人で解決しようとしないことね」
盾子は一瞬、返す言葉を失った。
「……なんで?」
「そういう顔をしているから」
それだけ言うと、霧切は今度こそ立ち止まらず廊下の向こうへ消えていった。
残された盾子はしばらくその背中が見えなくなった方角を眺め、それから首を壁へ預けて小さく息を吐く。
「……探偵ってやだわ」
そう悪態をつきながらも、不思議と胸の奥に張りついていたものが少しだけ軽くなっていることには、自分でも気づいていた。
その夜、盾子は自室へ戻るなりベッドへ身を投げ出し、着替えもせずに枕へ顔を埋めた。
殺人ゲームが宣言されてから一日、二日、三日と経ったが、今のところ誰も死んでいない。
それでいい。
このまま何も起こらなければいい。
前世の知識にある物語ではそうはいかなかったが、今回は前提からして違っている。
本来この殺人学園生活を仕組むはずだった江ノ島盾子は、自分だ。
世界を絶望させようとも思っていないし、殺し合いを始める気もなく、むくろに協力させてもいない。ならば原作とまったく同じ展開が成立するはずはなく、今ここにモノクマが存在している理由さえ突き止めてしまえば、未来は大きく変えられるはずだった。
「……大丈夫」
枕へ顔を埋めたまま呟き、盾子はゆっくりと寝返りを打って天井を見る。
「変えられてる」
前世を思い出した頃から、ずっと怖かった。
いつか自分も、知識の中にいる江ノ島盾子と同じ場所へ行ってしまうのではないか。
大切な姉を絶望のために利用し、幼馴染を壊し、友人も、学校も、世界まで壊して、それを心の底から楽しむようになるのではないか。
けれど、今までそうはならなかった。
舞園と仕事を通じて友達になった。
七海と公園でゲームをした。
セレスと賭けをして、先が読めないことを面白いと思った。
霧切と事件を追い、自分一人で答えが分かることと、他人に証明できることは違うと知った。
絶望以外にも、世界にはちゃんと面白いものがあった。
それを知った。
だから。
「大丈夫」
もう一度口にした言葉が、先ほどより自然に胸へ落ちていく。
信じてもいいかもしれない。
自分は原作の江ノ島盾子にはならない。
この殺し合いだって、終わらせられる。
そんな考えがようやく形を持ち始めた、その時だった。
――ピンポンパンポーン。
静かな部屋に電子音が響き、盾子の身体が一瞬で硬直した。
続けてスピーカーから流れ始めた甲高い声を聞いた瞬間、先ほどまで胸に広がっていた安堵が、冷水を浴びせられたように消えていく。
『オマエラ~! 退屈してるぅ?』
盾子はベッドから上体を起こした。
『いやぁ、ボクとしても困っちゃってるんだよね! せっかくのコロシアイ学園生活だっていうのに、誰もコロさないんだもん! これじゃ視聴率が取れないよ!』
心臓が一度、強く鳴った。
知っている。
この流れを。
『と・い・う・わ・け・で! そんな平和ボケしたオマエラに、モノクマ先生から素敵なプレゼントをご用意しました!』
盾子の顔から完全に表情が消えた。
「……マジかよ」
漏れた声は、昼間の江ノ島盾子からは想像もつかないほど低い。
『体育館に集合してくださーい! 来ない悪い子には、愛情たっぷりのオシオキがあるかもね! うぷぷぷぷ!』
放送が途切れ、室内へ再び静寂が戻っても、盾子はすぐには動けなかった。
大切な人。
外の様子。
映像。
最初の動機。
前世で何度も見た展開が、頭の中で嫌になるほど鮮明に蘇る。
原作通りなら、これを境に舞園さやかが追い詰められる。
アイドル仲間の安否を知らされないまま精神的に追い込まれ、外へ出るために殺人を計画し、苗木の部屋を借り、桑田を呼び出す。
そして失敗し――。
「……ふざけんな」
盾子はベッドから立ち上がり、乱れたスカートを直すことすらせず扉へ向かった。
さっきまで自分へ言い聞かせていた安心感は、もうどこにも残っていない。
原作を知っている。
だからこそ分かる。
この先で、最初の一線が引かれる。
そして一度でもそこを越えれば、ここにいる十六人の関係は二度と同じには戻らない。
盾子は勢いよくドアを開け、無人の廊下へ飛び出した。