絶望少女になってしまった凡人の苦難 作:絶望に味を占めるな!
体育館へ向かう廊下には、すでに何人かの足音が重なっていた。
盾子が階段を降りると、少し先を石丸と大和田が歩いており、その後ろでは朝日奈が大神の隣についている。誰も口には出さないが、モノクマの放送があった時点で、全員が何か良くないものを予感しているらしく、普段なら石丸の大声か大和田の悪態が響いているはずの廊下も、今は靴底が床を叩く音ばかりが妙に耳についた。
「盾子ちゃん」
横から声をかけられ、振り向くとむくろが追いついてきた。
「お姉ちゃんも起きてたんだ」
「放送、聞こえたから」
「そりゃそーか」
いつもの調子で返しながら、盾子は姉の顔を一瞬だけ見る。
むくろは平静に見える。
少なくとも今のところ、黒幕側と接触している様子はない。
そんなことを考えた自分に気づき、盾子はすぐ思考を切った。
今のむくろを見る。
原作の戦刃むくろではない。
自分の姉だ。
「……どうしたの?」
「なんでもなーい」
むくろは納得していない顔をしていたが、盾子が歩みを緩めなかったため、それ以上は聞いてこなかった。
体育館へ入ると、すでに大半が集まっていた。苗木と舞園が並んで立ち、桑田はその少し離れたところで腕を組んでいる。十神は壁際に寄りかかり、腐川はその近くを確保し、セレスは舞台へ視線を向けながら表情を崩していない。
最後に葉隠が慌てて駆け込んできたところで、壇上の中央が開き、そこからモノクマが勢いよく姿を現した。
「はーい! みんな揃ったねー!」
「何の用だ!」
石丸が即座に声を張り上げると、モノクマは両手を腰へ当て、わざとらしく胸を反らした。
「何の用って、そりゃ決まってるでしょ! オマエラがいつまで経ってもコロシアイを始めてくれないから、校長先生としては心を鬼にしてテコ入れしないといけないわけですよ!」
「誰が校長先生だよ」
桑田が吐き捨てるように言うと、モノクマは気にした様子もなく、壇上に置かれていた箱をぽんぽんと叩いた。
「今回用意したのは、心温まるホームビデオでーす!」
その言葉だけで、盾子の腹の底が冷えた。
やっぱり。
内容まで同じとは限らない。
けれど種類は一致している。
外に残してきた大切な人間を映し、それが今どうなっているのか分からない状態にして、閉鎖空間から出たいという感情を刺激する。
原作と同じ。
いや、正確には。
原作を知っている誰かが、原作と同じものを選んだように見える。
「一人ずつあるからね! 自分の名前が書いてあるディスクを持って、視聴覚室で仲良く見てくださーい!」
「ふざけるな!」
大和田が一歩前へ出た。
「テメェが見せるもんなんざ信用できるか!」
「えー? 見なくてもいいよ?」
モノクマは首を傾げ、それから声の調子だけを妙に優しくした。
「外にいる大切な人たちが、どうなってるか気にならないならね」
空気が止まった。
ほんの数秒前まで怒鳴っていた大和田でさえ、返す言葉を失っている。
盾子は周囲を見た。
苗木の顔から血の気が引き、朝日奈は大神へ視線を向けたまま唇を結び、不二咲は胸元で両手を握っている。
そして舞園。
盾子はそちらを見た瞬間、少しだけ呼吸を浅くした。
舞園は笑っていた。
いや。
笑おうとしていた。
口元の形は普段と大きく変わらない。
しかし目が違う。
僅かに開きすぎている。
呼吸も浅い。
肩がほんの少し上がっている。
そして、視線だけがモノクマの手元から離れない。
分析するまでもない。
怖がっている。
「うぷぷ。いい顔するねぇ」
モノクマが満足そうに笑う。
盾子は反射的に舌打ちしそうになり、直前で止めた。
この場で余計な反応を見せる必要はない。
黒幕がこちらを見ている可能性が高い以上、自分が原作の流れを知っていると気づかれるのは避けたい。
少なくとも今は。
「ま、見終わったら返してね! 他人の動画を覗き見るなんて最低だからさ!」
「お前が言うな!」
桑田の怒声を背中に受けながら、モノクマは笑い声を残して消えた。
誰もすぐには動かなかった。
箱の中に並んだディスクだけが、不自然なくらい整然としている。
「……どうする?」
苗木が小さく問いかけた。
「見るしかないだろ」
十神が真っ先に答え、迷いなく自分の名前が書かれたものを取った。
「情報を避ける理由がない。罠だろうが何だろうが、内容を確認しなければ判断のしようもないからな」
「でも……」
不二咲が不安そうに呟く。
「怖いよね」
朝日奈も珍しく声が小さい。
盾子は少し離れた場所から、その会話を聞いていた。
原作では、全員がそれぞれの映像を見た。
そして舞園が最も強く追い詰められた。
今回も同じになるとは限らない。
自分がいる。
人間関係も違う。
何より、舞園はすでに自分を知っている。
それでも。
黒幕が同じ素材を使う以上、起こしたい反応も似ている可能性は高い。
「盾子ちゃん」
むくろがまた呼ぶ。
「見ないの?」
「見るよ」
盾子は箱へ近づき、自分の名前が書かれたディスクを指先でつまみ上げた。
軽い。
たったこれだけのものに、人間一人を壊すだけの情報が入っている。
そう思った瞬間、自分の中の何かが僅かに反応しかけたため、盾子は無言でディスクを握り直した。
視聴覚室へは一人ずつ入ることになった。
盾子が順番を待っている間にも、中から出てくる人間の表情はそれぞれ違っていたが、誰一人として入る前より明るくなってはいない。
朝日奈は顔を伏せ、大神が何も言わず肩へ手を置いている。石丸は唇を真一文字に結び、大和田は壁を殴りたいのを堪えているように拳を握っていた。
苗木も戻ってきた。
顔が青い。
「……家族?」
盾子が小声で訊くと、苗木は少し驚いたように顔を上げた。
「え?」
「違った?」
「いや……家族だった」
それ以上は話したくないのだろう。
盾子も聞かなかった。
やがて自分の順番になり、視聴覚室へ入る。
扉を閉めると、部屋の中は妙に静かだった。
古びたモニター。
再生機。
椅子が一つ。
盾子は座らずにディスクを入れた。
画面が暗転し、数秒後に映像が始まる。
最初に映ったのは見覚えのある研究室だった。
「……夜助」
声が漏れる。
松田夜助が使っていた部屋。
机。
棚。
機材。
何度も出入りした場所だった。
ただし、いつもとは違う。
椅子が倒れている。
書類が床へ散らばり、一部の機材が壊れ、机の端には黒ずんだ赤い染みがある。
松田本人はいない。
カメラは室内をゆっくり映し、それから映像が途切れた。
「…………」
盾子はモニターを見たまま動かなかった。
胸がざわつく。
頭ではすぐに分析が始まっていた。
血液かどうかは映像だけでは判定できない。
量も致死量には見えない。
争った痕跡として配置が整いすぎている。
カメラの動線も、人間が現場を発見して慌てて撮ったものではない。
むしろ。
「演出じゃん」
ぽつりと口にした。
松田が死んだ証拠ではない。
むしろ死んだと誤認させるための映像である可能性の方が高い。
だから大丈夫。
そう結論を出すことは簡単だった。
それでも。
もし本当に何かあったら。
あの血が本物なら。
松田がすでに――。
そこまで考えたところで、盾子は目を閉じた。
追うな。
分からないものを、勝手に最悪へ繋げるな。
今分かることだけを見る。
松田が死んだ証拠はない。
それだけだ。
「……ホント趣味悪」
再生を止め、ディスクを抜く。
その手が僅かに震えていることには気づいていたが、盾子は見ないふりをした。
部屋を出ると、ちょうど舞園が入れ替わるところだった。
目が合う。
舞園は一瞬だけ足を止めた。
「盾子ちゃん」
「ん?」
「……大丈夫でした?」
自分の方がこれから見るというのに、先にこちらを気遣う。
それがいかにも舞園らしくて、盾子は少しだけ困った。
「まあね。超悪趣味だったけど」
「そうですか」
舞園は微笑む。
今度の笑顔は、体育館で見た時より少し硬い。
「舞園ちゃんもさ」
盾子は声をかけた。
「無理だったら、途中で見るのやめなよ」
「……はい」
短く返事をして、舞園は視聴覚室へ入った。
扉が閉まる。
盾子はその場を離れず、近くの壁へ背を預けた。
本当なら。
ここで待つ必要はない。
原作を知っている自分なら、この後どうなるか分かっている。
舞園がどんな映像を見るかも、おおよそ予想できる。
所属していたアイドルグループ。
倒れている仲間たち。
何があったのかは示されない。
ただ不安だけを最大まで膨らませる。
それだけで十分だった。
舞園さやかにとって、あのグループは単なる仕事仲間ではない。
積み上げてきたもの。
苦労。
居場所。
人生そのもの。
盾子は壁へ頭を預けた。
「……どうすっかな」
今すぐ止めるべきか。
舞園が部屋を出た瞬間に、全部言ってしまうか。
桑田には近づくな。
苗木の部屋を借りるな。
包丁を持ち出すな。
全部。
でも。
それを言ったらどうなる。
舞園は、なぜ盾子がそんなことを知っているのか疑う。
それだけならいい。
問題はその先だ。
原作の計画を潰せば、舞園が別の方法を選ぶ可能性がある。
桑田ではなく別の誰か。
包丁ではなく別の凶器。
苗木の部屋ではない場所。
原作知識で追える範囲を、自分から壊すことになる。
最悪なのは、追い詰められた舞園が、自分の監視を避けることを覚えることだった。
盾子の脳がいくつもの分岐を作ろうとする。
その全てを切り捨てるのではなく、必要な範囲だけ拾う。
今は、まだ実行前。
舞園自身の意思も確認していない。
なら。
監視する。
できるだけ近くで。
そして実行に移る直前で止める。
「……それが一番マシか」
自分に言い聞かせるように呟いた時、視聴覚室の扉が開いた。
盾子はすぐに顔を上げる。
舞園が出てきた。
泣いてはいない。
歩き方も普通。
ただ。
盾子は一目で分かった。
「……舞園ちゃん?」
「はい?」
舞園は笑う。
綺麗だった。
仕事で何度も見てきた、完璧な笑顔だった。
だからこそ分かる。
これは普段、盾子へ向ける笑い方ではない。
他人に心配させないための顔だ。
瞬きが増えている。
指先を隠すように両手を重ねている。
呼吸が浅い。
視線を合わせている時間も、いつもより僅かに短い。
盾子の頭が、無意識に状態を拾っていく。
恐怖。
焦燥。
孤立感。
外へ出たいという衝動。
危険域。
「何映ってた?」
あえて軽く聞く。
「……みんなです」
「アイドルの?」
「はい」
それだけ答えると、舞園は視線を一瞬だけ床へ落とした。
「倒れていました。みんな」
「死んでるって言われた?」
「いいえ」
「じゃ、まだ分かんないじゃん」
「……そうですね」
正しい言葉だった。
なのに届いていない。
盾子はすぐに理解した。
論理の問題ではない。
盾子自身だって、松田が死んだ証拠ではないと分析したうえで不安になった。
なら、舞園にだけ冷静になれと言うのは違う。
「舞園ちゃん」
「はい」
「何かあったら言って」
「……ありがとうございます」
「マジでね。遠慮とかいらないから」
舞園は僅かに目を見開き、それから今度は少しだけ自然な笑みを見せた。
「盾子ちゃんって、こういう時は優しいですよね」
「こういう時『は』って何よ」
「ふふ」
小さな笑い声が漏れる。
少なくとも今は、まだ話せる。
盾子はそこで踏み込む言葉を飲み込んだ。
桑田を殺そうなんて考えないで。
苗木を利用しないで。
そんな未来の罪を、まだ何もしていない舞園へ突きつけることはできなかった。
あるいは。
できないと思ったこと自体が、判断を鈍らせたのかもしれない。
それに気づくのは、もう少し後になる。
夕食の時間になっても、舞園は食堂へ姿を見せた。
普通に会話し、朝日奈の話に笑い、苗木へ何かを尋ね、桑田から声をかけられれば困ったように笑って返している。
他の人間から見れば、動機映像に動揺したものの、少し落ち着いたように見えるだろう。
盾子には、むしろ逆だった。
昼より笑う回数が増えている。
声も明るい。
食事量だけが減っている。
舞園は精神的に追い詰められるほど、外へ見せる表情を整えている。
モデルの現場で何度も見た。
疲れていても笑う。
体調が悪くても笑う。
感情がぐちゃぐちゃでも、カメラが回れば笑える。
舞園さやかは、そういう人間だ。
だからこそ怖い。
「盾子ちゃん、食べないの?」
むくろの声で、盾子は自分の箸が止まっていたことに気づいた。
「食べてる食べてる」
「ずっと舞園さん見てた」
「嫉妬?」
「違うけど」
「お姉ちゃんもカワイイから安心しなって」
「だから違う」
いつもの会話をしながら、盾子は舞園から完全には目を離さなかった。
食事が終わり、各自が食堂を出ていく。
舞園は苗木と一緒だった。
二人が小声で何かを話している。
聞こえない。
しかし。
苗木が驚いた顔をした。
舞園が困ったように笑う。
盾子の胸の奥が冷える。
その組み合わせ。
そのタイミング。
嫌になるほど覚えている。
「……まさか」
思わず漏れた声に、むくろが反応する。
「盾子ちゃん?」
「ごめん、お姉ちゃん。ちょい用事」
「どこ行くの?」
「すぐ戻る」
盾子は立ち上がり、食堂を出ていく二人を追った。
足取りは速い。
心臓も少し速い。
まだ決まったわけじゃない。
けれど。
原作では。
このあと舞園は苗木へ相談し。
部屋を交換する。
そこから最初の殺人が始まる。
廊下の角を曲がった先で、苗木と舞園の声が聞こえた。
盾子は歩みを止める。
「……部屋を?」
苗木の声だった。
舞園が何か答える。
内容までは聞き取れない。
けれど、それで十分だった。
盾子は目を閉じる。
「マジかよ……」
偶然。
そんな言葉では、もう片づけられなくなりつつあった。
原作と同じ動機。
原作と同じ舞園の動揺。
そして。
原作と同じ部屋交換。
自分が世界を絶望させる未来を選ばなかったにもかかわらず、物語だけが勝手に元の形へ戻ろうとしている。
盾子はゆっくり目を開けた。
このままなら。
次は。
桑田怜恩。
知っている。
だから今度こそ。
絶対に止める。