絶望少女になってしまった凡人の苦難 作:絶望に味を占めるな!
廊下の角に立ったまま、盾子はすぐには二人へ近づかなかった。
苗木と舞園の会話は途切れ途切れにしか聞こえないものの、舞園が胸の前で両手を重ね、不安そうに苗木を見上げている姿と、それを前にした苗木が困惑しながらも真剣に耳を傾けている様子を見れば、話題そのものを聞き取る必要はなかった。やがて苗木が何かを確認するように自分の部屋がある方向へ視線を送り、舞園が申し訳なさそうに頭を下げると、盾子の中で最後まで残っていた僅かな期待が静かに潰れた。
部屋を交換する。
そこまで同じだった。
「……笑えないって」
口元だけを歪め、盾子は二人に気づかれないよう角から身を引いた。
すぐに割って入り、やめさせることはできる。苗木へ部屋を貸すなと言い、舞園には自分の部屋へ戻れと言えば、少なくとも前世で知る通りの事件は起こらない。
だが、その先が読めなくなる。
舞園が殺人を完全に諦める保証はなく、追い詰められたまま別の相手を選ぶ可能性もあれば、もっと盾子の目が届きにくい方法へ切り替えるかもしれない。今の舞園はまだ一線を越えてはいないが、だからこそ強引に追及して心を閉ざされれば、以降は表情や行動から情報を拾うことすら難しくなる。
盾子はそれらの可能性を短時間で並べ、増殖し始めた分岐を意識的に切った。
必要なのは未来を全部読むことではない。
今、何をすれば最も被害を抑えられるか。
「……見張る」
低く呟き、それだけに思考を絞った。
犯行の形がまだ自分の知っているものと一致している間は追える。舞園が桑田を呼び出すなら、その前後を押さえればいいし、最悪でも桑田が浴室へ戻る前に止めれば、二人とも死なずに済む。
そこまで考えて、盾子は自分の判断に僅かな嫌悪を覚えた。
つまり自分は、舞園が誰かを殺そうとするところまで泳がせるつもりなのだ。
合理的ではある。
それでも気分のいいものではない。
「……最悪」
自分に向けて吐き捨てたところで、二人の話が終わったらしく、盾子は何事もなかったように踵を返した。
その後、舞園と苗木の部屋が実際に交換されたことを盾子が確認するまで、それほど時間はかからなかった。
夜時間が近づく頃、寄宿舎の廊下を通った盾子の目に、本来なら苗木の部屋にあるはずのネームプレートが舞園の部屋へ移され、その反対側も同じように入れ替えられているのが映った。わざわざ近づいて確かめるまでもなく、位置も取り付け方も前世の記憶と一致しており、盾子は歩調を落とさないまま横目でそれを見送り、胸の中だけで長い息を吐いた。
ここまで来た。
なら次は、舞園が桑田を呼ぶ。
そのための接触がある。
問題は、それをいつ行うか。
盾子は人目につく場所では普段通りに振る舞いながら、舞園と桑田の位置だけは頭の隅から外さなかった。露骨に付きまとえば舞園にも黒幕にも警戒されるため、食堂で山田のどうでもいい話へ付き合い、朝日奈から「モデルって太らないの?」と聞かれて「太るわ普通に」と答え、むくろには何度も視線を向けられながら、それでも視界の端で二人の動きを拾い続ける。
舞園が食堂を出た。
数分後に桑田も立つ。
偶然にしては近い。
盾子は朝日奈との会話を適当なところで切り上げ、飲み物を取りに行くような顔で席を立った。
「ちょっとジュース取ってくるわ」
「え、冷蔵庫そっちじゃなくない?」
「……トイレも行く!」
「ジュース持ってトイレ行くの!?」
「細けぇこと気にすんな!」
背中から朝日奈の笑い声が追ってきたが、角を曲がった瞬間には盾子の顔から笑みが消えていた。
舞園の姿はない。
桑田もいない。
ただし足音が聞こえる。
近い。
盾子は歩幅を少しだけ広げ、音の方向へ進んだ。
少し先の廊下で、桑田が壁際に立っていた。
その前には舞園がいる。
距離は近いが、恋愛めいた雰囲気ではない。舞園は折り畳んだ小さな紙を桑田へ差し出しながら何かを囁き、受け取った桑田が最初は驚いた顔をしたものの、紙へ目を落とすにつれて分かりやすく表情を緩めていく。
盾子は反射的に額へ手を当てたくなった。
この男、簡単すぎる。
もっとも、舞園ほどの人気アイドルから夜に二人で会いたいと誘われれば、疑えという方が酷なのかもしれない。
舞園が離れていく。
桑田はしばらく紙を眺め、周囲を確認してからポケットへしまった。
盾子は物陰へ身を引いたまま、その光景を最後まで見届けた。
確定した。
今夜。
舞園は桑田を苗木の部屋へ呼び出す。
そして厨房から持ち出した包丁を使う。
桑田は咄嗟に模造刀で防ぎ、舞園の手首を傷つける。
舞園は浴室へ逃げる。
そこで桑田が引き返せば、誰も死なない。
だが前世で知る桑田は、そこで終われなかった。
恐怖。
怒り。
屈辱。
殺されかけたという事実。
それらに押され、一度自室へ戻って工具を取り、浴室のドアをこじ開けるため再び苗木の部屋へ向かった。
つまり。
「止めるなら、そこ」
盾子は小さく呟いた。
舞園の最初の一撃を止めるという選択もあるが、そうすれば桑田は自分が狙われていたことを知らず、舞園も犯行を諦めきれない可能性が残る。誰にも傷一つ負わせたくないならもっと早く止めるべきだと分かっているのに、それでも盾子は「既知の流れを崩さない方が制御しやすい」という判断を捨てきれず、その冷たさに胸の奥が重くなった。
自分は本当に、人を守ろうとしているのか。
それともただ、知っている未来の方が安心できるから、その枠の中で人間を動かそうとしているだけなのか。
考え始めれば答えはいくらでも増える。
盾子は首を振った。
「今はいい」
二人を生かす。
まずそれだけでいい。
夜時間が始まり、校内放送が消えてしばらくすると、寄宿舎全体が昼間とは別の建物のように静まり返った。
盾子は自室のベッドへ腰掛けたまま時間を確認し、数分おきに扉の外へ意識を向けていた。
むくろには何も言っていない。
言えば止められる。
正確には、むくろなら舞園と桑田の双方を力ずくで無傷のまま制圧することすら不可能ではないだろう。
それでも盾子は頼らなかった。
自分が前世を知っていることを、まだむくろにも打ち明けていない。幼少期から自身の異常についてはある程度話していても、「この世界を一度物語として知っていた」という部分だけは説明のしようがなく、何より、自分自身がその事実を口にすることを避け続けていた。
そしてもう一つ。
黒幕に、むくろまで警戒対象として認識させたくない。
現状、異常なほど舞園を注視しているのは自分だけだ。
その自分がどこまで見られているか。
確かめる必要があった。
盾子は時計を見た。
「そろそろ……」
立ち上がった、その時だった。
机の上へ置いていた電子生徒手帳が短く震えた。
「……?」
この時間に通知が来ること自体が珍しい。
盾子は手帳を取る。
画面に表示されていたのは、校則でもモノクマからの一斉連絡でもなかった。
映像。
監視カメラのような高い位置から撮られた、薄暗いランドリー室。
その床に、一人の少女が倒れている。
制服。
短い銀髪。
顔までは見えない。
だが。
「お姉ちゃん……?」
身体が先に立ち上がった。
一秒遅れて分析が追いつく。
映像の角度は校内監視カメラと一致。
時刻表示は現在時刻。
床に赤黒いもの。
むくろは自室にいるはずだが、確証はない。
映像加工の可能性。
過去映像の可能性。
別人の可能性。
罠。
全部分かる。
それでも。
もし本物だったら。
その一つだけで、無視するという選択肢は消えた。
「クソッ!」
盾子は部屋を飛び出した。
廊下を駆け、ランドリー室へ向かう間も、頭の片隅では別の時計が動いている。
舞園。
桑田。
今夜。
間に合う。
ランドリーを確認して、すぐ戻ればいい。
そう思った時点で、盾子は気づくべきだった。
自分にそう思わせるための時間設定である可能性に。
ランドリー室の扉を開けた瞬間、盾子は足を止めた。
「……は?」
誰もいない。
洗濯機が並び、籠が積まれ、照明だけが白々しく床を照らしている。
血もない。
倒れた人間もいない。
その代わり、一番奥の洗濯機の上へ小さなモニターが置かれており、盾子が手帳で見たものと全く同じ映像が繰り返し再生されていた。
むくろらしき少女が床へ倒れる。
数秒。
暗転。
また最初から。
盾子の表情が消えた。
駆け寄ってモニターを掴み、裏返す。
簡易的な再生装置。
外部から操作できるよう改造されている。
映像自体もよく見れば不自然だった。倒れている人物の髪はむくろより僅かに長く、袖口から見える手にも、姉ならあるはずの古い傷がない。
平静な状態なら、一目で見抜けた。
でも最初に「むくろ」と認識した瞬間、分析より先に身体が動いた。
黒幕はそれを知っていた。
「……私を」
盾子はモニターを握る指へ力を込めた。
「ここに来させた?」
背筋に冷たいものが走る。
舞園。
盾子は時計を見る。
想定より時間を使っている。
モニターの確認。
移動。
ほんの数分。
だが、あの部屋で人を殺すには十分すぎる。
「っ……!」
盾子はモニターを放り出し、来た道を全速力で引き返した。
走りながら、生徒手帳でむくろへ連絡を試みる。
繋がらない。
通信機能自体が制限されている。
「マジで役立たず!」
悪態をつきながら角を曲がり、寄宿舎区画へ入ったところで、盾子は前方から近づいてくる足音を捉えた。
誰かが走っている。
呼吸が荒い。
一人。
盾子は速度を落とし、次の角を曲がってきた人物を見た瞬間、全身の緊張が別の形へ変わった。
桑田怜恩だった。
顔色が悪い。
右頬に小さな擦り傷があり、制服の袖には金色の粉のようなものが付着している。何より、普段なら軽口の一つでも飛んできそうな距離まで盾子が近づいても、桑田はほとんどこちらを認識していなかった。
盾子は彼の後ろを見る。
向かっている方向。
男子の個室。
一度戻る。
工具。
「桑田」
呼びかけても止まらない。
「……邪魔すんな」
掠れた声だけが返る。
盾子は進路を塞ぐように立った。
「何があった?」
「どけって」
「舞園ちゃん?」
その名前を出した瞬間、桑田の顔が歪んだ。
「……あの女」
拳が震えている。
「俺を殺そうとしやがった」
怒りだけではなかった。
恐怖が混じっている。
自分が死ぬかもしれなかった直後の、まだ現実を飲み込めていない人間の顔だった。
盾子は唇を噛みそうになった。
遅かった。
最初の攻防は終わっている。
「怪我は?」
「俺じゃねぇよ!」
桑田が怒鳴る。
「アイツがいきなり包丁持ってきて! 俺、本当に何も知らなかったんだぞ! 話があるとか言われて、部屋行ったら……!」
言葉が途切れ、桑田は乱暴に頭を掻いた。
「ふざけんなよ……マジで……!」
盾子は黙って聞く。
桑田の言っていることは、ほぼ間違いなく本当だ。
舞園が先に襲った。
桑田は防御した。
ここまでなら桑田は被害者だ。
「舞園ちゃんは?」
「浴室に逃げやがった」
やはり。
「じゃ、もう終わりじゃん」
「あ?」
「部屋出てきたんでしょ。だったらもう近づくな。明日の朝みんな集めて、何があったか話せばいい」
「……終わり?」
桑田の声が低くなる。
盾子は、その変化を見逃さなかった。
「俺、殺されかけたんだぞ?」
「分かってる」
「分かってねぇだろ!」
桑田が壁を殴り、鈍い音が廊下へ響く。
「あいつ、最初から俺を殺すつもりで呼んだんだぞ! 俺がたまたま避けただけで、下手したら今頃死んでたんだ!」
「うん」
「なのに終わりって何だよ! アイツは部屋ん中で隠れてりゃそれで終わりか!?」
怒鳴る桑田へ、盾子はすぐには返さなかった。
ここで説教をしても届かない。
正しいことを言えばいい状況ではない。
目の前にいるのは殺人犯ではなく、ほんの少し前まで自分が死ぬ可能性と向き合っていた高校生だ。
怖かった。
だから怒っている。
そして怒っている自分を正当化しないと、その恐怖を処理できない。
そこまでは理解できる。
「……怖かった?」
「は?」
「死ぬと思ったっしょ」
桑田が黙る。
盾子はその顔を見ながら続けた。
「そりゃキレるわ。あたしでもキレる。ぶん殴りたいくらいムカつくと思う」
「だったら――」
「でも」
盾子は桑田の言葉へ重ねた。
「今戻ったら、それ自衛じゃないから」
桑田の表情が固まる。
「舞園ちゃんは浴室。アンタはもう部屋の外。今なら逃げられる。誰か呼ぶこともできる。なのに自分の部屋まで戻って、工具持って、あそこに戻ったら」
盾子は一歩近づいた。
「それ、殺しに行くってことだから」
沈黙が落ちた。
桑田の目が僅かに泳ぐ。
図星だった。
「……何で」
「ん?」
「何で工具のこと知ってんだよ」
盾子は呼吸を止めかけた。
まだ桑田は工具を持っていない。
知っているはずがない。
前世の記憶が口から漏れた。
「……男子の部屋には工具あるじゃん。そっち向かってんだから、何となく」
即座に言い繕う。
桑田は疑う余裕すらないのか、数秒睨んだだけで視線を外した。
「……関係ねぇよ」
「あるって」
「ねぇよ!」
桑田が盾子の肩を押し退けようとする。
盾子は逆らって力比べをせず、身体を半歩引いて力を逃がすと同時に手首を掴み、そのまま桑田の重心が前へ流れたところで腕を捻った。
「痛っ!?」
「ごめん。でも行かせない」
「離せ!」
振り払おうとする力は普通に強い。
盾子はむくろではない。
真正面からやり合えば、運動部でもないとはいえ男子高校生相手に絶対的な優位があるわけではない。
ただ、どちらへ動くかは分かる。
右肩が上がる。
次は左手。
身体を引く。
足が出る。
一つ一つの予備動作を拾い、力の向きをずらすことで何とか桑田の前進だけを止める。
「クソッ……離せって!」
「落ち着けって!」
「お前に何が分かんだよ!」
「分かんないよ!」
思わず声が強くなった。
桑田が止まる。
「殺されかけたことなんてないし、今アンタがどんだけムカついてるか全部分かるとか言う気もない!」
盾子は桑田の腕を掴んだまま、息を整える。
「でもさ」
そのまま声を落とした。
「ここで殺したら、アンタが一生あの瞬間に縛られるじゃん」
桑田の目が揺れた。
「舞園ちゃんに殺されかけたから殺した。それで終わりじゃない。次からアンタは、人を殺した桑田怜恩になる」
知っている。
前世では、そうなった。
舞園を刺した。
証拠を処分した。
裁判で追い詰められ。
そして処刑された。
「そんなの」
盾子の指に力が入る。
「超ダサいでしょ」
「…………」
「アンタ、ミュージシャンになりたいんじゃなかった?」
桑田の顔が歪む。
「こんなとこで、舞園ちゃんと心中してる場合じゃなくね?」
長い沈黙のあと、桑田の肩から少しずつ力が抜けた。
盾子も手を離す。
桑田は逃げなかった。
ただ壁へ背中を預け、そのままずるずると床へ座り込むと、両手で顔を覆った。
「……マジで、何なんだよ……」
声が震えていた。
「俺……何もしてねぇのに」
「うん」
「舞園ちゃんから誘われて……ちょっと期待して……行ったら……」
「うん」
盾子は隣には座らず、少し離れた壁へ寄りかかった。
「……怖かった」
ようやく出た言葉は小さかった。
「死ぬかと思った」
「そりゃ怖いって」
「なのに、俺……戻ろうとしてた」
盾子は答えなかった。
否定してやることも、責めることも違う。
桑田自身が今それを理解したのなら、それでいい。
「……俺、ヤバくね?」
「まあ、ちょっと」
「そこは否定しろよ!」
「いや殺しに戻ろうとしてたし」
「……そうだけどよ」
ほんの僅かに。
本当に僅かにだが、桑田の声から殺気が抜けた。
盾子はそこで初めて、肺へ残っていた息を吐いた。
間に合った。
舞園は生きている。
桑田も、まだ誰も殺していない。
前世で最初に起きた死は。
なくなった。
その事実が胸へ届いた途端、全身から一気に力が抜けそうになる。
「……よかった」
「は?」
「なんでもない」
盾子は壁から離れた。
「桑田、ここにいて。お姉ちゃん呼んでくるから」
「はぁ!? 戦刃!?」
「アンタが暴れたら止められる人」
「俺そんな信用ねぇの!?」
「今あったら逆に怖いわ」
「クソッ……」
口では悪態をつきながらも、桑田は立ち上がろうとしなかった。
盾子は一度だけ振り返り、桑田が本当にその場に残っていることを確認してから、苗木の部屋へ向かった。
扉の前まで来ると、血の匂いがした。
濃くはない。
それでも間違えようがない。
盾子は一度だけ目を閉じ、それからドアノブへ手をかけた。
「舞園ちゃん」
返事はない。
「入るよ」
鍵は掛かっていなかった。
部屋へ足を踏み入れると、室内には争った痕跡が残っていた。床へ落ちた模造刀、鞘、乱れたベッド、壁や家具へ付着した金色の塗装片、そして床に残った僅かな血痕を一度に視界へ入れながら、盾子はそれらが前世の記憶とほとんど同じ位置にあることを認識した。
違うのは。
死体がない。
浴室の扉が閉じている。
「舞園ちゃん」
近づいて声をかける。
中から小さな物音がした。
「盾子……ちゃん?」
声が震えている。
「うん」
「桑田君は……?」
「いない。戻ってこないから」
少なくとも今は。
盾子はその言葉を飲み込んだ。
「開けられる?」
「……無理です」
浴室の扉がうまく開かない。
男子の個室である苗木の浴室には女性用のような鍵はないが、建て付けが悪く、一定の方向へ力を入れなければ簡単には動かないことを盾子は知っている。
「ちょっと待って」
取っ手へ手をかけ、僅かに持ち上げるようにしながら引くと、抵抗していた扉が動いた。
ゆっくりと開いた先で、舞園は壁際へ座り込んでいた。
右手首を押さえている。
傷はある。
腫れも始まっている。
それでも。
生きている。
盾子の胸の奥で何かが大きく緩んだ。
「……よかった」
今度は口から漏れた。
舞園が顔を上げる。
目が赤い。
盾子はその前へしゃがみ込み、手首へ触れる前に「見るよ」と断ってから、傷の状態を確認した。
骨折の可能性。
出血は多くない。
命に関わる状態ではない。
「痛い?」
「……はい」
「だよね」
「盾子ちゃん」
「ん?」
「私……」
舞園の唇が震える。
「私、桑田君を……」
盾子は待った。
「殺そうとしました」
「……うん」
「分かってたんですか?」
その質問に、盾子の指が僅かに止まった。
「どうして、ここに……」
舞園は泣きながらも、盾子を真っ直ぐ見ている。
「どうして桑田君が来るって、分かったんですか?」
ごまかせる。
いくらでも。
舞園の様子がおかしかったから。
部屋交換に気づいたから。
桑田と話しているのを見たから。
全部本当だ。
全部本当だからこそ、本当ではない部分を隠すには十分だった。
盾子は少しだけ笑った。
「舞園ちゃん、分かりやすすぎ」
「……嘘です」
即答だった。
盾子の笑みが止まる。
「盾子ちゃん、そんな顔する時、だいたい何か隠してます」
「……マジ?」
「はい」
「アイドル怖ぁ……」
軽口に逃げても、舞園は笑わなかった。
盾子は視線を外し、床に落ちた包丁を見る。
「今はさ」
少しだけ声を落とした。
「それより手当てしよ」
舞園は数秒黙ったあと、ゆっくり頷いた。
「……はい」
盾子が立ち上がろうとした、その瞬間。
室内のモニターが突然点灯した。
二人が同時に振り返る。
画面いっぱいに映ったモノクマが、両腕を広げて笑っていた。
『いやぁ~! 素晴らしい! 実に素晴らしいよ!』
「……何が」
盾子の声から温度が消える。
『青春! 友情! 裏切り! 殺意! そしてギリギリのところで阻止される殺人! これぞエンターテインメントだよね!』
舞園が身を強張らせる。
盾子は無意識に舞園を画面から庇うよう、一歩前へ出た。
『たださぁ』
モノクマが頬へ手を当て、わざとらしく首を傾げる。
『困ったことが一個あるんだよね』
「何」
『誰も死んでない』
「いいことじゃん」
『よくなーい!』
画面の中でモノクマが地団駄を踏む。
『せっかくここまで盛り上がったのに、死体がないから学級裁判なし! なんて、あまりにも消化不良じゃありませんか!』
盾子の背筋に嫌な感覚が走った。
その言い回し。
まさか。
『というわけで!』
モノクマが勢いよく片手を上げる。
『校則追加のお知らせでーす!』
「……は?」
盾子の声が低くなる。
『今後、計画的な殺人行為が実行段階へ入り、校長であるボクが重大事件と認定した場合、死者の有無に関係なく――』
一拍。
『特別学級裁判を開催できるものとしまーす!』
盾子は何も言えなかった。
そんなルールは知らない。
前世の記憶にもない。
『記念すべき第一回の議題は!』
画面いっぱいにモノクマの顔が迫る。
『今夜、最初に計画的殺人を実行した人物は誰でしょうか!』
舞園の顔から血の気が引く。
「待って!」
盾子はモニターへ詰め寄った。
「死人出てないじゃん! コロシアイですらないでしょ!」
『うぷぷ。だから特別なんだってば』
「勝手にルール変えてんじゃ――」
『あれぇ?』
モノクマの声が遮った。
『江ノ島さん、何か困ることでもあるの?』
盾子の口が止まる。
画面の向こうから。
見られている。
『死人が出なかったんだから、むしろ良かったじゃん。あとはみんなで真実を当てればいいだけだよ?』
モノクマが笑う。
『それとも』
ほんの僅かに声の調子が変わった。
『こうなることは、知らなかった?』
「…………」
心臓が大きく鳴った。
偶然。
ただの煽り。
そう解釈することはできる。
しかし、先ほどの偽映像が頭をよぎった。
むくろを使い。
自分だけを舞園から引き離し。
それでも殺人が成立しなかった途端。
原作には存在しないルールを追加する。
盾子は画面を睨みつけた。
黒幕は。
自分を見ている。
それも単に監視カメラで眺めているという意味ではない。
行動を読もうとしている。
『それじゃ、捜査時間を始めちゃうよー! ルールはあとで電子生徒手帳を確認してね!』
「待て!」
『第一回特別学級裁判! 楽しみだなぁ! うぷぷぷぷぷ!』
映像が消える。
暗くなったモニターへ、盾子自身の顔が映った。
いつもの笑みはない。
後ろでは舞園が手首を押さえたまま、青ざめた顔でこちらを見ている。
「……盾子ちゃん」
盾子は返事をせず、数秒だけ画面を見つめ続けた。
死人はいない。
舞園も生きている。
桑田も生きている。
未来は変えた。
間違いなく変えた。
なのに。
「……上等じゃん」
盾子はゆっくり口角を持ち上げた。
笑いたいわけではない。
むしろ腹が立っている。
それでも胸の奥では、恐怖とは別の熱が僅かに生まれ始めていた。
原作にないルール。
知らない黒幕。
自分の行動を読み、こちらの知識を外しに来る相手。
先が。
分からない。
その事実に心臓が速くなる。
盾子はその反応を自覚した瞬間、笑みを消した。
「……マジで最悪」
自分に向けて吐き捨てると、舞園の方へ振り返った。
「行こ。まず手当て。そのあと全部調べる」
「……私がやったことを、ですか?」
「そう」
舞園の顔が歪む。
盾子は少しだけ迷ったが、誤魔化さなかった。
「舞園ちゃんが何したかも、桑田がそのあと何しようとしたかも、全部」
「桑田君も……?」
「そこも含めて裁判になると思う」
舞園は俯く。
盾子はその姿を見ながら、胸の中に湧いた妙な高揚を無理やり押し込めた。
人が死ななかった。
それを喜べ。
今はそれだけでいい。
知らない未来が始まったことを、面白いと思うな。
そう自分へ言い聞かせながら、盾子は負傷した舞園へ肩を貸し、部屋を出た。