よろしくお願いします
全四話予定
0.
走っていた。
走っていた。
暗闇の中を、暗闇の世界を。
その男は必死に走っていた。
鬱蒼とした深緑の匂いと、煤けた臭いと、据えたアンモニア臭と……なにかよくわからない化学薬品の臭いがしていた。
男は走っていた。
男は逃げていた。
恐るべき速度だった。
男が走っているのは山道──それも、獣道である。
月明かりもない夜の闇も相まって、普通人なら走るどころか、歩くことさえおぼつかなくなる道である。
しかも、男は裸足であった。
裸足に、ボロ布のようなシャツを身体に巻きつけているだけの格好だった。
下履きすら身につけてはいない。
だというのに、男の足は、速い。
まるで、アスリートが100mを全力で走るようなしなやかな動きを、もう1時間は続けていた。
雑多に伸びる雑草や道に転がる枝や小石に、身体が擦れて傷つくのも構わない、全力疾走である。
決死の形相だった。
眼の光に、恐怖が滲んでいた。
吐く息も、恐怖に彩られて黒くなっていた。
肚の底から湧き出したそれが、眼から、口から溢れて溢れて仕方がなかったのである。
冷たい夜──
遠くで、ジープの、あの重苦しいタイヤの音が、ゆっくりと回転をあげているのが男にはわかっていた。
一台ではない、いくつもある。
追ってきている。
道沿いを、迂回するようにして。
まだ遠いが、いずれ追いつかれる。
糸を辿るように、全てが、自分に向かってきているからだ。向こうはレーダーもあるし、専用の武装をしている。鉢合わせたならとてもじゃないが敵わない。
男の心は濡れていた。
恐怖と哀しみに濡れていた。
呼応するように、雨がざあざあと降り出した。
その雨に混ざって、男の涙が世界に溶けていった。
ジープの音が近い。
光に照らされた。
男が振り返った。
銃声が轟く──
1962年、8月のことだった──
1.
スパイダーマンはその日、孤児院に向かっていた。
ニューヨークの街の片隅にある教会が発足させ、今は市政の援助を得て運営しているちいさな孤児院である。
『スパイダーマン』は、そのパーティのゲストとして招かれている──ということになっていた。
事の発端は、なんてことはない話であった。
スパイダーマンことピーター・パーカーは、その日、ジェイ・ジョナ・ジェイムソン──デイリー・ビューグルのJJJに、孤児院の取材を命ぜられた。
なんでも、『その孤児院で開かれるチャリティ・パーティに、スパイダーマンがゲストで現れる』というネタを掴んだと言うのだ。
あの偽善者め!! と憤慨手前に声を荒げるJJJの言葉に、ピーターは眼を丸くした。
そんな話、まるで聞いていなかったからだ。
スパイダーマンはニューヨークの人気者である。
JJJがどんなに個人的な怨恨で悪者に仕立て上げても、街の住人の大半は『親愛なる隣人』たる彼のことを愛している。
マスコミの前で、市長に感謝状を直接贈呈されたことは一度や二度ではない。
その度にJJJの機嫌がとびきり悪くなり、これまたとびきりにドロドロのブラック・コーヒーを、胃袋をいじめるかのように流し込んで、葉巻を乱暴に吸い出すのはビューグルの風物詩でもあった。
そんなスパイダーマンの名声にあやかろうとするものは、当然多いのである。
善悪を問わず──
スパイダーマンが、例えばオモチャ会社に颯爽と姿を現し、褒めの軽口とともに代表者と握手をする絵が撮れたのなら、その日のうちに会社のオモチャは飛ぶように売れ、株価は途端にハネ上がる。
裏社会でさえ、『スパイダーマンにやられた!』と
社会の裏表を問わず愛される男──それがスパイダーマンなのだ。
だから、こういうことが、たまにある。
それとはつまり、『スパイダーマンが訪ねてくれる』という箔付のために、ニセモノのスパイダーマンを仕立て上げることである。
だが、とピーターは息を吐いた。
今回は特に、悪気はなさそうだった。
孤児院の裏をとってみたが、その成り立ちから現在に至るまで、ギャングの影は見えない。完全に善意から運営されている、今時珍しい孤児院だった。
それどころか、教会自体がなんと、メイおばさんの勤め先とも親しい仲であるらしい。
つまりこれは、孤児院の子供たちのために打ち立てられたサプライズと言うわけだ。
微笑ましい話に頬肉を少し緩ませ、後日、ピーターは
そこでピーターが思いついたのが、安直も安直に『本物のスパイダーマンが現れるサプライズ』であった。
ピーターは設定上、スパイダーマンの唯一の理解者であり、友人である。
デイリー・ビューグル的には彼の専属カメラマンであるので、スパイダーマンとして会場に入り、そこでシスターにでも写真を撮ってもらえばいいし、スパイダーマンのままで取材をすればピーターとして、ビューグルの取材への言い訳も立つ。
孤児院も子供たちもピーターもJJJも得をする、万事解決全員ハッピーエンドと言うわけだ。
幸い、その日に目立った事件は起こらなかった。
普段ならここで道ゆく先にオクトパスが現れただのスコーピオンが現れただの、サンドマンが通りすがっただの……と、不幸が畳み掛けて天丼しそうなものだが、今日ばっかりは天の上のお父上様の機嫌がいいらしい。
もしかして、孤児院たる教会が祈りを捧げるお父上様も、
などと、ニヒルに心中で思っているうちに、スイングの先に孤児院が小さく見えていた。
控えめに言って、孤児院──教会は、白を基調とした木造りのボロ小屋であった。雑に塗り重ねたペンキの塗り直し跡が屋根のそこかしこに見える。
庭先でテントがいくつか建っていて、バーベキューと露店が開かれて、子供たちがまばらに散って、串にかじりついていたり、ポップコーンやコーラを食べたり飲んだり、スパイダーマンとグリーンゴブリンのオモチャを手にヒーローごっこで遊んでいたりしている。
シスターたちが3人出ており、そのうちのひとり、妙齢の女性が玄関前に集ったマスコミたちに、なにやら説明をしているようである。
このマスコミたちも、『スパイダーマン』の名に連れられて集まったのだろう。ピーターには何人かの顔に見覚えがあった。
スイングを解いて、マスコミの背後に着地する。
「やあみんな、待たせたかな?」
ピーターがそう言うと、その場にいた全員の眼が、スパイダーマンに向けられていた。
2.
「来ていただけると思っていました」
マスコミとの問答を押し分け、サプライズを果たしたスパイダーマンはあっという間に子供たちに囲まれて質問攻めにあった。
彼らの質問と愛を受け止め、のらりくらりと軽口を叩き、空き缶をウェブ・シューターで撃ち落としたり子供達を抱えてやったりひと通り遊び終えてから、スパイダーマンのために用意してあったという花束や人形を手渡されて、ようやくスパイダーマンにも落ち着ける時間が訪れた。
その時に、コーヒーを淹れてくれた孤児院の責任者、シスター・グレーンの第一声がそれであった。
「あ、やっぱりワザとだったんですか?」
ピーターはマスクをした半分ズラしたまま、思った通りの言葉を紡いだ。
ピーターには孤児院に着いてすぐ、疑問が生じていた。シスターたちが、スパイダーマンの登場にあんまり驚いていなかったからだ。
悪い人たちではないことは、スパイダーセンスが無反応なことで分かっていたが、その後のパーティの段取りの良さから言って、ピーターの眼から見ても、この
「スパイダーマンなら、ああ言うふうに宣伝すれば、来てくださると思っていましたの」
強かな微笑を携えるグレーンは、百戦錬磨の雰囲気を纏っていた。
元よりこのニューヨークで、汚い金に頼らず孤児院を運営する剛腕である。只者ではない。
「でも、ボクのサプライズが必要だったなら、デイリー・ビューグルを通して連絡してくれればよかったのに」
「そうもいかないと思いましたの。きっと、あなたに話を通して、あらかじめ予定を立てていたら、神さまがいじわるして、この日に限ってスパイダーマンに特別な苦難苦闘を与えてくださっていましたわよ」
「……はは、まいったな」
ひょうひょうと綴るグレーンの語り口に、ピーターは得心がいってしまっていた。
ボクのことをよくご存知だ。
下手なヴィランより、敵に回ったらよっぽど手強そうだと率直に思った。
「それに、わたくしはずっと、あなたにお礼を言いたかったのですよ」
「お礼なんて、いやだなあ。いいですよ別に」
「あら、今日のことで、じゃありませんことよ」
「えっ? じゃあ、一体いつのことですか? ……まいったなあ。候補がありすぎてわからないや」
「1960年──」
グレーンの口が、深みのある言葉を吐いた。
「あの時、あなたに助けられたお礼をしたかったのです」
「1960年? ……すみません、シスター。ボクはまだ──」
生まれてすらないですよ。
と言いかけて、慌てて口をつぐんだ。
スパイダーマンは公称は謎の男で通している。
ピーター・パーカーに繋がりそうなことを、少しでも口にするわけにはいかなかった。
いや、そりゃ巷でも「スパイダーマンは青年だろう」というのは通説ではあるらしいが、公的にはスパイダーマンは年齢不詳でなければならない。
「あら、覚えていませんか? 幼いわたくしと、わたくしの家族を助けてくれたこと──」
「それはきっと別人ですね。キャプテン・アメリカが通りかかったとかじゃないですか? もしくはアイアンマンの初期型とか──」
「いいえ。あれは『スパイダーマン』でしたわ」
ピーターは口をつぐんだ。
グレーンの口調には迫力があった。
スパイダーマンを見る眼に、強い芯があった。大切な思い出を傷つけまいとする心の強さが現れているのである。
そこで問答は終わった。
シスターのひとりがグレーンに尋ねごとをしに来たからだ。
ピーターは救われた気持ちであった。
その後、子供達やシスターたちと写真を撮り、孤児院が設立したこと、今苦しいことや行政や世間に対する意見などをいくつか聞き、なごり惜しみつつもスパイダーマンは孤児院を後にした。
3.
夜。
自室のベットに寝転び、ピーターは心のざわつきに耳を傾けていた。
シスター・グレーンの言葉が妙に残っている。
1960年──スパイダーマンに救われた。
そんなバカな話があるだろうか?
自分はまだ産まれてすらいない時期だ。
それほどの過去に、スパイダーマンのような、蜘蛛の能力を持ったスーパーヒーローがいたなんて聞いたこともない。
キャプテン・アメリカやアイアンマンが、もしそんなヒーローを知っていたのだとしたら、どこかでボクにそれを訪ねているだろうし、彼らのボクを見る既視感を、スパイダーセンスが嗅ぎ取っているはずだ。
ひょっとして、これから先のいつかに、ヴィランとかの能力でボクが過去に飛ばされたりするのだろうか?
荒唐無稽な話だが、ありえない話じゃないし、それなら色々と腑に落ちる──
考え事をしていて脳が疲れたのか、ピーターの意識がうとうとと船を漕ぎ出した。
まあ、いいか。
とりあえず、取材はしたんだ。
JJJは、スパイダーマンを貶す内容じゃないことに憤るだろうけど、あの人はいつもブツクサ言いながら、写真もレポートも受け取るし、きちんとボクに報酬をくれる。そういうところだけは信頼している。
なんか、妙に疲れたな。
ピーターはくああとあくびをして、静かに眼を閉じた。
4.
翌日のデイリー・ビューグルはけたたましさに満ちていた。
ピーターは写真とレポートを片手にインフォメーションを通り過ぎた時点で、ただごとではない事態が起こっていると容易に確信できた。
フロアーはどこも目まぐるしく動いていた。
キーボードを打つ音が幾重にも折り重なり、スパイダー聴覚を持つピーターは思わず目眩がするほどだった。
「やった! ついにやったぞ!!」
自らフロアーに出てきて指揮を取りながら、JJJが憤怒の混じった歓喜の声を上げていた。
彼はピーターに目もくれず、捲り上げた腕と声を、やはりせわしなく動かしている。
何があったのか──ピーターが恐る恐る尋ねると、
「スパイダーマンが、とうとう犯罪に手を染めたぞ!! きゃつめ、強盗相手だからと言って、武器も壊され命乞いをする無抵抗の男を、七人も病院送りにしおった!! そのうちの二人は峠を彷徨っているという話だ!! とうとうやったぞ!! あいつめ! 偽善者のクモ男め!! ワシの言った通りだ!!!」
ピーターの眼が驚愕に見開かれた。
たった今刷り上がる新聞のプレビュー。
第一面には、堂々とこう掲載されていた。
『スパイダーマンは人殺しだ』
『とうとう暴力に手を染めた』
──と。
背を向けた、漆黒の『スパイダーマン』の写真と共に。