1.
『スパイダーマン』が強盗を半殺しにした。
そのニュースはニューヨークのお茶の間を掌握し、方々を混乱に導いていた。
あるものは家族で卓を囲み、ご飯を食べながら新聞の文面を叩き、「とうとう化けの皮が剥がれたか!」とJJJの記事を読み賞賛の拍手を打ち鳴らし、妻と娘に白い目で見られていた。
またあるものは「たまにこういうこともあるだろう」と無遠慮と寛容さをないまぜにした息を吐いた。
彼はホット・ドッグの露店売りの青年で、スパイダーマンの活躍を何度も身近で見てきている。
スパイダーマンのコア・ファンたちは「今こそスパイダーマンのアイデンティティを剥き出しにできる時ではないか!?」と息巻いて、パスコード式のいにしえのネット・コミュニティに集まってスパイダーマンの人格や哲学についての議論に白熱している。
だが、当の本人──ピーター・パーカーこそ、混乱の渦中において、最も混乱しているその人だった。
ピーターが真っ先に考えたのは、スパイダーマンを名乗るヴィランのことである。
ヴェノムたちやマンスパイダーがそうであるように、スパイダーマンと同系統の能力を持ち、シルエットもそっくりにしつらえた、いわゆる『スパイダー・ヴィラン』の存在は、常にこの世界の脅威として存在しているし、なんなら日々生まれてさえいるかもしれない。
シンビオートなどはその最たるもので、エディ・ブロックがどこぞでヴェノムの破片を撒き散らし、それが適性のあるどこかの誰かに取り憑いたなら、それだけでスパイダーマンの能力(プラスアルファ)を持った超人の完成である。
夜──スパイダーマンは事件現場に降り立った。
スパイダーマンの姿を察するに糾弾の怒声をあげて、ポケットから錬成したのかレンガを投げてくる模範的マーベル市民(彼ら、いつもどこにいるんだろうね?)を避けながらの道中であった。
規制線を軽々と飛び越え、ビルの狭間に沈痛するその場は、廃車同然のオンボロ車やらゴミの束が道沿いに放り投げられていた。
普段はホームレスの一人や二人、酔っ払いなどがその辺に転がっているのだろう。明らかに意図して敷かれたダンボール紙にボロ切れの布団など、生活の跡が見える。
フェンスがあった。
『スパイダーマン』が立っていた場所だ。
破れている。
スパイダーマンはちぎれたフェンスの刃先に触れてみた。
ねじれている。
熱や刃物で切断された跡じゃない。
凄まじい力で引きちぎられたのだ。
普通の人間には不可能なパワーだ。
スパイダーマンは周囲を見回した。
誰もいない。
手がかりを探していた。
あの写真──
スパイダーマンの足下に転がる、打ちのめされた強盗の一人が蜘蛛糸によってぐるぐる巻きにされているのを見ている。
その糸切れが残っていないか、スパイダーマンは探していた。
はっきり自慢できるが、スパイダー・ウェブはピーター・パーカー生涯の発明である。「特許申請を取れ」とトニー・スタークなどにも言われたことがある。
あの蜘蛛糸の成分、その配合比率はボクにしかわからないはずだ。
なんにせよ、『スパイダーマン』の糸を構成している成分を分析すれば、そいつがどういう知識があって、どういう場所に住んでいて、うまくいけばどういう学歴と社会的立場にいるかまで、わかる。
腰を落とし、地面に目を向ける。
隙だらけの背中に、その声はかけられた。
「──やあ、スパイダーマン。いい夜だ」
「!?」
スパイダーマンは大仰に飛び退いて、宙返りして振り返った。
着地する。
そこに、『スパイダーマン』が立っていた。
2.
殴られていた。
蹴られていた。
スパイダーマンが、である。
『スパイダーマン』に、である。
スパイダーマンが着地するや否や、『スパイダーマン』は問答の余地もなく殴りかかってきた。
スパイダーマンはそれに対抗する。
左のパンチを避けて、ジャンプした。
三メートルは跳んだだろうか。
『スパイダーマン』の頭上を飛び越えようとした。しかし、ジャンプの最高点に達しようとした時、『スパイダーマン』は跳び上がっていた。
そのままスパイダーマンの顔に鋭い上段回し蹴りを打ち込んだ。
強い。
なんとか両足で着地するが、身体が歪んで膝が砕ける。
『スパイダーマン』は素早くボディにパンチを打ち込んだ。まともにもらう。
それからパンチ、キック、頭突き、パンチと連続してもらった。
機械のごとき精密さと、ハルクのようなパワーだった。
強い。
戦い慣れている!
パワーやスピードはそんなに変わらない。
なのに、こちらのパンチやキックは軽々と躱されてしまう。
スパイダーマンがパンチを躱したと思えば、その先は行き止まりであり、蹴りを躱すには跳ぶしかなかった。
跳ぶ足を掴まれ地面に叩きつけられ、倒れたスパイダーマンの身体中に、『スパイダーマン』は恐るべきパンチを見舞った。
ずるずると這いずってマウントポジションを抜ける。
咳をすると、スパイダーマンの口から鮮血が噴き出ていた。
とんでもない強さだ。
敵わない。
『ずっと、こうしてやりたかった』
『スパイダーマン』が言った。
くぐもった、怒りを押し込めた声だ。
「な、なんのこと……キミは誰なんだ!?」
『おまえのせいで、おれは……ッ』
食いしばるような声、『スパイダーマン』の動きがにぶった。
スパイダーマンはその隙に、ふらふらと立ち上がる。
平衡感覚が戻ってきていた。
「ねえ……なにか、もし、困ってることがあるなら……話してくれよ! ボクが力になるからさ!!」
『だまれえッ!!!』
スパイダーマンの口が閉ざされた。
『スパイダーマン』の手から放たれたスパイダー・ウェブのせいで。
『スパイダーマン』の腕にはウェブ・シューターはない。
つまりこれは、生体ウェブだ。
正真正銘の蜘蛛男──
『おれが、おまえだったハズなんだ!!』
怒号と、拳。
頬を殴られた。
強い、痛い。
骨の髄まで威力が浸透している。
脳が直接、巨大なハンマーで殴られたような感覚。
とてもじゃないが敵わない。
スパイダーマンはゴミ束に顔から突っ込んだ。
異臭が鼻をつく。
その気持ち悪さが、なんとか意識をつなぎ止めていた。
『噛み締めろスパイダーマン』
ゴミを掴みながらもがくスパイダーマンに、『スパイダーマン』は言った。
『大いなる力には大いなる責任が伴うらしいが……だったら教えてやる! おまえがどれだけ無力な存在なのか……どれほど奢った存在なのか……思い知らせてやるぞ!!』
スパイダーマンは頭を踏みつけられた。
顔面がアスファルトに叩きつけられる。
それは、ピーターの意識を容易に断ち切った。
3.
ピーターが目を覚ました時、まず、朝であることと、そこが自分のアパートではないことに気づいた。
ベッドから上体を起こす。
頬に手を当てる。
ずきり、と痛みがあった。
夢じゃなかった──
ピーターは深い息を吐き出した。
個室だった。
周囲を見渡す。簡素な作りの一室であった。寝かされているベッドと本棚がひとつ。テーブルがひとつ、花瓶がひとつ。
花瓶には造花が挿してある。
その前に、いくつかの写真立てがあった。
覗き込むと、小学生ぐらいの子供達の、屈託ない笑顔が見えた。
「目が覚めましたか、スパイダーマン」
声がした。
ピーターは思わず顔を手で覆った。
クスクスと、声の主はいたずらに笑う。
「治療のついでに顔は見ちゃいましたが、誰にも言いませんよ。スパイダーマンが、まさかこんな子供だとは思いませんでした」
焼きたてのパンとスクランブルエッグの小皿とミニサラダの乗ったトレーを手に、シスター・グレーンが入り口の側に立っていた。
4.
「びっくりしたわ。教会のゴミ捨て場で何か蠢いているから、大きな野良犬がエサを探しに来たのかと思いました」
グレーンの言い分を聞くと、彼女が朝方早くに教会周りの掃除に出ると、ゴミ捨て場で野垂れるピーターを見つけたとのことだ。
その時はスパイダーマンのスーツを着ていたが、ひと目で重傷を負っているとわかったグレーンはピーターを教会に運び、手当てをしてくれたのだという。
その際にマスクもスーツを脱がしてしまったために、今、ピーターはシャツとパンツ姿なのであった。
恥ずかしさに顔を赤らめるピーターを見て、グレーンは愛嬌よく微笑し、
「大丈夫。男の子の身体を洗うのには慣れていますから」
と言った。
ピーターは自分の身を抱きしめながら、しどろもどろにありがとうと返した。
「あなたがスパイダーマンであることは、みんなにはナイショにしておきます」
グレーンは、しかし、少しだけ悲しそうな口調であった。
ピーターには察しがつく。
スパイダーマンの正体が青年であったということは、グレーンの記憶にあるらしい『1960年のスパイダーマン』が──少なくとも──
すみません、とピーターは思わず口が動いていた。
あら、なぜ、あなたが謝るのですか?
とグレーンは返した。
「わたくしの知っているスパイダーマンと、あなたが別人だったとしても、わたくしを救ってくれた『スパイダーマン』がいたことは事実ですわ」
胸元に折り畳んだ手を、グレーンはぎゅっと握っていた。
ピーターは言葉が見つからず、視線を泳がせた。
5.
ピーターは帰路についていた。
傷は、だいたい治っていた。
スパイダーマンのスーツ──綺麗に洗濯してくれていた──をグレーンに返してもらい、着込み、スパイダーマンとして街々に警戒心を広げながら、ピーターは自室の窓から帰宅を果たした。
道中、『スパイダーマン』のことを考えていた。
あの『スパイダーマン』が、グレーンの言う『1960年のスパイダーマン』と同一人物の可能性は高い。
問題は、なぜその『スパイダーマン』がボクを怨み、妬んでいるのかだ。
なぜ、『1960年』以降、『スパイダーマン』の活躍が誰の記憶にもなく、恐らくは記録もされていないのか、だ。
とてつもない陰謀の気配を感じていた。
そして、その答えはあっさりと目の前に現れた。ピーターが窓をくぐり部屋に入った瞬間、寝室から強い気配がした。
よく知っている気配であった。
鬼気迫るように張り詰めていて、一分の隙もない、むせ返るタバコの煙のような気配。
「遅かったじゃねえか、スパイダーマン」
ピーターのベットに腰掛けているのは、ニック・フューリーだった。
6.
「フューリー!? な、なんでアンタが──」
ピーターが壁際に背をつけてドン引くと、フューリーは苦虫を噛むような表情で「さあてな」と言った。
含みのある言葉はいつものことだ。
鷹か鷲のような、重厚感ある眼は睨めあげるように世の中を鳥瞰しているつもりだ。
トレンチ・コートの下には物理法則を無視するほど大量の銃火器がしまってあるに違いない。
スプリングだけは特注のはずのベッドの沈み具合が、そのままフューリーの隠された武装を現している。
それを透かし観たのか、
「悪いなスパイディ。せっかくのスプリングを台無しにしちまった」
「……弁償してくれるんだよね? ちなみにそれ、50ドルはしたんだけど……」
フューリーは財布を取り出し、黙って50ドル束をピーターに差し出した。
それを恐る恐る受け取ると、フューリーはつらつらと話し出した。
「ラフトを知っているか、スパイダーマン」
「ああ──うん。たしか……スーパー・ヴィランの収容施設……特別刑務所だっけ……?」
「まァそんなトコだ」
それで、とフューリーは続けた。
「先月、そこからひとり脱走した」
「脱走……そんなニュースどこにもなかったよ」
「そりゃそうだ。なんせ、脱走したのは『誰も知らない男』だったんだからな」
「────?」
フューリーは語り出した。
ラフトの地下に、『誰も知らない牢屋』があった。
逃げたのは、そこに収容されていた『誰も知らない男』だった。
その男に関するデータは、合衆国政府のデータ・バンクのどこにもなかった。
その牢屋も、ラフトの設計図を斜めから見ても裏返しても存在するはずのない場所にあった。
だが、ただひとつ、わかっていることがある。
「蜘蛛の力を持ってる……でしょ?」
「……そうだ。やっこさんが脱走した時に、警備員の身体には、今、おまえさんが手に持ってるのと
ピーターの手の中にあるものとは、『スパイダーマン』が打ち出した生体ウェブの塊であった。
「ボクはやってないよ」
「わかってることを言うな、ボウヤ。これは下手すりゃ大事件になる。なんせスパイダーマンが二人いた上に、政府がその事実を隠蔽していたってことだからな」
「…………アベンジャーズは?」
「全員地球にはいねえ。X-MENにも頼れるワケがねえ。今、『スパイダーマン』に対抗しうるヒーローは、お前さんだけだ、スパイダーマン」
「……わかった。じゃあ、協力してくれるんだよね」
フューリーは不機嫌そうに眉を顰めた。
「程度によるな」
と憎々しげに吐き捨てた。
7.
ピーターは、改めてスパイダーマンの活動記録を辿った。
それは自身の記憶もそうだし、スパイダーマンを書き立てた新聞の歴史を辿る旅であった。
だが、すぐに行き詰まった。
どんなに歴史を遡れど、どんなに記事を拡大解釈しても、スパイダーマンが世間に姿を現したのは2000年代を下回らない。
己の歴史を振り返ることは、時に並々ならぬ苦痛と羞恥と、少しばかりの誇りを感じる作業であった。
知らず、涙腺が緩み、パソコンの前でピーターは目を拭った。
次に、別のヒーローの記録を辿った。
主にキャプテン・アメリカ周りの記録だ。
『世界最初のスーパーヒーロー』というのは、定義次第でどうにも変わるものだ。
噂によると、100万年前にはアベンジャーズが存在したという説もある。
ウルヴァリンだって100年以上前にはもう、ミュータント能力を振るって活躍していた。
だが、近代における超人史を紐解くなら、その始まりは彼になるだろう。
第二次世界大戦で誕生した時。
その最中に冷凍された彼が、現代で解凍され蘇生したその時に、歴史は大きく動いている。
キャプテン・アメリカの歴史はアメリカの功罪の歴史に等しい。
彼の足跡を辿ることは、人類が彼に──その肉体にも、精神にも──追いつかんとする美醜極まる進退の足掻きであった。
だが、やはり、彼の記録にも記憶にも、『スパイダーマン』の文字は無い。
彼は何者なのだろうか──
ニック・フューリーにさえ影を掴ませない男。
記録に存在しない男。
彼は、どうやって生きてきたのだろうか?
ラフトにいる前はどこにいたのか。
俊敏な動きに反し、濁った声は老齢さを感じさせた。
どこかの誰か──キングピン的な闇のフィクサーに偽の記憶を植え付けられた、存在しないクローンか……あるいは全く別次元のスパイダーマンという可能性もあるか……
まとまらない考えにピーターが頭を抱えていると、パソコンが証明完了のサインをポン、と鳴らした。
生体ウェブの解析が終わったのである。
ピーターは画面にかじりついた。
8.
1週間が経っていた。
その間、『スパイダーマン』はどこにも姿を見せなかった。
良闇の訪れの際に、影に溶け行ったように消えていた。
ピーター・パーカーは変わらず、スパイダーマンとしての活動を続けていた。
ビューグルの新聞も、さすがに『スパイダーマン』に関する悪口も尽きたか、語彙にキレがなくなり始めていた。
ヒーローを追い詰めることに心血を注ぐ、罵声とレンガを装備した模範的マーベル市民もまた、闇夜に溶けるように姿を消している。
しかし、ピーターの心中深層には、『スパイダーマン』の言葉が反芻してやまない。
──『噛み締めろスパイダーマン』
──『大いなる力には大いなる責任が伴うらしいが……だったら教えてやる! おまえがどれだけ無力な存在なのか……どれほど奢った存在なのか……思い知らせてやるぞ!!』
ピーターは当初、『自身の友人や家族を狙ってくる』という意味だと考えていた。
『スパイダーマン』が、スパイダーマンがピーター・パーカーなのを知っているかどうかはわからない。
だが、この1週間、近縁者が襲われるようなことは起こっていない。
スパイダーセンスにもこれと言って反応はなかった……尤も、彼が本当にスパイダーマンの力と同種の蜘蛛のパワーを持っているなら、ヴェノムたちのようにスパイダーセンスに反応させずに行動できることは予想できる範囲ではある。
夜、パトロールを終えてスパイダーマンは家に戻った。
自室の窓を通り、洗面台でマスクを脱いで顔を洗う。
水で口内を湿らせてから、コーヒーを淹れた。苦味が取り柄のインスタントではあるが、豆を多めに溶かして飲むと、疲れがすっかり吹き飛んで安眠できるのである。
お湯をカップに注ぎ、服を着替えている途中、ふいにドアが叩かれた。
ずいぶん焦っているのか、煩雑な音を奏でている。
ふう、と息を吸って、ピーターは玄関に向かった。
ドアを開けると、そこに、ピーターよりふた回りは大きな男が経っていた。
焦げ茶色のジャケットを羽織り、短く切り揃えた金髪。ボディ・ビルダーのように筋骨隆々の肉体を備えているその男は、苦悶の内面をなんとか隠さんとする、味わい深い表情であった。
「ピーター、久しぶりだな……!」
「……やあエディ。どうしたんだい?」
ワザとらしく、ピーターは尋ねた。
エディ・ブロック──ヴェノムは、入っていいか? と返した。