ぶらついているうちに段々と日も落ちてきた。山の向こうの空で雲が赤く染まっている。これといってどこかへ寄ったわけではないが、ただただ風を浴びながら歩いているだけでヤクは気持ちよかった。
旅先で写真撮影はあんまりしない方だが、今回に限ってはハメがいるから気にしなくてもいいだろう。
いつの間にか気配を消していると思ったら、数メートル後ろで、なにか石像みたいなものとツーショットを撮っている。
「なに撮ってんだ、置いてくぞ」
「待ーってよ、あと三秒だけ。……はいっ、おっけー」
「で、今度はなに撮ったんだ」
さっきは例の『ニャードギアス』の等身大パネルの前でポーズを決めていたし、ハメと歩いていると数メートル間隔で撮影スポットに出くわす。この石像──というより見た目は台座に乗った漬け物石みたいだった──もそうなのだろう。
「『にゃん泉石』なんだって」
ハメが猫耳の生えた漬け物をさする。そのそばには観光地によくある説明文のプレートがあった。
「──にゃん泉石。かつてこの一帯に温泉はなかったが、湯に浸かりたいと願った旅人がこの石をどかすと、下から温泉が吹き出してきた。それを切っ掛けに
見た時はただの漬け物石かと思ったが、読んでみると意外と歴史のある石みたいだった。なにかご利益があるかも、とヤクも両手で撫でてみる。
「こういうのって意外と残ってるもんなんだな。耳ついてる以外は普通の石だし、なにかの拍子に行方不明になったら、もう出てこなさそうなのに」
「実際、数年前までは行方不明だったらしいよー」
ハメが片手で石を撫でながら、片手でスマホをポチポチしている。
「そうなのか」
「うん。ここの近所の人が漬け物石にしてて、それを市に寄贈したんだって」
「あっ、やっぱ漬け物石だったんだ」
見かけによらず、なんて思ったが、そんなことはなかった。石はどこまでいっても石。そういうことらしい。
◯ ◯ ◯
忘れていたが、この季節になると傾きかけた日が落ちるのはかなり早い。
屋外喫煙所のパーティションから外を覗くと、いつの間にか街灯がともっていた。心なしか吸ったセブンスターの先っぽがさっきより赤々と見える。
「ねぇー、あの旅館って電子もダメだっけ?」
「全館禁煙って書いてあったから多分そうだろ」
「そっ」
隣でニャイコスを吸っていたハメが煙を吐き出す。先輩やカンサイさんを含めアパートの面々のほとんどは紙巻き派だが、ハメだけは電子派だった。理由はヤニが撮影機材につくかららしい。
ふーっ、と吐いたタバコの煙がパーティションにあたって消えていく。
プリペイド携帯を開くと、もういい時間だった。
「そろそろ旅館に戻るか。夕飯の前に私、お風呂はいっときたいし」
「あっ、そっか。あそこ旅館だからお風呂あるんだった」
「なんで忘れてんだよ」
「まぁヤクに任せておけば大丈夫かなーって」
「おまえは、お気楽でいいよな」
ふーっ、ともう一度ヤクはタバコの煙を吐き出す。隣でニャイコスを片手にスマホをポチポチしている──ちらっと見えた限り撮影した写真をフォルダ分けしている──ハメにヤクは複雑な表情をする。
(これって信頼されてるの? それとも都合よく扱われてるの?)
どっちなのだろう、と思いながらヤクは短くなったセブンスターを揉み消した。
箱形の灰皿は灰と焦げ跡でよく見る状態になっているが、タバコの空箱といったゴミは捨てられていない。にゃがみ原よりも喫煙者のマナーはいいらしい。なので、ヤクも極力灰をこぼさないように吸い殻を捨てた。
「戻るか」
「うん」
結局、帰り道も含めてどこかの店に入ったり、観光名所に寄ったりすることはなかった。ほんとうにただぶらぶらと
せっかくの旅先でもったいないといわれるかもしれないが、ヤクとしてはこういう夜風に吹かれるだけの時間がなぜだかとても気持ちよかった。
◯ ◯ ◯
旅館の部屋に帰ると館内着と一緒にタオル類が用意されていた。きれいに折り畳まれた館内着は紅葉色の浴衣で、タオルもふかふかな手触りで、いつも使っているくたびれた数年物とは大違いだった。
シャンプーやリンスは大浴場にあるそうで、ヤクとハメは用意してもらったものと下着だけを持って部屋を出た。
大浴場の入口には温泉の代名詞ともいうべき『男』と『女』の暖簾がかかっている。ありきたりかもしれないけど、こういうのを見ると、本物の温泉に来たんだと心が浮き足立つ。
隣ではハメが「それじゃ、これからお風呂はいってきま~す」と自撮り棒のスマホに向かって手を振っている。さすがに浴場内では撮影しないらしく、録画を切っていた。
脱いだものをロッカーに預け、鍵は手首に。そうしてヤクは『大浴場はこちら』と書かれた扉を開けた。
(うわっ……すっごいぬるぬるしてる)
一歩踏み出してまず感じたのはそれだった。湯船からあふれて広がったお湯にほどよいぬめりがある。足裏で確かめるように床をさすってみると、ぬるぬるとした感覚がある。
(とりあえず、かかり湯を……)
大浴場というだけあって天井は見上げるほど高かった。白木の木目が全体的に柔らかな印象を与え、うっすらと曇る湯気が大浴場を満たしている。
かかり湯はさっき見た『にゃん泉石』を真似た形をしていて、そのてっぺんをくり抜いたところにお湯が注がれている。すぐそばには手桶か逆さにして置いてあり、ヤクは湯をすくって肩から浴びる。
(……あっつ)
ちょっと熱かった。
さっきまで外を歩いていたのだから冷えた体にはなかなか熱いお湯だった。それでも何度か浴びていれば慣れるだろうと、反対の肩にもお湯をかける。
「おおーっ、ひっろーいっ。さすがは温泉旅館って感じ」
「大声だすな。ただでさえ響くんだから」
少し遅れてハメがやってきた。広々とした大浴場にテンションが上がっているのか、遊園地を見渡す子どものように手をひさしにして湯気の彼方を見ようとしている。日頃から肩や脚を出すファッションをしているが、こうしてみると、けっこう華奢なのが見てわかる。とはいえ、ヤクもひとのことをとやかくいえるようなプロポーションはしていないが。
「先に頭と体、洗ってるから」
「オッケー……にゃわっ!?」
──にゅるん!
かかり湯を浴びて洗い場へ向かおうと背を向けた矢先、ハメのすっとんきょうな声が大浴場に響いた。それと一緒に何かが滑ったような音も。慌てて振り返ると、果たして何があったのか、ハメが両手両足を突っ張って四足歩行のような体勢になっている。
「や、ヤク……、助けて……」
しかも生まれたての小鹿のように、手足をぷるぷるさせながらハメがこっちを見てくる。突き上げたお尻からは尻尾がピンッと立って、余裕のなさをこれでもかと強調している。
「な、なんでそうなった?」
「ここのお湯、めちゃくちゃ滑るの……、た、立てないぃ……」
にゅるっ、にゅるっ、と突っ張った手足が滑って開いていく。このままいくと大浴場の床で大の字に這いつくばるハメ子ができてしまう。しかも手足のぷるぷる度合いからしてあまり猶予もない。
「まったく、何やってんだよ。ほら」
腕ごと抱えて起こしてやると、ハメがさっきまで溺れていた子猫のようにしがみついてきた。首に手を回してがっちりと、もう離さないといわんばかりに。
心なしかニャイコスの香りがする。すーっとする涼しい香りで、もっと甘い味を吸っていると思っていたヤクとしては意外だった。
「ふぅー、助かった……危うく打ち上げられたヒトデになるところだったよ……」
大の字でへばることをそんなふうに表現するひとも少ないだろう。少なくともヤクはハメ以外にその表現を使っている相手をみたことがない。
「ねぇヤク」
「ん?」
「ちょっと耳貸して」
「な、なんでよ」
一瞬拒否しようとしたが、抱きつかれた至近距離ではそれもままならず、首に手を回したハメがずいっと背伸びして金髪の頭にある耳に唇を近づけてきた。そして湯気にも似た暖かい吐息がまるでASMRのように──。
「……ヘイ、タクシー……そこの洗い場まで」
──ざっばぁぁああ!!
アホの頭にかかり湯をぶっかけてやった。越司丸タクシーは本日をもって営業終了である。
◯ ◯ ◯
「ふぃ──、きもちぃ──」
湯船に浸かったヤクの隣でハメも同じように湯に浸かっていた。もう頭と体は洗ってあって、内湯にはジャグジーや水風呂を含めた数種のお風呂がコンパクトに収まっている。
いま入っているのは内湯の中で一番大きな源泉かけ流しの湯だ。黒い石タイルで囲われた湯船に、地下から汲み上げられたお湯が並々と注がれている。
体が冷えていたせいか、足先を浸けた時はちょっと熱かったけど、肩まで浸かると全身を芯から温めてくれているみたいで、心も体もほぐれてくる。
「はぁ……生き返るってこういう感じなのかな……」
「ヤクってばお婆ちゃんみたいだよー」
「おまえもひとのこと言えないだろ」
言い返しつつもヤクは湯船の縁に頭を預け、ごろんと天井を眺めていた。声の質からして多分ハメも同じだろう。もくもくのぼっていく湯気が目で追っているうちに薄らいで消える。
「やばー、熱くなってきた」
「あっそ」
「茹であがっちゃいそー」
「水風呂で締めてきてもらえよ。そーめんみたいになるぞ」
「えー、ハメちゃんアレきらーい」
さいですか。
「あー、なんか露天風呂に外気浴デッキあるっぽーい」
「ちょっと夜風でも浴びてくれば」
「うーん、そーする」
二人とも天井を眺めたまま、脱力しきった体勢での会話だった。でもまぁヤクは運転と散策で疲れているし、ハメも昼間の唐揚げ丼マウンテンでかなりやられているみたいだったし、このくらいでちょうどいいのかもしれない。
せっかくの旅先なのに、と気を張って寛げない方がもったいない。
ちゃぽっ、と隣でお湯の音がした。それから濡れた足音が微かに聞こえる。ハメが体を冷やしに行ったのだろう。耳で追っていた気配が他のお客たちの声の中に消えていく。
「……はぁー」
何気なく吐いた息がなぜか大きく反響して聞こえた。周りには他のひともいて、お湯の揺れる音が絶え間なく聞こえている。聞こえているはずなのに。
(………………なんか、急に静かになったな……)
いつもは、隣がもっとうるさいはずなのに。
ハメは格ゲーの中ではそこそこ強いけど、現実だと体幹へにょへにょで、ヤクは合気道経験者者でそのへんしっかりしてたらいいな、と。