(一気に、一気に……そう、一気にいけば大丈夫……!)
ぴちぴち、と足裏に触れる水がすでに冷たいが、ヤクは極力意識を向けないようにした。青白いタイルが冷たさを際立たせているが、きっと気のせいだろう。
それでもさっきから二の足を踏み続けていて、あとから来た獣人の女性客が二名ほど水に浸かっては出てを繰り返しているが、今はそれも関係ないということにしておきたい。
「ふー、ふー、ふー」
無意識に呼吸が闘牛のような荒々しさを帯びてくる。それでも行くしかない。
(ふーっ……よしっ! 越司丸益子、行きますっ!)
心の中で誰に向けてでもなく宣言して、ヤクは水風呂に突撃した。
──ざぶっ、ざぶっ、ざぶ……ざっ、ざざ……。
水しぶきがあがって、しばらくして動きが止まる。
(……あっ、これ、ダメなやつ……)
勢い勇んで水風呂に入りはした。他のお風呂よりも浅めになった水風呂は立ったままだと、膝上くらいまでの水かさだ。
そして尋常じゃなく冷たい。
さっきお湯に浸かっている時は体が芯から熱くなって、もうなんでもいいから全身を冷やしいと思った。そして今、水風呂に浸かりにきている。
けど冷たい。信じられないくらい冷たい。
壁の温度計は16℃になっているが、あれ絶対に嘘だ。塩か何か入れて氷点下でも凍らないようにしてるに違いない。
現に立っているだけでも脚から体温が奪われていく。脚の中に氷ができるみたいに筋肉に沿って何かが凍ってくる感覚がある。冷えすぎた爪先が痛い。
(……あ、あが……あがらない、と……)
もう十分に頑張ったし、今日のところはこれくらいにしておこう。実際に使っていた時間は十秒もないくらいだが、ときには自分を許すことも大事だし、とヤクは退散を決意する。
……ちま……ちま……。
水風呂で両肩を抱いて震えながら、壊れたゼンマイ仕掛けのオモチャのような足取りで水風呂からあがった。
もう二度と入らない。
◯ ◯ ◯
逃げるようにヤクはお湯を求めて露天風呂へのドアを開けた。しかし、よくよく考えてみれば外気は寒いわけで、ぶわっと吹き付けてきた風にヤクはちょっと後悔した。
それでもせっかく露天風呂があるのなら、そっちも堪能しないと。
震える両肩を押さえてヤクは外湯に向かった。天然の岩で囲われた大きな湯船は外の気温差もあってか、もくもくと湯気をのぼらせていた。白く濁った夜空には満月が浮かんでいる。
手すりの付いた入口を見つけ、ヤクはそそくさと命の湯に浸かる。
「……ああぁぁ、生き返るぅぅ……」
凍りついていた下半身が芯から温められて氷が融けていく感じがする。脚を伸ばしたヤクはそのまま肩まで浸かって全身でお湯を味わう。壁にはお湯の効能を書いた看板があるが、今のヤクにとっては『めちゃくちゃ気持ちいい』以外の効能はいらなかった。
「……ふわぁあ」
思わずあくびが出てしまった。このまま寝られたらどれだけ幸せか。でも湯船で寝るのは溺れる危険もある、と注意喚起もされている。
「うー、寒い寒い」
そして、ちょうどうとうとしていられない相手が露天風呂に入ってきた。
「あれ、ヤクもこっち来てたの?」
外気浴デッキでほどよく冷やされたハメが慌てた様子でこっちに寄ってくる。
「内湯で入りたいところは入ったから」
「そっ」
すると、隣で肩まで浸かったハメが「んーっ」と伸びをしている。その拍子に気づいたのか声をあげた。
「ねぇヤク、あれなに?」
ちゃぷっ、とハメがお湯の中から指差したのは露天風呂に設置された薄型テレビだ。
それは見てわかるし、ハメが言いたいのはテレビの上下が歌舞伎か相撲の舞台みたいになっていることだろう。下は土台の形になっていて、上には小さいながら垂れ幕つきの屋根がある。
「ああ、あれ。昔の舞台の名残りらしいよ」
「舞台なんてあったの?」
「うん。昔の
テレビなんてなかった当時は温泉から見える所に舞台を設けて、そこで獣人が芸能を披露していたらしい。意外とニッチだったのか、ヤクもここの旅館を予約する時に調べて始めて知ったくらいだ。まぁ、自分達の歴史は謎が多いのは言わずもがなだし。
「さっき街の方をぶらついてた時に舞踊体験とか相撲体験とかあったのもそれが理由?」
「みたいだな。今は観光客向けの体験教室になってるみたいだし」
看板には『獣人歓迎』とあったので教えているのも獣人──もしかしたら昔、舞台に上がっていた獣人の子孫──なのかもしれない。
テレビに目を戻すと、猫耳の間に髷を結った獣人力士が手の平いっぱいの塩をまいて土俵を清めていた。ところどころ塩が残っているが、それでも取組は続行らしく、行司の声で二人の獣人力士が相撲をとっている。
ヤクがその中継に目を奪われている横で「ハメちゃん先にあがってるねー」とハメの声がした。
今から思うと、もしかしたら、この時すでにハメは企んでいたのかもしれない。
◯ ◯ ◯
「ひがぁ~しぃ~、
「まさかとは思うけど、それ私の四股名?」
「うんっ」
頷きながらハメが満面の笑みを浮かべてくる。
ヤクは今、あぐらをかいてコーヒー牛乳を瓶でぐびぐびいっている。ミルクでまろやかになったほろ苦さが温泉で火照った体に美味しい。
そんなヤクの目の前には敷き布団だけがまるで土俵のように敷かれている。
今から十五分ほど前、ハメが湯からあがって少ししてから、ヤクも湯中りしないうちに風呂からあがることにした。シャワーを浴びて、浴衣に着替えて、髪を乾かして、そうして部屋に戻ってくると、これだ。
(あの温泉、なんか変な成分とか入ってた?)
ヤクはちょっと本気でハメの頭を心配した。なんか変な成分とは、なんか変な成分だ。キメるとぶっ飛ぶ危ないクスリとかでない。
とはいえ、ここのは温泉だし、大地の底から天然由来の成分がお湯に溶け出していてもおかしくはない。実は『獣人の方は長時間の入浴をお控えください』といった記載があったのでは。
そんなことを考えながらヤクは旅館のホームページをスクロールしてみたが、心配していたような内容はどこにも載っていない。
となると、こいつがバカをやってるのは素なのか。それか旅先でテンションが上がって、はっちゃけてしまっているだけなのか。
布団の土俵では相変わらずハメが行司の真似をしている。
「にぃ~しぃ~、ゆるふわ*
「おまえの四股名も大概ひどいな」
富士山がゆるふわとか、いつ噴火するかわからなくて夜も眠れないぞ。山小屋に泊まり込む人の身にもなれ。
「ていうか、そろそろ夕飯の時間だろ」
夕食は二人の腹具合と相談して一番遅い時間帯にしてもらっている。昼間はサービスエリアでひどい目に遭ったが、夜は夜でちゃんと食べたかった。
時計を見ると、もうそろそろ食堂に向かう時間だった。ヤクは空になったコーヒー牛乳の瓶を置いて立ち上がる。今日は散策して歩いたし、お風呂にも入ったし、あとはご飯を食べてゆっくりしたかった。
「えー、ご飯食べてすぐ動いたらお腹痛くなっちゃうじゃん」
「なんで食後に相撲とる前提なんだよ。やらないからな」
適当にあしらうようにして手を振って、ヤクは部屋の襖を開ける。もしかしたら先輩が呼びにきているかもしれない、と廊下を覗くと、背後からハメの声がした。
「ふ~~ん、適当に理由つけてるけど、本当はハメちゃんに負けるの怖いんじゃないの~?」
「は?」
人生で二番目くらいに低い声が出た。
◯ ◯ ◯
(ヤクってば単純~。ちょ~と煽っただけで、これなんだから~)
顔には出さず、ハメは心の中だけでほくそえんだ。こんな気持ちになったのはあの時──そう『スラ6』のランク昇格の懸かった一戦で、ゲージ残量ギリギリからコンボを決めて巻き返した時──以来だ。めちゃくちゃ気持ちよかったのを今でも覚えている。
(くっくっくっ、ヤクってばハメちゃんに散々電マしてきたことすっかり忘れて……こっちは覚えてんだぞ……?)
一瞬だけハメの心の中にゆるふわでないモノが顕現してしまった。おっと、いけない、いけない。ゆるふわ、ゆるふわ。
こんな状況では信じてもらえないかもしれないが、ハメは今回の旅行をめちゃめちゃ楽しみにしていた。
ヤクから誘ってもらった時はゲーミングチェアからお尻が浮くほど喜んだし、爆上がりしたテンションの赴くまま唐揚げ丼マウンテンにも挑んだのもそう。心の底からエンジョイしているといっても過言ではない。
だからなのか。エンジョイする気持ちと一緒に心の奥底に眠っていたものが湧き出てしまうことがある。
例えばヤニっちの部屋で電気アンマされて、黄金色のきらめきを散らしちゃった時の記憶だったり、前回ドライブの最中にお腹が痛くなって車を降りたら、そのまま置いていかれちゃった時の記憶だったり。
(にゅふふ~、今夜はゆるふわ*天使じゃなくて、ゆるふわ*小悪魔でいっちゃうよ~。な~んてね~)
心の中で笑顔を作るハメだが、目は小悪魔どころか地獄の底から手を伸ばしてくる大魔王のそれだった。
(昼間は電マで逆襲しようとしてカウンターされちゃったけど…………今度はそうはいかねえからな? こちたら執念深さは蛇にも勝るって有名なんだよ)
心の中でハメはどす声をきかせる。ちなみに執念深さで有名なのは『スラ6』とニャオチューブ配信だ。
きっとこれは仲がいいことの裏返しなのだろう。ハメの心はずーーっとヤクにリベンジするチャンスを伺っていた。
だから旅館に着いてヤクが無防備をさらした時も心の中の悪魔が電気アンマを仕掛けさせた。
そして今もハメの挑発にまんまと乗ったヤクが布団の土俵に上がるのを見ながら、その悪魔がハメに囁きかけてくる。
「負けたら、今晩ハメちゃんの言うことなんでも聞いてよね」
「寝言は寝てから言えよな」
(おー怖い怖い)
マジなトーンになったヤクをわざとらしく笑いながらハメも布団の土俵に上がる。
さっきまでお風呂に入っていたヤクの体はリラックスしていてまだ戦闘態勢にはなっていない、というのがハメの読みだった。
一方でハメは先に上がって準備体操を済ませて準備万端。それに加えてこっそりスマホで『相撲 必勝法 技』で検索をかけていた。呑気にコーヒー牛乳を飲んでいたヤクにはない圧倒的なアドバンテージだ。
(くっくっくっ、今のハメちゃんに死角はない!)
普通の土俵と違って、布団の土俵には広さがない。それぞれ端に立ったハメとヤクは浴衣の裾をまくって、相撲の構えをとる。
すぐそばに迫ったヤクの顔はいつぞやの危ないクスリをキメている時みたいだった。しかし、それでもハメの『スラ6』で鍛えた反射神経には及ばない──はずだ。
合図は布団の外に置いたハメのスマホがする。数十秒の無音を経てから録音したハメの音声が流れる。
『それじゃ、いっくよ~。見合って見合って~、もっと見合って~……はっけよいっ!』
スマホから合図の音声が鳴る。
(よっしゃっ!)
合図と同時にハメが飛び出す。ヤクも一瞬遅れるが、前に出ようとする。しかし、ここは狭い布団の上。その一瞬が命取りになる。獣人の優れた視力がすべてを鮮明に見せてくる。
ハメが狙うはヤクの脚。相撲の技では『足取り』といい、相手の脚を抱え込み、そのまま相手を倒す決まり手だ。これを食らった相手は重心を浮かされ、なす術がない。
検索予測に『足取り 卑怯』とか出たけど、そんなことは知らない。ハメの辞書に『卑怯』とか『諦める』とかの文字はないのだから。
ハメは両手で、いや低くした全身でヤクの脚に飛び付いた。
(もらった!)
──すかっ!
「…………えっ」
その瞬間、目の前でつかもうとしていた脚が消えた。何もない空間。前傾姿勢になったハメは横に避けたヤクの体をすっぽりと抜け、そのまま布団の端へ。
──とんっ!
背中にヤクが手を着いた。ちょうど跳び箱の背に手を着くような、後ろへ押し出す形で。
すべてがスローモーションになって見える。布団の端を通りすぎて、張り替えたばかりなのか、若草色をした畳が目の前に迫り──。
「ぎゃふ!?!?」
「ハメ子ぉぉぉおお!?!?」
ニャオチューブにショートでアップしたらバズりそうなくらいきれいな『
めちゃくちゃ畳の香りが濃いのと、あとなぜかヤクの声が遠ざかっていくように聞こえる。世界があやふやになっていく。
それでも、と薄れゆく意識の中、ハメは手を挙げた。これだけは言わないと。
「ひ、東ぃ……益乃里の……勝ちぃ…………」
ゆるふわでも天使でもないガラガラ声だった。
ここまでお読みくださりありがとうございます。
書き溜めが尽きたので、ちょっと一服してきます。また読みに来てくださると嬉しいです。