第01話 食堂の娘
その年、エリナの父は店の人気料理のレシピを二度変えた。以前の値段で出せなくなったのだ。
客は黙って食べ、来年は豊作だといいなと言った。父も、そうだなと答えたが、窓の外には、その日も厚い雲が垂れ込めていた。
魔王が現れてから、畑の実りは年ごとに乏しくなっていた。
普段は森の奥に潜んでいる魔物が街道へ現れ、荷車が襲われる、荷車が来なければ店の棚が空く。食堂の卓で交わされる話にも、通れなくなった道や、家を離れた友人や親族の名が増えていった。
そんな時代を終わらせる者として、人々が待っている名があった。
勇者。神に選ばれ、魔王を討つ者。
語り継がれる勇者の姿は、物語によってさまざまだった。大剣を振るって軍勢を退けた剣士もいれば、夜空を埋め尽くすほどの魔法を操った娘もいる。王冠を置いて旅立った王子も、名もない村から現れた若者もいた。
先代の勇者は、魔王を討つために旅立ったきり、帰らなかった。
魔物の被害は続き、討伐を果たしたという知らせも届かなかった。人々は、先代が魔王を倒せず、命を落としたのだと思っていた。
だから人々は、今度はどんな英雄が選ばれるのだろうと噂した。
その答えを聞かされたとき、エリナは玉ねぎの皮を剥いていた。
「…………え?」
指先に貼りついた薄皮をつまんだまま、顔を上げる。昼の混雑を過ぎた食堂には、煮込んだ肉と香草の匂いが漂っていた。厨房では父が鍋の底を木べらでさらい、窓際では顔馴染みの老人たちが、すっかり冷めた茶を前に同じ話を繰り返している。エリナのいる隅の卓にも、いつもなら野菜の籠が二つ並んでいるはずだった。
今日は、その片方をどけた場所に神官が座っていた。白い法衣の袖には金糸で細かな模様が縫い込まれていて、使い込まれた卓の上に置かれた手の肌は綺麗で白かった。
「神託により、あなたが勇者として選ばれました」
神官は先ほどと同じ言葉を、少しゆっくり繰り返した。
「……私が?」
「はい」
エリナは自分を指差した。神官が頷く。念のため、もう一度同じことをしてみたが、返ってきた頷きまで同じだった。厨房から父が顔を出した。
「エリナ、手ぇ止まってるぞ」
「今それどころじゃないよ!」
窓際で笑い声が上がった。いつもなら、エリナも言い返しながら笑っていた。けれど今日は、頬をどう動かせばいいのか分からない。
目の前の神官が冗談を言っているようには見えなかったし、王都から何日もかけて食堂の娘をからかいに来るほど、神殿も暇ではないだろう。
「でも、私、剣なんて持ったことないんですけど」
「承知しております」
「魔法も使えませんよ」
「神託に誤りはありません」
エリナは膝の上の玉ねぎを見下ろした。昨日までの自分にできたことといえば、父の横で野菜を刻み、母に呼ばれて料理を運び、常連客の好みを覚えておくことくらいだった。閉店後には皿を洗い、朝になればまた野菜を刻む。その繰り返しのどこにも、魔王を倒すための準備らしいものは見当たらなかった。
神官が、傍らの長い包みをほどいた。現れた剣を見て、窓際の話し声がやんだ。銀色の鞘には読めない文字が連なり、柄に嵌め込まれた石の奥では、淡い光が呼吸するように明滅している。窓から射す午後の陽を受けても、その輝きだけはどこか冷たかった。絵本の中から一つだけ取り出してきたようで、煮汁の染みた卓にも、エリナの仕事着にも、ひどく不釣り合いだった。
「お持ちください」
言われるまま受け取った瞬間、両腕が沈んだ。
「……これ、ずっと持つんですか?」
神官は、そこで初めて少し困った顔をした。
「勇者ですので」
エリナは慌てて剣を抱え直した。世界を救うということの重さを、彼女が最初に知ったのは、腕に食い込む銀の鞘からだった。
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あの日、状況を理解した父と母は神官を引き止めた。
「剣も振れない娘を、魔王と戦わせるつもりか」
「まずは王都で、聖剣の承認を受けていただきます。訓練も、旅の支度も、王国が引き受けます」
「すぐに戦わせるんじゃないんですね」
母が念を押すと、神官は頷いた。両親が認めたのは、王都で確かめ、訓練を受けるところまでだった。エリナも、そこで人違いと分かるかもしれないと思うことにした。
旅立ちの朝、食堂の窓はまだ暗かった。
いつもより早く竈に火を入れた父は、エリナが顔を洗っている間にも料理を増やし続けていた。食卓には、厚く切ったパンと湯気を立てる煮込み、焼いた腸詰め、それに卵料理まで並んでいる。
「ほら、食え」
「……多くない?」
「旅に出るんだ。食えるときに食っとけ」
そう言いながら、父はもう一皿置いた。
「だから、多いってば」
「こっちは持ってけ」
「お父さん!」
抗議しても、父は包みを作る手を止めなかった。慣れた指で紐を結び、結び終わると、一度ほどいてさらに固く結び直す。普段なら客の注文を十件も聞き分けるのに、今朝は娘の言うことだけが耳に入らないらしかった。その向こうでは、母が荷物を全部広げ直していた。
「着替えは?」
「入れた」
「薬は?」
「入れたよ」
「上着は?」
「今、お母さんが持ってる」
「あら、本当」
母は笑ったが、畳んだ上着を袋に収めてから、またその下を確かめた。エリナは呆れたふりをして、煮込みを口に運んだ。よく煮えた野菜が舌の上でほどける。父はいつもより少し塩を控えたらしかった。熱い汁を飲み込むと、ようやく強張っていた身体の緊張が緩んだ。
父が料理を作り、母が心配し、自分が二人に文句を言う。ここだけを見ていれば、いつもと変わらない朝だった。食べ終われば皿を洗って、そのうち常連客が扉を開ける。そう思えてしまうくらいに。
けれど窓の外では、早くから人の声がしていた。
神託を受けた娘が出発するらしい。本当にエリナなのか。可哀想じゃないか。
匙を置くと、傍らの聖剣が目に入った。布で包んであっても、そこにあると分かるだけで、食卓の一角がよそよそしく見えた。
「エリナ」
振り返ったところを、母に抱き締められた。思っていたより強い力だった。肩に頬が触れ、髪に母の息がかかる。仕事着には、洗濯に使う石鹸と、いつもの食堂の匂いが染みついていた。
「帰っておいでね」
エリナは、宙に浮かせていた手を母の背に回した。
「無理だと思ったら、途中で帰ってきていいからね」
神託を受けてから、たくさんの言葉をかけられた。期待している。世界を救ってくれ。きっとあなたならできる。どれも善意で、その善意にどう応えればよいのか分からず、エリナはそのたびに頷いていた。引き返してもいいと言ってくれるのは父と母だけだった。
「……うん」
返事をしたら、急に喉が狭くなった。父の大きな手が頭に乗った。火傷の痕と、刃物でつけた古い傷のある手だった。幼い頃は頭をすっぽり包まれたものだが、今はもう、それほど大きくない。それでも撫でられると、背伸びして保っていたものが崩れてしまいそうだった。
「行ってこい」
「……行ってきます」
外には近所の人たちが待っていた。
「王都まで気をつけろよ」
「ちゃんと食えよ、エリナ」
「帰ったら話を聞かせてくれ」
誰も、勇者様とは呼ばなかった。昨日までと同じ名前で、昨日までと同じ調子で声をかけてくれた。
そのことが嬉しくて、エリナは一人ずつに返事をしながら、神官の待つ街道へ歩き出した。
馬車に乗り込み、窓から振り返ると、父と母が店の前に並んでいた。大きく手を振る。母が振り返し、父も少し遅れて片手を上げた。
二人の姿が見えなくなるまで手を振り続けた。
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王都までの道のりで、エリナは聖剣の扱いに少しだけ慣れた。もっとも、覚えたのは斬り方ではなかった。歩くときは鞘を押さえないと脚に当たること。椅子に座る前には腰から外すこと。壁に立てかけるなら、滑らない場所を選ぶこと。宿の食堂で剣を倒したときには、床を打った大きな音に、客が一斉に振り返った。
「あの子が、神託を受けた娘だそうだ」
「本当に? 大丈夫なのか? 今回も勝てないんじゃないのか?」
「ずいぶん普通だな」
エリナも、そう思っていた。聖剣の承認も、国王の前での宣誓も、まだ済んでいない。頼むから、人違いであってほしかった。
旅先からの報告も、神殿が確かめて王城へ届けるという。自分の知らないところで、いくつもの手順が決まっていた。
知らない道を通るたびに、まだ、引き返せば元の暮らしに戻れるような気がしていた。
その曖昧な猶予が終わったのは、大神殿の白い床を踏んだときだった。
高い天井から香の煙が薄く垂れ、壁には歴代の勇者の肖像が並んでいた。大剣を背負う男も、杖を携えた女も、まっすぐに前を見ている。
誰一人、自分がここにいてよいのかと迷っている顔はしていなかった。
エリナは、自分の腕を見た。重い鍋くらいなら運べる。けれど、大剣を背負っている男の腕と比べると、自分の腕は道端に落ちている細い枝のように見えた。
「……本当に、私で合ってます?」
神官長は小さく咳払いをした。
「聖剣を掲げなさい」
掲げなければ、目の前の人がもっと不機嫌になる気がして、鞘から抜いた刃を、両手で持ち上げる。
次の瞬間、白い光が溢れた。剣を中心に広がった輝きは柱を照らし、天井の彫刻を浮かび上がらせ、遠くの壁まで満たしていった。
目を細めたエリナの周囲で、衣擦れの音が重なる。見れば、神官たちが一斉に膝をついていた。
誰もが剣を見ていた。その下で震えている腕に気づく者はいなかった。
先ほどとの様子の違いに戸惑っているうちに扉が開かれ、エリナは広場を見下ろす壇へ導かれた。
教えられた通りに待ち受けていた国王の前で膝を折り、教えられた通りに剣を捧げる。儀式の言葉が頭上を流れていったが、何を言われたのか、ほとんど頭に残らなかった。
ただ、立ち上がるよう促されたとき、広場を埋める人々の顔が見えた。
「勇者様!」
その声に、肩が跳ねた。
「世界をお救いください!」
「魔王をお倒しください!」
「勇者様なら、きっと!」
折り重なる声の中には、涙を浮かべている人も、幼い子を抱き上げている人もいた。ふざけているのではなかった。この人たちは本気で、エリナが世界を救うと信じている。怖い、と言いたかった。まだ剣さえ満足に扱えないのだと、今なら言えるかもしれなかった。
けれど、目の前の顔を見てしまった。差し出された期待を落としたら、それだけで誰かが泣いてしまいそうだった。
「……はい」
エリナは剣の柄を握り直した。
「必ず、魔王を倒します」
歓声が上がった。あまりに大きな声だったので、自分が何を約束したのか、考える暇もなかった。
エリナは口元を持ち上げ、人々に応えようとした。その隣には、少し離れて王が立ち、神官が控え、騎士たちが並んでいた。
それなのに、剣を持つ腕の重さを誰かに伝えようとしても、声をかけられる相手が見つからなかった。