ボロボロ勇者とカッコつけおじさん   作:時々、たくあん

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第10話 勇者は一人じゃない

 右上の腕が、最初に動いた。肩の鱗が擦れ、肘が外へ開く。エリナは地面に落ちる影を見て、左へ跳んだ。拳が石畳へ叩きつけられた。

 足の裏から衝撃が伝わり、細かな破片が脛へ当たる。着地した場所へ、今度は下の腕が横から迫った。エリナは身を伏せた。

 

 頭上を硬い指が通り過ぎ、背後の屋台を砕いた。顔を上げる暇がなかった。残る二本が、逃げ道を塞ぐように動いている。四本は、順番に来るのではなかった。二本を避けている間に、次の二本が待っていた。

 

「やどかりさん!」

 

 エリナは身体を転がし、倒れた屋台の向こうへ抜けた。

 

「やっぱり、一人は無理! 来て!」

 

「お、おう!」

 

 返事と一緒に足音が近づいた。

 

「右側の二本、引きつけて!」

 

「二本もかよ!」

 

「四本よりいいでしょ!」

 

「そりゃそうだ!」

 

 やどかりが横へ走った。落ちていた金具を蹴り上げ、魔物の頬へ当てる。そのまま剣で下の腕を浅く斬ると、赤い目がそちらへ動いた。二本の腕が、男を追った。エリナの前が開いた。完全に安全になったわけではない。それでも、見るべき動きが半分になった。

 

 下の拳が地面を打つ。エリナはその外側を回り、戻りかける腕の鱗へ足をかけた。滑りそうになった靴底を、鱗の縁へ押し込む。腕が持ち上がった。その勢いに合わせて身体を起こし、肘から肩へ駆け上がった。首が見えた。分厚い鱗が重なる下に、細い皺があった。

 

 ここだと思った。エリナは両手で剣を振り下ろした。刃が弾かれた。衝撃が手首から肘へ抜け、指が開きかけた。皮膚だと思った場所にも、薄い鱗が幾重にも重なっていた。

 

「……硬い!」

 

 魔物が肩を揺すった。足場が動き、エリナの身体が滑った。空いた腕が、こちらへ向かってくる。

 

「嬢ちゃん!」

 

 誰かが叫んだ。エリナは剣を抱え込み、魔物の背へ身体を滑らせた。掴みに来た指が肩の鱗を掻き、すぐ脇を通り過ぎる。落ちながら、背中の突起へ手をかけた。指が裂けた。それでも一瞬、身体が止まった。その一瞬で足を探し、腰の鱗へ靴を押しつける。

 

「まだ終わってねえぞ!」

 

 やどかりの声がした。

 エリナは顔を上げた。そうだった。さっきまでは、首を斬れば倒せると思っていた。今は、それでは駄目だと分かった。分かったことが、一つ増えただけだった。

 魔物が頭を巡らせた。三本の角が見えた。角そのものは黒く硬そうだったが、その根元には鱗がない。赤く明滅する細い溝が、皮膚へ食い込むように走っていた。

 

 エリナは背中の突起を蹴った。もう一度、肩へ這い上がる。上の腕が戻ってくる前に、身体ごと剣を押し込んだ。角の根元に、刃が入った。硬いものの間を割る感触が、柄を通じて掌へ返ってきた。紫色の体液が噴き、魔物が頭を仰け反らせた。

 

 エリナは剣にしがみついた。

 

「……抜けない……!」

 

 引いても、刃が戻らなかった。根元の硬い組織に噛み込んでいる。無理に引こうとすると足場がずれ、こちらが振り落とされそうになった。四本の腕が、一斉に持ち上がった。エリナを掴もうとしていた。

 

「こっち見ろ!」

 

 やどかりが魔物の膝へ剣を入れた。深くは届かなかったが、巨体が傾いた。片方の足へ体重が移り、その分だけ、エリナへ伸びる腕の動きがずれる。

 

「刺さってんだろ!」

 

 やどかりが叫んだ。

 

「ぶち抜いちまえ!」

 

 エリナは柄を見た。刃は、角と頭の間へ斜めに入っていた。父が、固く閉じた木箱の蓋をこじ開けるところを思い出した。隙間に金具を差し込み、端へ体重をかける。真正面から引いても開かなかった蓋が、それで浮いた。エリナは足を踏ん張り、柄を下へ押した。

 

 角の根元に、細い亀裂が走った。

 

「……動いた!」

 

 魔物が暴れた。足場が傾くたび、エリナは膝を曲げ、柄を抱き込んだ。角の根元を押し上げるように、全身の重さを剣へ預ける。亀裂が広がった。その奥で、赤い光が強くなった。残る二本の角も光っていた。溝を伝って明かりが流れ、裂けた部分が、じわじわと狭くなりはじめる。

 

「治してる……!」

 

 エリナはさらに体重をかけた。腕が震えた。裂ける速さより、塞がる速さのほうが勝りはじめていた。一人分では、足りなかった。

 

「やどかりさん!」

 

「なんだ!」

 

「上から叩いて! この角!」

 

 やどかりは顔を上げた。すぐに、迫った拳を横へかわす。剣では受けず、砕けた石を踏み越えて逃げた。

 

「行きたいのは山々なんだがな!」

 

 四本の腕が、男の動きを潰そうと交互に落ちていた。エリナは周囲を見た。小さな魔物は減っていた。荷車の横では槍が獣を止め、屋根を見ていた商人が、もう上にはいないと叫んでいる。その向こうに、人々がいた。こちらを見ていた。何かしたいのに、何をすればよいか分からない顔だった。

「顔の横で、音を出して!」

 

 エリナは叫んだ。

「鍋蓋!」

「お、俺のことか?」

「腕の届かないところから! こっちを見ないようにして!」

 

 鍋の蓋が鳴った。料理人が、戸口の陰から蓋を叩いていた。

 

「おい! こっちだ!」

 

 反対側でも、金物を叩く音がした。商人が棒で屋台の鉄枠を打ちつけ、老人が包丁の背で石の柱を鳴らす。誰かが魔物の顔へ、小石を投げた。額に当たった小石を、巨体は気にもしなかった。けれど、左右から響く音に赤い目が動き、伸ばしていた腕の一本が止まった。

 

 その一瞬を、やどかりが抜けた。魔物の足の外側へ回り、砕けた門板を踏み台にする。気づいた魔物の下腕が、横へ薙がれた。

 

「兄ちゃん!」

 

 麺棒の男が、門板へ手を伸ばした。傾きかけた板を、身体ごと押さえた。

 

「行け!」

 

 やどかりの足が、その上を踏んだ。直後、魔物の腕が板の端へ当たった。木が砕け、男が転がった。エリナの喉が引き攣ったが、男は地面から顔を上げていた。すぐに二人が駆け寄り、襟と腕を掴んで引きずり出す。やどかりは、もう魔物の腕に取りついていた。

 

 鱗の縁へ足をかけ、持ち上がる腕の動きに乗って肩へ跳ぶ。

 

「そこ!」

 

 エリナは亀裂を見た。

 

「剣が入ってる角! 多分そこが弱点!」

 

「分かってる!」

 

 やどかりが剣を振り上げた。エリナは柄を握り直した。腕の力だけでは足りない。足を踏ん張り、腰を落とし、肩から全身の重さをかける。上から、やどかりの刃が落ちた。同時に、エリナは柄を押し下げた。根元が、鳴った。エリナは歯を食いしばった。

 

 まだ、手を離さなかった。もう一度、全身を沈めた。大きな音とともに、角が折れた。赤い光が亀裂から噴き出し、残る二本の角を走って消えた。魔物が喉を反らし、声にならない咆哮を上げる。足元の肩が、急に低くなった。

 

「離れろ!」

 

 やどかりが叫んだ。

 

「倒れるぞ!」

 

 エリナは剣を引いた。今度は抜けた。傾いていく背中を滑り、腕の外側へ足をつける。そのまま地面へ跳ぼうとしたところで、踏み場が崩れた。

 

「わっ……!」

 

 やどかりの腕が、腰へ回った。二人でもつれるように飛び降り、濡れた石畳を転がる。すぐ後ろで、巨体が地面へ倒れた。石が跳ね、土煙が通りを覆った。エリナは咳き込みながら顔を上げた。魔物の四本の腕が、地面に投げ出されていた。一本の指が動いた。

 

 エリナは剣を握ったまま、それを見ていた。指は、それきり動かなかった。

 

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 最初に聞こえたのは、誰かの荒い息だった。次に、瓦礫の落ちる音がした。咆哮はなかった。頭上を飛ぶ翅の音も、荷車へぶつかる獣の音も、いつの間にかやんでいた。エリナは周囲を見回した。東門の向こうへ、傷ついた狼型が逃げていく。追おうとした自警団を、老人が大声で止めていた。

 

 荷車の脇には魔物の死骸があった。槍を構えていた男が、まだ構えを解けずにいる。その隣で別の男が、もう来ない、と何度も繰り返していた。

 

「……倒した?」

 

 エリナは呟いた。隣でやどかりが上体を起こした。

 

「らしいな」

 

 エリナはもう一度、魔物を見た。

 

「勝った……?」

 

「ああ」

 

 やどかりが息を吐いた。

 

「勝ったよ」

 

 通りの向こうで、誰かが声を上げた。短く、途切れた声だった。それに別の声が重なり、やがて、抑え込んでいた息を全員が一斉に吐き出したような歓声になった。

 

「倒したぞ!」

 

「やった!」

 

「生きてるか!」

 

「生きてるよ、馬鹿!」

 

 笑い声に泣き声が混じった。男たちが肩を叩き合い、腰の抜けた者が地面に座ったまま拳を上げる。麺棒の男は腕を押さえながら、助け起こしてくれた二人へ何か言い返していた。エリナは、それを見ていた。自分以外の人が、そこにいた。勝ったと言う声の中に、自分たちも戦ったのだという驚きが混じっていた。

 

「勇者様!」

 

 呼ばれて、エリナの身体が強張った。剣を持つ腕に力が戻りかける。

 

「ありがとう!」

 

 続いた言葉は、それだった。世界を救えとも、次こそ勝てとも言われなかった。男が、槍を下ろして頭を下げていた。少し前には、その穂先をエリナへ向けていた人だった。エリナは返事を探した。笑っていいのか、怒っていいのか分からなかった。

 

 どちらの気持ちもあることが、自分でも落ち着かなかった。やどかりが、隣に座ったまま言った。

 

「無理して返事しなくていいぞ」

 

 エリナは男を見た。

 

「……うん」

 

 顔を戻すと、肉切り包丁の老人が近づいてきていた。歩き方は戦う前よりずっと頼りなく、途中で膝をさすっている。その後ろには、鍋の蓋を持った料理人がいた。水桶を運ぶ女もいた。額に布を巻かれた商人も、母親の服にしがみつく子供もいた。

 

「……勇者って」

 

 エリナの頬へ、涙が落ちた。

 

「一人じゃ、ないんだね」

 

 やどかりが笑った。

 

「最初から、そう言ってんだろ」

 

「……麺棒でも?」

 

「本人に言ってやれ。喜ぶぞ」

 

「鍋の蓋でも?」

 

「あれ、いい音してたな」

 

 エリナは涙を拭った。拭っても、口元はうまく戻らなかった。

 

「……変な勇者ばっかり」

 

「あんなに傷んだ剣で戦ってたお前も大概だぞ」

 

「やどかりさんには、言われたくない」

 

 小さな笑い声が漏れた。自分の声だと分かって、エリナは少し驚いた。

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