右上の腕が、最初に動いた。肩の鱗が擦れ、肘が外へ開く。エリナは地面に落ちる影を見て、左へ跳んだ。拳が石畳へ叩きつけられた。
足の裏から衝撃が伝わり、細かな破片が脛へ当たる。着地した場所へ、今度は下の腕が横から迫った。エリナは身を伏せた。
頭上を硬い指が通り過ぎ、背後の屋台を砕いた。顔を上げる暇がなかった。残る二本が、逃げ道を塞ぐように動いている。四本は、順番に来るのではなかった。二本を避けている間に、次の二本が待っていた。
「やどかりさん!」
エリナは身体を転がし、倒れた屋台の向こうへ抜けた。
「やっぱり、一人は無理! 来て!」
「お、おう!」
返事と一緒に足音が近づいた。
「右側の二本、引きつけて!」
「二本もかよ!」
「四本よりいいでしょ!」
「そりゃそうだ!」
やどかりが横へ走った。落ちていた金具を蹴り上げ、魔物の頬へ当てる。そのまま剣で下の腕を浅く斬ると、赤い目がそちらへ動いた。二本の腕が、男を追った。エリナの前が開いた。完全に安全になったわけではない。それでも、見るべき動きが半分になった。
下の拳が地面を打つ。エリナはその外側を回り、戻りかける腕の鱗へ足をかけた。滑りそうになった靴底を、鱗の縁へ押し込む。腕が持ち上がった。その勢いに合わせて身体を起こし、肘から肩へ駆け上がった。首が見えた。分厚い鱗が重なる下に、細い皺があった。
ここだと思った。エリナは両手で剣を振り下ろした。刃が弾かれた。衝撃が手首から肘へ抜け、指が開きかけた。皮膚だと思った場所にも、薄い鱗が幾重にも重なっていた。
「……硬い!」
魔物が肩を揺すった。足場が動き、エリナの身体が滑った。空いた腕が、こちらへ向かってくる。
「嬢ちゃん!」
誰かが叫んだ。エリナは剣を抱え込み、魔物の背へ身体を滑らせた。掴みに来た指が肩の鱗を掻き、すぐ脇を通り過ぎる。落ちながら、背中の突起へ手をかけた。指が裂けた。それでも一瞬、身体が止まった。その一瞬で足を探し、腰の鱗へ靴を押しつける。
「まだ終わってねえぞ!」
やどかりの声がした。
エリナは顔を上げた。そうだった。さっきまでは、首を斬れば倒せると思っていた。今は、それでは駄目だと分かった。分かったことが、一つ増えただけだった。
魔物が頭を巡らせた。三本の角が見えた。角そのものは黒く硬そうだったが、その根元には鱗がない。赤く明滅する細い溝が、皮膚へ食い込むように走っていた。
エリナは背中の突起を蹴った。もう一度、肩へ這い上がる。上の腕が戻ってくる前に、身体ごと剣を押し込んだ。角の根元に、刃が入った。硬いものの間を割る感触が、柄を通じて掌へ返ってきた。紫色の体液が噴き、魔物が頭を仰け反らせた。
エリナは剣にしがみついた。
「……抜けない……!」
引いても、刃が戻らなかった。根元の硬い組織に噛み込んでいる。無理に引こうとすると足場がずれ、こちらが振り落とされそうになった。四本の腕が、一斉に持ち上がった。エリナを掴もうとしていた。
「こっち見ろ!」
やどかりが魔物の膝へ剣を入れた。深くは届かなかったが、巨体が傾いた。片方の足へ体重が移り、その分だけ、エリナへ伸びる腕の動きがずれる。
「刺さってんだろ!」
やどかりが叫んだ。
「ぶち抜いちまえ!」
エリナは柄を見た。刃は、角と頭の間へ斜めに入っていた。父が、固く閉じた木箱の蓋をこじ開けるところを思い出した。隙間に金具を差し込み、端へ体重をかける。真正面から引いても開かなかった蓋が、それで浮いた。エリナは足を踏ん張り、柄を下へ押した。
角の根元に、細い亀裂が走った。
「……動いた!」
魔物が暴れた。足場が傾くたび、エリナは膝を曲げ、柄を抱き込んだ。角の根元を押し上げるように、全身の重さを剣へ預ける。亀裂が広がった。その奥で、赤い光が強くなった。残る二本の角も光っていた。溝を伝って明かりが流れ、裂けた部分が、じわじわと狭くなりはじめる。
「治してる……!」
エリナはさらに体重をかけた。腕が震えた。裂ける速さより、塞がる速さのほうが勝りはじめていた。一人分では、足りなかった。
「やどかりさん!」
「なんだ!」
「上から叩いて! この角!」
やどかりは顔を上げた。すぐに、迫った拳を横へかわす。剣では受けず、砕けた石を踏み越えて逃げた。
「行きたいのは山々なんだがな!」
四本の腕が、男の動きを潰そうと交互に落ちていた。エリナは周囲を見た。小さな魔物は減っていた。荷車の横では槍が獣を止め、屋根を見ていた商人が、もう上にはいないと叫んでいる。その向こうに、人々がいた。こちらを見ていた。何かしたいのに、何をすればよいか分からない顔だった。
「顔の横で、音を出して!」
エリナは叫んだ。
「鍋蓋!」
「お、俺のことか?」
「腕の届かないところから! こっちを見ないようにして!」
鍋の蓋が鳴った。料理人が、戸口の陰から蓋を叩いていた。
「おい! こっちだ!」
反対側でも、金物を叩く音がした。商人が棒で屋台の鉄枠を打ちつけ、老人が包丁の背で石の柱を鳴らす。誰かが魔物の顔へ、小石を投げた。額に当たった小石を、巨体は気にもしなかった。けれど、左右から響く音に赤い目が動き、伸ばしていた腕の一本が止まった。
その一瞬を、やどかりが抜けた。魔物の足の外側へ回り、砕けた門板を踏み台にする。気づいた魔物の下腕が、横へ薙がれた。
「兄ちゃん!」
麺棒の男が、門板へ手を伸ばした。傾きかけた板を、身体ごと押さえた。
「行け!」
やどかりの足が、その上を踏んだ。直後、魔物の腕が板の端へ当たった。木が砕け、男が転がった。エリナの喉が引き攣ったが、男は地面から顔を上げていた。すぐに二人が駆け寄り、襟と腕を掴んで引きずり出す。やどかりは、もう魔物の腕に取りついていた。
鱗の縁へ足をかけ、持ち上がる腕の動きに乗って肩へ跳ぶ。
「そこ!」
エリナは亀裂を見た。
「剣が入ってる角! 多分そこが弱点!」
「分かってる!」
やどかりが剣を振り上げた。エリナは柄を握り直した。腕の力だけでは足りない。足を踏ん張り、腰を落とし、肩から全身の重さをかける。上から、やどかりの刃が落ちた。同時に、エリナは柄を押し下げた。根元が、鳴った。エリナは歯を食いしばった。
まだ、手を離さなかった。もう一度、全身を沈めた。大きな音とともに、角が折れた。赤い光が亀裂から噴き出し、残る二本の角を走って消えた。魔物が喉を反らし、声にならない咆哮を上げる。足元の肩が、急に低くなった。
「離れろ!」
やどかりが叫んだ。
「倒れるぞ!」
エリナは剣を引いた。今度は抜けた。傾いていく背中を滑り、腕の外側へ足をつける。そのまま地面へ跳ぼうとしたところで、踏み場が崩れた。
「わっ……!」
やどかりの腕が、腰へ回った。二人でもつれるように飛び降り、濡れた石畳を転がる。すぐ後ろで、巨体が地面へ倒れた。石が跳ね、土煙が通りを覆った。エリナは咳き込みながら顔を上げた。魔物の四本の腕が、地面に投げ出されていた。一本の指が動いた。
エリナは剣を握ったまま、それを見ていた。指は、それきり動かなかった。
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最初に聞こえたのは、誰かの荒い息だった。次に、瓦礫の落ちる音がした。咆哮はなかった。頭上を飛ぶ翅の音も、荷車へぶつかる獣の音も、いつの間にかやんでいた。エリナは周囲を見回した。東門の向こうへ、傷ついた狼型が逃げていく。追おうとした自警団を、老人が大声で止めていた。
荷車の脇には魔物の死骸があった。槍を構えていた男が、まだ構えを解けずにいる。その隣で別の男が、もう来ない、と何度も繰り返していた。
「……倒した?」
エリナは呟いた。隣でやどかりが上体を起こした。
「らしいな」
エリナはもう一度、魔物を見た。
「勝った……?」
「ああ」
やどかりが息を吐いた。
「勝ったよ」
通りの向こうで、誰かが声を上げた。短く、途切れた声だった。それに別の声が重なり、やがて、抑え込んでいた息を全員が一斉に吐き出したような歓声になった。
「倒したぞ!」
「やった!」
「生きてるか!」
「生きてるよ、馬鹿!」
笑い声に泣き声が混じった。男たちが肩を叩き合い、腰の抜けた者が地面に座ったまま拳を上げる。麺棒の男は腕を押さえながら、助け起こしてくれた二人へ何か言い返していた。エリナは、それを見ていた。自分以外の人が、そこにいた。勝ったと言う声の中に、自分たちも戦ったのだという驚きが混じっていた。
「勇者様!」
呼ばれて、エリナの身体が強張った。剣を持つ腕に力が戻りかける。
「ありがとう!」
続いた言葉は、それだった。世界を救えとも、次こそ勝てとも言われなかった。男が、槍を下ろして頭を下げていた。少し前には、その穂先をエリナへ向けていた人だった。エリナは返事を探した。笑っていいのか、怒っていいのか分からなかった。
どちらの気持ちもあることが、自分でも落ち着かなかった。やどかりが、隣に座ったまま言った。
「無理して返事しなくていいぞ」
エリナは男を見た。
「……うん」
顔を戻すと、肉切り包丁の老人が近づいてきていた。歩き方は戦う前よりずっと頼りなく、途中で膝をさすっている。その後ろには、鍋の蓋を持った料理人がいた。水桶を運ぶ女もいた。額に布を巻かれた商人も、母親の服にしがみつく子供もいた。
「……勇者って」
エリナの頬へ、涙が落ちた。
「一人じゃ、ないんだね」
やどかりが笑った。
「最初から、そう言ってんだろ」
「……麺棒でも?」
「本人に言ってやれ。喜ぶぞ」
「鍋の蓋でも?」
「あれ、いい音してたな」
エリナは涙を拭った。拭っても、口元はうまく戻らなかった。
「……変な勇者ばっかり」
「あんなに傷んだ剣で戦ってたお前も大概だぞ」
「やどかりさんには、言われたくない」
小さな笑い声が漏れた。自分の声だと分かって、エリナは少し驚いた。