戦いが終わっても、すぐに座ってはいられなかった。怪我人を建物へ運び、井戸から水を汲み、東門へ倒れた木材を集める。自警団の一人が負傷者の数を城へ伝えに走り、残った者たちは壊れた門の前に見張りを置いた。エリナも立とうとした。
膝が折れた。やどかりに腕を掴まれ、どうにか地面へ顔から倒れずに済んだ。
「……足、動かない」
「さっきまで、あんなとこ登ってたくせに」
「さっき、あんなとこ登ったからだよ……」
「なるほどな」
納得されても困った。エリナは木箱へ座らされ、濡れた布を渡された。手についた血を拭いていると、さっきまで剣を握っていた指が、今になって震えはじめた。
先ほどの群衆の中にいた母親が、水と乾いた布を持ってきてくれた。肩の傷は、深くは裂けていなかった。手の甲と指も洗い、一本ずつ巻いてもらった。やどかりが結び目を確かめて離れると、老人が前へ立った。
「嬢ちゃん」
エリナは顔を上げた。老人の目が、震える手に落ちた。口元が歪み、少しの間、何も言わなかった。
「俺たちは……」
老人は、言いかけた口を閉じた。エリナの首へ目をやりかけ、その目が再び彼女の顔へ戻る。
「あの痕を見て、ろくに話も聞かずに決めつけた」
深く頭を下げた。
「すまなかった」
エリナは布を握った。周囲の何人かも、こちらを見ていた。その目が痛かった。許してほしいのだろうか、と思った。ありがとうと言われ、謝られたら、もう大丈夫ですと笑うべきなのだろうか。
殴られた時の痛みは、時間で消えた。呪いごと出ていけと言われたときの声は、消えていなかった。首元の黒い痕がなくなっても、誰かの目がそこへ動くだけで、襟を引き上げたくなる。
「……私」
エリナは膝の上を見た。
「まだ、怖いよ」
老人は頭を下げたまま、動かなかった。
「今だって、近づいてこられると……また何かされるのかなって、思う」
「……ああ」
「今日、助けてくれたのは、嬉しい。でも……」
続く言葉が見つからなかった。老人が、ゆっくり顔を上げた。
「分かった」
それだけ言った。
「今、許してくれとは言わねえ」
エリナは小さく頷いた。老人は一歩下がった。その一歩で、少し息がしやすくなった。怖いと伝えても、笑って済ませるよう求められなかった。老人はエリナが布を握り直すのを待ち、こちらへ手を伸ばすこともせず、そばに立っていた。
「よし」
やどかりが立ち上がった。
「飯にしよう」
エリナは顔を上げた。
「……今?」
「今」
「話、してたんだけど」
「聞いてた。で、腹も減った」
エリナは呆れて男を見た。すると、自分の腹が鳴った。誰も、何も言わなかった。その沈黙が、かえってひどかった。
「……今のは」
「でけえ音だな」
「最低!」
老人の口から、堪え損ねたような息が漏れた。料理人が顔を背け、肩を揺らしていた。エリナも、少しだけ笑ってしまった。何もかも済んだわけではなかった。けれど、腹が減っていることまで、否定しなくてもよかった。
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「剣は、置いとけ」
近くの店から鍋が運び出されてきた頃、やどかりが言った。
「今日は料理でも作ればいい。食堂の娘なんだろ」
エリナは、自分の手を見た。掌には柄の跡が赤く残っていた。血を拭った指先に、布の細い繊維が貼りついている。この手で、野菜を刻んでいた。皿を運び、鍋を混ぜ、母と一緒に洗い物をしていた。
「……作っていいの?」
やどかりが眉を上げた。エリナは、その顔を見てから言い直した。
「作りたい」
「おう」
「でも、立てない」
「そりゃ困ったな」
「困ったな、じゃなくて……」
「俺が切るよ」
麺棒の男が言った。腕には包帯が巻かれていたが、指は動くようだった。エリナがそこを見ると、男は慌てて付け加えた。
「ゆっくりでよければ。駄目なら、ほかの奴に頼む」
「鍋はこっちで見る」
料理人が蓋を持ち上げた。
「火は起こしてある。何を入れる?」
「うちに野菜がある」
「市場に落ちたのも、傷んでねえところは使えるぞ」
「水、もう一桶いるか?」
次々に声が上がった。エリナは目を瞬いた。戦いが終わっても、この人たちはまだ、自分の言葉を待っていた。やどかりが横から覗き込んだ。
「一人で無理なら?」
戦いに勝てて、やどかりも気分が高揚しているのだろうか、顔と言い方に少しイラッとしたが、エリナは少し考えた。さっきは、四本の腕を全部一人で避けようとして、やどかりを呼んだ。今は立って包丁を握れない。そのどちらも口にして、誰かがそばへ来てくれた。鍋の周りに集まった人々を見ると、何ができるか相談し合う声が、もう聞こえていた。
「……手を借りる」
「そうしとけ」
エリナは包丁を持とうとしていた男へ声をかけた。
「根菜は、小さめに切って。大きさが揃ってるほうが、早く煮えるから」
「これくらいか?」
「うん。それで大丈夫」
「肉は少ししかねえぞ」
老人が、油紙に包んだ肉を広げた。エリナは量を見て、鍋を見た。
「脂のところを先に焼ける?」
「できるが」
「それで野菜も炒めてから、お水を入れてほしい。少なくても、匂いがつくから」
老人が頷いた。料理人が竈の前を空ける。しばらくすると、脂の焼ける音がした。エリナは顔を上げた。その音だけで、胸の奥が緩んだ。鍋の底を木べらが擦る。刻んだ野菜が落ち、蒸気が立ち上る。少し焦げそうになると誰かが慌て、別の誰かが、水はまだだと止める。
手際は、父の厨房とはまるで違った。それでも、知っている匂いになっていった。
「味、見てくれ」
小皿が差し出された。エリナは受け取り、息を吹きかけた。口へ運びかけて、もう一度冷ました。父に、熱いから気をつけろと言われたことを思い出したのだ。汁を少し飲む。薄かった。肉も、野菜も、集まった人数に対して十分とは言えなかった。けれど、焼いた脂の香りがあり、野菜の甘みがあった。
「……どうだ?」
料理人が尋ねた。エリナはもう一口飲んだ。
「おいしい」
言うと、男の肩が下がった。
「よかった」
「塩、あと少しだけ。ほんの少し」
「わかった」
鍋へ顔を寄せる背中を見て、エリナは膝の上の剣へ目を落とした。もう、持っている必要はなかった。壁へ立てかけ、代わりに小皿を両手で包んだ。
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宴会と呼ぶには、ずいぶん不揃いな食卓だった。無事だった戸板を木箱に渡し、椅子の代わりに樽を並べた。皿は大きさがばらばらで、杯の足りない者は茶碗を持っていた。パンは薄く切り分けられ、鍋の中には、形の揃わない野菜が浮かんでいた。
東門には、まだ見張りがいた。怪我の重い人には先に食事を運び、交代する者が戻ってくるたび、誰かが席を詰めた。エリナの前にも、湯気の立つ椀が置かれた。匙を持つ手は、まだ少し震えていた。一口食べた。温かかった。飲み込むと、その温かさが胸へ落ちた。エリナは椀の縁へ左手を添え、もう一口食べた。
隣ではやどかりが、パンを汁へ浸していた。
「どうだ」
「……おいしい」
「自分で味つけしたからな」
「私だけじゃないよ」
エリナは鍋のほうを見た。
「野菜、切ってもらったし。火も、お肉も……」
言いながら、少し笑った。今日、何度も同じことを考えていた。
私だけではない。
それを口にしても、自分のしたことが小さくなるわけではなかった。エリナが魔物の動きを伝えたから、誰かが槍を向けられた。その槍が背中を守ってくれたから、エリナは前へ剣を届かせた。椀を持つ人々の手を見るたびに、今日、自分が借りた力と、渡せたものが一緒に思い出された。
「勇者様のおかげだな」
向かいの男が言った。エリナは顔を上げた。以前なら、そこで笑っていたと思う。期待されている顔を見て、相手が欲しがる返事を探していたと思う。今日は、少し違った。
「私だけじゃ、勝てなかったよ」
「でも、最後に倒したのは嬢ちゃんだろ」
「やどかりさんもいたし、みんなが魔物の気を引いてくれたでしょ」
麺棒の男が、自分の包帯を見た。鍋の蓋の料理人が、照れたように鼻を掻いた。
「それに、後ろを見なくてよかったから」
エリナは、匙を置いた。
「それが……すごく、助かったの」
すぐには返事がなかった。向かいの男が椀を持ち上げ、顔を隠すように汁を飲んだ。
「……そうか」
「うん」
やどかりが杯を持って立ち上がった。
「じゃあ、乾杯するか」
「まだ食うのか?」
「飲むんだよ」
「同じようなもんだろ」
笑い声が起きた。エリナも、小さな杯を受け取った。中には、商人が奥から持ち出してきた果実酒が少しだけ注がれていた。甘い匂いがした。
やどかりが周囲を見渡した。血のついた前掛けも、泥まみれの靴も、包帯を巻いた腕も、そのままだった。綺麗な格好の者など一人もいない。
男は、満足そうに杯を上げた。
「今日、生き残った勇者たちに」
エリナは顔を上げた。
勇者たち。
その言葉に、誰かが笑った。照れくさそうに杯を持ち上げる者がいた。片腕の老人は包丁を置き、空いた手で茶碗を取った。
「乾杯」
声が重なった。エリナも杯を上げた。
「乾杯!」
いくつもの縁が触れ合った。澄んだ音も、木の鈍い音もあった。そのどれもが、刃と爪のぶつかる音より、ずっと優しかった。
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夜になっても、空の色は大きく変わらなかった。食卓の周りでは、椀を片づける音がしていた。子供は母親の膝で眠り、老人たちは座ったまま、壊れた門をどう直すか話している。エリナは、壁際の椅子へ身体を預けていた。食べると、急に眠くなった。
眠いことを怖がらずに済むのも、久しぶりだった。隣でやどかりが杯を傾けた。エリナは、その外套の袖を見た。昨日の朝、倉庫の戸口で見送った色だった。元々この男に文句を言う予定だったことを思い出した。
「ねえ、倉庫からいなくなった後、どこへ行ってたの」
やどかりは杯を下ろした。
「お前がどちらを選ぶにせよ、準備は必要だと思ってな、買い物だ」
「剣は当てがあったから。武器屋へ頼みに行った。時間がかかるから、朝に受け取って戻ったら、もう東門があの騒ぎだった」
「追いかけたんだよ。でも、もうどこにもいなくて」
男の手が杯の脇で止まった。
「……悪かった。どこへ行くか、言うべきだった」
「うん。次は言って」
言い終えると、エリナは椅子へ背を戻した。男は頷き、置いていた杯を取り直した。
「ねえ」
「ん?」
「やどかりさんには、帰る場所あるの?」
杯が、口の手前で止まった。エリナは横顔を見た。昨日の朝、自分が手紙を読んだあとにも、一瞬、こんな顔をした気がした。
「なんだ唐突に、……ねえよ」
「そうなの?」
「だから、今夜の宿も探さなきゃなんねえ」
「そういう意味じゃなくて」
エリナは膝へ手を置いた。
「帰ったら、おかえりって言ってくれる人がいるところ」
やどかりはしばらく黙っていた。通りの向こうで、誰かが桶をひっくり返した。文句を言う声がして、笑い声が続いた。
杯を支える親指が、縁の欠けたところをなぞった。やどかりはそこを見たまま、続けた。
「今は、ねえな」
今度は、誤魔化すような調子ではなかった。エリナは少し考えた。
「じゃあ、作ればいいじゃん」
やどかりが呆れたような顔でこちらを向いた。
「簡単に言うなあ」
「簡単じゃないの?」
「簡単じゃねえよ」
「ふうん」
「聞いといて興味なくすな」
「なくしてないよ」
エリナは笑った。
「やどかりさんも、できないことあるんだなって思っただけ」
「そりゃ、あるだろ」
「助けてくれた時は、何でもできそうな顔してた」
「顔は生まれつきだ」
「はいはい」
やどかりは返事をせず、杯を口へ運んだ。エリナは空を見上げた。黒い雲が、屋根と屋根の間に重なっていた。
魔王は生きている。畑の実りが戻ったわけでも、明日の食料が増えたわけでもない。王城の門が、エリナのために開いたわけでもなかった。
遠くの町では、明日も、自分を見て戸を閉ざす人がいるかもしれない。傷が治ったことを知らない者も、聞いてなお疑う者もいるだろう。今日、この通りで助け合ったことが、すべての人へ届くわけではなかった。それでも、今日死なずに済んだ人たちが、すぐそばにいた。
「私、帰るよ」
やどかりが顔を向けた。
「そうか」
「いつか、絶対に」
食堂の扉を開ける。ただいまと言う。そのとき父と母がどんな顔をするのか、今は少しだけ、怖がらずに思い浮かべられた。エリナは首へ手を当てた。指に触れたのは、夜風で少し冷えた自分の肌だった。襟で隠し直すことなく手を膝へ戻し、深く息を吸った。
「でも」
エリナは通りを見た。麺棒の男が、片手で皿を運ぼうとして止められていた。料理人は鍋の底をさらい、残った汁を見張りの分へ移している。
「もう少しだけ、飛んでみたい」
やどかりは何も言わなかった。それがよかった。正解だとも、ついてこいとも、言われなくてよかった。男が杯を差し出した。エリナも自分の杯を持ち上げた。縁と縁が触れ、小さな音がした。隣にはやどかりがいて、向こうには町の人たちがいた。膝に置いた手は、剣を握ることも、匙を持つこともできた。
エリナは杯を口へ運んだ。少し甘くて、喉が熱くなった。それから、笑った。
飛んでいてよかったと、ようやく思えた。