第12話 魔法を使えない治癒術師
目を開けた途端、頭の中で鐘が鳴った。
エリナは眉間に皺を寄せ、逃げるようにもう一度瞼を閉じた。けれど、暗くしても鐘はやまない。こめかみの奥に小さな鐘楼でも建てられて、誰かが律儀に綱を引き続けているようだった。
「……頭、痛い……」
「起きたか」
すぐ近くから、こちらの苦しみとは無関係そうな声が返ってきた。被っている毛布の隙間から目を開けると、やどかりが窓際の椅子に座っていた。膝に載せた丸パンをちぎり、欠けた皿へ屑を落としながら食べている。昨夜は同じ酒を飲んでいたはずなのに、顔色には何の変化もなかった。
「……魔王より強い……」
「何が」
「お酒……」
「一杯しか飲んでねえだろ」
「一杯でこれなんだから、強いでしょ……」
「そりゃそうだな」
簡単に納得された。反論する元気もなく、エリナは毛布を鼻先まで引き上げた。
見覚えのない天井だった。壁際には畳んだ布と空の籠が積まれ、窓の下では、昨夜まで泥と血に汚れていた服が洗われて、朝の弱い光の中で静かに揺れていた。宴のあと、通りの宿屋が空き部屋を貸してくれたのだ。階段を上ったところまでは覚えていたが、その先は濡れた文字のように記憶が滲んでいた。
身を起こそうとして、右手が反射的に左肘の下へ回った。身体を動かすより先に、その腕を持ち上げようとしていた。三年間、朝はそうやって始まっていた。眠っている間に身体の下へ挟まらなかったかを確かめ、右手で位置を直す。布へ載せ、端を膝で押さえながら結ぶ。寝台から脚を下ろす前に済ませなければ、立った拍子に腕が垂れ、肩が引かれて痛んだ。
けれど、肘を持ち上げる前に、左手が毛布を押さえた。
エリナは右手を離した。少し指を曲げると毛布に皺が寄り、肘も曲がった。頭は痛く、腕も脚も昨日使いすぎたせいで重い。肩の包帯は服の下で引っかかり、手の甲も曲げれば痛んだ。それでも、自分で動かせる。エリナは左手を膝へ載せ直した。
「……治ってる」
「昨日も言ってたぞ」
「朝になったら、戻るかもしれないと思って」
口にして、自分が何を怖がっていたのかが分かった。動かない腕と暮らした三年間の習慣は、薬を飲んだからといって、すぐにはなくならなかった。眠って起きるたび、また右手で持ち上げなければならないような気がしていた。やどかりはパンを口へ運びかけた手を止めた。何も言わずに水差しを取り、杯へ水を注ぐ。
「ほら」
エリナは両手で受け取り、少しずつ飲んだ。冷たい水が喉を滑った。杯を下ろすときも左の指は縁を支え、右手だけで何とかしようと急ぐ必要はなかった。
窓の外から、こん、こん、と木を打つ音が聞こえた。杯を持ったまま窓辺へ寄ると、昨日魔物が暴れた通りでは、男たちがもう折れた屋台を起こしていた。麺棒を握って戦いに出てきた男は、包帯を巻いた腕を庇いながら板を運び、鍋の蓋を盾にしていた料理人は、今朝は本物の鍋を抱えて、見張りから戻った者へ湯気の立つ椀を渡していた。
昨日と同じ通りなのに、剣の音も悲鳴もない。槌の音と鍋の触れ合う音が、朝の空気へ地道に積み重なっていた。その向こうで一人の商人が顔を上げ、エリナと目が合った。何か言いたそうに口を開いたが、結局は視線を落とし、帽子を取って小さく頭を下げた。
呪いごと町から出ていけと叫ばれた声も、腕を掴んだ指の強さも残っている。昨日までのことが消えたわけではなく、すぐ笑って返すことはできなかった。
それでも、エリナは隠れなかった。窓枠に手を置いたまま、ゆっくり頷いた。
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「じゃ、行くぞ」
朝食を終えたところで、やどかりが唐突に立ち上がった。エリナは匙を持つ手を止めた。
「……どこに?」
「仲間探し」
「仲間?」
「魔王を倒すんだろ。人数、増やそうぜ」
魔王、という言葉に、エリナの匙が椀の縁へかすかに当たった。昨夜は、自分一人では作れない鍋をみんなで作った。根菜を刻む人がいて、火を見る人がいて、肉を持ってくる人がいて、ようやく一つの鍋ができる。
戦いも同じだと、昨日身をもって知ったはずだった。それなのに「魔王を倒す」と言われた瞬間、頭に浮かんだのは、暗い城の中で自分一人が剣を握っている姿だった。
「……四人くらい?」
「もっといてもいいだろ。百人くらいで行こうぜ」
「百って言った?」
「多いほうが強いからな」
「食事、どうするの」
「最初に気になるの、そこかよ」
「百人分だよ?」
百人。食材だけでも荷車が要る。鍋はいくつ必要なのか。水を汲む人、火を見る人、皿を洗う人――考え始めると、魔王城より先に炊事場の問題が立ちはだかった。そこまで考えてから、エリナはふと口を閉じた。
「……本当に、みんなで行くんだね」
「ああ」
やどかりは何でもないことのように頷いた。
「私、王都で言われたんだよ。旅をしながら、仲間を探してもいいって」
今なら、その説明も覚えていた。地図を渡された卓。宿で困ったときの相談先。訓練のあと、まだ分からないことはあるかと尋ねられて、首を振った自分。
「でも、一緒に来てとは言えなかった。先に自分でできるようになれば、頼まなくて済むと思ってた」
「そう言ってたな」
「断られるのも怖かったけど、来てくれるのも怖かったんだと思う。私が誘ったせいで、帰れなくなったらって」
やどかりは包みかけたパンを卓へ置いた。
「頼むほうも、聞かれたほうも、怖えだろうな」
「じゃあ、どうすればいいの」
「一緒に考えてくれって言えばいい。いきなり魔王城までついてこいじゃなくても」
「それはそうだけど、色々考えなきゃいけないんだから、突然、百人で行こうとか言わないで」
「食事の相談は、もうしただろ」
「私が心配しただけでしょ」
エリナは眉を寄せた。それから、少し声を落とす。
「……でも、本当に来てくれる人、いるのかな」
やどかりは窓の外を顎で示した。
「昨日は、出てきただろ」
木槌を振るう音が続いていた。
「町を守るのと、魔王城まで一緒に行くのは違うよ」
「そりゃ違う。だから、聞いてみるんだろ」
エリナは窓の外へ目を向けた。
「来るかどうかは、向こうが決める。お前と一緒に戦う奴が一人もいねえって、先に決めることはねえよ」
エリナはすぐには頷けなかった。それでも、荷車の陰から一歩出てきた人たちの顔を思い出すと、否定する言葉も出なかった。
「……誰か、心当たりがあるの?」
「何がだ」
「仲間」
「ああ。腕のいい治癒術師がいるらしい」
「治癒術師……」
エリナの指が無意識に胸元へ触れた。前回の旅では、傷を負うことは、そのまま旅が止まることだった。治せる人が隣にいる――その想像だけで、同じ街道も少し違って見える気がした。
「治癒術が使える人は少ないよね、そんな人が、仲間になってくれるの?」
「知らん」
「知らないの?」
「会ったことねえし」
エリナは口を開けたまま、やどかりを見る。男は平気な顔で残ったパンを包んでいた。
「ものすごい腕だったそうだ。ただ、今は誰も治癒術で治してねえ」
「……それ、治癒術師なの?」
「元、だな」
「大事なところを、あとから言わないでよ」
「だから、会って聞けばいいだろ」
噂だけで決めることもできない。会えば仲間になるとは限らないし、断られるかもしれない。それでも、聞かなければ何も始まらない。エリナは残った汁を飲み干した。
「……うん。会ってみたい」
「そうか」
「でも、私にもちゃんと説明して。途中で知らないことが増えるの、困るから」
「……努力する」
「まだ何か隠してるでしょ……」
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王都を出たのは昼前だった。昨日の襲撃で東門はいまだ通れず、二人は別の門へ向かった。宿屋で干してもらった上着の肩口には、元とは少し色の違う布が継ぎ当てられている。女将が「見苦しいからね」と言いながら、夜のうちに縫ってくれたものだった。
腰には、やどかりから渡された剣がある。壊れた聖剣の柄も捨てられず、布へ包んで荷物の底へ入れてあった。三年間いつも腰にあったものなのに、包んでしまうと拍子抜けするほど小さかった。
「嬢ちゃん」
呼ばれて振り返る。肉切り包丁の老人が立っていた。今日は包丁の代わりに、紐で括った包みを片手に持っている。
「持ってけ」
「……何?」
「食いもんだ」
受け取ると、布越しにまだ温かさが残っていた。
「そんな、ここだって大変なのに」
「少ししか入ってねえよ」
老人は気まずそうに鼻を鳴らした。
「腹が減ったら食え。変に遠慮して腐らせんな」
その言い方に、旅立ちの日の父を思い出した。だからといって、この老人が父と同じになるわけではない。怖さも、昨日までのことも消えない。それでも、手の中の温かさまで嘘になるわけではなかった。
「……ありがとう」
老人は短く頷いた。別れ際、誰も「必ず魔王を倒せ」とは言わなかった。「道中気をつけろ」「ちゃんと食え」と声が飛ぶたび、エリナは何度も振り返って手を上げた。
今度の旅路には、隣を歩く人がいた。
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旅は五日続いた。王都を離れるにつれて、道沿いの畑は少しずつ小さくなり、代わりに石の多い丘と低い草地が増えていった。薄い陽射しの下で草は色褪せ、遠くの山肌には、掻き傷のように鉱道が何本も走っていた。
エリナは歩きながら、何度も自分の身体を確かめた。坂を上れば息が切れ、長く歩けば足の裏が痛み、肩には荷物の紐が食い込んだ。王都で負った傷は、宿で布を替えながら乾いていった。まだ荷紐の位置は選んだが、毎晩、新しい血で服を濡らすことはなくなっていた。
それに、歩き疲れは休めば戻った。木陰へ座り、水を飲み、少し待てばまた歩ける。その当たり前が、まだ嬉しかった。
昼には王都でもらった包みを開き、夜には街道沿いの宿の固い寝台で眠った。
やどかりは時々、とんでもない近道を提案した。
「そこ、道じゃなくない?」
腰の高さまで草が茂っている。
「昔は道だった」
「いつの昔?」
「ずいぶん前」
「今は草むらだよ」
「自然は強えな」
「感心してないで戻って」
やどかりはあっさり本道へ戻った。最初から強く主張するほどの自信はなかったらしい。
そんな会話をしながら歩いていると、谷あいにまとまった屋根が見えた。
小さな鉱山町だった。山へ上る荷車のためか町の規模に比べて道幅が広く、家々の壁や窓枠には灰色の粉が薄く積もっていた。
広場の水場では仕事帰りの男たちが手や顔を洗っていたが、何度水をかけても、爪の際に入り込んだ土は簡単には落ちないようだった。
薬屋は広場から一本外れた通りにあり、戸口の看板には葉と小瓶が描かれていた。窓辺には乾燥させた草が束ねて吊られている。
「ここ?」
「らしい」
「最後まで自信ないね」
「入れば分かる」
やどかりが扉を押すと頭上で小さな鈴が鳴り、乾いた草と土のついた根、それから何かを煮出している苦い匂いが流れてきた。食堂の厨房にも香草はあったが、ここでは甘さより、森の土を掘り返したような匂いが強かった。
壁の棚には大小さまざまな瓶が並んでいた。茶色い粉、乾いた葉、濃い色の液体。どれにも小さな札がつき、揃った字で名前が書かれている。奥の卓には、袖を肘までまくり、髪を後ろでまとめた女性が座り、客らしい男の掌へ布を当てていた。
「今日は、この手で重いものを持たないでください」
「今日は、なあ」
「明日なら何でも持っていい、という意味ではありません」
男が苦笑する。女性は包帯を丁寧に巻き、最後に指が動くか確かめてから手を離した。
「違和感があったら、戻ってきてください」
「分かったよ。ありがとな、ミア」
男が立ち上がり、戸口へ来る。エリナたちが壁側に寄り、男が出ていくと、やどかりが一歩前へ出た。
「ミアってのは、あんたか」
「はい。お薬ですか?」
「こっちは勇者のエリナだ。魔王を倒しに行くんだが」
「お帰りください」
「早い!」
エリナは思わず声を上げた。ミアはすでに使った布を片づけ始めていた。
「ここは薬屋です。冒険者の紹介はしていません」
「腕のいい治癒術師がいるって聞いたんだが」
その瞬間、布を畳んでいた指が止まった。ほんの一瞬だった。けれど、さっきまで迷いなく動いていた手だったからこそ、エリナには分かった。
「治癒魔法は使えません」
声は荒くない。大きくもない。それでも、その言葉だけは、これ以上入ってこないでほしい場所へ静かに戸を閉めるようだった。
「旅のお薬でしたら用意できます。それ以外のお話でしたら、お引き取りください」
やどかりが口を開きかける。エリナはその袖を掴んだ。
「……薬、見せてもらおうよ」
男がこちらを見る。エリナは小さく首を振った。自分だって、帰りたいと言った直後に、なぜ戦わないのかと詰め寄られたら嫌だった。それと同じ事情かは分からない。それでも、いま目の前にいる人が「そこは触れないでほしい」という顔をしていることくらいは分かる。
「旅に持っていくものを、相談してもいいですか」
ミアは一度エリナを見て、それから棚へ視線を移した。
「……それでしたら」