エリナが薬を選び始めるとやどかりは宿を探しに出ていった。
「すぐ戻る」
「本当に?」
「今度は戻る」
「今度は、って自分で言ったね」
扉が閉まると、ミアが少しだけこちらを見た。
「……長いお付き合いなんですか?」
「会って、一週間も経ってない」
ミアの手が止まった。
「それで、魔王を倒しに?」
「私も、時々どうしてこうなったのか分からなくなる」
正直に答えると、ミアは困ったように口元を動かした。
薬を包んでいる間にも客は来た。仕事場で手を擦りむいた男も、咳が続く夫のために薬を買いに来た女も、指に刺さった棘を自分で抜こうとして、余計に奥へ押し込んだ子供もいた。
ミアはまず話を聞き、いつから痛み、何をしてそうなったのかを尋ねた。必要なら傷を見て、棚の瓶を選ぶ。淡々としていても雑ではなく、子供が怖がって手を引くと、棘を抜こうとした指も同じ速さで止まった。
「痛い?」
「少し。動くと、もう少し」
子供が助けを求めるように周囲を見て、エリナと目が合った。エリナは近くの椅子へ座る。
「私の話、聞いてくれる?」
子供が頷いたので、食堂で父が塩と砂糖を間違えかけた話をした。
「間違えたの?」
「お母さんが止めた」
「じゃあ、間違えてないじゃん」
「そうなんだけど、すごく慌てた顔がーー」
「取れました」
ミアの声が重なった。子供は自分の指を見てから、ミアを見る。
「もう?」
「もうです」
小さな棘を見せると、さっきまで怖がっていた子供の顔が急に誇らしげになった。
帰っていく背中を見送り、エリナはミアへ顔を向けた。
「慣れてるんだね」
「よく来る子なので」
そのあとに来た年配の女は、椅子へ座るまでに何度も腰を押さえた。
「ミアさん、今日は魔法で頼めないかね」
エリナは棚の札へ向けていた目を戻した。ミアの手が止まっている。
「……魔法では、治せません」
「でも、前は立派な治癒術師だったって、噂で……」
「塗り薬でしたら、お出しできます」
女は何か言いかけ、ミアの顔を見てやめた。
「……じゃあ、いつものを」
ミアは頷いて棚から瓶を取った。女が帰ると、店の中は急に静かになった。エリナは理由を聞かず、奥の卓に積まれた薬草へ目を向けた。
「それ、今から使うの?」
「ええ。今日中に刻んでおきたくて」
「手伝おうか」
「いえ、お客様に……」
「待ってるだけだと、落ち着かないから」
ミアの目がエリナの手へ落ちた。剣の柄で固くなったところや古い傷、まだ新しい傷痕を、エリナも見下ろして指を少し開いた。
「見た目より、細かいことできるよ」
「そういう意味では……」
「包丁なら、剣より先に覚えたから」
ミアは迷ったあと、卓の端を空けた。
「では、こちらを。切る前に、扱い方を説明します」
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薬草は、食堂で使っていた香草とは勝手が違った。洗って使うものもあれば、濡らしてはいけないものもあり、葉だけ使うものや、根を細かく刻むものもある。同じような緑色でも、混ぜれば使えなくなるものまであった。
エリナは説明を聞き、任された一束だけを手元へ置いた。小さな包丁で刃を入れると、青く、少し苦い匂いが立った。最初の数回はぎこちなかった。三年間、手にしていたのは、力を込めて踏み込み、振るう剣だった。それに比べれば包丁は頼りないほど軽い。
けれど、肩を落として押さえる指を曲げ、同じ幅で刃を下ろすと、身体のほうが思い出した。とん、とん、と乾いた音が一定の間隔で卓に並び始め、瓶を洗っていたミアがこちらを見た。
「……手慣れてますね」
「食堂の娘だから」
「食堂……?」
エリナが顔を上げると、ミアは少し言いにくそうに続けた。
「先ほどの方が、勇者だとおっしゃっていたので」
エリナは包丁をいったん置いた。
「うん。勇者だよ」
自分からそう名乗るのは久しぶりだった。その二文字を口にすると、胸の奥がわずかに強張る。それでも、今は続きがあった。
「勇者だけど、食堂の娘」
ミアがエリナを見る。エリナは包丁を握っていた手を見下ろし、少し笑った。
「両方でいいみたい」
戸の隙間から風が入り、窓辺の薬草を揺らした。ミアは何かを考えるように目を伏せ、洗い終わった瓶を一つずつ逆さに並べる。
「……そうですか」
小さな返事だったが、店へ入ってきたときより少しだけ近く聞こえた。
二人で作業を続けた。エリナが刻んだ薬草をミアが確かめて種類ごとの器へ移し、煮出す間には、エリナが空いた卓を拭いて乾いた瓶を並べた。やがて湯気が上がり、窓硝子が白く曇った。食堂とはまるで違う匂いなのに、誰かと卓を囲み、役割を分けて手を動かす時間は、どこかよく似ていた。
「味見は、しないんだね」
思ったことがそのまま口から出た。ミアがゆっくりこちらを向く。
「しないでくださいね」
「してないよ」
「今、とても自然に鍋を見ていたので」
「癖で……」
ミアの口元が、ほんの少し緩んだ。笑ったのだと気づいて、エリナも笑った。
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夕方が近づくと、山から戻る荷車の音が増えた。重い車輪が石を踏むたび、窓辺の瓶がかすかに鳴る。店へ来る男たちの肩や髪にも、道に積もっていたものと同じ灰色の粉が薄く乗っていた。客足が途切れたところで、ミアが茶を淹れてくれた。
「これは、飲んで大丈夫です」
「流石にわかるよ……」
エリナは苦笑しながら杯を受け取った。草の匂いはするが、薬の鍋よりずっと柔らかい。向かいへミアが座ると、しばらく二人とも黙っていた。
窓の外には、町から山へ続く坂道が伸びていた。山腹にいくつも開いた黒い坑道の口を、小さな人影が行き来している。
「怖くないんですか」
不意にミアが聞いた。
「何が?」
「また、魔王と戦うことです」
「怖いよ」
考えるより先に答えたので、ミアのほうが戸惑った。
「……勇者なのに?」
「勇者でも、怖いよ」
エリナは杯の縁へ目を落とす。
「私、逃げたし」
口にした途端、喉がわずかに狭くなった。魔王に負けたことは話せても、そのとき何を考え、どう逃げたかは簡単には口にできなかった。ミアは何も言わなかった。その沈黙が、続きを急かさないものだと分かった。
「魔王の前で、もう無理だって思った。剣もちゃんと持てなくなって……外へ出られるところを見つけたら、そっちへ這っていった」
エリナは杯を卓へ置いた。
「倒さなきゃとか、約束したのにとか、そのときは考えられなかった。ただ、死にたくなかった」
ミアの指が、杯を包むように曲がる。
「……それで、戻るんですか」
「うん。戻りたいと思ってる」
「また、同じことになるかもしれないのに」
エリナは頷いた。
「怖いけどね」
魔王城を思い出せば、今でも身体のどこかが冷たくなる。還命薬で黒い筋が消え、左腕が動くようになっても、あの石床へ叩きつけられた記憶までは治っていなかった。
何か気の利いたことを言おうとした。やどかりなら、こういうときに例え話でも始めるのだろう。けれど自分には浮かばなかった。怖いものは、今も怖い。そのまま言うしかない。
「でも、今度は、もっと人を頼ってみようと思ってる」
ミアが顔を上げる。
「だから、私を?」
「……うん」
否定することもできたが、それでは嘘になる。
「治せる人がいてくれたら、心強いと思った。それは、本当」
ミアの肩がわずかに強張った。エリナはその変化を見て、杯を卓へ置いた。
「でも、ミアが嫌なら、無理にとは言わないよ」
ミアは杯へ視線を落とした。
「……私は、行くつもりはありません」
「うん」
エリナは頷いた。すぐに次の言葉は出なかった。残っていた茶を飲むと、もう少し冷めていた。ちょうどそのとき、扉の鈴が鳴った。
「宿、取れたぞ、ついでに買い物もしてきた。」
やどかりが顔を出す。
「本当に戻ってきた」
「そこかよ」
ミアが杯を置き、椅子を引いた。
「お薬ですが、今日お渡しできる分はこちらです」
卓の端へ、小さな包みを並べる。
「残りは、明日の昼までに用意します」
「じゃあ、それを受け取ってから出るか」
やどかりが言った。エリナも頷き、包みを荷物へ収める。
「今日はありがとう。薬も、作業も」
「こちらこそ。助かりました」
ミアの視線が、エリナの並べた瓶へ向く。エリナもそちらを見た。洗った瓶は、乾いたものから順番に伏せてある。まな板も拭き終え、包丁はミアに教わった場所へ戻していた。
「明日、薬を取りに来たときに、また手伝ってもいい?」
「……薬草ですか?」
「うん。一緒に作業するの、楽しかったから」
エリナはまな板へ目を戻した。
「まだ刻むのがあるなら、だけど」
ミアは棚の下に置かれた薬草の籠を見た。それから、少し考えて頷いた。
「……でしたら、昼前に」
「うん」
「ただし、こちらでお願いしたものだけ、触ってください」
「分かってるよ」
「鍋の味見も、しないでください」
「しないってば」
今度は、ミアもはっきり笑った。
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翌日、エリナが薬屋の扉を開けると、卓の端にはもう椅子が用意されていた。その前に小さなまな板と包丁があり、脇には薬草の束がまとめられている。
棚を整理していたミアは鈴の音に振り返り、エリナの姿を確かめた。ほんの少しだけ間を置いてから、口を開いた。
「……おはようございます」
「おはよう」
エリナは腰の剣を外し、昨日と同じ壁際へ立てかけた。昨日は置き場所を探したのに、今日は考えずに手が動いた。
「今日は、これ?」
「はい。昨日と同じ幅でお願いします」
エリナは袖をまくって包丁を握り、向かいのミアも自分の作業を始めた。山から朝の鐘が聞こえ、通りを荷車が進む音や、遠くで男たちが掛け合う声に混じって、店の中では薬草を刻む音が二つ響いた。
ミアはまだ治癒魔法を使わず、仲間になるとも言っていない。その理由も聞いていなかった。それでも今日は、扉を開けたときから座る場所があった。向かいでミアが刻んだ薬草を器へ移す音を聞きながら、エリナもまな板へ向き直った。
次の束を手元へ寄せ、ばらついた葉の向きを揃えてから、また包丁を下ろした。