最初に異変を告げたのは、棚のいちばん上に並んでいた硝子瓶だった。ちり、と小さな音がした。
エリナは包丁を止め、顔を上げる。表を荷車が通ったのだと思った。けれど、いつもなら続くはずの車輪の軋みが聞こえない。代わりに、靴底を通して、低く鈍い震えが足元から這い上がってきた。向かいのミアも薬草を押さえていた手を止め、エリナと目を合わせる。
その直後、山の奥で何かが崩れたような音がした。一度だけではなかった。大きな岩が落ち、その岩がまた別の石を巻き込み、さらに奥の何かまで押し潰していく。そんな重い響きが地面の下を走るように続き、卓に積んだ葉が小刻みに震えた。梁から落ちた埃が、湯気の残る空気の中へ散る。
ミアの指から、ひと束の薬草が滑り落ちた。エリナはそれが床へ届くより早く椅子を引き、扉を押して外へ出た。
山腹から灰色の土煙が上がっていた。谷あいの風に流されることもなく、坑道の入口を覆い隠すように重く膨らんでいく。通りにいた人々も仕事の手を止め、同じ方向を見上げていた。
次の瞬間、鐘が鳴った。朝、仕事の始まりを知らせたものとはまるで違う。間を置かず、打ち手が壊れかけるほど乱暴に、何度も何度も鳴らされる。
「山が崩れたぞ!」
坂の上から、一人の男が転ぶように駆け下りてきた。片方の靴をなくし、額から流れた血が頬を伝って顎まで筋を作っている。店の前まで来ることもできず、途中で片膝をついた。それでも振り返り、山のほうを指差した。
「二番の坑道だ! まだ、中に……!」
続きは激しい咳に途切れた。エリナは店へ戻り、昨日から壁際へ立てかけるようになった剣を掴んだ。
「ミア、あの人をお願い」
返事がない。振り返ると、ミアは卓の脇に立ったまま、動けずにいた。さっきまで薬草を刻んでいた顔から血の気が引き、扉の向こうに倒れた男を見ている。
「ミア」
もう一度呼ぶと、ようやく瞬きをした。
「……はい」
返事は遅れた。けれど、ミアは棚から布と水を取り、男のもとへ屈み込んだ。エリナはその姿を確かめると、それ以上は聞かなかった。
通りの向こうから、やどかりが走ってくる。手に持っていたパンの包みを、近くの店先へ放るように置いた。
「行くか」
「うん」
エリナは山を見た。
「まだ、人がいるって」
「分かった。離れんなよ」
二人は坂を駆け上がった。背後では、ミアが倒れた男へ名前を尋ねていた。一度で返事がなく、もう一度、さらにもう一度と呼びかける声が、山へ近づくにつれて小さくなっていった。
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坑道の前には、すでに人が溢れていた。運び出された男が裸の地面に寝かされ、その隣では別の男が膝を抱えたまま激しく咳き込んでいる。顔も髪も灰色の粉に覆われていた。奥へ戻ろうとして仲間に腕を掴まれている者もいる。
「動かせる奴から町へ下ろせ! 診療所へ運ぶんだ!」
声を張った男の指示で、二人一組になった者たちが負傷者を板へ載せ、坂を下りていく。町の診療所へ知らせに走った者もいるらしい。それでも坑道の奥からは、まだ人を呼ぶ声が聞こえていた。
坑道の入口を支えていた太い木材は途中から折れ、片側へ倒れ込んでいた。奥は土煙で白く濁り、ほんの数歩先さえ見えない。瓦礫の隙間から空気が押し出されるたび、粉塵が波のように外へ吹き出し、集まった者たちが一斉に顔を覆った。
「何があったの!」
エリナが声を張ると、近くにいた作業着の男が振り返った。
「奥で魔物が出たんだ。逃げてる途中で、支えが……!」
その言葉を遮るように、坑道の下から硬いものを擦り合わせる音がした。男の顔が強張る。
「まだいる!」
崩れた入口の奥から、太い脚が一本、土を押しのけるように現れた。岩を背負ったような魔物だった。平たい頭の左右から、地面を掘り進むためらしい太い前脚が伸びている。殻には鉱石の欠片がいくつも食い込み、身体を動かすたび、薄暗い入口の中で鈍く光った。
エリナは剣を抜いた。
「人を下げて!」
やどかりがすぐに男たちへ振り返る。
「動ける奴は負傷者を運べ! こいつはこっちで止める!」
魔物が土を蹴った。エリナは真正面から受けず、横へ回り込む。岩の殻へ斬りつけても刃は通らない。前脚が大きく持ち上がった瞬間、その付け根に柔らかい部分が見えた。そこへ踏み込み、刃を滑り込ませた。
魔物の巨体が大きく傾く。反対側からやどかりの剣が喉元へ走り、硬いものを断つ鈍い音がした。魔物は前脚から崩れ、地面の震えに周囲の男たちが一歩下がった。エリナは刃を引き抜くと、息を整える間もなく坑道へ向き直った。
「……誰か、いる?」
返事はない。もう一度、腹の底から呼ぶ。
「誰かいるなら、音出して!」
しばらくして、奥から石を叩いたような音が返ってきた。一度。間を置いて、もう一度。
人が立てる音だった。
「こっちだ!」
作業着の男が壊れた入口の端へ駆け寄る。
「脇の通路なら、まだ入れる。俺が案内する!」
「天井、持つのか」
やどかりが問う。男は答える前に、一度だけ上を見た。折れた梁の上で、ひびの入った岩がかろうじて止まっている。
「……分からん」
奥から、また石を叩く音がした。今度は、さっきより弱い。エリナはその音を聞き、剣を握り直した。
「行こう」
やどかりは短く頷いた。
「長居はしねえぞ」
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坑道の中は、残された灯りが土煙の向こうでぼんやり滲み、数歩先からはすべてが闇に溶けている。濡れた岩の冷たい匂いと、折れた木の青臭さ。その奥に、鉄のような血の臭いが混じっていた。
エリナは身体を横にし、倒れた支柱と壁との狭い隙間を抜けた。肩を擦る木材がぎしりと鳴るたび、頭上へ視線が向く。その足元で何かが動き、思わず剣を構えかけた。
けれど、土の間から伸びていたのは、人の手だった。
「ここにいる!」
屈み込むと、岩陰に男が倒れていた。意識はある。だが、片脚が崩れた石の下に挟まれ、身動きが取れない。案内役の男が駆け寄った。
「ガルド!」
「……遅えよ」
ガルドは土まみれの顔で、かすかに笑った。
「文句言えるなら、大丈夫だな」
やどかりが膝をつき、瓦礫へ手を当てる。一つずつ動かせる石を見極め、先に小さいものから外していった。エリナも剣を置き、素手で岩を掴んだ。
濡れた石は冷たく、持ち上げると鋭い縁が掌へ食い込む。力任せに動かせば、別の石が落ちてくるかもしれない。外から入ってきた男たちへ少しずつ受け渡し、その間、別の者が崩れた支柱を支えた。
ようやく脚を抜けるだけの隙間ができた。ガルドを板へ移し、担架代わりにして運び出そうとしたとき、エリナの袖が掴まれた。ガルドの手だった。
「奥に……子供がいる」
「子供?」
「飯を、届けに来て……」
言葉の途中で、痛みに顔が歪む。
「小せえのが、一人。赤い……」
エリナが奥を見ると、崩れた梁の向こう、暗闇の中に赤い布が見えた。最初は落ちた荷物だと思った。けれど、その下で指が動いた。
エリナは立ち上がった。
「エリナ!」
「見えた!」
瓦礫を避けて駆け寄る。小さな子供が、倒れた梁の陰で身体を丸めていた。赤い上着は灰色の土に汚れ、髪の間には白い石粉が入り込んでいる。目は開いているのに焦点が合わず、エリナが声をかけても、すぐには反応しなかった。
「外へ行こう」
しゃがみ込み、できるだけ驚かせないよう肩へ手を添える。ようやく子供の目がエリナへ向いた。
「……お父さん」
「外に出てから、探そう」
子供の小さな手が、ゆっくりエリナの服を掴んだ。抱き上げた瞬間、頭上で乾いた音がした。木が裂ける音だった。顔を上げると、梁の上に載っていた岩がゆっくり傾いていた。
考えるより早く、子供を胸へ抱え込んだ。近くの岩陰へ押し込むように飛び込んだ直後、背中へ衝撃が来た。肺の中の空気が一気に押し出され、脇腹へ硬い何かが食い込む。視界が白く弾けた。
何が起きたかを考える余裕はなかった。ただ、子供を離してはいけないと思った。腕の中の小さな身体だけは守るように力を込め、崩れ落ちる岩と木の音を聞いていた。
やがて、自分の名前を呼ぶ声がした。顔を上げようとしたが、身体が言うことをきかない。
「エリナ!」
やどかりの声だった。エリナは腕の中を見た。子供がいる。胸が、かすかに上下していた。
「……この子……」
「分かってる」
やどかりの手が肩へ触れた。その途端、脇腹を貫くような痛みが走った。エリナは堪えきれず声を上げる。
「悪い。動かすぞ」
子供を受け取る腕が見えた。エリナは指を開こうとしたが、赤い上着を握り込んだまま、力の抜き方が分からなかった。やどかりが一本ずつ指をほどいていく。
やがて身体が持ち上げられた。視界の端で、石の上に赤いものが広がっているのが見えた。それが自分の血だと理解するまで、少しかかった。