ボロボロ勇者とカッコつけおじさん   作:時々、たくあん

15 / 18
第15話 一番待てない人

 薬屋の扉が、強く叩かれた。

 

「ミア! いるか!」

 

 返事をするより先に、もう一度、戸板が鳴った。ミアが扉を開けると、坑道で負傷者を運んでいた男が立っていた。髪にも肩にも灰色の粉が残り、坂を駆け下りてきたのか、両膝へ手をついて息を整えている。

 

「診療所がいっぱいだ。廊下まで怪我人で埋まってる」

 

 ミアの指が、扉の縁で止まった。

 

「先生は?」

 

「診てる。助手も総出だ。坑道口にも一人出てもらってる。だが、まだ運ばれてくる」

 

 男は一度振り返った。坂の上から、担架代わりの板を抱えた人影が下りてくるのが見えた。

 

「頼む。軽傷の人たちをここで何人か受け入れてもらえないか」

 

 ミアは店の中を振り返った。ここは診療所ではない。寝台もなく、あるのは薬草を刻んでいた卓と客用の椅子、壁いっぱいの薬の棚くらいだった。けれど、布も水も薬もある。床を空ければ、人を横にすることもできる。

 

「……どのくらい、来ますか」

 

「分からん。今も増えてる」

 

 ミアの手が、扉の縁を強く掴んだ。何人来るのか分からない。どんな傷なのかも分からない。それでも、診療所へ入りきれず、待っている人がいる。

 

「……分かりました」

 

 ミアは目を上げた。

 

「まず、歩ける方と、出血が止まっている方をこちらへ。卓を壁際へ寄せます」

 

「助かる!」

 

 男が踵を返すと、ミアはその背中を見送り、すぐに店へ戻った。卓の上の薬草を籠へ移し、椅子を持ち上げる。その手は、わずかに震えていた。

 

 -----------------------------------------------------------------

 

 最初に運ばれてきたのは、自分で歩ける者たちだった。切れた手を布で押さえる男。転んだ拍子に足首を捻った女。粉塵を吸い込んで咳を止められない若者。ミアは一人ずつ椅子へ座らせ、傷を洗い、布を巻き、薬を渡した。その程度なら、いつもの店でもやっていた。

 

 けれど、坂を下りてくる人の列は途切れなかった。

 

「診療所の方も、もう床まで埋まってる!」

 

 次に駆け込んできた男は、そう言って肩を貸していた負傷者を床へ寝かせた。

 

「先生から、こっちで診られる人は頼むって!」

 

 その後ろから、また一人。さらにもう一人。歩いて来られる軽傷者ばかりではなく、自分では身体を起こせない者や、血の止まらない者まで運ばれてくる。名前を呼んでも返事が遅れる者もいて、最初に空けた場所だけでは足りなくなった。

 

 薬屋の前は、もう店と呼べる状態ではなかった。卓は壁際へ追いやられ、床にも、戸口にも、隣の家の軒下にも負傷者が寝かされている。いつも店を満たしていた薬草の匂いは、土と汗と血の臭いに押し流され、ほとんど分からなくなっていた。

 

 ミアはその中央で、布を握っていた。誰かに渡されたまま、まだ手の中にある布だった。

 

「この人を見てくれ!」

 

「こっちだ! まだ息はある!」

 

 声が重なる。右を向けば腕を押さえた男がいて、左では、血に濡れた女の横で誰かが泣いていた。足元でも、口を開けたまま小さな息を繰り返している人がいる。ミアは一歩動きかけて、別の声に足を止めた。そちらへ向かおうとして、また止まる。誰かを選べば、その瞬間、ほかの誰かへ背を向けることになる。

 

 床へ落ちた赤い布が目に入った。途端に、目の前の薬屋が遠のいた。昔、自分が膝をついた床にも、同じような色の布が落ちていた。こうして人が並ぶ中から一人を選び、胸へ手を置いた。白い光が溢れ、途切れかけた呼吸が戻った。

 

 助かった。

 

 そう思って振り返ったとき、すぐ隣の人は、もうこちらを見ていなかった。さっきまで名前を呼んでいた口が、開いたまま止まっていた。

 

 ――どうして、こっちを先にしてくれなかった。

 

 本当に誰かに言われたのか、自分の頭の中で生まれたのか、今では分からない。ただ、声だけが消えなかった。

 

「ミア!」

 

 聞き覚えのある声に引き戻された。やどかりが立っている。その腕の中のエリナを見た途端、ミアの指から布が落ちた。

 

「……エリナ?」

 

 ほんの少し前まで、向かいの卓で同じ幅に薬草を刻み、鍋の味見はしてないと笑っていた。その服が、今は血に濡れていた。

 

 ミアは駆け寄った。やどかりがエリナを床の毛布へ寝かせると、その脇へ膝をつき、少女の顔を覗き込んだ。

 

「エリナ。聞こえますか」

 

 唇が、かすかに動いた。

 

「……ミア」

 

 呼吸はある。声も出る。ミアは棚から畳んだ布を取り、脇腹の傷へ当てた。エリナの身体が強張り、細い声が漏れた。

 

 治したかった。朝には同じ卓で笑っていた人を、こんなところで失いたくなかった。けれど、自分の手から白い光が溢れるところを思い浮かべると、待っていてくださいと言ったまま、返事をしなくなった人の顔が戻ってきた。

 

 ミアは布を押さえる指へ力を込めた。傷を確かめ、布を当てる。薬屋で繰り返してきた動きなら、まだできる。その先へ進もうと考えるだけで、息が浅くなった。

 

「あの子……」

 

 エリナの目が、隣へ向く。赤い上着の子供が、すぐそばへ寝かされていた。付き添う男が顔を覗き込み、何度も名前を呼んでいる。返事はない。

 

「……あの子も、診てあげて」

 

「でも、あなたも……!」

 

 奥では別の男が呻き、誰かが「ガルド」と何度も名を呼んでいた。ミアはそちらへ顔を向けた。潰された脚に巻いた布が、血で重くなっている。付き添いの男へ呼びかけると、ガルド自身も目を動かした。身体の内側の光は弱いが、まだ脈に合わせて巡っていた。

 

「その布の上から、押さえていてください。返事がなくなったら、すぐに呼んで」

 

 男が頷くのを確かめ、エリナへ目を戻した。やどかりが布を押さえる手を代わってくれたが、空いた両手を次にどちらへ向ければよいのか、決められなかった。

 

 また、並んでいた。自分が手を伸ばすのを待っている人たちが。

 

「……無理」

 

 声が漏れた。

 

「無理です……」

 

「ミア……?」

 

「私に、選ばせないでよ!」

 

 自分でも驚くほど大きな声だった。この場所で言ってはいけなかったと気づいたが、助けを待つ人たちに届く前に、その声は周囲の混乱に紛れて消えた。ミアは息を吐き、空いた手を膝の上で握り込んだ。

 

「私が選んだら……選ばなかった人が、死ぬんです」

 

 視界が滲む。

 

「前も、そうだったんです。一人を治して、振り向いたら……もう……」

 

 エリナは何も言わなかった。

 

「できない。もう、できない……」

 

 俯いたミアの手へ、冷たい指が触れた。見下ろすと、エリナが腕を伸ばしていた。握り込んだ指の端を、頼りない力で掴もうとしている。ミアは反射的に手を開き、その手を受けた。

 

「……私も、死にたくない」

 

 エリナが言った。

 

「分かっています……」

 

 分かっているから、苦しかった。ミアは握った手を両手で包んだ。温めるようにしても、脇腹の傷が治るわけではなかった。

 

「でも、私を一番にしてって……言いたいんじゃないの」

 

 ミアは顔を上げた。エリナは一度息を詰め、少し待ってから続けた。

 

「誰を先にしたらいいかは、私には分からない。私の番も……ミアが決めてほしい」

 

「あなたを、待たせるかもしれないんですよ」

 

 エリナの指が、ミアの手を強く掴んだ。

 

「……今すぐ、治してほしいよ」

 

 正直な声だった。目を閉じ、唇を噛んでから、エリナはもう一度こちらを見た。

 

「待ってって言われたら、怖いと思う。でも……それで、私を諦めたことにはならないでしょ?」

 

 ミアは言葉を失った。握った手が冷たかった。今も、少しでも温かくなってほしいと思っていた。

 

「……諦めたく、ありません」

 

「うん。私も」

 

 エリナは頷いた。

 

「だから……ミアに治してほしい。ミアの魔法で」

 

「それで、間に合わなかったら……」

 

 途中で声が止まった。エリナの顔に怯えが浮かび、答えを探すように唇が動いたが、言葉にはならなかった。待っていても大丈夫だと、この人に言ってほしかったのかもしれない。けれど、自分にさえ分からないことを、この傷ついた人が約束できるはずもなかった。

 

「……分かんないよ」

 

 しばらくして、エリナが言った。

 

「私も、怖いもの」

 

 ミアの手を掴む指は、まだ離れなかった。

 

「それでも……ミアに、任せたい」

 

 ミアは返事を探した。大丈夫ですと言えば、少し安心してくれるだろう。けれど、その先を約束する言葉が出てこない。顔を伏せると、離れずにいたエリナの指が、もう一度だけ握り返してきた。

 

 この手で、もう一度、魔法を使って治したい。そう思っても、あのときの顔は消えなかった。あの人も治したかった。待っていてくださいと告げたときには、戻るつもりだった。間に合わなかったことは変わらず、エリナにも同じことが起きるかもしれない。

 

 それでも、あとにすることを諦めることにはしたくなかった。誰も待たせずに済む答えを探すより、今のエリナが待てるのかを確かめたい。あの子も、ガルドも、声のする奥の人も。安心させてもらうまで、この手を握っているだけではいられなかった。

 

 ミアは、エリナの手を一度だけ握り返した。

 

「……確かめます。誰を先に、治すか」

 

 エリナは小さく頷くと、自分で指を緩めた。離れた掌には、まだ冷たさが残っていた。ミアはその手を脇腹へかざし、身体の内側を巡る流れを確かめた。呼吸が変わるところへ目を留めてから、隣の子供へ顔を向ける。

 

 -----------------------------------------------------------------

 

 赤い上着の子供の胸が、浅く上下していた。知らせを聞いて駆けつけた母親が膝をつき、小さな頬へ何度も触れていた。

 

「お願いです。この子を……!」

 

 ミアは子供の呼吸を確かめ、胸へ意識を向けた。流れはある。けれど、いつ崩れてもおかしくない細さだった。すぐ横でエリナが痛みに息を詰める。どちらにも今すぐ手を伸ばしたくて、それでも顔を上げ、店の奥まで視線を巡らせた。

 

 横たわる男が一人、妙に静かだった。運び込まれたときには肩が痛いと訴えていたのに、今は口を薄く開いたまま天井を見つめている。付き添いの若者が名前を呼んでも、目だけがゆっくり動いて声が出ない。

 

 外から見える傷は、エリナよりずっと小さかった。けれど、意識を向けると、身体の内側を巡る流れが胸の一か所で途切れかけていた。残った光も、呼吸のたびに弱くなる。ガルドの方をもう一度確かめた。そちらにも力はない。それでもまだ続いている流れが、この男の胸では一息ごとに消えかけていた。

 

 あの人は、待てない。

 

 これまでに身につけた感覚がそう告げた。エリナへ目を戻すと、こちらを見上げていた。隣では子供の母親が、自分の袖を掴んでいる。

 

「先生、早く……!」

 

 喉が鳴った。エリナを先に治せば、この冷たい手を温かくできる。子供を先に治せば、目の前で泣いている母親の声に応えられる。奥の男は、ミアを呼ぶことすらできない。だからこそ、自分が見つけなければならなかった。

 

「……あちらの方から、治療します」

 

 自分の声なのに、知らない人が喋っているように聞こえた。母親の手が止まる。

 

「……え?」

 

 ミアはやどかりへ顔を向けた。

 

「この二人のそばにいてください。様子が変わったら、呼んでください」

 

「分かった」

 

 返事を聞いてから立ち上がり、奥の男へ向かおうとした。その袖を、強く引かれる。

 

「待ってください」

 

 母親だった。

 

「あちらって……この子は?」

 

「あとで、診ます」

 

「あとって、いつですか!」

 

 声が大きくなる。ミアの肩が震えた。

 

「見てくださいよ。この子、さっきから目も開けないんです。呼んでも返事しないんです!」

 

「分かっています」

 

「分かってたら、どうして行くんですか!」

 

 袖を握る指に爪が食い込んでいる。母親は怒り、同時にひどく怖がっていた。この人にとっては、ここにいる誰よりも、この子が大切なのだ。目の前で苦しむ我が子より、奥の見知らぬ男を優先する判断を、静かに受け入れられるはずがなかった。

 

「あの人のほうが、今は危ないんです」

 

「うちの子だって危ないでしょう!」

 

「……はい」

 

「だったら!」

 

 ミアは子供を見た。助けます、と言いたかった。必ず戻ります。大丈夫です。この子も死なせません。そう言えれば、この母親は少しだけ安心して、袖を離してくれるかもしれない。けれど、言えなかった。ミアには、その約束を守れるか分からなかった。

 

「順番を待たせたせいで、この子が死んだら……どうするんですか」

 

 低くなった母親の声に、目の前が白くなった。昔、誰かに言われたのか、自分で自分へ言ったのかさえ曖昧なまま、消えなかった言葉だ。答えは今もない。それでも、奥の男の命が細くなっているのが分かった。

 

「……それでも」

 

 ミアは自分の袖を掴む手へ、そっと自分の指を重ねた。乱暴に引き剥がすのではなく、その震えごと触れる。

 

「今は、あの人を先に治します」

 

 母親がミアを見た。ミアも、目を逸らさなかった。分かってもらうまで説明している時間はない。納得されないままでも、行かなければならない。やどかりが母親の傍らへしゃがんだ。

 

「ここには、俺がいる」

 

「あんたがいて、何になるの!」

 

「一人にはしねえ。変わったことがあれば、すぐ呼ぶ」

 

 母親の唇が震え、やがて袖を握る手がほんの少し緩んだ。ミアはそこから腕を抜いた。エリナの横を通るとき、一度足を止めかけたが、そのまま進んだ。

 

 自分を呼んでいる人から離れ、もう呼ぶ力を失いかけている人の前へ膝をついた。

 

 -----------------------------------------------------------------

 

 男の胸へ両手を置くと、掌の下で薄い服がかすかに上下した。隣の若者が身を乗り出し、手元を見ている。あのときもこうして手を置いたと思った途端、指先が強張った。

 

 ミアは一度振り返った。やどかりがエリナのそばにいる。子供の母親は小さな手を握り、ガルドの傍らには、布を押さえるよう頼んだ男がいた。

 胸から手を引きそうになって、エリナが自分から指を緩めたことを思い出した。今すぐ治してほしいと、まだ怖いと言いながら、ミアの手を離してくれた。

 

 目の前の男へ向き直る。この人を先に治すと決めたのは自分だった。そう認めると、ずっと聞かないようにしていた声が蘇った。

 

 ――その人を選ぶの?

 ――また、ほかの誰かを待たせるの?

 ――その間に死んだら、どうするの?

 

 指先から力が抜けそうになった。できないと思えば、まだ手を引ける。包帯と薬で人を助けてきたことも、間違いだったとは思わない。けれど、目の前の胸で細くなる流れに、自分は魔法で手を届かせられる。使わないまま呼吸が止まったとき、何を思うのだろう。

 

 ミアは唇を噛んだ。治している間にエリナが待てなくなるかもしれない。あの子の状態が悪くなり、振り返ったときには誰かの声がなくなっているかもしれない。その怖さの中で、さっき握ったエリナの冷たい手を思い出した。

 

『待ってって言われたら、怖いと思う。でも……それで、私を諦めたことにはならないでしょ?』

 

 ミアは目を閉じた。一人へ手を伸ばし、その間に別の人を失えば、自分がその人を選ばなかったからだと思っていた。待たせることと諦めることが、いつの間にか同じになっていた。

 

 けれど、エリナは待つのが怖いと言った。先に治さなくてもいいとも、死んでも仕方ないとも言わず、自分を諦めないでほしいと望んでいた。その番まで、戻ってきてほしいのだ。

 

 ミアはエリナを見た。そばにはやどかりがいる。子供には母親がつき、ガルドの傷には頼んだ男が布を押し当てていた。全員を一人で支えているわけではない。それでも、順番を決めるのは自分だった。その選択で誰かが死ぬかもしれないという怖さも、間違えるかもしれないという不安も残っていた。

 

 ――治したい。

 

 エリナも、あの子も、まだ待っている人たちも治したい。目の前の一人で終わらせず、次の人へ手を伸ばしたい。間に合うとは約束できなくても、諦めずに次の人のところへ行くことはできる。

 

 ミアは胸の上の両手を見た。何年も避けてきた力をもう一度使えば、また後悔するかもしれない。

 

 それでも、使わなかったことを後悔するための手にはしたくなかった。小さく息を吸い、止まらない震えごと、男の胸へ両手を重ねた。

 

「……今、治します」

 

 今度は手を引かなかった。指先へ魔力を通すと、白い光が灯った。声も指もまだ震えていたが、そのまま掌へ力を送り続けた。

 

 久しぶりの治癒魔法だった。明かりは乱れた呼吸に合わせて頼りなく揺れた。それでも、どこへ力を通し、どこで抑え、壊れた流れをどう繋ぐかは覚えていた。男の内側へ意識を向け、途切れかけたところへ少しずつ、慎重に光を通す。

 

 背後で母親が子供の名前を呼び、肩が反応した。自分が離れた間に何か変わっていないか、振り向いて確かめたかった。けれど、掌の下にも別の命があった。ミアは目の前の男を見続けた。

 

 光を細くしなかった。

 

「……息を、してください」

 

 男の唇が微かに動いた。少しして、止まりかけていた胸が大きく持ち上がる。付き添いの若者が息を呑んだ。

 

「親父……?」

 

 男は咳き込み、苦しそうに顔を歪めながらも、若者の声へ目を動かした。ミアはもう一度、身体の内側を確かめた。まだ治すべきところが残っている。この人だけでも、心配しなくていいところまで治したかった。

 

 けれど、背後には次の人がいる。ミアは手を離した。

 

「そばにいてください。まだ起こさないで」

 

「ありがとうございます……!」

 

 礼へ返事をする前に、ミアは振り返った。

 

「先生!」

 

 母親が身を乗り出す。

 

「今度は、この子を!」

 

 ミアはその言葉をしっかり聞きながら周囲を確かめ、入口の近くで女が呻くのに気づいた。運び込まれてからずっと、血に濡れた布を自分で押さえていた女だった。さっきまでは付き添いへ何か話していたのに、今は首が横へ落ちかけている。そちらへ身体を向けると、母親もその動きを見た。

 

「……嘘でしょう」

 

 ミアは唇を噛んだ。女の状態を見れば、こちらも待たせられないと分かった。

 

「先に、あの方を」

 

「また!?」

 

 母親の声が裏返った。

 

「さっきもそう言ったじゃないですか!」

 

 ミアの目に涙が滲む。一人治せば、次は自分の子供だと、母親は信じて待った。その期待を、自分がまた崩そうとしている。この人にとっては、二度見捨てられたのと同じなのかもしれない。

 

「分かっています」

 

「何が分かってるんですか!」

 

 言い返せる言葉はなかった。ただ、もう一度だけ言う。

 

「あの方を先に診ます」

 

 立ち上がると足が震え、背中へ母親の声が追いかけてきた。やどかりが間へ入ってくれているのが分かった。言葉の全部は聞き取れなかったが、聞こえたものだけでも十分に痛かった。

 

 ミアは女の前へ膝をつき、また手を置いた。また、一人を選んだ。

 

 -----------------------------------------------------------------

 

 エリナは天井の染みを見ていた。ミアの声も、母親の声も聞こえている。すぐにこちらへ来ない理由は分かっていた。ミアが見て、考えて、決めた。そうしてほしいと頼んだのは自分だ。

 

 それでも、身体が冷えると怖かった。脇腹が脈打つたび、「まだかな」と思う。名前を呼べば来てくれるだろうか。ほんの少しでいい。傷へ手を置き、もう大丈夫だと言ってくれないだろうか。

 

 そんな願いが浮かぶたび、唇を閉じた。ほかの人を先に治すと、ミアが決めたのだ。任せると言ったのだから我慢しなければと、声を飲み込もうとした。その様子を、隣のやどかりが見ていた。

 

「痛いなら言えよ」

 

「……でも」

 

「順番を決めるのは、あいつだろ。黙ってたら、決める材料が減る」

 

 エリナは目を閉じた。その言葉をゆっくり飲み込んでから、息を吸う。

 

「ミア……」

 

 声は、自分でも驚くほど小さかった。それでも、治療中のミアが振り返った。

 

「……痛い。さっきより、寒い……」

 

 ミアの顔が強張る。すぐ来るかもしれない、とエリナは一瞬思った。けれどミアは今治している女へ視線を戻し、掌の光を保ったまま答えた。

 

「聞こえています」

 

 エリナはその横顔を見た。

 

「もう少し、待ってください。次に、もう一度見ます」

 

 次には必ず治します、という約束ではなかった。それでも、聞こえていると分かった。忘れられたわけではないと知るだけで、さっきまでより呼吸が少し楽になった気がした。

 

 エリナは小さく頷いた。やどかりが掛け直してくれた毛布の端を握り、待った。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。