赤い上着の子供を治療し始めた頃には、母親はもう何も言わず、ミアの手元を食い入るように見つめていた。白い光が小さな身体へ染み込んでいく。額から汗が落ちるたび、待たせた時間が頭へ戻ってきた。
最初にこの子を治していれば、もっと簡単に済んだのではないか。母親にあんな声を出させずに済んだのではないか。掌から意識が離れそうになり、ミアは子供の顔を見た。今、ここにいる。過ぎた順番は変えられなくても、この身体へ手を尽くさなければならなかった。
子供の唇が小さく動き、母親が身を屈めた。
「……おかあ、さん……」
掠れてはいたが、確かに声になった。母親の顔が崩れ、何度も名前を呼びながら、小さな手を両手で包み込む。ミアはようやく息を吐いた。指先の光が、ほんのわずか揺れた。
治療を終えて手を離すと、母親がこちらを見た。さっきまで投げられた言葉が二人の間に残り、ミアも、母親も、すぐには口を開けなかった。やがて母親は子供の手を握ったまま、小さく頭を下げた。
「……ありがとうございます」
それだけだった。ミアは頷いた。後回しにしたことを許されたわけでも、自分の順番が正しかったと証明されたわけでもない。それでも、この子は助かった。その事実を自分の目で確かめてから立ち上がり、エリナのそばへ向かった。
「……待たせました」
エリナがゆっくり目を開ける。
「うん……」
「今、治します」
ミアが傷へ手を置く。白い光が灯った瞬間、エリナの指が、ずっと掴んでいた毛布の端からゆっくり離れた。
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奥からミアを呼ぶ声がした。ガルドに付き添っていた男が、名前を呼んでも返事がないと言っている。ミアは立ち上がり、ガルドの前へ膝をついた。もう自分の手が届かないことが、そのとき分かった。
それでも光を流し、名前を呼んだ。坑道の中でエリナへ子供の居場所を伝えた男は、返事をしなかった。そばにいた仲間が、ミアの顔を見た。
「……順番が、遅かったのか」
その言葉に手が止まった。答えようとしても声が出ない。運び込まれたときから傷は深く、最初に治しても届かなかったかもしれない。もっと早く手を置いていれば、何かが変わったかもしれない。今となっては、どちらも確かめる方法がなかった。
「……分かりません」
ようやく絞り出すと、仲間の男は目を閉じ、それ以上何も聞かなかった。ミアはガルドの胸から手を離せずにいた。あと少し魔力を流せば、もう一度だけ呼吸をしてくれるような気がした。そうであってほしかった。
背後から声がした。
「ミアさん……」
生きている人の声だった。ミアを待っている人の声だ。ミアはガルドを見る。唇が震えた。
「……ごめんなさい」
深く頭を下げてから、ガルドの胸から手を離した。もう届かない人のそばを離れ、まだ待っている人のところへ行くことを選んだ。
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夕方、ミアは流しの前に立っていた。手についた血はとっくに落ちていたが、指の間を擦り、爪の際を洗い、掌を返して、また水へ差し入れた。水は透明なままだった。それでも、止められなかった。
背後からゆっくりした足音が近づき、エリナが、やどかりに肩を支えられながらやってきた。
「まだ、動かないでください」
ミアは手元を見たまま言った。
「うん。少しだけ……」
水の音だけが続く。エリナは、何度も擦られる白い指を見ていた。
「……助けてくれて、ありがとう」
ミアは首を振った。
「私は、あなたを後回しにしました」
「うん」
「あの子も、何度も……」
「うん」
「呼ばれてたのに」
水が指先から落ちる。
「みんな、自分を助けてほしかったんです。目が合うたび、分かったのに……私は、別の人のところへ行った」
エリナは口を挟まずに聞いた。
「それで……助からなかった人も、いた」
ミアはようやく蛇口を閉じた。急に静かになる。
「私が選んだから……」
エリナは、すぐには返さなかった。自分も待っている間、怖かった。ミアが別の人のところへ向かうたび、こっちへ来てほしいと思った。痛みが強くなれば、順番なんて関係なく自分を先にしてほしいとさえ思った。だから、平気だったとは言えない。エリナはゆっくり口を開いた。
「……私も、先に治してほしかったよ」
ミアが顔を上げる。
「痛かったし、怖かった。ミアがほかの人のところへ行くと、まだなのかなって思った」
ミアの目が揺れた。
「でも、私のところに来てくれたとき……その前に治してた人たち、息をしてた」
エリナは流しの縁へ手を置いた。
「ミアが選んだから、助かった人もいる」
「……でも」
「うん」
エリナは頷く。
「助からなかった人もいます」
二人の間に長い沈黙が落ちた。助かった人の数でガルドの死を小さくしたり、慰めの言葉でその名前を隠したりしたくはなかった。エリナはゆっくり手を伸ばし、まだ濡れているミアの指へ触れた。
「待ってる間、私、ミアを呼んだでしょ」
「……はい」
「聞こえてますって、答えてくれた」
エリナはその指をそっと握る。
「あれ、嬉しかった。後回しでも、忘れられたんじゃないって分かったから」
ミアの顔が歪んだ。俯いて息を詰めても、涙は頬を伝って落ちた。エリナは何も言わず、手を握ったまま待っていた。やがて、戸口から声がした。
「……ミアさん」
包帯を巻いた男が立っていた。
「すまない。見てもらえるか」
ミアの指が一瞬だけ強張った。エリナは握っていた手を緩め、引き止めも、背中を押しもせずに待った。ミアは男を見てから、袖で目元を拭った。
「……はい」
声はまだ震えていた。
「今、行きます」
ミアは自分の手でエリナの指から離れ、布を取った。そして、次に待っている人の前へ進み、膝をついた。
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治療を終えた次の日、赤い上着の子供は、自分の足で薬屋へ入ってきた。鈴の音にミアが顔を上げると、昨日は土と血にまみれた床へ横たわっていた小さな身体が、母親の隣に立っていた。赤い袖から伸びた手で、母親の指をしっかり握っている。
戸口のわずかな段差で足がもつれ、母親が慌てて腕を支えた。それだけの仕草に胸が詰まった。昨日は何度呼んでも目を開けず、頬へ触れる母親の手だけが動き続けていた。その頬に、今日はわずかな血の色が戻っている。ミアは椅子を引いた。
「……具合は、どうですか」
「朝は、少し食べました」
母親は小さく、疲れを残した声で答えた。叫ぶことはなくても、ミアを見る目にはまだ緊張が残っている。ミア自身、昨日の言葉を忘れていなかった。
子供を椅子へ座らせ、手首へ指を添えた。名前を呼ぶとすぐこちらを向き、瞳の焦点も合っていた。身体の内側へそっと意識を向けても、昨日のように今にも切れそうな流れはなかった。
「今日は、おうちで休んでください」
「もう痛くないよ」
「痛くなくても、です」
納得できないらしく母親を見上げた子供は、小さな頷きを返されると口を尖らせ、ぶらぶら揺らしていた足を止めた。昨日なら見られなかった何でもない動きを、ミアはしばらく眺めてしまった。
「あの、先生」
母親が口を開く。ミアは子供の手から指を離し、膝へ手を戻して顔を上げた。
「昨日は……ひどいことを言いました」
膝へ戻したミアの手に、わずかに力が入る。
「すみませんでした」
母親が頭を下げても、すぐには返事ができなかった。気にしていません、と言えば簡単だった。けれど、袖を掴まれた感触も、「この子が死んだらどうするんですか」と問われた声も、まだ皮膚の内側へ残っているようだった。母親は頭を上げたあとも、すぐにはミアを見なかった。
「でも、また同じことになったら、私……きっと言うと思います。この子を先にしてくださいって」
ミアは黙って聞いた。
「ほかの方も苦しんでいるのは、見えていました。あの人も、この人も大変だって……分かってたつもりです。でも、この子が返事をしなくて」
母親の手が、子供の髪を撫でる。その指はまだ、わずかに震えていた。
「先生が別の人のところへ行くたび、置いていかれるみたいで。次はこの子だって思ってたのに、また別の人のところへ行って……あのときは、本当に、この子しか見えませんでした」
ミアは昨日の母親と、その少し奥で声を失いかけていた男を思い出した。大きな声で呼ぶ人から治していれば、母親は安心できただろう。けれど、あの場で呼ぶことさえできない人を見つけることができるのはミアだけだった。
「……はい」
ミアは静かに答えた。
「この子を先にとおっしゃると思います。当然だと思います。」
母親が顔を上げる。ミアは一度息を吸った。喉の奥はまだ少し固かった。
「それでも私は、そのとき、一番待てない人を探します」
声が揺れた。以前なら、それを悟られないよう押さえ込もうとしたかもしれない。けれど今日は、そのまま続けた。
「この子を先に診るかもしれません。別の方を先にするかもしれません。次に同じことがあったときは必ずこの子から、と今ここでお約束することはできません」
母親の表情が硬くなっても、ミアは目を逸らさなかった。分かってほしい。けれど、そのために守れるかどうか分からない約束を差し出したくはなかった。
沈黙が続くうち、通りを荷車が過ぎ、窓辺の瓶がかすかに鳴った。やがて母親は、子供を椅子から下ろした。
「……そうですか」
分かってもらえたとは思わなかった。昨日のことは、一度の説明で綺麗に片づくものではない。それでよかったのかもしれない。
母親は子供の手を握り直し、扉へ向かいかけた。けれど、一度立ち止まると、もう一度ミアへ向き直った。
「助けてくださって、ありがとうございました」
深く頭を下げる。子供も母親の真似をして、少し遅れてぺこりと頭を下げた。ミアは唇を開いた。
「……お大事に」
それ以上の言葉は出なかった。扉が閉まり、鈴が鳴る。音が消えたあとも、ミアはしばらく、子供が座っていた椅子を見ていた。