「怖かったです」
ぽつりと呟くと、店の奥の椅子に座っていたエリナが顔を上げた。脇腹には、まだ白い布が巻かれている。
今朝もミアが短く治療したが、長く歩き回ることは許していなかった。本人は「もうだいぶ平気」と言うが、身体を捻るたび、わずかに眉が動くのをミアは見逃していない。
「昨日も、今も」
「うん」
エリナは急かさず、続きを待った。卓の端には、昨夜ミアが書いた記録が積まれていた。名前、運び込まれたときの状態、診た順番、使った魔法の量、結果。何度読み返しても、そこに正解は書かれていなかった。
「次も間違えないと、分かったわけではないんです」
ミアは紙へ目を落とした。
「ガルドさんを先に診ていたら、と今も考えます」
ガルドを最初に治していたら。子供をもっと早く治していたら。エリナへ先に手を置いていたら。順番を一つ動かすたび、今度は別の誰かの顔が浮かんだ。何度考え直しても、全員が同じように助かる並べ方は見つからない。ミアは紙の端を揃えた。
「前にも、同じことがありました」
エリナは何も言わない。
「待っていてくださいと、私が言った人でした」
そこで、喉が詰まった。エリナは身じろぎせず、ミアを見ていた。
「それから、治癒魔法を使おうとすると、その人の声が……」
最後まで言えなかった。ミアは一度息を吸い、棚に並んだ薬草へ目を移した。
「薬を作ることなら、続けられました」
「ここでも、助かってた人はいたよ」
エリナが言う。ミアはすぐに頷いた。
「はい。この仕事を、間違いだったとは思いません」
そこだけは迷わなかった。薬で治る傷がある。薬で眠れる夜がある。魔法を使わなくても、できたことはたくさんあった。
「でも、昨日は……薬だけでは届かない人がいました」
自分の掌へ目を落とす。何も光っていない。けれど、もう使えない手ではなかった。
「分からないままでも、見て、決めなければならなかった」
「うん」
「次も、怖いと思います」
一度、指を握る。
「それでも……もう二度と治さないとは、決めたくありません」
ミアは顔を上げた。エリナは小さく頷いた。
「私、ミアに治してもらえて、よかった」
それから少し笑う。
「ミア、カッコよかったよ」
ミアの胸の奥にあったものが、少しだけ動いた。ガルドのことも、次の判断への怖さもなくなりはしない。それでも、重いものを抱えたまま、わずかに息を吸える場所ができたような気がした。
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エリナの傷が落ち着くまで、二人は町に残った。その間、ミアは薬屋の仕事に少しずつ治癒魔法を加えた。
頼まれたものを何でも魔法で治すわけではない。薬を塗って休めば十分な傷には、これまでどおり薬を渡した。仕事を休めば治る腰痛には布を巻いて温めるよう言い、子供の擦り傷へまで白い光を使うこともしなかった。ただ、必要だと判断したときには手を置いた。
最初の数回、指は目に見えるほど震えた。患者の胸へ光を流しながら、ほかに誰か悪くなっていないか、見落としている人はいないかと、何度も店の中を見回した。エリナもその震えを何度か見たが、何も言わなかった。必要なら棚の瓶を取り、布を畳んだ。
数日が過ぎ、エリナの傷も旅へ出られる程度まで落ち着いた。閉店後の薬屋で、三人は卓を囲んだ。やどかりは椅子を後ろへ傾け、エリナはまだ脇腹を庇いながら座っていた。少女は改めてミアへ向き直った。
「一緒に来てくれたら、嬉しい」
一度息を吸ってから続ける。
「ミアがいてくれたら、心強いと思う」
ミアは膝の上で手を重ねた。この話をされるかもしれないと思い、何度も考えてきた。断るのは怖いからなのか。また治癒魔法を使わない理由を探しているだけなのか。
昨日までなら、そう疑ったかもしれない。けれど、窓の外にはこの町で暮らす人たちの足音があった。棚には明日取りに来る薬があり、坑道で怪我をした人たちも、まだ何人か通っている。一人ひとりの顔が、ミアには思い浮かんだ。
「……私は、ここに残ります」
エリナの表情がわずかに止まった。ミアは視線を下げずに続けた。
「この町で、治療を続けたいです」
声にすると、自分の気持ちがはっきり形になった。
「ここにも、私にできることがあるので」
エリナは少しの間、何も言わなかった。やがて、残念そうに小さく息を吐く。
「……そっか」
その顔を見て、ミアは思わず謝りかけた。けれど、エリナのほうが先に笑った。
「じゃあ、出発前に薬をお願いしてもいい?」
ミアは瞬いた。
「……それだけで、いいんですか」
「それだけって?」
「もっと、説得されるのかと」
エリナは隣を見た。やどかりが肩をすくめる。
「残るって決めたんだろ」
「はい」
「じゃあ、残ればいい」
ミアは二人を見た。自分の返事だけで、この話が終わる。行くべきだとも、せっかく魔法を使えるようになったのにとも言われない。あまりに簡単で、自分でも驚くほどほっとしていた。エリナが少し身を乗り出した。
「でも、薬の使い方は、やどかりさんにも説明して」
「俺は覚えたぞ」
「この前も、そう言って飲む薬を塗り薬みたいに使ってたでしょ!」
「その方が早い」
「正しく使わないとダメ!」
ミアは卓へ目を落とした。口元が、少しだけ緩む。
「……では、お二人に説明します」
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荷物をまとめ終えた翌朝、救助隊が町へ戻ってきた。崩れた坑道へ再び入った者たちではなく、古い道を使って山の反対側へ迂回していた一隊だった。
事故のあと、山向こうの作業小屋と連絡が取れなくなっていた。坑道を通れば近いが、その道は崩落で塞がれている。救助隊は山を大きく回り込み、半日以上かけてようやく向こうへ辿り着いたのだという。
薬屋へ飛び込んできた男は、戸口へ手をついたまま肩で息をしていた。それでも、最初に一言だけ言った。
「生きてた」
ミアの手が止まる。
「四人いた。水も、少し食料も残ってた。だが、二人は動かせない」
ミアは椅子を勧めたが、男は首を振った。
「担架で連れて帰るつもりだったんだ。でも、あの道を越えさせるのは……無理に動かしたら、途中で悪くなるかもしれん」
ミアはすぐに負傷者の状態を聞き始めた。どこを怪我しているのか。意識はあるか。熱は。出血は。男は見てきたことを思い出しながら、一つずつ答える。途中で言葉に詰まれば、ミアは急かさず、「覚えている範囲で大丈夫です」と言った。聞き終える頃には、ミアの手は完全に止まっていた。
「歩いて、どのくらいですか」
「身軽なら半日ほどだ。往きは道を探すのに時間がかかったが、帰りは目印をつけてきた」
「今も、どなたか残っていますか」
「二人置いてきた。動ける奴がそばにいる」
ミアは棚を見た。薬の瓶、布、止血に使う道具、水を入れる容器。必要なものを数え始めたところで、扉のそばに人影があることに気づいた。旅支度を終えたエリナとやどかりが、別れを言いに来たらしい。ミアは二人を見た。
「私は、行ってきます」
エリナは少しも驚かず、頷いた。
「うん」
ミアは往診用の鞄を開いた。不思議なことに、何を入れるか考えられた。選ぶことは今も怖い。それでも、待っている人のところへ行くために準備をする。それが自分の仕事だと、もう一度思えた。男が言いにくそうに続けた。
「ただ……道に魔物が出る」
ミアの指が止まった。
「俺たちも、一度引き返しかけた。数は多くねえが、治療道具抱えたまま一人で行くのは危ない」
薬は鞄へ入れられる。布も入る。けれど、患者のところまで無事に辿り着く方法は、棚のどこにも置かれていない。ミアが考えていると、エリナが言った。
「道は、私たちが見ようか」
ミアは顔を上げた。
「出発されるのでは」
「少し遅くなっても、いいよ」
やどかりも荷物を床へ下ろした。
「全部背負って山登ることもねえな。荷物は置いていくぞ」
ミアは二人を見た。魔王の話も、この機会に一緒に来いという誘いも出なかった。残るという決断を変えさせようともせず、患者のところへ行きたい自分を手伝うという。エリナが腰の剣を確かめ、ミアへ尋ねた。
「何を持てばいい?」
ミアは鞄の口を握ったまま、一瞬だけ答えられなかった。やがて棚の下へ置いた布包みを示す。
「……こちらを、お願いします」
エリナが頷いて布包みを抱えると、ミアは残りの道具を鞄へ収め、留め金を閉じた。町に残ると決めた自分が、今は二人と一緒に山へ向かおうとしている。
決めたことが変わったとは思わなかった。ここに残るからこそ、ここで待っている人のところへ行く。そう思いながら、鞄を肩へ掛けた。