山道は、町から見上げたときに想像していたより、ずっと細かった。片側には岩肌が迫り、もう片側は木々の間から深い谷が覗いている。昔はきちんと積まれていたのだろう石段も、今では木の根に押し上げられ、ところどころ大きく傾いていた。踏み固められた土は雨に削られ、細い溝になって足元を横切っている。
ミアは一歩ずつ足場を確かめながら歩いていた。肩へ掛けた往診鞄の紐が、坂を上るたびに身体へ食い込む。
町の薬屋にいれば、薬は棚にあり、水も汲みに行けた。布も、瓶も、火もあった。今は、これから使うかもしれないものを、全部自分で持っていかなければならない。
出発前に、もう一本薬を増やすかどうか迷った。その小瓶一つ分の重さまで、坂を上るたびに肩が思い出させてくる。
「そこ、滑るよ」
前を歩いていたエリナが振り返った。苔の浮いた石の向こうから手が差し出される。ミアは一瞬、その手を見た。剣を握るために固くなったところがあり、指には細かな傷が残っている。それでも、今は何も持たず、自分へ向けられていた。少し迷ってから掴む。
「ありがとうございます」
「うん。こっち側に足置いたほうがいいよ」
エリナは先へ急がず、ミアが傾いた石を越え、両足を安定した地面へ置くまで手を離さなかった。ようやく足場へ立つと手が離れ、ミアは先を行く背中を見た。薬草を刻んでいたときには、卓を挟んで向かいに座っていた人だ。その背中を頼りに自分が山道を歩いていることが、少し不思議だった。
町に残ると決めた気持ちは、今も変わっていない。ただ、町まで運べない患者が山の向こうにいる。ならば自分が行く。それだけのことだと思って薬を詰めた。けれど、辿り着くまでの道にも、一人ではできないことがあった。
エリナは歩きながら何度も斜面へ顔を向け、鳥の声が途切れれば足を緩め、茂みが不自然に揺れれば腰の剣へ指を掛けていた。後ろでは、やどかりが道へ張り出した枝を両手で持ち上げた。
「通れるか」
「はい」
「鞄、引っかけんなよ。割ったら俺まで怒られそうだ」
「割らなければ、怒りません」
「そりゃ助かる」
前を歩くエリナが小さく笑った。ミアも思わず口元を緩める。それから、また足元へ目を戻した。
-----------------------------------------------------------------
山の反対側にある作業小屋は、小屋と呼ぶにはずいぶん大きかった。山腹を切り開いた平地に長い宿舎と資材置き場が並び、坑道へ入る者も、鉱石を選り分けて荷車へ積む者も、食事を作る者も、ここで寝起きしているのだという。
崩落で町への道を断たれた人々が、その宿舎へ集められていた。建物の前では、男が血のついた布を桶へ押し込んでいる。
「蓋、頼む。ここの魔物は、血の匂いに寄ってくることがある」
傍らの男が板を載せた。風が宿舎の割れた窓を抜け、森のほうへ流れていく。エリナは森へ目を向け、やどかりと短く視線を交わした。一行に気づいた戸口の男が、弾かれたように立ち上がった。
「来たぞ!」
建物の中へ向けて叫ぶ。その声は途中で掠れた。
「治癒術師を連れてきた!」
その言葉に、ミアは反射的に鞄の紐を握り直した。扉をくぐったところで足が止まる。寝台だけでは足りず、本来なら歩くための床にも毛布が敷かれ、人が横たわっていた。
腕を胸へ抱えたまま壁にもたれる者。膝を曲げられず、脚を投げ出している者。声をかけられても、返事の代わりに小さく頷くだけの者。湿った木の匂いに汗と血の臭いが混じり、薬屋で嗅いできたものよりずっと濃く、部屋にこもっていた。
「……何人、いらっしゃいますか」
自分の声が少し硬いのが分かった。案内役の男が答える。
「怪我してるのは、二十六人だ」
ミアは一瞬、聞き間違えたかと思った。
多すぎる。診療所の医師の顔が浮かんだが、今も町で今回の事故で怪我をした人達の治療をしていて、連れてくることはできなかった。
聞いていた人数であれば、ミア1人で対応できたはずだった。
それでも、やらなければいけない。この人たちは私を待ってくれていたのだ。ミアは不安を隠し、続きを聞く。
「歩ける奴もいる。だが、山を越えられそうにないのが……九人」
連絡役が戻ったあと、離れた選鉱場からも人が辿り着き、初めは歩けていたのに、一晩のうちに動けなくなった者もいるのだという。
ミアが部屋を見渡すと、いくつもの顔がこちらを向いていた。鞄の紐を握る手に力が入り、一度、息を吸った。
「まず、全員の状態を確認します」
鞄を床へ下ろす。
「今は、運び出さずに待ってください。歩ける方も、勝手に山を下りようとしないでください」
近くの男が椅子をどけ、床に通路を作った。ミアは一人ずつ呼吸を確かめ、身体の内側へ意識を向けた。
「大丈夫だ。俺はあとでいい」
そう言う男の顔が白い。口では平気だと言っても、胸を巡る流れは細くなっていた。
「こちらの方から、治療します」
隣の男が口を閉じた。ミアは二人の顔を見比べ、先に診ると決めた患者のそばへ膝をついた。胸へ置く手は震えていたが、白い光は灯った。背後で、板を動かす音がした。
「ここ、塞いでいい?」
エリナの声だ。崩れた壁の隙間から冷たい風が入っていた。そこを板で塞ごうとしている。
「はい。風が当たらないように、お願いします」
「分かった」
やどかりが板を支え、救助隊の男が釘を打つ。一定の間隔で響く木槌の音を聞きながら、ミアは掌の下へ流す魔力を整えた。自分が患者へ手を置ける場所を、ほかの誰かが作ってくれている。その音に支えられながら、次に待つ人へ意識を向けた。
-----------------------------------------------------------------
三人目を診ているとき、外から突然、叫び声が上がった。続いて、重いものが崩れる音がする。ミアは反射的に顔を上げた。戸口のエリナの手は、すでに腰の剣へ伸びていた。
「みんな、中へ!」
声が宿舎を抜ける。薬屋で話すときの声とは違う。短く、よく通る。やどかりも同時に立ち上がり、外へ出た。すぐに、低い唸り声が聞こえる。治療中だった男が身体を起こそうとした。
「動かないでください」
ミアは咄嗟に肩を押さえた。そう言いながら、自分も戸口を見ている。エリナが一度だけ振り返った。
「ミアは、そのまま続けて!」
言い終わるより早く外へ向き直り、剣を鞘から抜く音がした。ミアは患者へ目を戻した。掌の下の傷は、まだ塞がりきっていない。ここを離れてはいけない。外のことは二人に任せ、魔力を流した。
金属がぶつかる音に続いて地面が鳴り、壁へ掛けられた道具が揺れた。その音も収まらないうちに、顔を血で濡らした男が戸口から入ってきた。
「材木が……飛んできて……」
傍らの者に支えられ、床へ座り込む。ミアは、いま治している患者の状態を急いで確かめた。まだ終わりではない。けれど、ひとまず手を離しても急変しないところまでは来ている。
「この方のそばにいてください。呼吸が苦しくなったら、すぐ呼んでください」
付き添いへ頼み、立ち上がった。新しく来た男のほうへ向かおうとした、そのとき。また戸が開く。
「場所を空けてくれ!」
今度は二人がかりで、女が運ばれてきた。腕を押さえて声も出さずに泣き、袖から落ちる血が床へ点々と続いている。ミアは先ほどの男と女の呼吸や出血を確かめたが、手を伸ばす前に、外でまた何かが砕けた。
-----------------------------------------------------------------
宿舎の外では、巨大な魔物が資材置き場を押し潰していた。背を覆う甲殻は大岩のように分厚く、太い前脚の先には土を掘るための鉤爪が何本も並んでいる。頭を低くして進むたび、積み上げた材木が簡単に押し退けられ、石が足元から跳ね飛んだ。
エリナは正面へ回り込み、剣先を魔物の顔へ向けた。目の前に敵が立てば、こちらへ来る。そう思ったが、魔物は鼻先を振っただけで、すぐに宿舎へ頭を戻した。
血の匂いを嗅いでいる。中には、逃げられない負傷者が大勢いる。エリナの背中が冷えた。
「やどかりさん、こいつこっち向かない!」
「分かってる!」
やどかりが側面から剣を入れた。刃は甲殻の上を滑り、甲高く耳障りな音を立てる。薙ぎ払う前脚を避けて下がると、外れた鉤爪が積まれた木箱をまとめて砕いた。破片が宿舎へ飛び、窓硝子の割れる音に悲鳴が重なった。
エリナの背中を、冷たいものが走った。自分たちが避けた攻撃は、そのまま後ろにいる人へ届く。
「窓から離れて!」
宿舎へ叫び、もう一度踏み込んだ。魔物の前脚が持ち上がると、厚い胸の下で重なっていた殻が一瞬だけ開き、柔らかそうな部分が覗いた。刃を入れられる。
エリナは身を低くした。その下へ入ろうとした瞬間、横から鉤爪が迫った。気づくのがわずかに遅れ、身体を捻っても完全には避けきれなかった。左脚へ強い衝撃が来て、地面が急に近づく。肩から土の上へ転がり、すぐに起きようとしたが、足をつくと脚の奥へ鋭い痛みが走り、膝が崩れた。
「っ……!」
魔物はこちらを見もせず、また宿舎へ進んで水桶を踏み潰した。近くにいた男が逃げようとして転び、別の男が腕を掴んで引きずる。その間へやどかりが入り、迫る鉤爪へ剣を斜めに当てた。
横へ力を流そうとしたが、受けきれなかった。左腕ごと剣が大きく持っていかれ、靴が土を削った。
「ぐっ……!」
やどかりは顔を歪める。それでも、宿舎の前からは退かなかった。
-----------------------------------------------------------------
「先生、こっちも!」
呼ばれてミアが顔を上げると、窓際の男が腕から血を流していた。周りでは、患者を壁から離そうと人々が寝台を動かしている。動ける者が患者を支え、逃げられる場所を探すうち、床の空きはますます狭くなっていった。
「窓から離れられる方は、奥へ! 動けない方を先にお願いします!」
ミアは声を張った。いくつもの返事が重なる最中に外壁が大きく鳴り、棚が傾いた。近くの女が咄嗟に両手で支えたが、上に並べた瓶までは止められなかった。床へ落ちて硝子が割れ、茶色い薬液が板の上へ広がった。
山を越えて、肩を痛めながら運んできた薬だった。これがあれば誰かの苦しみを減らせると思い、一瓶ずつ選んだ。それが今、床板の隙間へ吸い込まれていく。ミアの胸が詰まった。
「すまない……」
棚を支えた女が言った。ミアは首を振る。
「いいんです」
責める相手などいない。割れた瓶を拾っている時間もない。元へ戻すこともできない。目の前の患者へ手を戻す。白い光を灯す。その最中、戸口からまた声がした。
「一人、頼む!」
その顔を見て、息が止まった。さっきまで布を運んでくれていた若者だった。頼むたびに頷き、床の患者を踏まないよう、小さな歩幅で部屋を行き来していた。その身体が今は二人に抱えられ、脚から血を流している。
「外の奴を、連れて入ろうとして……!」
ミアは一瞬、何を言えばよいか分からなくなった。いつものように「布を取ってください」と頼みかける。けれど、その役目をしてくれていた人自身が、いま目の前で痛みに顔を歪めている。
「……そこへ、寝かせてください」
ようやく言った。示した場所には、水桶が置かれていた。誰かがすぐにどける。別の誰かが毛布を広げる。先に寝ていた患者が、痛む身体を少しずつずらし、自分の隣へ場所を作った。
「すみません……」
若者が掠れた声で謝った。その言葉が胸へ刺さる。謝らなくていい。あなたは、誰かを助けようとしていた。そう言いたかった。けれど、手元の患者が呻いた。ミアはそちらへ顔を戻す。
「……ここにいます」
目の前の一人へ言いながら、背後や戸口、壁際にも床にも人がいることを感じていた。その全員に「ここにいます」と言えたらよかった。けれど、ミアの手は今、この一人へ置かれていた。
-----------------------------------------------------------------
一人を治療する間に次の人が運ばれ、患者を移そうとした人まで傷を負っていた。最初に診た男が、寝台から降りようとした。
「まだ、立たないでください!」
「でも、人手が……」
言い終わる前に、男は壁へ手をついた。顔色が悪い。ミアは立ち上がりかけたが、手の下にも患者がいた。
掌に触れる傷は少しずつ塞がっている。それでも、部屋を見渡すたび、頭の中の待っている人の列は長くなっていた。一人ずつ順番を決めても、その間に次の傷が増えてしまう。もっと速く、もっと多くの魔力で、一度に二人、三人と治せたら。
焦りのまま掌へ力を込めかけると、患者の身体がびくりと強張った。ミアははっとして魔力を緩めた。
「すみません」
魔力を流しすぎれば、かえって身体の負担になる。何度も教わったことだった。それでも焦りは消えなかった。
外からエリナの声がした。ミアは患者の状態を確かめ、手元の光を収めた。
「ここを、お願いします」
傍らの女へ布を渡して戸口へ向かうと、数歩の間にもあちこちから声がかかった。全部には返事をしきれないまま、ミアは外を見た。
エリナが脚を引きずり、やどかりも片腕を庇っていた。二人とも、本来ならすぐ治療を受け、横になっていなければならない身体だった。椅子へ座らせ、動かないでくださいと言いたかった。傷を最後まで治しきり、剣を置かせたかった。
けれど、その二人が退いたら。
ミアは振り返った。すぐ後ろには、自分で逃げることのできない患者がミアを待っている。魔物と宿舎の間には、もう、いくらも距離が残っていなかった。