魔物が大きく身体を起こすと、重なっていた胸の殻が開き、その奥に隙間が見えた。エリナが動こうとしたが、左脚が前へ出ない。身体だけが先へ行き、膝が崩れかけた。
ミアはその動きを見た。少女には、倒すための場所か、少なくとも可能性のある隙間が見えている。そこへ行きたいのに、傷ついた脚が届かせてくれない。
「エリナ!」
声を張る。喉が痛んだ。
「その脚が動けば、倒せますか!」
エリナが振り返った。頬には汗と土がこびりついている。ミアは、治せば勝てると言ってほしかった。そうすれば、ほかの人を待たせるのが正しいと信じられる。ミアがその返事を待つ間、エリナは一瞬迷い、叫んだ。
「……分からない!」
ミアの胸が沈む。
「でも、前には出れる!」
それだけ言い、エリナは魔物へ向き直った。ミアはその背中を見た。自分を安心させるための嘘を、言わなかった。それでも、できることはあると言った。やどかりへ顔を向ける。
「腕を治したら!」
「もう少し、止めてられる!」
やどかりは痛む腕で剣を握り直した。答えを待つ間にも大きな爪が下り、受け止めた剣が鳴る。男は魔物から目を離さず、腕を引いて半歩横へずれた。
ミアが振り返ると、宿舎の患者がこちらを見ていた。いま、その人から離れて二人を治す。休ませるためではなく、再びあの鉤爪の前へ立ってもらうために。胃の奥が冷たく縮んだ。自分が脚を動かせるようにしたから、エリナが踏み込めてしまったら。送り出した二人が戻ってこなければ、きっとまた、自分が選んだからだと思う。
宿舎の中で悲鳴が上がり、壁の一部が外れて板が倒れ込んだ。一人の女が患者へ覆いかぶさり、その背へ木片が散った。ミアは息を呑んだ。女は痛みに顔を歪め、ゆっくり身体を起こした。額から血が滲んでいたが、最初にしたのは、自分の下にいた患者へ「大丈夫か」と尋ねることだった。
決められないでいる間も、誰かが危険を引き受けていた。外の二人が戦い、中では動ける人が動けない人を庇い、そのたびに新しい怪我人が生まれる。目の前の何人かを助けても、その人たちを次々傷つけるものが、すぐ外にいる。
ミアは柱を握っていた手を離し、宿舎の中へ戻った。
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「先に、外の二人を治します」
待っていた男が顔を向けた。さっきまで、自分の番が来ることだけをじっと待っていた顔に、不安が広がる。
「……こっちは?」
胸が痛んだ。当然の問いだった。
「今から、もう一度状態を確認します」
ミアはすぐに立ち去らず、一人ずつ呼びかけて呼吸を見た。先ほど診たときから時間が経ち、状態が変わっているかもしれない。身体へ手をかざし、短く治癒魔法を流した人もいた。今すぐ危険ではないと判断した人のそばには誰かを残し、「変わったら必ず呼んでください」と頼んだ。
外では、剣と鉤爪のぶつかる音が続いていた。一秒でも早く治しに行きたかったが、誰も見ずに走れば、ただ「二人を助けたい」という願いだけになってしまう。最後の男を確かめてから、ミアは顔を上げた。
「今のままでは、怪我をする人が増え続けます」
声が震える。
「外の二人が倒れたら、ここを守れなくなります。その前に、もう一度戦えるようにします」
男は戸口のほうを見た。
「……倒せるのか」
ミアは喉を鳴らした。
「分かりません」
男がゆっくりこちらを見た。分からないことのために待たせるのかと、その目に問われている気がした。ミアは逸らさなかった。大勢を助けるためだからといって、この人の痛みを小さく扱っていいわけではなかった。
「あなたの治療を、やめるつもりはありません」
一度息を整える。
「続きをするために、先に、あの魔物を止めたいんです」
男は黙った。そばにいた女が、傷へ当てていた布を持ち直した。
「ここにいるから」
男へ向けて言う。
「ちゃんと見てる」
男は長く息を吐き、目を閉じてから頷いた。正しいと認めてもらえたのではなく、待つことを引き受けてもらったのだ。ミアは立ち上がった。その時間を無駄にしたくなかった。
「エリナ、こちらへ!」
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エリナは脚を引きずりながら戻ってきた。壁際へ座らせる。ミアが傷ついた脚へ手を置くと、エリナの肩がびくりと跳ねた。
「……ごめんなさい」
思わず言ってしまった。
「誰も悪くないよ」
エリナは痛みに顔を歪めながら答えた。そんなことを言えるのが、かえって苦しかった。ミアは光を灯し、傷の状態を確かめた。筋肉が傷つき、力を受け止めきれなくなっている。
痛みが完全になくなるまで治して、安全な寝台へ寝かせたかった。もう剣を持たなくて済むところまで。それでも、外ではやどかりが一人で魔物を止めていた。ミアは魔力を流す場所を絞った。今、立って踏み込むために必要なところへ、光を通した。
「……中の人は?」
治療を受けながら、エリナが尋ねる。
「確認しました。今は、待ってもらいます」
「そっか」
エリナは脚へ集まる光を見ていた。外から、やどかりが短く叫ぶ声がした。ミアは傷へ置いた手を離さず、魔力の通り道を絞る。
「全部は治せません。今、立って踏み込めるところまでです。それでも、また戦ってもらうことになります」
「うん」
エリナが頷く。
「そのつもりで、戻ってきたよ」
ミアの指が一瞬止まった。エリナは自分の脚を見る。
「中の人たち、まだ外へ出せないんでしょ」
「……はい」
「じゃあ、ここを守りたい」
ミアは脚を支えた。少女の手が剣へ伸びるのを見て、柄をその手へ寄せる。最後の一か所へ光を通した。
「立ってみてください」
光を収めると、エリナは足を床につき、ゆっくり体重を乗せた。今度は膝が身体を支えた。痛みに顔を歪めながらも、少女は起き上がった。
「……動く」
ミアは手を離した。離した途端、引き止めたくなった。
「戻ってきてください」
思っていたより強い声が出た。エリナがこちらを見る。
「治療は、終わっていませんから」
少女は少しだけ笑った。
「うん。続きをお願い」
剣を掴む。それから外へ出た。
「やどかりさん、交代!」
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やどかりの左腕へ手を置きながら、ミアは外の音を聞いていた。剣が甲殻を叩き、エリナが短く息を吐く。足が土を蹴る音がするたび、動けているのだと分かり、ミアの胸がわずかに緩んだ。
「……怖え顔してるぞ」
やどかりが言った。
「怖いので」
ミアは正直に答えた。男は何も言わなかった。ミアは光を流しながら続ける。
「二人を治しても、駄目かもしれないと思っています」
「ああ」
「その間に、中の人が悪くなるかもしれない」
「ああ」
「それでも、こっちを選びました」
声が震えた。話しても判断の重さは変わらず、責任が半分になるわけでもない。それでも、自分が何を怖がりながら選んだのかを、誰かに知っていてほしかった。やどかりは治療を受けている腕へ目を落とした。
「俺たちは、あいつを倒す」
それからミアを見る。
「お前だけに責任を負わすつもりじゃねえよ」
ミアは唇を結んだ。返す言葉を見つけられず、治療へ意識を戻す。光を収めると、やどかりは左手を開いて閉じ、肘を曲げてから剣を両手で握った。ミアはその動きを、一つずつ確かめた。
「……お願いします」
「ああ」
やどかりが立ち上がる。
「行ってくる」
ミアは手を下ろした。白い光が消えても、掌には熱が残っていた。
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エリナは地面を蹴った。左脚はまだ痛んだが、踏み込んだ力が途中で抜けない。さっきまで届かなかった場所へ、今なら行ける。
反対側から、やどかりが魔物の顔へ剣を走らせた。魔物が頭を上げると、狙いどおり胸の下の殻が開いた。エリナが身を低くし、戻ってくる前脚へやどかりが刃を差し入れる。完全には止められず、男の靴が土を削り、剣が悲鳴のように軋んだ。それでも、殻が閉じるまでの時間は一瞬だけ延びた。
エリナはその下へ滑り込み、剣先を上へ向けた。薄い殻を越えたところで重い抵抗が返り、両手で柄を押し上げながら脚を踏ん張った。
ミアが治した脚が、その重さを支えた。
「……入れ……!」
切っ先が少しずつ奥へ進むと、魔物の身体が大きく跳ね、暴れた前脚がやどかりの剣を弾いた。
「出ろ!」
やどかりが叫んだ。エリナは刃を引き抜きながら後ろへ転がり、やどかりの手がその肩を引いた。二人が離れた直後に巨体が地面へ落ち、跳ねた土と小石が宿舎の戸口まで飛んできた。
ミアは反射的に腕で顔を庇い、すぐに下ろした。鉤爪がまだ地面を掻いていた。息を止めて見守る中、爪は土へ深い溝を一本刻み、それきり動かなくなった。
エリナがゆっくり身体を起こし、やどかりも立ち上がって、剣を向けたまま魔物を確かめた。二人がこちらを向くまで、ミアは柱を握った手を離せなかった。
「……終わったぞ」
やどかりの声が届いた瞬間、ミアは膝から力が抜けた。ほかの何より先に、ほっとしてしまった。自分が治して送り出した二人が、まだ生きて、そこにいる。その事実に目の奥が熱くなった。涙を拭う前に、背後から声がした。
「先生……」
ミアは振り返る。待っている人がいた。
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「お待たせしました」
先ほど治療を中断した男の傍らへ膝をつく。男はミアを見たあと、戸口の外へ目を向けた。さっきまで響いていた衝撃音が消えている。
「……静かになったな」
「はい」
ミアは手を置き、白い光を灯した。少し前に途中で手を離した傷だった。今度は治療を続けていても、戸口から新たな負傷者が担ぎ込まれてこない。壁の音に起き上がろうとする者もいなかった。
付き添いの女がようやく床へ腰を下ろし、水を運んでいた男も桶を置いて、初めて自分のために一口飲んだ。宿舎の張り詰めた空気が緩む中、ミアは患者の呼吸が落ち着くのを待った。必要なところまで治療して手を離すと、男が小さく頷いた。
「……ありがとう」
ミアも頷き、次の人の前へ移った。まだ多くの人が待っていた。その一人ひとりに名前があり、痛みがあり、戻りたい場所があった。
差し出された手を取り、ふと部屋を見渡した。
頭の中の列は、もう伸びていなかった。
一人を診るたびに、少しずつ短くなっている。治しても治しても終わりが遠ざかるようだったさっきとは違う。ミアは確かめるように、静かに息を吸った。
「今、診ますね」
まだ少し震える手で、もう一度、白い光を灯した。