最後の患者から手を離したあと、ミアはしばらくその場を動けなかった。白い光は消えても、掌にはついさっきまで触れていた人の体温が残っていた。指をゆっくり曲げ、また伸ばした。
何度か瞬きをしても、目の奥には白い残光が揺れていた。瞼を閉じればその裏にまで明かりが残り、開けば薄暗い宿舎の輪郭が少しずつ戻ってくる。どれだけ長く同じ姿勢でいたのか、もう分からなかった。
「先生も、休んでくれ」
傍らへ水の入った杯が差し出された。救助隊の男だった。ミアは一拍遅れてそれに気づき、両手で受け取る。
「ありがとうございます」
冷たい杯を口へ運ぶと、水が喉を通って胸へ落ちていった。そこで初めて、どれほど喉が渇いていたかに気づいた。もう一口飲もうとすると、腕がわずかに震えた。
部屋の中は静かになっていた。眠る者も、壁へ背を預けて付き添いと小声で話す者もいる。布を拾い集める女の動きにも、もう急かされる様子はなかった。咳や寝返りの音、痛みに息を詰める声はあったが、さっきまでのように新しい悲鳴が戸口から増えていくことはなかった。
男が、窓の外を見ながら言った。
「二人を先に治す判断をしてくれて、助かったよ」
ミアは杯から顔を上げた。
「……エリナたちですか」
「ああ。あのままじゃ、建物ごとやられてた」
男は窓の横へ手を伸ばす。外から飛んできた石が、板へ半ばまで食い込んでいた。その下には、魔物の鉤爪が擦ったのだろう、長い亀裂が走っている。
「裏にいた連中も、逃がしきれなかっただろうな」
「裏……?」
「怪我してねえ奴らだよ」
ミアは男の視線を追った。
「子供や年寄りもいる。あの山道じゃ、一度に全員を町へ下ろせねえ。動ける奴はこっちを手伝って、そうじゃない奴は裏手へ避難してた」
窓の外では、建物の裏手に小さな火が起こされ、その周りに何人かが座っていた。子供が差し出された椀を両手で受け取り、何度も息を吹きかけてから、慎重に口をつけた。隣の老人には若い女が毛布を掛け、少し離れた男は膝に抱いた幼い子の靴を履かせ直している。子供はされるがままに足を上げ、片方が入ると、今度は反対の足を差し出した。
どれも、今日一度も診ていない、見覚えのない顔だった。宿舎へ着いてから、ミアは傷ついた人ばかりを見ていた。誰を先に治し、誰なら待てるのか。どこまで魔力を使えば次の人にも手が届くのか。そのことで頭がいっぱいで、傷を負っていない人のことまでは見えていなかった。
「……ずっと、ここにいたんですか」
「ああ」
男が頷く。
「怪我してねえ奴らも、何もしてなかったわけじゃねえ。水運んだり、患者を動かしたり、子供を奥へ集めたりしてた」
それから、戸口のほうへ顔を向けた。エリナが壁際へ座り込んでいる。やどかりが、その隣へ水を置いていた。
「あの二人が止めてくれたから、怪我せずに済んだ奴もいるんだ」
ミアはもう一度、窓の外で熱い汁を飲む子供を見た。腕にも頭にも包帯はなく、傷ついていない小さな指が椀の縁をしっかり掴んでいる。知らず知らず、自分の杯を握る指へ力がこもっていた。
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少し休んでから、ミアはエリナを壁際の寝台へ座らせ、脚の包帯を外した。戦うために最低限つないだ傷は完全には治っておらず、無理をした分だけ腫れも戻っていた。
手を置き、今度は急がず魔力を流した。指の間に柔らかく白い光が灯ったが、治療をしながらも、ミアの目は何度か戸口の向こうへ向いた。
「……誰か、具合悪そう?」
エリナが尋ねる。ミアは首を振った。
「いえ」
少し迷ってから続ける。
「あの子たちが、怪我をしていないので」
エリナも戸口の向こうを見た。火のそばで子供が食事をしている。
「うん。よかった」
返事はそれだけで、大きな意味を込めたようには聞こえなかった。けれど、ミアの中ではその「よかった」が長く残った。脚へ置いた自分の手を見た。
「もし、あの魔物を倒せなかったら……」
言葉にするうち、考えが少しずつ形になる。
「私が中で何人治しても、その人たちはまた襲われていたかもしれないんですよね」
エリナの表情が静かになった。
「……うん。だから、小屋には近づけたくなかった」
簡単な返事だったが、それだけで十分だった。エリナたちは、目の前の一体を倒すことだけを考えていたのではない。その後ろにいる人がこれ以上傷つかないように、あそこへ立っていた。
「私は、あなたたちを治している間も……」
ミアは光を弱めないよう注意しながら話す。
「早く患者のところへ戻らなければと、そればかり考えていました」
自分が待たせている人たちの顔が、ずっと頭にあった。だから、エリナとやどかりへ使う魔力が、ほかの人から奪っている時間のように感じていた。
「でも、二人を治したことが、あの子たちを守ることにもなっていたんですね」
エリナは少し考えてから頷いた。
「ミアが脚を治してくれなかったら、倒せなかったから」
ミアは戸口を見た。子供が空になった椀を持って歩いている。通り道を空けるため、包帯を巻いた男が腰をずらした。自分が外で二人を治している間、この人たちは中にいた。魔物がさらに近づいてくれば、また診なければならない傷が増えていたかもしれない。子供は椀を鍋のそばへ置き、今度は水を運ぼうとして呼び止められた。ミアはその声を聞きながら、脚へ流す光を少しずつ弱めた。
「……魔王を倒したら、どうなりますか」
ミアが尋ねる。エリナは顔を向けた。
「どうって?」
「魔物に襲われる人は、減りますか」
今度はエリナが少し考えた。
「全部いなくなるわけじゃないと思う」
過去を思い返すように視線を落とす。
「でも、魔王が現れてから、森の外へ出てくる魔物が増えてる。前は山や森の奥にいたようなのまで、街道や町の近くまで来るようになって……今じゃ、どこで襲われてもおかしくない」
少し苦い顔で笑う。
「王都でも急に襲われたしね」
ミアは頷いた。
「魔王がいなくなれば、その原因をなくせるんですね」
「うん」
エリナが断言すると、宿舎の中で誰かが寝返りを打った。隣の人が起き上がってずれた毛布を掛け直し、済むと自分も壁へ身体を預けた。
今日は、この場所が静かになった。魔王がいなくなれば、同じように静かになる場所がほかにもあるのだろうか。傷を負って自分の前へ運ばれてくる代わりに、傷つかずに家へ帰れる人が増えるのだろうか。ミアはその様子を見ながら考えた。
「お二人が、魔王のところへ辿り着く前に倒れたら……」
そこで一度、言葉が止まった。エリナは口を挟まず、続きを待った。
「その先で、助けられたかもしれない人にも、届かなくなるんですね」
エリナは視線を落とす。
「私たちが行けば、必ず倒せるとは言えないよ」
「はい」
ミアは頷いた。その答えが、むしろありがたかった。
「今日も、必ず勝てるとは、おっしゃいませんでした」
エリナは少し困ったように笑った。
「私たち、別に強くないからね……あはは……」
乾いた笑いだった。それでも二人は、脚が動けば試せる、腕が戻ればもう少し止められると言った。ミアはそのわずかな可能性へ自分の力を使い、今、窓の外では傷を負わずに済んだ子供が食事をしている。
治療を終え、エリナの脚から手を離した。
「町へ戻ったら、魔王城までの道を教えてください」
エリナが目を瞬く。
「道?」
「途中で、どこなら治療を受けられるのか。どこから先は、受けられないのか。それを知りたいです」
エリナは何も言わず、ミアを見た。ミア自身、まだ何かを決めたわけではなかった。町には患者がいて、明日渡す薬も、その次の日に来る人もいる。それでも、二人がこれから歩く道を、何も知らないままでいたくはなかった。
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町へ戻った翌日、薬屋の卓いっぱいに一枚の地図が広げられた。空になった薬瓶で四隅を押さえた紙には、何度も折り畳まれた跡があり、山や街道を示す線も一部は擦れて薄くなっていた。やどかりが指先で道を辿り、エリナがその横から町の様子を補った。
「ここには、治癒術師がいた」
ミアはすぐに問う。
「今も、いらっしゃいますか」
エリナの返事は少し遅れた。
「……分からない。最後に通ったのは、ずいぶん前だから」
ミアは紙の脇へ小さく書き留めた。次の町には薬屋があるが、魔法で治療できる者はいなかったという。その先には、地図へ名前だけ残っている小さな村があった。
「ここは?」
ミアが指を置く。エリナの表情が少し変わった。
「人が、ほとんどいなくなってた」
「魔物に?」
「畑が駄目になったって。食べていけないから、大きな町へ移る人が増えて……残ってる人もいたけど」
「怪我や病気の人は?」
エリナが黙る。その沈黙だけで、答えは分かりかけていた。
「……いたよ」
ミアはその場所へ小さな印をつけた。紙の上ではほんの一点でも、そこには人がいる。薬屋の戸を開けて来ることも、治癒術師へ会いに行くこともできず、それでも暮らしている人が。
やどかりの指がさらに先へ進むにつれ、町の名前は少なくなった。街道は細くなり、やがて山と荒地を示す線の間へ消えていく。ミアは眉を寄せた。
「ここで怪我をしたら、どうするんですか」
「戻れるなら戻る」
やどかりが答えた。
「戻れなければ?」
男は肩をすくめた。
「戻れるようになるまで、何とかする」
ミアが見ると、エリナは苦笑するでもなく、否定もしなかった。怪我をしても、その場に治せる人がいなければ、自分たちでどうにかするしかない。戻れなくても先へ行く。そういう旅をしてきたのだと分かった。
地図へ視線を戻した。魔王城までの道は、紙の上に描かれている。けれど、その線を歩いていく身体を誰が支えるのかは、どこにも書かれていなかった。