その日の午後、山の作業小屋から連れ帰った患者が家族と一緒に薬屋へやってきた。ミアは傷を診直して経過を聞き、必要な薬を渡した。歩いて帰れるまでに回復していることを確かめて見送り、扉が閉まると、町で診療を続けている医師のところへ向かった。
旅へ出るとはまだ言わず、まず山から帰ってきた人たちについて相談したいと伝えた。どこまで治し、どんな傷が残り、これから何に注意すべきなのか。一人ずつ記録を見ながら説明すると、医師は黙って最後まで聞き、紙へ目を通した。
「こちらでも診られるよ」
その一言を聞いて、ミアは膝の上で組んでいた手をほんの少し緩めた。
店へ戻ると、棚から旅用の薬を取り出して卓へ並べた。エリナとやどかりのために二人分へ分けようとして、一本を置いたところで手が止まった。振り返り、山へ持っていった往診鞄を取った。
卓へ置くと、底にはまだ灰色の石粉が残っていた。布で丁寧に払い、内側へ新しい敷布を入れた。薬を一本、次に包帯、小さな刃物、消毒に使う液体、針と糸を収めて鞄を閉じたが、留め金へ手を置いたまま動けなかった。
棚には、明日取りに来る人の薬が残っている。その包みを手元へ寄せ、名前を確かめて引き継ぎの記録へ書き足した。それから、閉じたばかりの鞄をもう一度開いた。
今度は二人へ渡す薬ではなく、自分が持っていくものとして、一つずつ確かめ始めた。
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「出発を、少し待っていただけますか」
翌朝。薬屋へ来たやどかりが、まとめていた荷物から顔を上げた。
「薬、まだかかるか?」
「いえ」
ミアは卓の上へ、往診鞄を置いた。エリナの目が、その鞄へ向く。
「町の患者を、引き継ぎたいんです」
エリナが鞄からミアへ視線を移した。少し間がある。
「……一緒に来てくれるの?」
「はい」
返事をすると、決めたことの重さが胸へ落ちた。昨日まで言葉にせず考えていたことが、もう戻せない形になった気がした。怖かったが、言い直したいとは思わなかった。
「私も、一緒に行きたいです」
往診鞄の留め金へ指をかけた。昨夜、途中まで詰めては出し直した薬が、中で小さく触れ合う。エリナの顔を見た。ミアは鞄を開き、いちばん上の包帯を確かめた。
「ただ、できない治療もあります。傷を治せても、完治できないこともあります。」
怖いところを口にすると、返事を待つ間が長く感じられた。けれど、ここを曖昧にして旅へ出たくはなかった。
「怪我をしたら、隠さず見せてください。まだ戦えるかどうかも、私に診させてほしいんです」
「うん」
エリナが答えた。ミアはその顔を見てから、やどかりにも目を向けた。
「あなたもです」
「分かった」
鞄の留め金を閉じ、棚へ目をやった。旅へ持っていかない薬も、それぞれ誰に渡すものか分かっていた。やどかりが開いていた地図を静かに畳み、エリナはしばらく黙っていた。
やがて、最初に尋ねたのは別のことだった。
「町の人たちは、大丈夫?」
ミアは胸の奥が少し緩むのを感じた。
「診てもらえる方に相談しています。すぐには出られませんが、引き継ぎを済ませてから行きます」
「そっか」
エリナは頷いた。早く来てとも、魔王のほうが大事だから町の患者は置いていけとも言わなかった。そのことに、ミアはほっとした。
「旅の途中でも、他の人の治療で止まりたいと言うかもしれません。」
ミアは続ける。
「いつでもお二人を先に治すとは、お約束できません」
「うん」
「待たせられない人がいれば、その人を診ます」
エリナは、坑道事故のあとに自分の治療を待っていたときと同じ目で、ミアを見ていた。けれど今は寝台に横たわっておらず、自分から手を差し出した。
「私以外も、ちゃんと見てくれるんでしょ」
「はい」
「じゃあ、お願い」
ミアはその手を取った。山へ向かう途中、滑る石を越えるために借りた手だった。あのときは引いてもらって患者のところへ辿り着いた。今度は自分も、この人たちが先へ進むのを支えたい。
「私にできるところは、任せてください」
エリナが笑う。
「うん。ミアができないところは、私たちに頼んで」
ミアは頷いた。何もかもを引き受ける約束ではない。だからこそ、その手をしっかり握れた。
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出発までには数日かかった。ミアは店へ来る患者一人ひとりに、しばらく町を離れることと、その間の薬の受け取り先や診てもらえる相手を伝えた。残っている薬と記録を、医師や別の薬師へ渡していった。
「困るよ」と言われたときは、立ち止まって話を聞いた。
「いつ帰ってくるんだ」と聞かれれば、「帰ってきたいと思っています」と答えた。
必ず帰るとは言わなかった。守れるか分からない約束を、もう簡単には口にしたくなかった。山で治療した人たちの記録も整理して、棚へ入れた。
最後の日、薬屋の中を見回した。吊るされた薬草も、並んだ瓶も、エリナと並んで使った卓も、途中から増えた椅子も目に入った。どれにも、ここで過ごした時間が残っていた。
戸口の看板を外して店の内側へ入れ、鍵をかけた。引継ぎの紙に書いた患者の顔が、最後にもう一度浮かんだ。鍵を鞄へ入れかけた手を止め、ミアはしばらく掌に載せていた。
「帰りたくなったら言えよ」
近くまで来たやどかりが、看板を外した戸口を見ていた。
「途中でも、ですか」
「ああ。帰りたくなったら言え。患者の顔を見に戻る日があってもいいだろ」
ミアは、引継ぎ先の医師が貸してくれた小さな帳面を確かめた。留守の間にも、この町には診てくれる手がある。そのうえで、帰ってきてはいけないわけではなかった。
「そのときは、相談します」
やどかりは頷き、エリナの待つところへ戻った。鍵をしまって振り返ると、二人は荷物を持ち、急かさずに待っていた。
「お待たせしました」
「行こうか」
エリナの声に、三人は町を出た。朝の荷車とすれ違い、坂を下るにつれて、鉱山の灰色い影が背後へ遠ざかっていった。
山の影から伸びる街道へ入り、しばらく歩いてからミアは周囲を見回した。前にも後ろにも、自分たち以外の旅人はいなかった。
「ところで」
「ん?」
やどかりが顔を向けた。
「これから仲間を増やすんですよね。何人くらいを考えているんですか」
やどかりが地図を探る手を止めた。
「最終的には、百人ぐらい引き連れて魔王城へ行きてえな」
「百人」
ミアは往診鞄を見下ろした。町を出る前に数えた薬の量が、頭の中を通り過ぎる。
「その方たちの治療も、私一人で?」
「まずはそこなんだ」
「ほかにも探す。薬も道中で揃えよう」
エリナがやどかりを見た。
「まだ決めてないことがたくさんあるね」
「これから相談するんだよ」
「地図を見ながら話したときに、言ってください」
ミアが言うと、エリナも大きく頷いた。やどかりは悪びれもせず、歩きながら地図を広げた。
「だから、次を探しに行くんだろ」
エリナが地図を覗き込む。
「心当たりはあるの?」
「ものすごく強い魔法使いだ」
「本当に?」
「ああ」
エリナの顔がぱっと明るくなる。ミアは、その横から落ち着いて尋ねた。
「協力してくださるんですか」
やどかりの指が地図の上で止まった。同時に、エリナの笑顔も止まる。
「……何かあるね?」
「強いのは本当だ」
「ほかには?」
やどかりは地図を畳んだ。
「戦わねえらしい」
エリナとミアは顔を見合わせた。どちらからともなく、深い溜息が漏れる。
「会って聞けばいいだろ」
やどかりは、もう先へ歩き出していた。ミアは往診鞄の紐を持ち直した。その隣で、エリナが小声で言う。
「ミアに会いに行くときも、それだった」
ミアは思わず笑ってしまった。街道の先には、まだ見えない町がある。何が起き、どんな人が暮らし、誰が待っているのか、何一つ分からなかった。
前を行くやどかりの背中と、その隣に並ぶエリナを見て、ミアは歩幅をほんの少し広げた。
今度は自分も、その先まで一緒に行こうと思った。