第22話 世界より洗濯物
魔法使いを探して町へ入ったエリナは、最初に空飛ぶ股引を見つけた。
通りの二階ほどの高さを、灰色の股引がゆっくり横切っていた。そのあとを女物の肌着が追い、さらにその後ろを、袖を広げた白いシャツが続いている。洗濯物をさらうには風が穏やかすぎたし、そもそも、風に飛ばされた服は角を曲がらない。
股引は、曲がった。
建物の雨樋を器用によけ、青い屋根の向こうへ消えていく。
「……やどかりさん」
「ん?」
「この町、服だけで出歩くの?」
「便利だな」
「人が入ってなきゃ、出歩く意味ないでしょ」
ミアが立ち止まり、空を見上げた。薬の材料を見つけたときに似た顔をしていたが、視線の先にあるのは、今のところ大きな股引だった。
「全部、違う動きをしていますね」
「洗濯物が?」
「はい。あのシャツは裏返りました。向こうの布は、重なったところだけ広げています」
言われてみると、服はただ浮いているのではなかった。袖の内側を陽のある方へ向け、裾に溜まった雫を落としながら、一定の間隔を保って進んでいる。軒下には空になった洗濯籠がいくつも置かれ、店番をする女たちは、その奇妙な行列を気にも留めていなかった。
エリナは、隣の男を見た。
「もしかして」
「たぶんな」
結局、三人は先ほどの股引が消えた方角へ足を向けた。灰色の布切れが屋根の向こうへちらりと覗くたび、それを目印に路地を曲がっていく。
魔王を倒すために魔法使いを探しているはずなのに、今の自分たちはどう見ても、空飛ぶ股引を追いかけているだけだった。旅の道しるべとして本当にこれでいいのだろうかと考えながらも、エリナは少しだけ足取りを速めた。
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角を曲がった途端、大きな白い布が目の前を塞いだ。
「わっ」
思わず後ずさる。布はエリナの鼻先でぴたりと止まると、するりと上へ滑り、頭上で広がった。石畳に落ちた影の下には、小さな工房があった。
開け放たれた扉の両脇に、鍋や箱や、何に使うのか分からない金属の輪が並んでいる。店先の椅子には一人の青年が腰掛け、片手で本を開いていた。二十歳くらいだろうか。袖をまくった腕は細く、膝には工具を入れた前掛けがかかっている。
もう片方の手には、食べかけのパンがあった。
「そこ、通路です」
青年は顔を上げずに言った。
エリナは左右を見た。人が歩く場所としては、こちらで合っているように見えた。
「……洗濯物の?」
「分かっていただけて助かります」
「人の通路でもあると思うんだけど」
ようやく青年が本から目を離した。
エリナと、その背後の二人を見て、それから宙に浮いた白い布へ目を向ける。人差し指がわずかに動くと、布は半分に折れ、工房の軒をくぐっていった。奥の卓へ着く頃には、角の揃った四角になっていた。
「これで通れます」
青年はまた本へ戻ろうとした。
「待って。今の、あなたがやったの?」
「ええ」
「全部?」
空には、まだ十枚以上の服が浮いている。工房の奥では、洗い終えた別の布が籠から起き上がるところだった。
「近所の分です。今日は少し陽があるので」
その返事の間にも、濡れた布から水が抜けた。絞ったような皺は寄らない。透明な雫だけが一列に連なって、軒下の桶へ吸い込まれていく。
ミアが、桶の前にしゃがみ込んだ。
「布を傷めずに、水だけ抜いているんですか」
「全部抜くと、ごわつきます。残りは風で乾かす方がいい」
「……包帯にも使えますか」
青年の視線が、ミアの往診鞄へ移った。
「洗ったあとのものなら。ただし、乾かすだけですよ。汚れを落としたことにはなりません」
「ええ。それでも、ずいぶん助かります」
ミアは立ち上がり、空を行く布をもう一度眺めた。その横でエリナは、別のことに気づいていた。
「ねえ、あの股引」
「はい」
「さっきから、同じところを回ってない?」
青年の眉が寄った。
灰色の股引は工房の上を通り過ぎ、隣家の煙突を回って、また通りへ出ていく。それだけがいつまでも畳まれず、堂々と町内を巡回していた。
「持ち主が、取りに来ないんです」
「降ろしておけば?」
「降ろす場所が埋まっています」
青年が顎で示した先には、畳まれた衣類がいくつも積み重なっていた。
「これ以上積むと、下のものに皺がつきます」
「だから飛ばしてるの?」
「合理的でしょう」
隣の家から、窓の開く音がした。
「テオ! うちの爺さんの下着、いつまで飛ばす気だい!」
「取りに来てくださいと言いました」
「腰が痛いんだよ!」
「昨日、薪を運んでいたでしょう」
「昨日は昨日さ!」
青年は、ひどく不本意そうに唇を結んだ。
股引が進路を変えた。窓へ向かう途中で几帳面に畳まれ、差し出された老女の手へ、ぽすりと収まる。
「ありがとねえ」
「次からは取りに来てください」
「あんたも昼飯、ちゃんと食べなよ」
「食べています」
老女は青年の手を見た。
「またパンだけかい」
窓が閉まった。
青年は何も言わずにパンを一口かじったが、急にそれが小さく見えた。
「……あなたが、テオ?」
エリナが尋ねると、青年は口の中のものを飲み込んだ。
「修理の依頼ですか」
やどかりが一歩前へ出た。
「魔王を倒しに行かねえか」
「帰ってください」
「早い!」
エリナが叫ぶより早く、青年は本を開き直していた。
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「まだ名前も言ってないんだけど」
「討伐のお誘いなら、どんな名前でも返事は変わりません」
テオは頁の隅を押さえたまま答えた。横を通り過ぎるシャツだけが、三人を見送るように袖を振っている。
「じゃあ、修理なら?」
やどかりが懐から小さな金属の筒を出した。野営のときに使っていた灯りだった。昨夜、何度叩いても点かなくなり、結局、火のそばで荷物を探したのをエリナは覚えている。
テオの目が動いた。
「点かないんですか」
「おう」
「落としました?」
「ちょっと叩いた」
「点かなくなってから?」
「点いたり消えたりしたから」
テオは本を閉じた。
「どうして人は、調子の悪い道具を殴るんでしょうね」
「気合が入るかと思って」
「あなたも具合が悪くなったら、そうして差し上げます」
ミアが小さく咳払いをした。
「その前に、私へ知らせてください」
テオは首を傾げ、ミアの装備を見てから返答した。
「治療してから、殴ればいいですか?」
「まず、殴らないでください」
軽口も終わり、テオは灯りを受け取ると立ち上がり、工房へ入った。
ついていきかけたエリナを振り返る。
「修理の話だけですよ」
「……うん」
念を押されると、少し肩が落ちた。
けれど扉をくぐった次の瞬間には、エリナの目は棚へ吸い寄せられていた。
小さな鉄板の上で、湯が沸いている。火はなかった。底から煙も出ていない。
脇には取っ手のついた木箱があり、蓋の縁から流れ出す空気が、近づいた指先をひやりと撫でた。
「これ、冷たい」
「保冷箱です。開けたら閉めてください」
エリナは蓋を少しだけ持ち上げた。
中には牛乳の瓶と、皿に載せたチーズがあった。氷は見当たらない。内側の板へ指を当てると、井戸の底から汲んだばかりの水のような冷たさが伝わった。
「これがあれば、牛乳を毎朝使い切らなくていいの?」
「長く持つようにはなります。いつまでも、というわけではありませんが」
「お肉も?」
「ええ」
「夏でも?」
「そのための道具ですから」
父の顔が浮かんだ。
仕入れすぎた肉を前に腕を組み、傷む前に使おうと、夕方から急に煮込みを増やしていた。母は店先の札を書き換え、エリナは常連客へ、今日はこっちがおすすめ、と同じ料理を何度も勧めた。
残った分は、三人で何日も食べた。
「……すごい」
エリナはそっと蓋を閉じた。
「これ、お父さんが見たら、絶対に欲しがる」
灯りの底を外していたテオの手が止まった。
「食べ物を扱う仕事ですか」
「食堂。私も手伝ってたんだ」
テオは工具を置いた。
先ほどまで、これほど興味のなさそうな顔ができるのかと思っていた青年が、今度は棚から別の箱を下ろし始めた。
「でしたら、こちらです」
「そっちも冷やすの?」
「小分けになっています。仕込みの途中で開けても、ほかの区画が温まりません」
引き出しが三つついていた。
エリナが一番上を開けている間に、テオは別の引き出しへ掌を入れ、温度が変わっていないことを示した。
「扉を全部開くより、魔石の消耗も少ない。肉と乳製品を分けることもできます」
「汁がこぼれたら、ここ、外して洗える?」
エリナが仕切りの下へ指をかけると、テオは黙った。
何か触ってはいけないところだったのかと思い、手を引っ込める。
「……外せません」
「そっか。うち、お父さんがよくこぼすから」
「気をつければいいでしょう」
「うん。毎回そう言って、よくこぼすんだよね」
テオは引き出しを見つめた。
それから卓の紙を引き寄せ、何か書きつけた。
「外して区画ごとに洗えるようにします」
「できるの?」
「できます」
さっきとは違い、返事の早さが頼もしかった。
エリナは思わず笑った。テオもわずかに口元を緩めたが、それを見たやどかりが箱を覗き込むと、すぐに元の顔へ戻った。
「酒も冷えるか」
「冷えます」
「いいな。旅に一人欲しい」
「箱を買ってください」
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灯りの修理は、驚くほど早く終わった。
テオは潰れた留め具を取り出すと、細い金属片へ光をまとわせた。曲がった箇所だけが赤くなり、隣にある薄い板には熱が伝わらない。工具で形を戻し、元の場所へ収めると、筒の先に柔らかな光が灯った。
エリナは身を乗り出していた。
「その小さいところだけ、熱くしたの?」
「まとめて熱を入れたら、ほかまで壊れます」
テオにとっては、どれも当然のことらしかった。
空いっぱいの洗濯物を一枚ずつ動かし、小指の爪ほどの金具を直す。そのどちらにも、力を振り絞っている様子がなかった。
これほどの魔法があれば、あの戦いも何か変わったのではないか――そう考えた途端、エリナの脳裏に遠い城の暗がりが蘇った。避けきれずに身体を打ちつけた衝撃と、どれだけ踏み込んでも届かなかった剣の距離まで、腕の奥が覚えている。
もしあのとき、隣にこの人がいたなら。自分一人では届かなかったものにも、手が届いたのだろうか。
「……本当に、戦わないの?」
テオは修理した灯りを卓に置いた。
「その話は終わりました」
「でも、そんなにすごい魔法が使えるなら――」
途中で、声が止まった。
テオがこちらを見ていた。
怒鳴られたわけでも、睨まれたわけでもなかった。ただ、先ほど保冷箱を下ろしてくれたときの顔ではなくなっていた。
「使えるなら、何ですか」
エリナの指が、膝の上で縮まった。
「魔物を倒せます。おそらく、あなたよりは上手く」
言い返せなかった。たぶん、本当だった。
「だから僕が行くんですか。ここを閉めて、修理を待っている人に断って、死ぬかもしれないところへ?」
工房には、動いている道具ばかりがあるわけではなかった。
奥の棚に並ぶ箱や鍋には、小さな紙が結びつけられていた。名前と、故障の具合らしい文字。椅子の背には繕いかけの前掛けがあり、窓辺には飲み残した茶が置かれている。
「僕にできることが多かったら、僕の都合は、その分どうでもよくなりますか」
銀色の鞘の重みを、腕が思い出した。
剣を持ったこともないと伝えた。魔法も使えないと言った。それでも、神が選んだからという一言で、食堂の娘の暮らしは片づけられてしまった。
ミアの薬屋を出る前、町の患者は大丈夫なのかと、尋ねたはずだった。ここにも、道具の修理を待っている人がいる。目の前には、明日もこの卓で仕事をするつもりの人がいる。
保冷箱を見せてもらっていたときには、分かっていた。魔王城のことを考えた途端、それを押しのけてしまった。
「……ごめん」
テオの眉が少し動いた。
「一緒に来てくれたら、助かるって思った。それは、本当なんだけど」
エリナは卓の灯りから目を上げた。
「強いから来て、って言うのは、違った」
テオはすぐには答えなかった。
やどかりも、ミアも口を挟まない。外では洗濯物を取りに来たらしい人が、籠を引き寄せていた。
「……では、お帰りいただけますか」
声は、まだ硬かった。
謝ったからといって、機嫌を直してもらえるわけではない。エリナは頷き、椅子から立ち上がった。
その拍子に、脚の奥が引き攣った。
卓へ手をついたのを、ミアは見逃さなかった。
「エリナ」
「……少し、痛い」
反射的に「大丈夫」と言いかけて、エリナは口を閉じた。前なら、そのまま笑って立っていたかもしれない。けれど今は、痛いと口にした自分を取り消したくなかった。
ミアは何も咎めず、エリナの横へ来ると、もう一度座るよう促した。山で受けた傷そのものは塞がっていたが、ここまで歩いてきた脚は、椅子から離れた途端、ようやく隠していた疲れを思い出したように重くなっていた。
「今日は、もう休みましょう。宿を探してきます」
「うん」
テオが椅子の脚へ目を落とした。それから入口を見て、外の通りへ視線を移す。
「……宿なら、来た道を戻って右です」
やどかりが荷物を肩に掛けた。
「見てくる。嬢ちゃん、ちょっと座らせといてくれ」
テオは唇を開きかけ、ミアの鞄を見た。
「修理代は、先に払ってください」
「逃げねえよ」
「初対面の人のその言葉を、僕は信用していません」
やどかりは財布を出した。
自分たちは、歓迎されて座っているわけではなかったが、そのやり取りに笑いかけて、エリナは口元を押さえた。