ミアに脚を診てもらっている間、テオは奥の卓で仕事をしていた。
返事のないまま時間が過ぎることを、エリナは久しぶりに気まずいと感じていた。目の前の人に断られることと、その人を嫌いになることは同じではない。そう分かっていても、何を話せばよいのかは別だった。
戸口から老女が顔を出したのは、そんなときだった。
「テオ、鍋、借りるよ」
「右の棚です。持てますか」
「持てるよ、そのくらい。今朝のあれも、おかげできれいに乾いた」
先ほど、窓から股引を受け取った人だった。
老女は両手鍋を抱えると、卓にある食べかけのパンを見つけて目を細めた。
「ほら、やっぱり食べ終わってない」
「客が来たので」
「お客のせいにしちゃダメじゃないか」
叱られたテオが黙る。
エリナは今度こそ、少し笑ってしまった。老女はその顔を見てから、傍らの剣に気づいたらしかった。
「旅の人かい」
「……はい」
「この子に、何か直してもらいに?」
答えようとしたところで、テオが工具を置いた。
「もう直りました。連れの方を待っているところです」
老女は頷いた。
「そうかい。なら、待ってる間に食べていきな。あんたたち、芋は嫌いじゃないね?」
そう言って、鍋を抱えたまま出ていった。
エリナはテオを見た。彼はすでに作業へ戻っていたが、視線に気づくと面倒そうに顔を上げた。
「何です」
「……勧誘に来たって、言わなかったんだね」
「あなたは、もうやめたんでしょう」
エリナは頷いた。
それなら終わった話だ、とでもいうように、テオは手元へ目を落とした。
しばらくして戻ってきた老女は、鍋だけでなく、パンの籠も持っていた。後ろからやどかりが椀を重ねて運んでいる。
「宿、取れたぞ。あと、そこの角で捕まった」
「手が空いてるなら運んでもらわないとね」
老女は当然の顔で答えた。
工房の片隅に卓が空けられ、芋と玉ねぎの煮込みが並んだ。テオは四つ目の椀が置かれるまで工具を持っていたが、老女に名前を呼ばれると、観念したように手を拭いた。
エリナは、湯気の向こうにある青年の顔を見た。初めて笑ったときよりも、初めて仕事を中断したときの方が、少し近く見えるのが不思議だった。
「あの、私、エリナ」
匙を取ろうとしていたテオが止まった。
「名前、まだ言ってなかったから」
「……テオです」
「うん。よろしく」
ミアが、続けて自分の名前を伝えた。やどかりが名乗ると、テオは冗談かどうか確かめるように顔を見たが、結局、何も尋ねなかった。
煮込みは少しぬるくなっていた。
テオが鉄板へ指を添えると、鍋の縁から再び湯気が立ち始める。エリナはその様子を見て、つい身を乗り出した。
「それ、焦げない?」
「温度は上がりすぎないようにしています」
「でも、底に芋がついてると、そこだけ焦げるよ」
テオが鍋を見た。
老女が頷く。
「そうなんだよ。この前も少しくっついた」
「……なぜ、今まで言わなかったんですか」
「火の番しなくていいだけで、十分楽だからね」
テオは椀を置きかけた。
その手に、ミアの静かな声が重なった。
「……食べてからにしませんか」
工具まであと少しだった指が止まり、引き返してくる。
エリナは自分の匙で鍋の底をそっとさらった。やわらかくなった芋が動き、煮汁が隙間へ流れ込む。
「こうやって、ときどき混ぜれば大丈夫。うちは、お父さんがよく忘れて、お母さんに叱られてた」
「あなたのお父さんは、こぼして焦がすんですね」
「料理はおいしいよ。お客さんと話し始めると、そっちに夢中になるだけ」
「それは店として大丈夫なんですか」
「だから、三人でやってたんだよ」
何気なく答えてから、エリナは匙を止めた。
父が客と話している間に、母が皿を出し、自分が鍋をかき混ぜる。誰か一人で店を回したことなどなかった。それをできないからといって、父が料理人でなくなるわけでもなかった。
テオは卓の紙へ手を伸ばした。
ミアが見ると、わずかに眉を寄せる。
「書くだけです」
紙には、先ほどエリナが話した仕切りのことが書かれていた。その下に新しい文字が加わる。
棚いっぱいの道具にも、空を飛んでいた洗濯物にも、こうして誰かに言われて変えたところがあるのだろうか。
「テオは、こういうのを作るのが好きなんだね」
ペンが止まった。
「……仕事ですから」
「うん。でも、好きなんだなって思った」
今度は返事がなかった。
テオは紙を横へよけると、冷めないうちに食べるためらしく、自分の椀を引き寄せた。
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食事を終える頃には、空を巡る洗濯物もなくなっていた。
老女は空いた籠を抱え、鍋はあとで取りに来ると言って帰っていった。ミアはやどかりと一緒に荷物を宿へ運び、エリナは椅子に座ったまま、使った匙を布で拭いていた。
洗うのはテオの魔法で一瞬だったが、エリナが拭き始めると、彼は残りまで奪わなかった。
「……エリナというのは」
片づいた卓を挟んで、テオが言った。
「勇者の名前ですよね」
匙を包んでいた指が止まった。
隠すつもりではなかった。けれど自分から言わずに済むなら、その方がいいと思っていたことには、今、気づいた。
「うん」
エリナは頷いた。
「私」
テオの視線が、壁に立てかけた剣へ移った。
銀色の鞘も、神殿の紋章もない。何度か研ぎ直した、普通の剣だった。
「……あなたが」
その先に続く言葉を、エリナは待った。
思っていたより弱そうだとか、どうしてこんなところにいるのだとか。あるいは、まだ魔王を倒せないのかと尋ねられるのかもしれなかった。
けれどテオは、卓に置いた修理済みの灯りを、一度こちらへ寄せただけだった。
「さっきの話ですが」
「……うん」
「あなたに頼まれたからといって、返事は変わりません」
エリナは少しだけ息を吐いた。
「分かってる」
拭き終わった匙を、ほかのものと揃えて置いた。
テオは、揃えられていく匙と、その向こうにあるエリナの手を黙って見ていた。少し前まで鍋を混ぜていた手であり、壁際に立てかけられた剣を握る手でもある。同じ一組の手が、そのどちらもしていることを確かめるような視線だった。
「それなら、一つ聞いてもいいですか」
エリナが顔を上げる。
「あなたは、どうして行くんです?」
窓の外で、店じまいを告げる声がした。誰かが子供を呼び、木戸の閉まる音が続いた。テオが指を動かすと、工房の灯りが少し明るくなった。
「僕は、ここでこうして暮らすのが好きです。寒い日は暖かい部屋にいたいし、危ない目には、できるだけ遭いたくない」
昼に読みかけていた本が、椅子の上に伏せてあった。
「あなたにも、両親の食堂があるんでしょう」
エリナの視線が、本から窓へ移った。
父と母のいる方角は、建物に遮られて分からなかった。
「……あるよ」
「帰りたくないんですか」
「帰りたい」
それは、考えなくても出てくる答えだった。
テオが少し身を起こした。
「では、どうして?」
責める声ではなかった。
断った相手を追い返すための問いでもない。テオは、分からないから聞いていた。
そのことが、かえってエリナを戸惑わせた。
勇者だから、とは答えたくなかった。それを言えば、この人が大事にしている工房も、自分が帰りたい食堂も、また同じ言葉の下へ押し込んでしまう。
「私……」
口を開いてから、言葉を探した。
目の前の保冷箱には、父がこぼした汁を洗えるようにするための印が、小さくつけられていた。まだ会ったこともない父のために、この人はもう、道具を変えようとしている。
エリナはその印を見つめたまま、ゆっくりと膝の上で手を重ねた。
魔王を倒したい理由を、勇者という名前を使わずに話すのは、初めてだった。
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「帰りたい」
自分の声が、まだ工房に残っている気がした。
テオは返事を急かさなかった。卓の端に置かれた灯りを少し動かし、エリナの顔に直接光が当たらないようにしただけだった。その気遣いに礼を言いかけて、エリナはまた口を閉じた。考える時間をもらうほど、うまい答えを探してしまいそうだった。
だから、頭に浮かんだものから話した。
「うちのお店、入口の扉が、ちょっと引っかかるんだ」
テオが瞬きをした。
「……扉ですか」
「うん。雨の日は特に。下を持ち上げるみたいにしないと、開かなくて」
「蝶番か、木の歪みでしょうね」
「お父さんも直すって言ってた。でも、私が旅に出るまで、ずっとそのままだった」
朝、最初に扉を開けるのは母だった。昼を過ぎると、顔馴染みの客は誰に教わらなくても、取っ手を少し持ち上げて入ってきた。初めての客だけが外でがたがたと音を立て、そのたびにエリナか母が出ていった。
直してしまえばいいのにと、当時は何度も思っていた。けれど今となっては、外でがたがたと扉が鳴るたびに誰かが顔を上げ、エリナか母が「今行きます」と声を返していた、その一連の音まで懐かしかった。
「帰ったら、最初に、あそこを開けるんだと思う。まだ直ってなかったら、文句を言って」
想像すると、少しだけ笑えた。
「お母さんに、ただいまって言って。お父さんがまた、食べきれないくらい料理を出してくるから、多いよって言って……」
そこで喉が詰まった。
卓には、食べ終えた椀を置いた丸い跡が残っている。さっきまで四人で囲んでいた場所に、違う三人の食卓を重ねてしまった。
テオは椀の跡を拭こうとしていた布を、脇へ置いた。
「……それを、したいんだと思う」
エリナは息を整えた。
「魔王を倒して、何が欲しいかって言われたら、たぶん、それ」
窓の外を、荷車がゆっくり通り過ぎていった。車輪の音が遠ざかってから、テオが口を開いた。
「魔王を倒す前に帰っても、迎えてもらえるんでしょう?」
「うん」
「それなら、先に帰っては」
エリナは膝に重ねた指を見た。
それは、やどかりにも差し出された道だった。今からでも帰れる。傷を休め、父と母に会って、三年間のことを少しずつ話すこともできる。
そうした自分を想像しても、以前のように、逃げた勇者だと責める声ばかりが聞こえてくるわけではなかった。
それでも、別の景色が浮かんだ。
「帰って、それからも、そこで暮らしたいんだ」
テオが顔を上げた。
「明日も、お客さんが来て。その次の日も、お父さんが仕入れに行けて。お母さんが、最近、野菜が高いねって言っても、そのうち安くなるよって、普通に話せるようになってほしい」
昔は、野菜が高ければ違う料理を出した。肉が足りなければ豆を多めに入れた。困ることはあっても、次の季節にはまた畑から荷車が来ると、疑わずに待っていられた。
旅の途中で見た畑は、年を追うごとに小さくなっていた。去年までは人が住んでいたという家の屋根に、魔物の巣があったこともある。
「私が帰れた日だけ、無事ならいいわけじゃないから」
そこまで話してから、エリナは唇を結んだ。
テオの工房にも、同じ明日がある。だからあなたも戦って、と続ければ、またさっきと同じことをしてしまう。
「……でも、それでテオに来てほしいって言ってるんじゃないよ」
慌ててつけ足すと、テオは少し眉を寄せた。
「分かっています。僕が聞いたんですから」
「そっか」
「あなたの話をしていたのでしょう」
エリナは頷いた。
その言い方に、ほっとした。膝の上で重ねていた手をほどき、もう一度、テオの顔を見た。
「世界を救うって、前は何度も言ってたんだけど」
エリナは窓を見た。
「そのときより、今の方が、何をしたいのか、分かる気がする」
テオは椅子の背へ、ゆっくりともたれた。
「僕には、そのために魔王のところまで行く勇気はありません」
「私も、あるかって言われると、困る」
「行くと言ったばかりですが」
「怖くなくなったわけじゃないもん」
エリナは苦笑した。
怖いから帰りたい。それも嘘ではない。帰った先を失うのが怖い。それも本当だった。どちらかが消えてくれれば楽なのに、どちらもなくならないまま、ここまで歩いてきた。
「今は、一緒に考えてくれる人がいるから」
戸口の方へ目をやる。
その先の通りから、聞き慣れた声が近づいていた。
「だからな、椅子に乗せて、そのまま運べばいいだろ」
「宿の階段をどうするんですか」
「持ち上げる」
「椅子ごと?」
「楽じゃねえか」
「運ばれる方の気持ちも考えてください」
エリナはテオを見た。
テオもこちらを見ていた。
「……一緒に、考えてはくれるんだよ」
「質には、ばらつきがあるようですね」
笑いがこぼれたところで、二人が戻ってきた。