宿へは、普通に歩いて帰った。
やどかりは最後まで椅子を惜しんでいたが、エリナが自分で歩けると言い、ミアもゆっくりならと頷いたので、それ以上は何も言わなかった。
テオは戸口まで出てきた。帰り際、荷物を持ち直していたエリナに、一枚の紙を差し出した。
「これは?」
「保冷箱の、外せる仕切りです」
紙には、箱の中へ収まる薄い容器が描かれていた。縁には指をかける出っ張りがあり、エリナが昼に指摘した隅の部分には、丸みがつけられている。
「ここなら、布も入りますね?」
「うん。洗いやすいと思う」
「明日、作ってみます。実物でも確かめてもらえますか」
エリナは顔を上げた。
テオは紙の角を押さえ、図が風に煽られないようにしていた。
「……来てもいいの?」
問い返すと、青年は少し不思議そうな顔をした。
「僕が頼んでいるんですが」
「そうだけど」
一度、帰ってくださいと言われた工房だった。
明日もここへ来る理由を、今度は向こうから渡された。そのことが、思っていたより嬉しかった。
隣でミアが、紙からエリナの脚へ視線を移した。
「午前中は休みましょう。午後、様子を見てからなら」
「じゃあ、午後でもいい?」
「構いません。僕も、その方が助かります」
テオは紙を受け取ると、工房へ半歩戻り、思い直したように振り返った。
「昼食は?」
「まだ決めてないけど」
「温める方も、直しておきます」
何を言われたのか、少し遅れて分かった。
エリナは笑った。
「じゃあ、何か持ってくるね」
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翌朝、ミアはエリナの脚を診てから、寝台の端に腰掛けた。
傷の周りを押されると、昨日よりは軽いが、まだ鈍い痛みが残っていた。歩き続けた分を、眠った一晩だけでは取り戻せなかったらしい。
「数日は、この町にいましょう」
エリナは毛布の上に手を置いた。
「……そんなに?」
「歩けなくなってからでは、もっと長くなります」
言い返しかけた言葉が、口の手前で止まった。
ミアはそれを待ってから、静かに続けた。
「昨日は、痛いと言ってくれたので、休むことができました。今日も、その続きです」
休むことまで、進んだ先の一部にしてくれる言い方だった。
エリナは脚を毛布へ戻した。
「分かった。……お昼、作るのも駄目?」
「ずっと立っていなければ」
部屋の隅で靴を履いていたやどかりが顔を上げた。
「俺は肉がいい」
「まだ、作っていいか聞いただけだよ」
「先に希望を言っとこうと思って」
「お金と、売ってるものを見てから」
食堂で何度も繰り返したような会話だった。
エリナは膝に紙を置き、宿の女将から借りた短い鉛筆を握った。鍋を貸してもらえるか。食材はどこで買えるか。竈を使わない時間があるか。尋ねたいことを書き始めると、魔王城までの道を考えていた頭に、少し違う場所ができた。
宿の厨房を借りられたのは、朝食の片づけが済んでからだった。
女将は調理台の脇へ椅子を出し、そこに座ってできる分だけにしな、と言った。やどかりが買ってきた袋には、玉ねぎと豆、それに指ほどの太さの腸詰めが一本入っていた。
「……肉、少なくない?」
「高かった」
やどかりが残りの硬貨を卓へ置く。エリナはそれを見てから、腸詰めを受け取った。
「じゃあ、小さく切ろう。どこを掬っても、ちょっとは入るように」
「大きい方がうまくねえか」
「四人分だよ」
口にしてから、エリナはまな板の上を見た。
まだ三人で旅を始めたばかりなのに、今日の食事は、自然に四人分になっていた。
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午後の工房では、テオが三枚の薄い板を前に腕を組んでいた。
「……どれも同じに見える」
挨拶のあと、エリナが正直に言うと、テオは一番左を持ち上げた。
「厚みが違います」
「どのくらい?」
「こちらが一番薄い。取り外して洗うなら軽い方がいいかと」
差し出されたものを受け取る。確かに軽かった。けれど両手で持つと、底がわずかに撓んだ。
「これ、お肉を入れたまま出したら、曲がらない?」
「洗うときは空にするでしょう」
「うん。でも、料理するときは、入れたまま出すと思う」
テオは残りの二枚を見た。
その顔を見て、エリナは急いでつけ足した。
「重さは、好きだよ。片手でも持てるから」
「……いえ。確かに、そう使いますね」
テオは一番薄いものを脇へ置いた。
代わりに真ん中の容器を手渡し、持ち手に指が入るか、隅を布で拭けるかと、一つずつ尋ねてくる。エリナが取っ手を持ち替えると、その動きまで見ていた。
強い魔法を使うところを褒められたときより、ずっと真剣な顔だった。
隣の卓では、ミアが往診鞄から布包みを出していた。昨日、包帯を乾かす魔法について話していたので、旅の間に使ったものを、洗って持ってきたのだという。
テオが手をかざすと、濡れた布がゆっくりほどけて浮き上がった。
「乾き方を、触って確かめてください」
エリナが容器の角を拭く横で、ミアは布の端を指で挟んだ。
「これくらいなら、巻きやすそうです。薬草にも同じように使えますか」
「乾燥させるだけなら」
「熱は抑えたいんですが」
テオがミアの方へ向き直った。
話はすぐに、エリナの分からないところへ入っていった。どこまで乾かすのか、葉と茎を分けるのか。ミアが小さな袋を開き、テオが中身を指で摘まむ。
エリナは容器を拭き終え、やどかりを見た。
男は、卓の端に置かれた金属の輪を持ち上げようとしていた。
「触らない方がいいと思う」
「見てるだけだ」
「手、伸びてるよ」
輪がふわりと逃げた。
やどかりの指が何もないところを掴む。テオはミアの説明を聞いたまま、こちらを見てさえいなかった。
「今、見てた?」
エリナが尋ねると、テオは薬草の袋を閉じながら答えた。
「昨日、道具を殴る人だと分かったので」
「まだ何もしてねえだろ」
「ですから、何もされないうちに」
輪は棚の上へ収まった。
やどかりは空になった手を下ろし、ひどく残念そうに鼻を鳴らした。
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昼食は、たいへん静かに始まった。
テオは持ってきた鍋を鉄板へ載せ、その上へ、先ほどやどかりが触ろうとしていた輪を据えた。輪の内側から、木べらが一本、鍋の中へ垂れている。
「混ぜるようにしました」
エリナは木べらを見た。
「もう?」
「底に触れながら回ります。縁で止まらないよう、軸をずらしました」
テオが指を離すと、木べらが動き始めた。
豆と玉ねぎの煮込みが、鍋の中でゆっくり巡る。小さく切った腸詰めが見え隠れし、温まるにつれて、香草と肉の匂いが立ってきた。
「……すごい。本当に、混ぜてる」
エリナが笑うと、テオの肩が少し上がった。
「これで、火の番も、かき混ぜる手間も減らせます」
ミアが横から鍋を覗いた。
「ゆっくり動くんですね」
「速くすることもできますが、料理なら、これくらいで十分でしょう」
「速くしたら、どうなるんだ?」
やどかりが言った。
テオは、そこで答えなければよかったのだと思う。
「どの程度ですか」
「今の3倍くらい早く」
「できます」
「そりゃ、すげえな」
感心されたテオが、ほんの少しだけ顎を上げた。
エリナは嫌な予感がした。
「ご飯だからね?」
「分かっています。少しだけなら」
木べらの動きが速くなった。
煮込みの中央が窪み、鍋の縁に沿って豆が持ち上がる。エリナが止めてと言うのと、やどかりが、おお、と声を上げるのが重なった。
次の瞬間、小さな腸詰めが一切れ、鍋から飛び出した。
宙で止まった。
煮汁も、その後ろで丸い粒になって浮いている。
四人は、鍋と宙の腸詰めを見比べた。
「……危なくはありません」
テオが言った。
「止めましたから」
「飛ばさないで」
エリナは真剣に頼んだ。
「少ししか入ってないんだから」
テオは黙って腸詰めを鍋へ戻した。
その隣で、やどかりが腹を抱えている。エリナが睨むと、男は咳払いをして、何事もなかったように椀を並べ始めた。
木べらは、最初より遅く動くことになった。
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食べ始めてしばらく、テオはほとんど話さなかった。
機嫌を損ねたのかと思ったが、そうではないらしかった。鍋を見て、匙で一口掬い、また鍋を見る。やがて紙へ手を伸ばしかけ、ミアと目が合うと、そのままパンを取った。
「何か、変?」
エリナが尋ねた。
「いえ。おいしいです」
あまりに普通に言われたので、今度はエリナが黙った。
「……そっか」
自分の椀へ目を落とす。
料理を褒められることは、久しぶりだった。王都で大鍋を作った夜には、食べられるものをみんなへ渡すことで頭がいっぱいだったし、旅では腹に収まればいいという日も多かった。
今日は、テオが食べると分かって作った料理だった。エリナはもう一口、自分でも食べてみた。小さく切った腸詰めの味が、豆に染みていた。次は、少し違うものも作れそうだった。
「今度は、お肉が飛ばない料理にしないとね」
「飛ばしたのは、料理のせいではありません」
「うん。知ってる」
テオは、少し気まずそうに煮込みを口へ運んだ。
やどかりがパンで椀の底を拭い、ミアが二杯目を少なめに頼んだ頃、店先へ子供が二人やってきた。片方は欠けた木の車輪を持ち、もう片方は、それを貸したのに壊されたと訴えている。
テオが椅子を引きかけた。
「食べてるの?」
小さい方の子が尋ねた。
「そうです、見れば分かるでしょう」
「じゃあ、あとでいい」
子供は工房の前の段差へ座った。隣の子も、少し迷ってから腰を下ろす。
テオは立ちかけた姿勢のまま、二人を見た。
「……すぐ直せますよ」
「うん。でも、食べてからでいいって」
小さな背中が二つ並んだ。
テオはゆっくり座り直した。椀へ戻った匙が、いつもと違うものを量るように、しばらく止まっていた。
「待ってくれるんだね」
エリナが小さく言うと、テオは入口を見たまま答えた。
「……今までも、待てたんでしょうね」
エリナはそれ以上言わず、鍋を少し手前へ寄せた。
まだ温かかった。
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食事のあとは、工房が少し慌ただしくなった。
車輪を直した子供たちが出ていくと、今度は暖房の修理を頼んでいた老人が来た。テオが奥の棚から箱を取り出し、どこが壊れていたのか説明する。その間に別の客が入り、昨日の洗濯物に混じっていたという靴下を一本置いていった。
やどかりが重い箱を戸口まで運び、ミアは卓へ広げた包帯を片づけた。エリナは椅子に座ったまま、老人が持ってきた紐を箱へ通し、持ちやすいところで結んだ。
誰かに指示されたわけではなかった。手が空いているところへ、次の仕事が来ただけだった。
客が途切れたとき、テオが卓の前で足を止めた。
いつもなら自分で片づけるものが、ほとんど残っていなかった。
「……修理を頼まれたのは、僕ではありますが」
「うん」
エリナは余った紐を丸めた。
「直してたね」
「あなたたちが、そこまでする必要は」
「私、結んだだけだよ」
テオの視線が、戸口から戻ってきたやどかりへ動いた。
「俺は運んだだけ」
続いてミアを見る。
「私の包帯を片づけました」
テオは何か言いかけて、やめた。
エリナは、工具の置いてあった場所を空けるために、自分の椅子を少し引いた。
「これで、さっきの続き、できる?」
卓には、まだ外したままの保冷箱の蓋があった。
テオはそれを見てから、作業用の椅子へ腰を下ろした。
「……ええ」
それきり、しばらく話さなかった。
けれど今度の沈黙は、昨日のものとは違った。テオが差し出した容器をエリナが受け取り、持ち上げやすい角度を確かめる。ミアは乾いた包帯を巻き、やどかりは、触っていいと許された木箱に蝶番を取りつけていた。
工具が卓を叩く音に、誰かが椅子を引く音が混じった。