帰る前に、エリナは鍋を包んだ。
洗ってもらった内側には、焦げつきが一つもなかった。試作品の輪を外したテオが、それを棚へ戻しながら、ちらりとこちらを見る。
「使えそう?」
エリナが尋ねると、テオは頷いた。
「速くならないようにしてから、あの方に使ってもらいます」
「お婆さん?」
「ええ。安全のために肉が飛ばないようにする必要があります。」
エリナは笑い、鍋の包みの紐を結んだ。
「……これ、旅でも使えたらいいな」
テオの手が止まった。
「持っていくんですか」
「ううん。そんな余裕ないし。でも、火を起こせない日も、温かいものが食べられたら、嬉しいだろうなって」
雨の中では薪が湿り、風が強ければ火のそばへ寄ることも難しかった。濡れた手で硬いパンを割り、飲み込めずに水で流した夜を、エリナは覚えていた。
テオは棚へ置きかけた輪を見た。
「今のものは、運ぶようにはできていません。道が悪ければ歪みますし、水が入るのも困ります」
「そっか」
「魔石も、同じものを手に入れられるとは限りません」
「そういうのも、考えないといけないんだね」
エリナは包んだ鍋を、やどかりへ渡した。
テオはまだ輪を持っていた。
「……次は、どちらへ向かうんですか」
やどかりが顔を上げる。
「街道を西へ戻る」
「そこからは?」
「道を見て決める。嬢ちゃんの脚もあるしな」
テオの眉が寄った。
「魔王のところまで、どこで補給できるかは?」
「まだ全部は決めてねえ」
「水は。宿がないところで泊まる準備は。道具が壊れたら?」
立て続けに聞かれ、エリナはやどかりを見た。
男は懐から畳んだ地図を出しかけたが、ミアが窓の外を見た。
「今日は、そろそろ戻りましょう。エリナも疲れています」
エリナは反射的に、大丈夫と言いかけた。
けれど、椅子から立ってみると、脚には朝と違う重さがあった。楽しかった分だけ、気づくのが遅れたらしかった。
「……うん。明日にしよう」
テオがこちらを見た。
明日も来ると、勝手に決めてしまったことに気づき、エリナは言い直そうとした。
「地図を持ってきてください」
それより先に、テオが言った。
「今、持ってるぞ」
「明日ですよ。休むと言ったでしょう」
ミアに言われて、やどかりは、地図を懐へ戻した。
エリナがテオを見ると、彼は少し居心地悪そうに、手に持っていた輪を棚へ置いた。
「旅の道具を考えるなら、どう使うのか知らないと困るので」
「……考えてくれるの?」
「考えるだけです。作れるとは言っていません」
「ありがとう」
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三人が帰ったあと、テオは工房の戸を半分閉めた。
いつもの夕方だった。通りでは隣の店が品物を引っ込め、二階の窓から夕飯の匂いが流れてくる。工具は使いやすい位置にあり、読みかけの本も、昨日と同じ椅子の上にあった。
テオはその本を手に取った。
同じ行を二度読んでから、閉じた。
向かいの椅子が、少し斜めになっていた。
エリナが脚を伸ばせるように、昼、位置を変えたのだった。戻そうとして背へ手をかけたが、明日も使うことを思い出し、そのまま離した。
卓の端には、外せる容器の図が残っている。その横には、混ぜる速さを落とすための書き込みがあった。
テオは新しい紙を一枚、手前へ引き寄せた。
運ぶなら、輪は外せる方がいい。鉄板も厚すぎる。鍋の大きさが変わったときに、支える場所をどうするか。考え始めると、直したい箇所はいくらでもあった。
しばらくして、ペンが止まった。
火を起こせない日には、あの三人は何を食べているのだろう。
そう考えたところで、テオの頭の中には、雨に濡れた街道と、火の代わりになるものが何もない野営地が、妙に具体的な形を持って浮かんだ。
テオは今日の煮込みを思い出した。小さく刻んだ腸詰めを飛ばしたとき、エリナは、少ししか入っていないのだからと真剣に怒った。そのあと、自分の椀へ入った一切れを、何でもない顔で口へ運んでいた。
あの食事を作った人が、冷たい雨の中で、乾いたパンを食べる。
想像できてしまったことが、妙に気に障った。
テオは図の隣に、四人分、と書いた。
旅をするのは三人だ。数字を直そうとペン先を近づけ、止めた。試作品を確かめるときには、自分も食べる。今日と同じ鍋が載ればよかった。
テオは「四」の字を残し、鍋を支える脚を描き足した。
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地図を広げて最初に分かったのは、やどかりの字が読みにくいということだった。
「これは何ですか」
「宿」
「では、少し小さい印のこちらは」
「宿だったとこ」
「同じ印を使わないでください」
テオは新しい紙を引き寄せた。
工房の卓には、大小三枚の地図が重なっている。やどかりが持ち歩いていたものに、ミアが薬を仕入れるために使っていた街道図、それからエリナが、覚えている道を書き足した紙だった。同じ川の名前が違う位置にあり、宿のあるはずの場所には、別の紙だと何もなかった。
「こちらの橋は、まだ通れます」
ミアが街道図を押さえた。
「先月、薬売りの方が使っています。ただ、この先の宿は、食事を出していないそうです」
「あ、そこ、井戸が裏にあるよ」
エリナは身を乗り出しかけ、脚を動かす前に紙の方を引き寄せた。
「表にある井戸は、水が濁ってる。お婆さんに聞いたら、裏を使っていいって」
「いつの話ですか」
「王都へ戻る途中だから……」
指で日を数える。
テオは日付を添えて書きつけ、ほかの二人にも、誰からいつ聞いた話なのかを確かめた。使える道と、確かめなければならない道が、少しずつ別の線になっていった。
「……思ったより、ちゃんと考えてはいるんですね」
やがてテオが言った。
「何だと思ってたんだよ」
「西へ行く、としか聞いていなかったので」
「とりあえず、次に食い物を買える場所までは分かってる。その先は、そこで聞く」
やどかりが地図の端を指で叩いた。
「前に通れた道が、今も通れるとは限らねえからな」
テオは書きかけの線を止めた。
工房の窓からは、毎日同じ軒先が見える。壊れた箱には、壊れた箇所がある。それを確かめて直せば、昨日までと同じように使えるはずだった。
目の前の三人が歩いてきた道は、そうではないらしかった。
「戻る道も、ですか」
「うん」
エリナが答えた。
「だから、途中で会った人に聞く。自分が通ってきたところを、私も話す」
そう言って、彼女は紙の端に小さな印をつけた。
「ここは、お水を分けてもらった家。もしまだ住んでたら、お礼を言いたい」
テオはその印を、ほかの紙にも写した。
ペンが止まるのを待って、やどかりが地図の西側へ指を置いた。
「その先のことで、相談がある」
指先の下には、街道が集まる大きな町の名があった。
エリナは紙を押さえていた手を止めた。
「……王都?」
「ああ。仲間を集めるのに、王国にも力を借りたい」
雨の日の門が浮かんだ。閉じていく扉の隙間を、最後まで見ていた。あの内側へ入ることを考えただけで、左の肘へ右手が伸びた。
「……行きたいとは、まだ言えない」
「分かった。ほかの町で探す道もある。出発する前に、もう一度話そう」
やどかりは地図から指を離した。
エリナは窓の方を見た。洗濯籠を抱えた女が通り過ぎ、隣家の扉が開いた。ここには、あの門の前で自分を見ていた顔はなかった。
「……うん」
エリナは地図へ目を戻した。紙の端が少し折れていたので、掌で伸ばした。
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旅の道具の相談は、結局、地図だけでは終わらなかった。
やどかりの荷物からは、鍋と火打ち道具と、ひどく潰れた袋が出てきた。エリナの荷物には、繕った布が何枚も入っていた。ミアは薬を入れた瓶を一つずつ並べ、割れたときに代えの利かないものを選り分けた。
卓が埋まると、テオは黙って自分の工具を横へ移した。
「温めるだけなら、これくらいにできます」
昨日の紙を裏返し、小さな台の図を見せる。
エリナは、その隣に書かれた文字を見つけた。
「四人分?」
「鍋の大きさです」
返事が早かった。
「三人分の鍋でも、使えますよ」
「いや、四人でいいだろ」
やどかりが言った。
「俺が二人分食う」
「昨日、足りなかったの?」
「足りた。だが、もっと食えた」
「それは足りなかったとは違うよね」
エリナが呆れている間に、テオは紙を少し自分の方へ寄せた。
ミアが、図の脇に描かれた魔石を指した。
「これは、この町以外でも手に入りますか」
「ええ。ただ、質が揃っていないので、出力を合わせる仕組みが要ります。足りない分を、人が補うこともできますが」
「……魔法を使えない人は?」
エリナが小さく手を上げた。
テオは彼女を見て、図を見た。言いかけた説明を一度飲み込み、石の周りへ描いていた線を消した。
「補わなくても使える方が、いいですね」
その言い方に、エリナは少し安心した。
できないことを言うたびに、自分の置かれる場所が狭くなっていく旅を、長く続けてきた。けれど今は、できないと伝えると、図の方が変わった。
「ごめんね、注文ばっかりで」
「使えないものを渡したくはありません」
テオは、消した線の横へ別の線を引いた。
「持っていくのは、あなたたちですから」