最初に橋を渡ってきたのは、荷物を持たない商人だった。
上着の片袖が裂け、手には切れた手綱を握っている。西岸へ辿り着いても足が止まらず、近くの男に肩を掴まれて、ようやく振り返った。
「東門から……荷車を、追って……」
言葉はそこで途切れ、商人は膝へ手をついて荒い息を吐いた。何が起きたのか聞き返すより先に、彼が震える指で示した方角から馬が飛び出してくる。空の荷車を引いたまま橋を駆け、西側の道へ曲がろうとして後輪を欄干へぶつけると、乾いた衝撃音に橋の上の人々が一斉に身を縮めた。
だが、逃げてくるのは走れる者ばかりではない。その後ろには、誰かの肩を借りて進む者や、足を引きずりながら橋を目指す人影が続いていた。
エリナは腰の剣を押さえ、川沿いの道を駆け上がった。
脚は動いた。数日間、休ませた身体が、踏み出す力を返してくれる。
「やどかりさん!」
「見えてる!」
橋の東のたもとで、一台の荷車が傾いていた。
車輪が排水溝へ落ち、橋へ続く道を斜めに塞いでいる。脇を抜けようとする人と、押して動かそうとする人が重なり、前へ進めなくなっていた。
エリナが橋へ足をかけたとき、その荷車が浮いた。
下から光に支えられ、傾いていた車体がゆっくり水平へ戻る。押していた男たちが手を離し、恐る恐る見上げた。
「下に入らないでください!」
テオの声だった。
青年は橋の西側に立ち、片手を差し出していた。もう片方の手で、通りに積まれていた空箱を壁際へ寄せる。荷車はその前まで運ばれ、車輪を軋ませて下りた。
「荷物は置いて、橋を渡ってください。走れる人は、そのまま奥へ!」
空いた道へ、人が流れ始めた。
テオはエリナの横へ来ると、向こう岸を見たまま言った。
「僕は、人を運びます」
エリナは頷いた。
「うん。橋のところ、お願い。こっちへ来た人が戻らないようにして」
「そちらは?」
「まだ、向こうにいる人を呼んでくる」
テオの目が、一度だけ彼女の脚へ下りた。
エリナは剣の柄から手を離し、軽く膝を曲げてみせた。
「ちゃんと動く。無理になったら言う」
「痛みが戻ったら、呼んでください」
荷車へ駆け寄ってきたミアにも、頷いた。
隣を通り過ぎたやどかりが、エリナの肩を短く叩いた。
二人は、人の流れの脇を縫って橋を渡った。
-----------------------------------------------------------------
東岸の通りには、麦が散らばっていた。
破れた袋が踏まれ、中身が石畳の隙間へ入り込んでいる。店の前には倒れた棚があり、その陰で、男が誰かの腕を引いていた。
「こっちです! 橋が通れます!」
エリナが声をかけると、男は振り返った。足元には、倒れた棚に裾を挟まれた女が座っている。怪我をしているのかは、ここからでは分からない。
エリナは二人のそばへしゃがみ、棚の下へ剣の鞘を差し込んだ。
「少し持ち上げるから、引いて」
男が頷く。エリナが鞘を押し下げると、棚の端が浮いた。女が身を引き、服の裾が裂けながら抜ける。
立たせようとしたところで、通りの奥から馬の悲鳴が上がった。
やどかりが、三人の前へ出た。
「その人を連れていってくれ」
声は低かった。
エリナが顔を上げると、土煙の向こうで、荷車の幌が持ち上がっていた。
下にいたものが首を振り、破れた布を脇へ投げ捨てる。
四つ脚の魔物だった。
肩の高さが、荷車の幌ほどもある。頭から首、背にかけて、鎧のような黒い外殻が幾重にも重なっていた。その継ぎ目を、細い光が走っている。脚の先には太い爪があり、踏み出すたびに石畳の上の麦が砕ける。
大きな鼻先が上がった。
橋の方へ逃げる人々を見つけたのだと、エリナにも分かった。
「行って!」
男が女を抱えるようにして走り始めた。
エリナは棚の下から鞘を引き抜き、剣を抜いて構えた。女の裾が挟まっていた棚を、やどかりが魔物の前へ蹴り出す。
魔物は、蹴り出された棚を障害物とも思わなかった。太い前脚が板を踏み抜き、乾いた破裂音とともに木片が通りへ弾け飛ぶ。その一枚がやどかりの肩を掠めても、男は退かず、続けざまに魔物の鼻先へ剣を叩きつけた。
金属を石へ打ちつけたような高い音が響く。刃は黒い外殻に弾かれ、傷らしい傷もつかなかったが、衝撃に魔物の顔がわずかに横を向いた。
「エリナ、右!」
エリナは踏み込んだ。
外殻の重なりが途切れる、前脚の付け根を狙う。剣先が浅く入る感触があり、すぐに、脚が振り上げられた。
身を引くのが半歩遅れた。
爪が上着の袖に引っかかり、腕ごと引かれて体勢が崩れる。布が裂けて爪が外れたところへ、やどかりが手を伸ばした。エリナの腕を掴み、倒れる前に横へ引いた。
「通ったか」
「少し。でも、浅い!」
魔物は立ち止まっていた。
少しだけ傷ついた脚を引き、こちらを見ている。
倒せなくても、足は止められる。
エリナは、橋へ向かう人の背中を確かめてから、もう一度剣を握り直した。
-----------------------------------------------------------------
西岸では、テオが荷車の荷台を空けていた。
積まれていた空の木箱を脇へ下ろし、歩けない者を載せる。倒れた人をいきなり浮かせると、近くの家族が驚いて掴もうとしたので、二人目からは、運びます、と先に声をかけた。
ミアが荷台に片膝をつき、男の足を確かめている。
「この方は揺らさずにお願いします。膝から下を、今の向きで」
「分かりました」
テオは男の身体だけでなく、その下の布をまとめて支えた。
西側の広い道へ運ぶと、ミアに呼ばれた町の女が、毛布を敷いて待っていた。男を下ろす間に、別の人が水を持ってくる。
「テオ!」
店の軒から、聞き覚えのある声がした。
いつもの老女だった。肩に大きな布を掛け、橋を見ている。
「何があったんだい!」
「魔物です。ここから離れてください」
「うちの爺さんが、まだ二階に――」
「僕が行きます」
言ってから、テオは橋を振り返った。
向こう岸には、まだ人がいる。ここを離れて戻るまでに、どれくらいかかるだろう。
老女も同じ方を見た。
「……待ってな」
彼女は通りを来た二人の男を呼び止めた。隣の家だと場所を伝え、階段の曲がり角が狭いから気をつけろとつけ加える。男たちが頷いて走り出すのを見届けてから、テオへ向き直った。
「あんたは、こっちを頼むよ」
テオは一瞬、声が出なかった。
自分が行かなければ、と考えた直後に、老女は別の手を見つけてしまった。やがてテオは小さく頷き、差し出された布を受け取る。ここを離れるのではなく、今いる場所でできることを続けろという意味らしかった。
「橋の前には、戻ってこないでください」
「分かってるよ」
老女はミアへ、布がまだ要るかと尋ねた。
テオは再び川へ向き直った。
自分が行かなくても、二階にいる老人のところへ届く手があった。その分だけ、今ここに立ち続けられる。
片手を上げ、東岸で立ちすくんでいた子供の足元へ、光を伸ばして道を作った。
-----------------------------------------------------------------
魔物は、一度噛みつこうとしたものを、なかなか諦めなかった。
やどかりが横へ回れば、頭をそちらへ振る。エリナが前脚を狙えば、石畳を爪で掻いて追ってくる。そのたびに二人は少しずつ下がり、人のいる店先から、空いた道へ引きつけた。
けれど、下がれる場所には限りがあった。
背後で、川の音が近くなった。
「やどかりさん、もう橋が――」
「分かってる。左へ寄せるぞ」
男が声を張り、剣で近くの石柱を叩いた。
魔物がそちらを向く。
その向こう、店の陰から、二人の衛兵が出てきた。一人が槍を構え、もう一人が弩を引いている。
「離れろ!」
エリナは身を引いた。
放たれた矢が、魔物の首元へ当たった。そこも黒い外殻に覆われていて、矢は弾かれ、石畳に落ちる。
魔物が踏み出した。
槍を持った衛兵は逃げ遅れた。
柄が魔物の顎に触れたと思った瞬間、真ん中から折れた。衛兵が尻餅をつき、その上へ前脚が落ちてくる。
青白い光が、二人の間に広がった。
爪は、衛兵の顔のすぐ上で止まった。
「下がってください!」
川向こうから、テオの声が届いた。
衛兵が転がるように抜け出す。エリナはその襟を掴み、立たせるのを手伝った。テオの作った光の壁へ、魔物が再び前脚を叩きつける。
重い音が、腹の奥へ響いた。
壁は持ちこたえたが、その下の石畳に亀裂が走った。
「右の通りに、まだ人はいますか!」
エリナが尋ねると、衛兵は荒い息のまま頷いた。
「倉庫の裏に、三人……黄色の扉のところだ」
「そっち、お願いできますか。橋へ連れてきてください」
衛兵は折れた槍を見た。
それから柄を拾い、もう一人と一緒に走った。
エリナはテオへ片手を上げた。
彼は頷き返したが、笑ってはいなかった。
橋を渡る人を支えながら、こちらにも壁を出している。その指が休まず動いていることに、エリナはようやく気づいた。
-----------------------------------------------------------------
最初に砕けたのは、橋ではなく、その東側の護岸だった。
光の壁に阻まれた魔物が、横へ回ろうとして岸際へ足をかけた。石畳の下が崩れ、大きな身体が一度傾く。魔物は跳ねるように体勢を戻したが、爪が引っかかった石積みが、川へまとめて剥がれ落ちた。
橋の付け根が沈んだ。
「止まって!」
テオが叫んだ。
橋の上にいた人々が足を止める。その足元を、細い亀裂が横切った。
エリナは橋を振り返った。
倉庫から出てきた人たちが、ちょうど渡り始めたところだった。衛兵が二人を前へ押し、最後の一人へ手を伸ばしている。
落ちる、と思った。
けれど橋は、そこで止まった。
沈んだ石の下に、いくつもの光の面が重なっていた。
川の上に薄い足場が生まれ、崩れかけた橋を腹から支えている。テオは西岸で両手を広げ、踏ん張っていた。
「歩いてください。止まらずに、西へ!」
声は、先ほどより低かった。
ミアが橋の出口へ走り、こちらです、と腕を伸ばす。動けなくなった男を衛兵が引き、傾いた石の上を、一歩ずつ渡っていった。
エリナは剣を構え直した。
魔物を橋へ行かせてはいけない。今、あそこへもう一度体当たりをされたら、崩れかけた橋を支えるだけで精いっぱいの光では持たないかもしれなかった。
「こっち!」
声を張り、剣を黒い外殻へ打ちつける。
腕へ痺れが返った。
魔物が顔を向ける。鼻先の傷ついていない場所に、自分の刃が薄い跡を残しただけだった。
それでも、こちらを見た。
エリナは一歩下がり、もう一度叫んだ。
-----------------------------------------------------------------
テオは、川の音が聞こえなくなっていた。
目で追っているのは、橋を支える石の形と、その上を動く足だった。人が渡るたびに重さが移り、亀裂の広がる向きが変わる。力を足す場所を間違えれば、自分の魔法が橋を押し割ってしまう。
頭の中で形を組み替えながら、東岸の二人を探した。
エリナが一歩下がり、その前へやどかりが出るのが見えた。今なら光の壁を一枚差し込めば助けられるかもしれない――そう考えた瞬間、橋の中央で石同士が嫌な音を立てて擦れた。
テオは奥歯を噛み締めた。
「あと、何人ですか」
「五人!」
ミアが答えた。
テオは息を吸い、支えを広げた。エリナが後ろへ跳び、振り下ろされた爪を避けるのが見える。間に合ったと分かってから、初めて、自分が息を止めていたことに気づいた。
倉庫にいた三人が、西岸へ辿り着いた。
弩を持った衛兵がその後を追う。
最後に残った衛兵は橋の途中で振り返り、エリナたちへ叫んだ。
「こっちへ!」
やどかりが魔物の横を抜けようとした。
大きな尾が振られ、石の欠片が扇状に飛んだ。男は剣で顔を庇い、橋への道を塞がれる。
エリナも、前脚の間合いから出られなかった。
「先に行って!」
彼女の声が届いた。
衛兵は動かなかった。
ミアが橋の出口から、もう一度手を伸ばした。
「ここを空けてください! 二人が戻る場所を!」
衛兵が歯を食いしばり、西へ走った。
その足が岸へ乗った瞬間、橋の中央で大きな音がした。
上流側の欄干が割れ、内側へ倒れ込んだ。
テオは支え直そうとしたが、東側の護岸が、さらに大きく剥がれ落ちた。押さえていた橋の端そのものがなくなり、光の上で、石の道がいくつにも分かれていく。
「離れて!」
テオは両腕を振った。
崩れた石を、人のいない川の中央へ押し流す。水が跳ね、白い飛沫が視界を塞いだ。
音が収まったとき、川の上には、もう歩いて渡れる場所が残っていなかった。