西岸の人々は、広い道の奥へ下がっていた。
けれど、全員が自分の足で歩けるわけではなかった。ミアは運ばれてきた衛兵の傍らへ膝をつき、血に濡れた袖を切り開いている。近くの男へ布を押さえる場所を教えながら、自分は傷へ手をかざした。
川向こうで剣が打ち合わされるたび、彼女の肩がわずかに動いた。
「テオさん、二人は」
「足場を作ります。岸まで来られれば、運べます」
テオは川の上へ光を伸ばした。
橋を支えるより、二人分の足場を作る方がずっと軽い。これなら運べる。魔物から少しでも離れれば、西岸へ下ろせる。
「エリナ! こちらへ!」
彼女が一瞬こちらを見た。
差し出された足場に気づき、やどかりへ声をかける。二人が同時に下がろうとしたところへ、魔物の尾が振られた。崩れた石が跳ね上がり、岸へ続く道を塞いだ。
エリナは腕で顔を庇った。足元へ転がり込んだ石を避けきれず、片膝をつく。勢いのまま左肩が石積みへ当たり、剣が手を離れた。
テオは右手を伸ばした。
魔物の爪とエリナの間へ、光の壁が立つ。彼女は反対の手をつき、壁の陰へ身体を寄せた。破れた膝の布に、血が滲んでいた。
「エリナ!」
ミアが顔を上げた。
やどかりがエリナの前へ出る。壁の端へ回りかけた魔物の鼻先を叩き、押し戻した。
テオは二人の足元へ、さらに光を寄せようとした。
けれど、魔物と切り離せなかった。
攻撃を、止めなければならなかった。
テオの視線が、黒い外殻の継ぎ目へ止まった。
そこを走る光が、魔物の動きに合わせて移っていた。前脚を出すときには肩で強まり、頭を振ると首へ寄る。その間、肩の輝きは薄くなっていた。
あの瞬間を狙えば、魔法で肩の外殻を割れるかもしれない。魔物が怯めば、二人が岸へ走る時間を作れる。
術式の形まで、頭の中に浮かんだ。
「テオ、撃てるか!」
やどかりの声が響いた。
魔物の頭を剣で押し逸らしながら、男がこちらを見ている。
「一発でいい! こいつを下がらせたい!」
テオは左手を上げかけた。
指先に集まった光が、形になる前にほどけた。
撃てば、こちらを向く。
荷車を潰し、石の橋を砕いたものが、今度は自分を狙う。その光景を想像した途端、肩から先が冷たくなった。川があるから安全だなどとは思えなかった。あの身体なら、浅いところを渡ってくるかもしれない。
逃げ道を作るための魔法なら使えた。人を運び、壁を置く間は、まだ、戦う人たちの後ろにいられた。
自分から傷をつけるのは、違った。
僕は戦わない。
そう決めていた。魔法が使えるからといって、戦う人間にはならない。工房を開き、頼まれた道具を直し、明日もそこで暮らしていく。
その線を、自分の手で越えるのが怖かった。
「テオ!」
もう一度、呼ばれた。
返事をしようとしたが、息だけが喉へ引っかかった。左手には、光の輪郭さえ残っていなかった。
やどかりの目が、その手へ向いた。
魔物の頭を払い、男は剣を構え直した。
「壁を頼む! こっちで、岸へ寄せてみる!」
テオは頷いた。
右の掌へ力を込める。爪を受け止めるところだけ、光が厚くなった。
やどかりがその陰で一歩下がり、エリナへ手を伸ばした。彼女は男の腕を借りて立ち、川下の通りを振り返る。
「あの棚の、向こうへは?」
「回ってみる。足元、気をつけろ」
やどかりが横へ出た途端、魔物も頭を動かした。太い爪が石を削り、通りへ抜ける隙間を塞ぐ。やどかりは踏みとどまり、もう一度剣を振った。
エリナが手を離す。落ちた剣は壁の脇にあった。身をかがめたところで、すぐ向こうへ爪が下りた。
光の壁へ、重い音が響いた。
テオは足場を岸へ寄せたまま、手を動かし続けた。
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テオの背後には、西へ続く道が空いていた。
箱をどけ、荷車を寄せ、人を運ぶために、自分が空けた道だった。川岸を離れれば、建物の陰へ逃げ込める。その先には工房があり、さらに町の外へ続く道もある。
川向こうでは、光の壁の陰に二人がいた。あの壁を残して、自分だけなら逃げられる。
「テオ!」
呼び声に、テオは川向こうへ顔を戻した。
エリナは左肩を押さえたまま、こちらを見ていた。荒い息を継ぎ、もう一度声を張る。
「逃げても、いいからね!」
テオは、聞き間違えたのかと思った。
エリナは笑おうとしていた。息を吸い直し、言葉を続ける。
「テオまで、無理に残らなくていいから!」
掌の向こうで、壁が軋んだ。
テオは力を込め直したが、エリナから目を離せなかった。
「……あなたは」
声が掠れた。
「あなたは、どうするんですか!」
エリナはすぐには答えなかった。
足元と、落ちた剣と、川下を順に見る。そこに確かな逃げ道があるわけではないことくらい、テオにも見えていた。
「考え中!」
彼女は剣へ、もう一度手を伸ばした。
壁の外へ爪が回り込むたびに指を引き、やどかりが頭を逸らす隙を待っている。川下の通りからも、目を離してはいなかった。
テオは開いたままの左手を見た。工房で魔法を見せたとき、エリナは一緒に来てほしいと言った。その力を知っているのに、今は逃げていいと言う。
撃てば助かるかもしれないのに、と言い返しかけた。言えば、自分の手をこの魔物へ向けなければならない。何も言わずに退けば、彼女が剣を拾えるかどうかも見届けずに済む。
光の壁が軋み、テオは右の掌へ力を集めた。声をかければ、まだ彼女は答える。その距離から、自分だけで逃げるところを思い浮かべようとして、できなかった。
やどかりが、魔物の鼻先へ剣を振るった。
黒い外殻を打つ音が響き、エリナがその隙に、ようやく剣の柄へ指をかけた。二人は互いの位置を確かめ、岸の縁から少しだけ足を戻した。
テオは唇を噛んだ。
ここから先は、自分で決めなければならなかった。
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背後で、誰かが子供の名前を呼んだ。
テオは一度だけ町を振り返った。
工房へ続く道に、毛布を掛けられた老人がいた。二人の男に支えられ、その隣を老女が歩いている。きちんと運べと言いながら、自分でも夫の肩へ手を添えていた。
店の軒下には、子供たちが身を寄せていた。その一人が、直したばかりの木の車輪を胸へ抱いている。怖がる小さい子へ何か話しかけながら、何度も橋の方を見ていた。
毎朝、顔を合わせる人たちだった。
誰がどの道具を使っていて、どこをよく壊すのか、テオは知っている。礼を言うときの声も、店先で同じ話を繰り返す癖も、思い出せた。
すぐ横では、ミアが血に濡れた布を取り替えていた。
衛兵に声をかけながら、その掌から光を流し続けている。工房で薬草の袋を開けていた指が、今は少しも休んでいなかった。
その向こうで、やどかりが魔物を食い止めていた。
道具を持たせると余計なところまで引っ張る手が、剣を握り、エリナの前から退こうとしない。
そして、その近くにはエリナがいた。
帰りたいのだと、彼女は何度も言っていた。引っかかる食堂の扉を自分の手で開け、父と母にただいまと言いたい。温かい食事の話になるとよく笑い、自分でも扱えるように作った小さな火を、あれほど嬉しそうに見つめていた。
生きて帰りたいと願っているその人が、今は傷ついた身体で、自分にも帰る道を残そうとしている。
テオは、草地に残してきた荷物を思い浮かべた。
四人分の台が入っている。
工房へ戻れば、鍋を押さえる金具を直すつもりだった。今日、使いづらかったところを、三人と確かめたかった。
けれど、道具の具合だけなら、ほかの誰に聞いてもよかった。
そうではなかったのだ。
次は何を作ってきたのかと、エリナが鍋を開けるところを見たかった。ミアが一口飲んで、使った香草に気づくのを聞きたかった。やどかりが余計なことを言い、自分が言い返し、二人が笑う。
外から子供が呼びかけ、隣の老女が顔を出す。昼飯を食べろと言われ、今日は食べていますと答える。
その続きを、自分は待っていた。
硬いものがぶつかる音に、テオは川向こうへ顔を戻した。やどかりの靴が岸の縁を削り、落ちた石が水へ跳ねた。男は踏みとどまったが、エリナとの間はさっきより狭くなっていた。
世界を救うという言葉を聞いても、何をすれば終わるのか、どこまで自分を差し出せばいいのか、分からなかった。
けれど今、目の前で失いたくないものには、一人ずつ顔があった。
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「……僕は」
口を開くと、息が震えた。
エリナがこちらを見た。
「世界なんて、救いません」
右手の壁は、動かさなかった。
そのまま左手を下ろし、開いた掌の先に、新しい術式を描く。小さな光の輪が生まれ、その外側へ、もう一つ輪が重なった。
「そんな大層なもの、知りません」
輪は広がりながら数を増し、テオの前でゆっくり重なっていった。水面へ白い光が落ちる。風に乱れない線が、川岸の石を照らした。
魔物の頭が上がった。
川向こうの青年を見つけ、低く唸った。
テオの指が震えた。狙われるのは怖かったし、次の一歩を踏み出したあとに、自分がどうなるのかも分からなかった。
それでも今度は、光をほどかなかった。
「でも――」
壁の陰にいるエリナを見る。
「僕の知っている人たちくらいなら」
外側の輪が閉じた。
その中へ集まった光が、指の影を石畳へ濃く落とす。
「助けてもいい」
エリナの唇が動いた。
けれど、何か言うより先に、テオは西岸の縁へ一歩出ていた。
「ミアさん。二人を、こちらへ戻します」
ミアが顔を上げた。
川向こうを見て、それから、テオの手を見る。彼女は短く頷いた。
「お願いします。戻ってきたら、私が診ます」
テオは息を吸った。
冷やす箱を作るときは、余分な熱を外へ出した。灯りを直すときは、隣の部品を傷めないよう、力を狭い場所へ通した。
今も、狙う場所だけは間違えてはいけなかった。
「やどかりさん!」
男がこちらを見た。
「川下へ、避けてください!」
やどかりの目が、白い光を捉えた。
男は一度頷き、身を低くして、魔物の脚の外側へ飛び込んだ。テオはその背中が射線から抜けるのを確かめ、左手を上げた。
右の壁へ押し返される重みを確かめ、テオは左手の光を絞った。狙う場所の向こうに、エリナはいない。やどかりの剣も射線から外れた。
魔物がやどかりを追って頭を振った。外殻の継ぎ目を走る光が首へ寄り、肩の輝きが薄れる。
テオが待っていたのは、その瞬間だった。
テオは、左手を前へ出した。
川の上を、白い光が渡った。
魔物の光が肩へ戻るより早く、白い一撃がそこを捉えた。
水面が一瞬明るくなり、次いで、東岸から耳を塞ぐほどの音が返ってきた。肩を覆っていた黒い外殻が割れ、破片が人のいない通りへ飛ぶ。エリナを覆う壁だけは、その前に静かに立っていた。
テオは、光の向こうを見ていた。
エリナたちを岸へ追い詰めていた巨大な身体が、四本の脚で石畳を抉りながら、初めて、後ろへ押し戻されていく。
その手前に、二人が戻ってくるための隙間が開いていた。
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エリナは壁の陰で、息をするのも忘れていた。さっきまで、剣を何度叩きつけても薄い傷しか残らなかったものが、魔物の肩から剥がれ落ちている。その向こうでは、巨体が足を踏み直し、崩れた荷車へ背中をぶつけていた。
川を挟んだテオの左手には、まだ白い光が残っていた。
「今です! 二人とも、足場へ!」
呼び声に引き戻されるように、エリナは息を吸った。
やどかりが彼女の背へ手を当てた。二人は魔物の足元を抜け、岸へ走る。膝の傷が引かれたが、脚は動いた。
川の上の光が、岸へぴたりとついた。
エリナが先に足を載せ、振り返った。
崩れた石を越えるやどかりへ手を差し出す。男が掴み、もう一歩を踏み出した。
足場がわずかに沈み、すぐに高さを戻す。
「乗った!」
エリナが叫んだ。
テオは二人の足を確かめ、岸から光を離した。二人を乗せたまま水面へ滑り出し、西岸へ向かって動き始める。
魔物が吼えた。
振り返ったエリナの目に、こちらへ飛びかかろうと身を沈める姿が映った。
叫ぶより早く、東岸にもう一枚、光の壁が立った。魔物の頭がぶつかり、重い音が川へ響く。足場は揺れなかった。
テオが右手で二人を引き寄せながら、左手を前へ差し出していた。
「そのまま、動かないでください」
声が、少し裏返っていた。
けれど二人の下にある光は、真っ直ぐに岸へ着いた。