ボロボロ勇者とカッコつけおじさん   作:時々、たくあん

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第28話 戻ってくる人たち

 西岸の人々は、広い道の奥へ下がっていた。

 けれど、全員が自分の足で歩けるわけではなかった。ミアは運ばれてきた衛兵の傍らへ膝をつき、血に濡れた袖を切り開いている。近くの男へ布を押さえる場所を教えながら、自分は傷へ手をかざした。

 川向こうで剣が打ち合わされるたび、彼女の肩がわずかに動いた。

 

「テオさん、二人は」

「足場を作ります。岸まで来られれば、運べます」

 

 テオは川の上へ光を伸ばした。

 橋を支えるより、二人分の足場を作る方がずっと軽い。これなら運べる。魔物から少しでも離れれば、西岸へ下ろせる。

 

「エリナ! こちらへ!」

 

 彼女が一瞬こちらを見た。

 差し出された足場に気づき、やどかりへ声をかける。二人が同時に下がろうとしたところへ、魔物の尾が振られた。崩れた石が跳ね上がり、岸へ続く道を塞いだ。

 エリナは腕で顔を庇った。足元へ転がり込んだ石を避けきれず、片膝をつく。勢いのまま左肩が石積みへ当たり、剣が手を離れた。

 

 テオは右手を伸ばした。

 魔物の爪とエリナの間へ、光の壁が立つ。彼女は反対の手をつき、壁の陰へ身体を寄せた。破れた膝の布に、血が滲んでいた。

 

「エリナ!」

 

 ミアが顔を上げた。

 やどかりがエリナの前へ出る。壁の端へ回りかけた魔物の鼻先を叩き、押し戻した。

 テオは二人の足元へ、さらに光を寄せようとした。

 けれど、魔物と切り離せなかった。

 

 攻撃を、止めなければならなかった。

 

 テオの視線が、黒い外殻の継ぎ目へ止まった。

 そこを走る光が、魔物の動きに合わせて移っていた。前脚を出すときには肩で強まり、頭を振ると首へ寄る。その間、肩の輝きは薄くなっていた。

 あの瞬間を狙えば、魔法で肩の外殻を割れるかもしれない。魔物が怯めば、二人が岸へ走る時間を作れる。

 術式の形まで、頭の中に浮かんだ。

 

「テオ、撃てるか!」

 

 やどかりの声が響いた。

 魔物の頭を剣で押し逸らしながら、男がこちらを見ている。

 

「一発でいい! こいつを下がらせたい!」

 

 テオは左手を上げかけた。

 指先に集まった光が、形になる前にほどけた。

 

 撃てば、こちらを向く。

 

 荷車を潰し、石の橋を砕いたものが、今度は自分を狙う。その光景を想像した途端、肩から先が冷たくなった。川があるから安全だなどとは思えなかった。あの身体なら、浅いところを渡ってくるかもしれない。

 逃げ道を作るための魔法なら使えた。人を運び、壁を置く間は、まだ、戦う人たちの後ろにいられた。

 自分から傷をつけるのは、違った。

 

 僕は戦わない。

 

 そう決めていた。魔法が使えるからといって、戦う人間にはならない。工房を開き、頼まれた道具を直し、明日もそこで暮らしていく。

 その線を、自分の手で越えるのが怖かった。

 

「テオ!」

 

 もう一度、呼ばれた。

 返事をしようとしたが、息だけが喉へ引っかかった。左手には、光の輪郭さえ残っていなかった。

 

 やどかりの目が、その手へ向いた。

 魔物の頭を払い、男は剣を構え直した。

 

「壁を頼む! こっちで、岸へ寄せてみる!」

 

 テオは頷いた。

 右の掌へ力を込める。爪を受け止めるところだけ、光が厚くなった。

 やどかりがその陰で一歩下がり、エリナへ手を伸ばした。彼女は男の腕を借りて立ち、川下の通りを振り返る。

 

「あの棚の、向こうへは?」

「回ってみる。足元、気をつけろ」

 

 やどかりが横へ出た途端、魔物も頭を動かした。太い爪が石を削り、通りへ抜ける隙間を塞ぐ。やどかりは踏みとどまり、もう一度剣を振った。

 エリナが手を離す。落ちた剣は壁の脇にあった。身をかがめたところで、すぐ向こうへ爪が下りた。

 光の壁へ、重い音が響いた。

 テオは足場を岸へ寄せたまま、手を動かし続けた。

 

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 テオの背後には、西へ続く道が空いていた。

 箱をどけ、荷車を寄せ、人を運ぶために、自分が空けた道だった。川岸を離れれば、建物の陰へ逃げ込める。その先には工房があり、さらに町の外へ続く道もある。

 川向こうでは、光の壁の陰に二人がいた。あの壁を残して、自分だけなら逃げられる。

 

「テオ!」

 

 呼び声に、テオは川向こうへ顔を戻した。

 エリナは左肩を押さえたまま、こちらを見ていた。荒い息を継ぎ、もう一度声を張る。

 

「逃げても、いいからね!」

 

 テオは、聞き間違えたのかと思った。

 エリナは笑おうとしていた。息を吸い直し、言葉を続ける。

 

「テオまで、無理に残らなくていいから!」

 

 掌の向こうで、壁が軋んだ。

 テオは力を込め直したが、エリナから目を離せなかった。

 

「……あなたは」

 

 声が掠れた。

 

「あなたは、どうするんですか!」

 

 エリナはすぐには答えなかった。

 足元と、落ちた剣と、川下を順に見る。そこに確かな逃げ道があるわけではないことくらい、テオにも見えていた。

 

「考え中!」

 

 彼女は剣へ、もう一度手を伸ばした。

 壁の外へ爪が回り込むたびに指を引き、やどかりが頭を逸らす隙を待っている。川下の通りからも、目を離してはいなかった。

 

 テオは開いたままの左手を見た。工房で魔法を見せたとき、エリナは一緒に来てほしいと言った。その力を知っているのに、今は逃げていいと言う。

 撃てば助かるかもしれないのに、と言い返しかけた。言えば、自分の手をこの魔物へ向けなければならない。何も言わずに退けば、彼女が剣を拾えるかどうかも見届けずに済む。

 光の壁が軋み、テオは右の掌へ力を集めた。声をかければ、まだ彼女は答える。その距離から、自分だけで逃げるところを思い浮かべようとして、できなかった。

 

 やどかりが、魔物の鼻先へ剣を振るった。

 黒い外殻を打つ音が響き、エリナがその隙に、ようやく剣の柄へ指をかけた。二人は互いの位置を確かめ、岸の縁から少しだけ足を戻した。

 

 テオは唇を噛んだ。

 ここから先は、自分で決めなければならなかった。

 

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 背後で、誰かが子供の名前を呼んだ。

 テオは一度だけ町を振り返った。

 

 工房へ続く道に、毛布を掛けられた老人がいた。二人の男に支えられ、その隣を老女が歩いている。きちんと運べと言いながら、自分でも夫の肩へ手を添えていた。

 店の軒下には、子供たちが身を寄せていた。その一人が、直したばかりの木の車輪を胸へ抱いている。怖がる小さい子へ何か話しかけながら、何度も橋の方を見ていた。

 

 毎朝、顔を合わせる人たちだった。

 誰がどの道具を使っていて、どこをよく壊すのか、テオは知っている。礼を言うときの声も、店先で同じ話を繰り返す癖も、思い出せた。

 

 すぐ横では、ミアが血に濡れた布を取り替えていた。

 衛兵に声をかけながら、その掌から光を流し続けている。工房で薬草の袋を開けていた指が、今は少しも休んでいなかった。

 その向こうで、やどかりが魔物を食い止めていた。

 道具を持たせると余計なところまで引っ張る手が、剣を握り、エリナの前から退こうとしない。

 

 そして、その近くにはエリナがいた。

 帰りたいのだと、彼女は何度も言っていた。引っかかる食堂の扉を自分の手で開け、父と母にただいまと言いたい。温かい食事の話になるとよく笑い、自分でも扱えるように作った小さな火を、あれほど嬉しそうに見つめていた。

 生きて帰りたいと願っているその人が、今は傷ついた身体で、自分にも帰る道を残そうとしている。

 

 テオは、草地に残してきた荷物を思い浮かべた。

 四人分の台が入っている。

 

 工房へ戻れば、鍋を押さえる金具を直すつもりだった。今日、使いづらかったところを、三人と確かめたかった。

 けれど、道具の具合だけなら、ほかの誰に聞いてもよかった。

 

 そうではなかったのだ。

 

 次は何を作ってきたのかと、エリナが鍋を開けるところを見たかった。ミアが一口飲んで、使った香草に気づくのを聞きたかった。やどかりが余計なことを言い、自分が言い返し、二人が笑う。

 外から子供が呼びかけ、隣の老女が顔を出す。昼飯を食べろと言われ、今日は食べていますと答える。

 その続きを、自分は待っていた。

 

 硬いものがぶつかる音に、テオは川向こうへ顔を戻した。やどかりの靴が岸の縁を削り、落ちた石が水へ跳ねた。男は踏みとどまったが、エリナとの間はさっきより狭くなっていた。

 

 世界を救うという言葉を聞いても、何をすれば終わるのか、どこまで自分を差し出せばいいのか、分からなかった。

 けれど今、目の前で失いたくないものには、一人ずつ顔があった。

 

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「……僕は」

 

 口を開くと、息が震えた。

 エリナがこちらを見た。

 

「世界なんて、救いません」

 

 右手の壁は、動かさなかった。

 そのまま左手を下ろし、開いた掌の先に、新しい術式を描く。小さな光の輪が生まれ、その外側へ、もう一つ輪が重なった。

 

「そんな大層なもの、知りません」

 

 輪は広がりながら数を増し、テオの前でゆっくり重なっていった。水面へ白い光が落ちる。風に乱れない線が、川岸の石を照らした。

 

 魔物の頭が上がった。

 川向こうの青年を見つけ、低く唸った。

 テオの指が震えた。狙われるのは怖かったし、次の一歩を踏み出したあとに、自分がどうなるのかも分からなかった。

 それでも今度は、光をほどかなかった。

 

「でも――」

 

 壁の陰にいるエリナを見る。

 

「僕の知っている人たちくらいなら」

 

 外側の輪が閉じた。

 その中へ集まった光が、指の影を石畳へ濃く落とす。

 

「助けてもいい」

 

 エリナの唇が動いた。

 けれど、何か言うより先に、テオは西岸の縁へ一歩出ていた。

 

「ミアさん。二人を、こちらへ戻します」

 

 ミアが顔を上げた。

 川向こうを見て、それから、テオの手を見る。彼女は短く頷いた。

 

「お願いします。戻ってきたら、私が診ます」

 

 テオは息を吸った。

 冷やす箱を作るときは、余分な熱を外へ出した。灯りを直すときは、隣の部品を傷めないよう、力を狭い場所へ通した。

 今も、狙う場所だけは間違えてはいけなかった。

 

「やどかりさん!」

 

 男がこちらを見た。

 

「川下へ、避けてください!」

 

 やどかりの目が、白い光を捉えた。

 男は一度頷き、身を低くして、魔物の脚の外側へ飛び込んだ。テオはその背中が射線から抜けるのを確かめ、左手を上げた。

 

 右の壁へ押し返される重みを確かめ、テオは左手の光を絞った。狙う場所の向こうに、エリナはいない。やどかりの剣も射線から外れた。

 

 魔物がやどかりを追って頭を振った。外殻の継ぎ目を走る光が首へ寄り、肩の輝きが薄れる。

 テオが待っていたのは、その瞬間だった。

 

 テオは、左手を前へ出した。

 

 川の上を、白い光が渡った。

 魔物の光が肩へ戻るより早く、白い一撃がそこを捉えた。

 水面が一瞬明るくなり、次いで、東岸から耳を塞ぐほどの音が返ってきた。肩を覆っていた黒い外殻が割れ、破片が人のいない通りへ飛ぶ。エリナを覆う壁だけは、その前に静かに立っていた。

 

 テオは、光の向こうを見ていた。

 エリナたちを岸へ追い詰めていた巨大な身体が、四本の脚で石畳を抉りながら、初めて、後ろへ押し戻されていく。

 

 その手前に、二人が戻ってくるための隙間が開いていた。

 

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 エリナは壁の陰で、息をするのも忘れていた。さっきまで、剣を何度叩きつけても薄い傷しか残らなかったものが、魔物の肩から剥がれ落ちている。その向こうでは、巨体が足を踏み直し、崩れた荷車へ背中をぶつけていた。

 川を挟んだテオの左手には、まだ白い光が残っていた。

 

「今です! 二人とも、足場へ!」

 

 呼び声に引き戻されるように、エリナは息を吸った。

 やどかりが彼女の背へ手を当てた。二人は魔物の足元を抜け、岸へ走る。膝の傷が引かれたが、脚は動いた。

 川の上の光が、岸へぴたりとついた。

 

 エリナが先に足を載せ、振り返った。

 崩れた石を越えるやどかりへ手を差し出す。男が掴み、もう一歩を踏み出した。

 足場がわずかに沈み、すぐに高さを戻す。

 

「乗った!」

 

 エリナが叫んだ。

 テオは二人の足を確かめ、岸から光を離した。二人を乗せたまま水面へ滑り出し、西岸へ向かって動き始める。

 魔物が吼えた。

 

 振り返ったエリナの目に、こちらへ飛びかかろうと身を沈める姿が映った。

 叫ぶより早く、東岸にもう一枚、光の壁が立った。魔物の頭がぶつかり、重い音が川へ響く。足場は揺れなかった。

 テオが右手で二人を引き寄せながら、左手を前へ差し出していた。

 

「そのまま、動かないでください」

 

 声が、少し裏返っていた。

 けれど二人の下にある光は、真っ直ぐに岸へ着いた。

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