西岸へ下ろされると、ミアがすぐにエリナの前へ膝をついた。
診ていた衛兵は、近くの男たちに運ばれていくところだった。腕の傷には布が巻かれ、彼自身も反対の手で、その上を押さえている。
「ここへ座ってください」
エリナは、敷かれた毛布へ腰を下ろした。やどかりが剣を預かり、ミアは膝の破れた布をよける。
傷に入った砂を水で流してもらうと、思わず指が毛布を掴んだ。
「ほかに、痛むところは」
「左の肩。息は、苦しくない」
ミアが頷き、上着の裂け目から肩へ触れた。
エリナは、彼女の手首に血がついているのを見た。自分のものではない。さっきまで診ていた誰かの血だった。
「……ありがとう」
「お礼は、あとで聞きます」
ミアは顔を上げなかった。
怒っているのかと思ったが、布を持つ指がわずかに震えていた。エリナはそれ以上何も言わず、言われた通りに、ゆっくり肩を動かした。
そばにいた女が、やどかりの裂けた袖を見つけ、腕へ布を巻いてくれた。男は礼を言い、結び目が緩まないのを確かめてから、テオの肩へ手を置いた。
「助かった」
テオは頷きかけ、すぐに東岸へ顔を戻した。
「まだです」
魔物が、光の壁へ前脚を叩きつけていた。
肩の外殻は確かに割れている。その下から覗く身体にも傷があった。けれど、倒れる気配はなかった。むしろ、今までより激しく頭を振り、こちらを見据えている。
もう、逃げる人々を追ってはいなかった。
テオを探していた。
-----------------------------------------------------------------
テオは、自分の喉が乾いていることに気づいた。
魔物の目が動くたびに、身体が勝手に強張る。逃げたい気持ちは、魔法を一発撃ったくらいではなくならなかった。
それでも、さっきまで川の向こうに取り残されていた二人は、もう自分の後ろへ戻ってきている。エリナの声が聞こえ、それにミアが応じる声も届く。
逃げたい気持ちは消えていなくても、守りたいものとの距離だけは、さっきまでとは違っていた。
魔物が横へ動いた。
壁を回り込み、崩れた護岸から川へ足を下ろす。水が大きく跳ねたが、その身体は沈みきらなかった。砕けた橋の石が川底へ積もり、上流側には、巨体が足をかけられる浅い場所ができていた。
「渡ってきます!」
テオは左手を振った。
光の輪が三つ、川の上へ開いた。続けて放たれた白い光が、魔物の頭、肩、前脚を、角度を変えて叩いた。
そのたびに水柱が上がった。
エリナは毛布の上で目を見開いた。
一発でも、さっきの魔法は凄まじかった。それが、途切れずに降っている。自分なら踏み込むだけで精一杯だった間合いの外から、テオは魔物を押し返し、岸へ近づく足を止めていた。
けれど、倒れなかった。
最後の光が肩へ当たる直前、魔物の身体を走る輝きが、傷口を覆うように集まった。
今度は、その光が白い一撃を受け止めた。衝撃に巨体が傾く。川底の石を踏み砕きながらも、魔物は足をつき直した。割れた外殻の下は光に覆われ、傷口へ魔法が届いていなかった。魔物は傷ついた肩を庇い、頭を低くした。
「……そこへ、集まるのか」
テオが呟いた。
彼の目は、魔物の表面を走る光を追っていた。
「何がだ」
やどかりが聞いた。
「あの光は、身体を守っているんです。僕の魔法が当たるところへ集まって、受け止めている」
もう一つ、輪を作る。
今度は、外殻の割れた肩だけを狙って、小さな光を放った。やはり傷口の前へ光が集まり、白い一撃を弾く。その代わり、喉元を覆っていた輝きが薄くなった。
「最初は、肩の守りが薄いうちに当てられました。でも今は、撃つたびに守りが間に合ってしまう」
テオは息を吐いた。
魔物は、さらに一歩踏み出した。流れを割った前脚が、こちらの岸に近い石へ載る。
テオが右手を突き出すと、水際に壁が立った。
突進を受け止めた光が、低い音を立てて震える。
「肩へ集まった分、喉の守りが薄くなったな」
やどかりが言った。
テオは歯を食いしばり、壁を少し川側へ押し戻した。相手の後ろ脚が川底を掻き、濁った水が渦を巻く。
「なら、肩を撃ち続けろ」
テオが横を見ると、男は剣の握りを確かめていた。
「そこへ守りを引っ張っておけ。その間に、喉を狙う」
テオは魔物の喉元へ目を移した。
輝きの薄れたところにも、黒い外殻が重なっている。守りを肩へ寄せるだけでは、剣は通らない。けれど、その間なら、外殻の縁を捉え、左右へ押し開けるかもしれない。
「喉の外殻は、僕が隙間を広げます。ただ、頭が下がったままでは、狙えません」
「上げさせる」
「その間、あなたは攻撃できませんよ」
「私が行く」
ミアの向こうから、エリナの声がした。
テオが振り返る。少女は毛布の上へ片手をつき、二人を見ていた。
「頭が上がって、喉の殻を開けてくれたら、そこへ私が剣を突く」
立ち上がろうとしたところで、ミアが膝の布を押さえた。
「待ってください。まだ、手当てが終わっていません」
「……うん」
エリナは腰を戻した。
川で魔物が水を蹴る音がした。テオは正面へ顔を戻し、壁を押し出す。その向こうで、黒い頭が一度退いた。
ミアが布の端を留め、エリナから手を離した。
「膝を曲げてみてください。肩も、どこまで動くか」
エリナは立ち、ゆっくり膝を曲げた。擦りむいたところは痛んだが、体重をかけても脚は支えられた。左の肘を上げると、途中で肩が痛んだ。
そこまでを、ミアへ伝えた。
やどかりが剣を差し出した。
右手に左手を添え、腰の高さで構えてみる。ミアは肩の動きを見てから、頷いた。
「振りかぶったり、あの爪を受けたりは、しないでください」
「うん」
エリナは川を見た。
全部を相手にする必要はなかった。あの身体を一人で押し返すわけでも、硬い外殻を剣だけで割るわけでもない。
みんなが作ってくれたチャンスを使って、喉へ剣を突き込む。
「やどかりさん、頭をお願い。テオ、あの喉元の継ぎ目を開けられる?」
「やってみます。開くまでは、待ってください」
「待つ。呼んで」
テオは一度だけ、彼女を見た。
肩を押さえていた手が、今は剣の柄に添えられていた。その剣の前へ道を作るのを、エリナは自分に任せようとしている。
「長くは持ち上げておけねえぞ」
やどかりが言った。
エリナは剣を握り直した。
「うん。一回で決める」
-----------------------------------------------------------------
テオは、岸の階段を見た。
川へ下りるための古い石段だった。上の二段は乾いていたが、その下は飛沫に濡れ、端には苔がついている。
エリナが足を滑らせるところを想像して、テオは指先を動かした。
石の表面から水が抜け、薄い泥と一緒に川へ落ちた。つま先の載る場所へ、凹凸のある光を一枚重ねる。
エリナが、その上へ足を置いた。
「ありがとう!」
魔法を使ったところを、彼女は見ていた。石段の上から声を張り、乾いた足元を確かめている。
テオは頷き、すぐに正面へ向き直った。
やどかりはエリナより上流側へ出ていた。腕に巻かれた布の端を確かめ、自分の剣を握り直してから、魔物を見た。
「壁、少し開けられるか」
「どのくらいですか」
「こいつが、俺を噛みたくなるくらい」
テオは男を見た。
「もっと、まともな言い方はありませんか」
「あるなら言ってくれ」
テオは唇を結び、壁の端をわずかに引いた。
隙間の向こうで、魔物の目がやどかりを捉えた。男が剣で石を叩くと、低い唸り声が返ってくる。
「おう、覚えてるか。さっきから、鼻っ面を殴ってる方だ」
魔物が前脚を出した。
水が弾け、壁の切れ目へ頭が突き込まれる。
やどかりはすぐには逃げなかった。剣を低く構え、相手の鼻先が自分の足元へ届くぎりぎりまで、そこに立っていた。
「今、肩だ!」
男が叫んだ。
テオの左手から、白い光が走った。
魔物の肩に、守りの光が集まる。
その光を見て、やどかりが踏み込んだ。岸の一段低い石へ足を置き、迫る顎の下へ剣を差し入れる。
刃で斬ろうとはしなかった。剣の腹を押し当て、相手が噛みつく力を横へ逸らしながら、全身で頭を持ち上げた。
男の靴が、石の上を滑った。
「っ、重てえ……!」
テオは右手の壁を変えた。
広い面を畳み、魔物の前脚の横へ押し当てる。踏み替えようとした足が止まり、上がりかけた頭が、一瞬、その位置に留まった。
喉の下が見えた。
エリナは、石段を一つ下りた。
魔物の肩では、テオの放つ白い光が次々に弾かれていた。守りの光がそこへ集まる分だけ、喉元の輝きが薄くなる。
けれど、外殻は残っている。
エリナは足を止めた。
テオが、それを見ていた。
「そのまま!」
声が届く。
テオの左手が、わずかに開いた。
肩への攻撃を続けたまま、その光の端から、細い線を二本伸ばす。二本の光は魔物の喉元へ滑り込み、重なった外殻の縁を、左右から捉え、黒い外殻をこじ開けていた。
軋む音を立てて、喉元の外殻が左右へ開いた。剣一本を差し込める幅ができ、その奥に、殻の下に隠れていた肉が覗いた。二本の光が、開いた外殻を押さえている。
「エリナ、今です!」
彼女は踏み込んだ。
剣を振り上げず、腰の高さから前へ出した。
左肩には鈍い痛みがあった。けれど、足は滑らなかった。テオが乾かした石を踏み、やどかりが支える頭の下へ進む。目の前では、まだ二本の光が喉元の外殻を押し開いていた。
露わになった喉へ、両手で剣を突き込む。
いつものように硬いものへ弾かれる音はしなかった。両手へ返ってきたのは、刃が確かに奥へ入っていく重い感触だった。
通った、と理解するより早く、エリナはその機会を無駄にしないよう、もう一歩、身体ごと前へ押し込んだ。
-----------------------------------------------------------------
魔物の身体が、大きく震えた。
やどかりが剣を外し、エリナの腕を掴む。彼女が自分の剣を引き抜くのと同時に、二人は岸へ退いた。
追おうとした前脚が、上がらなかった。
魔物の身体を覆っていた光が、ばらばらに揺れた。
肩へ集まっていた輝きが薄くなり、大きな頭が水面へ近づいていく。テオは最後まで壁を消さず、崩れる巨体を、人のいる岸から川の中央へ押し戻した。
水が跳ねた。
エリナはやどかりに肩を引かれ、石段の上で膝をついた。顔に冷たい飛沫がかかったが、すぐには拭けなかった。
川の中で、魔物は動かなくなっていた。
少しの間、誰も声を出さなかった。
折れた木片が、川をゆっくり通り過ぎていった。テオが壁を薄くしても、魔物は頭を上げなかった。
「……終わったか」
やどかりが言った。
テオは川を見たまま、頷いた。
「動いていません。あの光も、消えました」
エリナの肩から力が抜けた。
剣を置こうとして、指がうまく開かなかった。ミアがそばへ来て、一本ずつ、柄から外すのを手伝ってくれる。
「お疲れ様でした」
その声に、エリナは顔を上げた。
ミアが見ていた。
「……うん」
今度こそ、返事ができた。
*
テオは、自分が壁を消せずにいることに気づいた。
もう動かない。何度見ても分かる。けれど指を閉じて、魔法を解く瞬間に、また頭が上がるような気がした。
「テオ」
やどかりが、横へ来た。
男は何も持たない手を見せ、それから川を顎で示した。
「大丈夫だ、手を下ろせ」
テオは、やどかりの横顔を見た。
男の剣は、まだすぐに取れる場所にあった。テオはその手元を見てから、指の力をゆっくり緩めた。光の壁が薄れて水面の色へ溶けていく。最後の明かりが消えた途端、魔法と一緒に張りつめていた力まで抜けたように、膝が頼りなく揺れた。
「……っ」
やどかりが腕を支え、岸の石へ座らせた。
テオは両手を膝へ置いたが、震えが止まらなかった。魔法を使っている間は、あれほど細かく動かせていた指が、今は水筒の蓋さえ掴めない。
少し離れたところから、エリナが見ていた。
「開けてあげて」
「分かってる」
やどかりが蓋を外し、テオへ渡す。
飲もうとして、少しこぼした。前掛けに水が落ちた。
「……情けないですね」
テオが呟くと、エリナが首を振った。
「私、最初は、もっとひどかったよ」
慰めるためだけの声ではなかった。
その顔を見て、テオは水筒を両手で持ち直した。
「怖かったです」
言うつもりのなかった言葉が、出た。
「ええ」
ミアが答えた。
彼女はエリナの肩へ、冷たい布を当てていた。
「私もです」
やどかりが、隣の石へ腰を下ろした。
「俺も、あの頭は二度と持ち上げたくねえな」
テオは少しだけ息を漏らした。
笑ったのか、ただ息が抜けただけなのか、自分でも分からなかった。