ボロボロ勇者とカッコつけおじさん   作:時々、たくあん

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第03話 閉ざされた扉

 男が食堂を訪ねるまでの三年間、エリナは戦うことをやめなかった。

 

 魔王に敗れてから一年が過ぎる頃には、エリナは再び街道に立っていた。左肩の傷は塞がったが、腕は動かなかった。治療師が包帯を外すと、傷の周りに残った黒い痕が見えた。初めは傷の縁にしかなかったのに、今はそこから指二本ぶんほど離れた箇所にも細い筋が伸びている。指で拭っても落ちず、薬を塗っても、そこだけは肌の色へ戻らない。

 

「傷は塞がっています。左腕は動くはずです、動かないのは、この痕が原因だと思われます」

 

 治療師はそう言い、左肩へ手を当てた。魔法の温かさは感じられた。指に触れられれば、それも分かった。けれど、曲げてみてくださいと言われるたび、エリナは動かない指を見つめることになった。肩の痛みが和らぐことはあっても、自分の意思で腕を持ち上げることはできなかった。

 

 左腕を布で支え、右手で剣を抜く練習をした。鞘が一緒に持ち上がらないよう剣帯を締め直し、刃を受け止めるより先に足を動かすようになった。荷の口を結ぶだけでも、紐の端を膝で押さえなければならない。それでも支度を終えると、街道へ出た。動く手で魔物を倒し、路銀を稼ぎ、次こそ魔王に届くようにと腕を磨いた。私は勇者だから、頑張らなければいけないんだと。

 黒い痕は、襟を留めていれば見えなかった。エリナはそれを確かめてから人のいる場所へ出た。もう大丈夫なのかと聞かれれば、大丈夫ですと答え、右手を上げてみせた。

 

 襲われた村で、家の中に取り残された子供を助けたことがあった。

 剣を鞘へ戻し、子供の前に背を向けて屈んだ。首へしがみつく腕を確かめ、右手で腿の下を支えて立ち上がる。子供がずり落ちないよう、いつもより小さな歩幅で外へ出た。

 母親が駆け寄ってその身体を受け取り、膝をついた。子供を抱き締めたあと、泥で汚れたエリナの右手を、両手で握った。

 

「ありがとうございます、勇者様。本当に……ありがとうございます」

 

「怪我はないと思います。怖かっただけで……」

 

「勇者様」

 

 泥だらけの子供が顔を上げた。

 

「魔王も、やっつけてね」

 

 エリナは笑って頷いた。

 

「うん」

 

 その頃はまだ、その言葉が背中を押してくれた。

 

 二年目には、食料を運ぶ馬車を護衛した。空は薄汚れた布を一枚張ったように暗く、畑には刈り入れを待つにはあまりに短い麦が並んでいた。荷台の袋も、前年より目に見えて減っている。休憩のとき、御者が配ったパンは、切り口の向こうが透けそうなほど薄かった。

 

「助かったよ、勇者様」

 

 荷を下ろし終えた御者が、帽子を取った。

 

「魔王のこともあるだろうに、こんな仕事まで悪いな」

 

「困っている人を助けるのも、勇者の仕事ですから」

 

 自然に言えた言葉だった。けれど、片腕だけで荷を運び終えた右腕は重く、帽子を振る御者へ同じように手を上げるには、少し力が要った。

 前年は肩口に収まっていた黒い痕が、鎖骨の近くまで伸びていた。左腕を支える布は、何度も洗って端がほつれていた。結び目を直そうと右手を回した拍子に襟がずれ、痕の一部が覗いた。隣にいた御者が言葉を切った。その視線に気づいたエリナが襟を引き上げるまで、二人の間には、荷を下ろす音だけが続いていた。

 

「……そいつは、魔王につけられたのか」

「はい、でも傷は塞がってます、お城の治療師さんたちも動くように頑張ってくれているのできっと大丈夫です」

 

 それ以上、何と言えば安心してもらえるのか分からなかった。御者は頷いたが、別れるときには先ほどより小さく手を上げていた。

 

 三年目、同じように街道で魔物を倒した。剣の腕は、出発した頃とは比べものにならなかった。右手で柄を握る動きに迷いはなく、相手の爪が届く範囲も分かる。動かない腕の側へ回り込まれる前に、足の向きを変えられるようにもなっていた。初めての戦いで逃げ回っていた娘は、もうそこにはいなかった。

 

 助けた男は、道端に倒れた魔物を見ていた。

 

「……こんなところで何してるんだ」

 

「え?」

 

「魔王を倒せよ!」

 

 エリナは、刃についた血を拭う手を止めた。男の頬はこけ、服の肘には繰り返し繕った跡があった。手にした袋には、底のほうにしか荷物が入っていなかった。

 

「こんな魔物一匹倒したって、何も変わらないだろ」

 

 男は袋を抱え直し、歩いていった。エリナは呼び止めなかった。足元には、今しがた倒した魔物がいた。その爪も、牙も本物で、間に合わなければあの男は死んでいたかもしれない。そう思いながらも、去っていく背中を前にすると、自分が何か大切なことを怠っているような気がしてきた。

 

 魔王がまだ生きている。畑の実りは減り、街道には魔物が出る頻度が増えた、最近は王都ですら襲われるようになった。勇者は何をしているのかという声を聞くたび、エリナは襟元へ手をやった。黒い痕が首元へ届いていた。襟の留め具は壊れ、ほつれた布を寄せても、首を動かせばその端が覗いた。

 

 水場で顔を洗っていると、隣にいた女が桶を引いた。宿で左腕の布を掛け直し、肩口が覗いただけで、食事を運んできた男の足が止まる。口に出して尋ねる人は減り、エリナが背を向けたあとに、低い声が交わされるようになった。

 

 魔王の呪いを持ち帰った勇者がいる。

 

 初めは、傷を見た人が、治らないのかと囁く程度だった。それが次の町へ届く頃には、黒い痕がある呪われた勇者を魔物が追ってくるという話になっていた。

 

 呪いが魔物を呼ぶという噂に、根拠はなかった。魔物の被害は、エリナが通ったことのない村にも広がっていた。彼女が助けに向かった土地では、襲撃の知らせのほうが先に届いていた。それでも、焼けた家を見た者から別の者へ話が渡るうち、いつ勇者が来たのかは曖昧になり、勇者が先にいたということになっていた。

 

「ここには泊められない」

 

 宿の主人は、エリナの背後を見ていた。通りにいた誰かがエリナを見て走っていったようだった。

 

「私が来る前から、東の街道は襲われていて……」

「お前が呼んだんじゃないと、分かるのか」

 

 エリナは答えかけた。

 治療師から、魔物を呼ぶ傷だと言われたことはない。そう説明しようとすると、主人の後ろで幼い子が顔を出した。

 

「うちには子供がいるんだ。分かってくれ」

 

 扉が閉まった。エリナは勇者認定証を出しかけていた手を下ろした。これを見せても、その子を怖がらせずに戸口を通れる気はしなかった。

 仲間を求めるどころか、宿屋で夜を越すことさえ、今は頼みにくくなっていた。

 

 ある町の通りで道を塞がれた。男が一人、こちらの首元を見ていた。身を引こうとすると、後ろの者にもその視線が伝わり、空いていた道が狭くなった。

 

「お前、勇者だな」

 

 エリナの手が襟へ上がった。隠そうとした動きに、男の顔が強張る。

 

「その呪いを持って、ここにも魔物を呼ぶつもりか」

「私は……」

「西の宿場も襲われた。お前、あそこにいたんだろ」

 

 エリナは頷きかけた。宿場は襲われていない、街道で襲われた怪我人を運ぶために残っていたのだ。そう続けるより先に、男の手が伸び、エリナの右の二の腕を掴んだ。

 

「また魔物を連れてくる気か! この町から出ていけ!」

 

 掴まれた腕を引くと、男のもう片方の手が握られた。肩の動きは見えた。避けるための足の動かし方も、身体は覚えていた。それでも、自分を見つめる人々の顔から目を離せずにいるうち、拳が頬へ当たった。奥歯が唇の内側を切った。血の味が広がり、よろめいた先でも、腕を掴む指は離れなかった。

 

「呪いを持ち込むな!」

「お前がいなくなれば、魔物も来なくなる!」

 

 最初の男を止めようと肩を掴もうとした者もいたが、他の人々に押し返された。その脇からも声が上がり、別の手がエリナの肩を押し出した。男の指が緩んだ隙に、エリナは右腕を引き抜いた。その手が剣の柄に触れかけると、前にいた女が子供を抱えて退いた。その動きを見て、エリナは手を離した。ここで剣を抜けば、人々が怯えて見ているものに、自分から近づいてしまう気がした。

 

 人垣の中に、見覚えのある子供がいた。以前、この村で背負って外へ連れ出した子だった。目が合うと、子供は母親の服を掴んだ。母親が口を開きかけ、エリナの首元へ目をやる。

 

「みんな! エリナさんは、前に……」

「だったら、あんたの家へ泊めるのか」

 

 隣から声が飛んだ。母親は返事をせず、子供を抱く腕へ力を込めた。子供を助けた時、礼を言いながら手を握ってくれた人だった。

 その同じ手が、一瞬だけ、今は子供をエリナから離すために動いていた。

 その人に助けてほしいと声をかけたかった。だけど私を庇えばこの人が困ってしまう、自分のために、この親子まで怖い思いをするかもしれない。そう考えて俯き、エリナは町から去ることにした。唇から伝った血が石畳へ落ちた。

 

 呪いが魔物を呼ぶところを、誰かが見たわけではなかった。エリナがいない場所でも魔物に襲われていたし、エリナが辿り着いた街では魔物に襲われないことの方が多かった。

 それでも、何度も同じ言葉を浴びるうち、エリナには、聞き覚えのある噂と、治療師から言われていることのどちらが正しいのか分からなくなっていた。

 困っている人を助けようとする度に、この身体で駆け寄ってよかったのかと考え始めると、記憶の中へまで黒い痕が伸びてくるようだった。

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 王国からの支援は、少しずつ減っていた。薬を替え、治療を続けても、左腕は動かず、黒い痕の広がりも止められなかった。やがて届いた紙には、治療と討伐への支援を終えると書かれていた。エリナは同じ行を何度も読み、自分が明日どこで眠ればよいのかは、その下の余白を見ても分からなかった。

 

 武器の修理に必要な金が出なくなり、治療を頼んでも順番はなかなか回ってこなくなった。担当する者が変わるたび、一から事情を説明した。左腕を見せるために布を外すと、掛け直すのを手伝ってくれる人もいたが、これまでのような治療を受けさせてもらえるわけではなかった。

 

 それでも、国中を歩き回り、魔物を倒し続け、王都へ戻った頃には、聖剣の刃先はついに欠け落ちていた。

 剣帯には、出発したときにはなかった不揃いな穴がいくつも増えている。痩せるたびに締める位置を変え、右手で引きやすいよう、端には紐を結び足してあった。左腕を吊る布は、ほつれた縁を何度も折り返したせいで、初めより幅が狭くなっていた。エリナは布の端を右手で引き、緩んだ結び目を締め直した。でも、これ以上は戦えないと思った。

 

「王様に、会わせてください」

 

 その日の午後、王城の門前で、エリナは頭を下げた。左腕は胸の前で布に支えられていた。右手で持ち上げれば、その重さも、袖の擦れる感触も分かる。けれど自分で動かそうとすると、指一本、思うようにならなかった。三年前と同じことを、門の前でも確かめてしまった。

 

「少しだけでいいんです。治療のことで、相談したくて……」

 

 門番は目を合わせなかった。見覚えのある男だった。以前はエリナを見かけるたびに背筋を伸ばし、勇者様、と大きな声で迎えてくれた。今は、握った槍の先だけを見ていた。

 

「……お帰りください」

 

「でも、前に、こちらで相談するようにって」

 

「命令です」

 

 男の声が、少しだけ大きくなった。それきり何も言わなくなったので、エリナのほうも、すぐには続きを尋ねられなかった。

 

「……誰の?」

 

 答えはなかった。くぐり戸の向こうで、門を閉じる合図がした。重い扉がゆっくり動き、男の姿が狭く切り取られていく。隙間の向こうに、王城の白い石段が見えた。旅立つ前、あの向こうへ招かれた。剣を持ち上げ、必ず魔王を倒すと約束した。約束を守れなかったまま戻ってきた自分を、もう通してはもらえなかった。

 

 扉が閉まった。エリナはしばらく、そこに立っていた。もう一度頼もうと口を開いたが、門の前では、声を向ける相手さえいなかった。

 

 王城にも入れないのなら、もう王都に残っていても仕方がない気がした。

 治療を受けられるあてもなく、泊まる場所もない。どこへ行くかは決めていなかった。ただ、人の多い王都から離れれば、少なくとも誰かを怖がらせずに済むかもしれない。

 エリナは荷物を持ち直し、城門へ向かった。

 

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 夕刻になっても、エリナは王都を出られなかった。城門へ続く大通りには荷車が並び、その間を抜けようとする人々の肩が触れ合っていた。あの中へ入れば、誰かに傷を見られてまた殴られるかもしれない。そう思って足を止めると、通りを横切るだけの距離が、ひどく遠く感じられた。

 

 人のいないほうへ歩き、閉まった店の裏へ回った。頬が腫れて、口を閉じていても奥歯に痛みが響いた。唇の内側には、まだ血の味が残っている気がする。

 

 ここから出ていけ。

 お前は呪われている、お前のせいで魔物が来る。

 

 何度も聞いた言葉が、歩調に合わせて頭の中を巡った。自分が助けに着く前から燃えていた家も、魔物を追い払ったあとに殴られた痛みも、覚えている。

 村へ帰れば、父と母の店にも、魔物が来ると言われるのだろうか。助けに向かった村が、着く前から襲われていたことは覚えていた。それでも、自分を疑ってしまった。

 

 ここを出て、別の町へ行けば、同じ顔を向けられるのだろうか。人のいる場所へ近づくたび、出ていけと言われるのなら、いったいどこまで離れればよいのだろう。今夜、自分を泊めてくれた家があったとしても、何かが起きたら、私のせいになるのだろうか。

 まだ起きてもいない出来事を考えるだけで、家の灯りへ寄りかけた足を、引き戻した。まだ起きていないことまで考え、誰かの戸を叩こうとする自分の手が、怖くなった。

 

 市場の裏に、空いた倉庫があった。王都へ戻ってから、何度かここで寝ていた場所だった。床には昨夜、寝床の代わりにした麻袋が残っていた。

 エリナは腰を下ろし、聖剣を壁へ立てかけた。右手を離すと、鞘が少し傾いた。左手で押さえようとしても動かず、また右手を伸ばして置き直した。

 

 荷物から紙を出した。膝へ押し当てて折り目を伸ばすと、治療を受けた日付が裏へ書き込まれていた。その下には、もう新しい日付はなかった。

 誰にも会わずにいれば、これ以上、迷惑をかけない、怖がらせずに済む。そう考えて紙を畳んだ。

 

 隣の建物では夕飯の支度が始まったらしく、包丁で何かを刻む音がした。エリナはそちらを見ないようにして、膝へ顔を伏せた。もう一度、治療を頼みに行かなければいけない。明日の朝には立ち上がれるだろうか。

 

 

 倉庫の扉が叩かれた。

 

「エリナって娘を探してる」

 

 扉の向こうから男の声がした。

 エリナは顔を上げなかった。最近は、名前を呼ばれることは少なかった、私のことじゃないかもしれない。

 

「食堂の娘だ。看板には、下手な魚の絵が描いてあった。」

 

 私が小さい頃イタズラで描いた絵だ。あの時は怒られた。

 どうやら、同名の人ではなく、私を探しているらしい。顔を上げて、急いで扉を開けた。

 

 くたびれた外套を着た男が、庇の外に立っていた。腰には剣を下げていたが、鎧も、所属を示す紋章も見当たらない。無精髭のある顎を掻き、こちらへ来かけた足を、エリナの肩が動いたところで止めた。

「……何の用ですか」

 

「手紙を預かってきた。渡してくれってな」

 

 男は外套の内側から油布の包みを出した。広げた中に、薄い封筒があった。エリナが手を伸ばさずにいると、男はすぐには近づけず、宛名だけをこちらへ向けた。

 

 最初の文字が少し大きかった。名前の最後へいくほど、小さくなっている。店の帳面に、注文と一緒に自分の名を書かれたときも、こうだった。

 

 母の字だった。

 

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