町の人たちが、少しずつ戻ってきた。
衛兵が水際に人を近づけないよう声をかけ、別の者が怪我人のいる場所をミアへ伝える。彼女はエリナの状態を確かめ終えると、次の人の方へ向かった。
テオが道の脇へ寄せられた荷物を浮かせようとすると、やどかりが先に背負った。包帯の端を押さえて持ち直すのを見て、ミアが少し眉を寄せた。
「もう運べる。お前は休んどけ」
そう言われ、テオは手を下ろした。
隣家の老女が来たのは、そのあとだった。
彼女はテオの顔を見て、肩に掛けていた布を、そのまま彼へ巻きつけた。
「濡れてるじゃないか」
「少しです」
「少しでも、冷えるよ」
いつもの声だった。
テオは布の端を掴み、通りの方を見た。
「ご主人は」
「向こうで座ってる。運んでもらったくせに、椅子ごと運ぶなだの揺れただの何だの、うるさいこと」
老女が眉を寄せ、それから、テオの肩を一度だけ強く撫でた。
「ありがとね」
テオは頷いた。
返事をしようとしたが、うまく声にならなかった。
-----------------------------------------------------------------
日が傾く前に、四人は工房へ戻った。
扉の横には、昼過ぎに戻ります、と書いた紙が、そのまま掛かっていた。テオはそれを外しかけ、鍵を取り出す方を先にした。
卓があり、椅子が四つあり、作りかけの容器が棚へ並んでいる。テオは、椅子へ腰を下ろした。
「……戦ってくれたね」
向かいに座ったエリナが言った。
「助かった。ありがとう」
すぐ向かいから聞くと、石段の上で叫んでいたときより、ずっと小さな声だった。
テオは膝の上へ手を置いた。
「援護です」
口にしてから、テオは左手を見た。
荷車を運ぶときも、二人の前へ壁を置いたときも、これで助けになれると思った。けれど、あの肩の外殻を砕いたのも、自分だった。
「……と言っても、戦ったことには変わりませんね」
エリナは笑わなかった。
ミアが荷物を下ろし、湯を沸かす支度を始めた。やどかりも椅子へ座った。
「僕は、ここで暮らしていたいんです。強いから戦えと言われても、断るつもりでした。今も、それが間違いだったとは思っていません」
言いながら、卓へ置いた工具を指で寄せる。
「壁で守って、足場に乗せれば、それで帰れると思っていました。でも、二人とも乗れなくて」
そこで、言葉が止まった。
エリナは急かさなかった。卓の向こうで、水を一口飲んだ。
「撃ちたくは、なかったです」
テオは顔を上げた。
「それでも、戻ってきてほしかった」
エリナの椀が、ゆっくり卓へ戻された。
「……うん」
テオは膝へ置いた手を握った。まだ、指先が冷たかった。
「ただ、次も同じように撃てるかは、分かりません。今日できたからといって、これからも引き受けるとは……今は、言えません」
「そこまで、頼んでないよ」
エリナは少し身を乗り出した。
「今日、助けてくれたことに、お礼を言いたかったの」
テオは彼女を見た。
やどかりが頷き、ミアは淹れた茶をテオの手元へ置いた。
「温かいものを、飲めそうですか」
テオは両手を伸ばした。
椀の温かさが、指に移ってくる。向かいにはエリナがいて、やどかりが前掛けについた泥を払うと、ミアが床へ落とさないよう布を差し出した。
テオは、ようやく一口飲んだ。
今は、四つの椅子が埋まっているだけで、ほかのことは考えられなかった。
-----------------------------------------------------------------
夕食は、隣家から届いた。
老女が鍋を抱え、後ろからやどかりがパンを運んできた。今日は作るな、座っていろと言われたエリナは、思いのほか素直に椅子へ戻った。
「今日は、言うことを聞くんですね」
テオが言うと、エリナは頷いた。
「今日は、もう疲れた。作ってもらえるの、嬉しい」
テオの手が止まった。
エリナは渡された椀を受け取り、ミアへ顔を向けている。
「明日は、片づけを手伝ってもいい?」
「朝に確かめてからです。二人とも、重いものは持たないでください」
「うん」
テオは卓の端へ目をやった。
地図が畳んであった。
確かめた道と、まだ確かめていない道。水を分けてもらった家の印が、紙の端から少しだけ見えている。
この三人は、またここから出ていく。
最初から分かっていたはずのことだった。傷を休めるために町へ留まり、午後になると工房へ来ていただけで、作った道具も、いずれ旅へ持っていくためのものだ。
今日は戻ってきてくれた。けれど、地図を広げたときには、次の宿まで歩く話をしていた。昼に使った台も、旅の荷物へ収まるように、テオ自身が直したのだった。
「テオ」
顔を上げると、エリナが鍋を指していた。
「よそっていい?」
テオは椀を差し出した。
煮込みが注がれ、湯気が頬に触れた。
「……お願いします」
受け取った椀を、両手で持った。
もう、こぼさずに持てた。
-----------------------------------------------------------------
三人を宿へ見送ったあと、テオは工房の戸口に立っていた。
エリナはゆっくり歩き、ミアがその隣へ並んでいる。やどかりは二人の少し後ろを歩きながら、何か話しかけていた。エリナが振り返って言い返す声が、ここまで聞こえた。
「じゃあ、また明日」
角を曲がる前に、彼女が手を上げた。
テオも手を上げた。
三人の姿が建物の陰へ消えてから、腕を下ろす。
今日は、宿へ帰るだけだった。
明日になれば、また顔を見られる。
テオは工房へ戻り、戸を閉めた。
卓の上には、試験に持ち出した道具と、畳んだ地図が残っていた。魔石を外し、濡れた箇所を乾かし、緩んでいないか金具を確かめる。
ひと通り終えてからも、椅子を片づける気にはならなかった。
この先、三人が町を出る朝にも、自分はあの戸口に立つのだろうか。
テオは地図へ手を伸ばした。
最初の宿へ指を置く。その先を辿ろうとして、左手が止まった。
川辺の魔物を思い出した。もし、また道中であんな魔物が出た時、3人はどうするのだろうか
テオは地図を畳みかけた。
けれど、しまうところまではできず、折った端をゆっくり開き直した。
-----------------------------------------------------------------
翌朝、テオは工房の戸を開ける前に、地図を畳んだ。
昨夜は、道具を直すつもりで卓へ座ったはずだった。ところが気づけば、指は街道の線を辿っていた。次に食料を買える町、その先の宿、水を分けてもらったという家。エリナが話したことを思い出しながら見ていると、紙の上の小さな印に、少しずつ景色がついた。
その中に自分を立たせるたび、椅子を引き、棚の道具を並べ直してから、また地図へ戻った。
窓の色が夜の黒から薄い灰色へ変わっていくのを見て、そこでようやく、ほとんど眠らないまま朝を迎えたことに気づいた。
「……馬鹿ですね」
誰もいない工房で呟き、地図を棚へ置き、少し眠った。
起きてから戸を開けると、店先に老人が立っていた。両手に抱えているのは、修理を頼まれていた暖房の箱だった。
「また、つかなくなった」
テオは箱を受け取り、底を見た。
「魔石が逆です」
「ああ、そうか」
入れ直すと、すぐに温かい空気が出てきた。老人は掌をかざし、満足そうに頷いた。
いつもなら、それで返していた。
テオは箱を卓へ置くと、棚から小さな金属片を取った。
「少し、待ってください」
「壊れとるのか」
「いえ。逆には入らないようにします」
道具を出し、差し込み口の端へ小さな出っ張りをつける。老人が同じ向きに石を押し込もうとすると、途中で止まった。
「反対です」
「なるほどな」
石を返して入れ直し、もう一度、箱が温まる。
老人は何度か抜き差ししてから、テオを見た。
「これなら、間違えん」
テオは頷いた。
その言葉が、今朝は、いつもより長く胸に残った。
-----------------------------------------------------------------
エリナたちは、その日の午後には来なかった。
代わりにやどかりが顔を出し、二人は宿だ、と伝えた。エリナは朝になって肩の痛みが強くなり、ミアに言われて休んでいるのだという。
「お前も、寝てねえ顔だな」
「仕事があるので」
「そうか。じゃ、これ」
男が布包みを卓へ置いた。
中にはパンと、薄く切ったチーズが入っていた。
「エリナから。飯、忘れんなってよ」
テオは包みを見て、それから、やどかりの腕へ視線を移した。
「あなたも、傷があるでしょう」
「歩くなとは言われてねえ」
「重いものは持つなと言われたでしょう」
やどかりが口を閉じた。入口の箱へ伸びかけた手を、テオは見逃さなかった。修理を終えた箱を自分のほうへ寄せる。
「運ばせませんよ」
「まだ持ってねえぞ」
「持つつもりでしたね」
やどかりは笑い、今度は椅子へ手をかけた。
テオは二人分の茶を用意した。湯を注ぎながら、棚の地図へ目が向いたが、男に何かを聞くことはしなかった。
やどかりも、旅の話を持ち出さなかった。
町では、壊れた橋の片づけが始まっていた。
川へ入れる場所を確かめ、流れを塞いでいる木材から引き上げている。大きな石を取り除き、また人が渡れるようにするには、まだ時間がかかるらしい。
テオのところへも、壊れた道具が運ばれてきた。川の水をかぶった灯り、荷車から落ちた箱、逃げるときに取っ手の外れた鍋。
できるものから直していくと、夕方には卓が空いた。
テオは道具を拭き、左のポケットへ収めた。
それから、片づいた卓の中央へ、また地図を広げた。
工房の仕事は一つずつ終わっていくのに、紙の上の道だけは、見るたびにその先が増えているように思えた。