第33話 閉じた門の向こうへ
王都が近づくにつれ、エリナは、次の曲がり角の向こうを知っていることが増えた。
坂を下りたところに、水の溜まりやすい窪みがある。その先の道は二つに分かれ、右へ行くと、井戸のある宿へ着く。左の畑には低い石垣が続き、その端から、遠くの城壁が見える。
覚えている景色を一つ越えるたびに、足が少しずつ重くなった。
旅そのものは、前よりずっと楽だった。
雨の日にも、鍋を温められた。火を起こすために濡れた枝を拾い集めなくてよくなり、ミアの薬も、テオが見直した運搬用の箱の中で割れずに済んだ。
テオは土の上で寝た翌朝、背中が痛いと真顔で訴えた。やどかりに、自分で柔らかい寝床を作ればいいだろと言われ、柔らかい寝床作りに没頭していた。ミアは腰痛に効く薬を作り始めた。エリナは何か起きる度に笑っていた。
5日後には、四人でテオが作った寝床で寝ていた。
本当に楽しい旅だった。
だから、城壁が見えた瞬間に、自分の身体が止まったことが、エリナには悔しかった。
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街道の先に、王都があった。
遠目には、何も変わっていないように見えた。高い壁が薄暗い空を区切り、その内側から、大神殿の尖塔と王城の屋根が覗いている。門へ向かう荷車が列を作り、御者たちの声が風に乗って届いた。
エリナは、石垣のそばに立ったまま動けなくなった。
歩けば、すぐに着く距離だった。
それなのに、胸の奥だけが、遠いところへ置いていかれたようだった。
「エリナ?」
ミアが振り返った。
エリナは返事をしようとして、喉が乾いていることに気づいた。
「……行きたくない」
思っていたより、小さな声だった。
言ってしまうと、城壁を見ていられなくなった。自分の腕へ目を落とす。服の上から押さえても、掴まれた痕はもう痛まなかった。
それでも、逃れようとした腕を放してもらえなかった感触を、身体が覚えていた。
ミアはすぐに近づいてきたが、腕を引こうとはしなかった。
「……戻りますか?」
エリナが顔を上げる。
「手前の宿なら、まだ戻れます。今日はそこで休んでも」
「僕は賛成です」
テオが言った。
肩の鞄を持ち直し、来た道を一度見ている。
「急いで入る理由はないでしょう。国王は、明日になってもいるはずです」
「そうだな」
やどかりがエリナの前まで戻ってきた。城壁へ向けていた顔を覗き込もうとして、少し手前で足を止める。
「宿へ戻るか」
エリナは答えようとした。門を見ると、兵士の一人がこちらを向いていた。覚えている顔かどうかも分からないのに、喉が詰まった。
やどかりは返事を待った。テオも鞄を下ろし、その横で立ち止まった。
エリナは唇を開きかけた。
「国王に会わなくてもいい。別の方法を考える」
「……千人は?」
「ここでしか人を集められねえわけじゃない。千人集まらなくても別の方法を考えるさ」
やどかりは、簡単だとは言わなかった。
別の町を回れば時間がかかる。道具も食料も、少しずつ頼まなければならない。魔物の群れを押し返しながら進むには、剣を持つ人だけでなく、荷を運び、傷ついた人を連れ戻す人も要る。王国の力を借りる理由は、エリナも道中で聞いていた。
それでも、今ここで自分が動かなければ、すべて終わりだとはやどかりは言わなかった。
エリナは石垣へ手を置いた。
乾いた石のざらつきが、掌へ伝わった。
「……また、言われるかな」
誰に尋ねたのか、自分でも分からなかった。
「まだ魔王を倒せないのか、とか。何しに帰ってきたんだ、とか。……また、魔物を連れてきたのかって」
最後の言葉に、指が襟へ上がりかけた。黒い痕はもうないと分かっていても、あの筋へ向けられた目を思い出すと、首元を出したままでいることが心許なかった。
やどかりは、少し間を置いた。
「言う奴は、いるかもしれねえな」
エリナは頷いた。
そんな人はいない、大丈夫だと言われるより、その返事の方が、ここに立っていられた。
「……そうだよね」
通り過ぎる荷車の御者が、四人をちらりと見た。
エリナの肩が上がったが、男はそのまま前を向き、馬へ声をかけた。自分を見た人が、みんな何かを言うわけではない。
分かっていても、視線が触れるたびに、身体の方が先に身構えた。
ミアが水筒を差し出した。
エリナは受け取り、一口飲んだ。喉を水が通ってから、もう一度、王都を見た。
あそこには、自分のことが嫌いで、恨んでいる人がいる。
けれど、東門が襲われた時は、麺棒を持って出てきた人もいた。鍋を運び、壊れた屋台を起こし、旅立つ自分へ食べ物を持たせてくれた人もいた。
どちらか片方しかいない場所ではなかった。
「私……王様に、頼みたいことがある」
やどかりが頷いた。
「ああ」
「魔王を倒すのを、手伝ってほしい」
声に出すと、門の向こうへ行く理由が、自分のものになった。
怖くなくなったわけではなかった。それでも、何をしに来たのかは、思い出せた。
エリナは水筒を返した。
「……行く」
やどかりが、ようやく城壁の方へ身体を向けた。
ミアも、テオも歩き出したが、先へ離れてはいかなかった。
エリナは石垣から手を離し、三人の間へ一歩入った。
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門の下は、昼でも薄暗かった。
荷車の車輪が石を打ち、その音が高い天井へ反響する。エリナは列の端を歩きながら、門番の手元を見ていた。
槍がこちらへ傾けられる気がした。
けれど、男が最初に止めたのは、テオの荷物だった。
「その箱は何だ」
「工具です」
「開けられるか」
「ええ。ただ、順番に並べてあるので、取り出すときは――」
「見せるだけでいい」
テオは少し不満そうに箱を下ろした。
蓋の内側には、細い工具が一本ずつ留めてある。その下の布をめくり、魔石の袋を示したところで、別の門番がエリナを見た。
「……勇者様?」
エリナの指が、上着の裾を掴んだ。
男は彼女の顔と、腰の剣を見比べていた。声を聞いた人が振り返り、列の前でも、荷車を引いていた男が首を伸ばす。
「エリナです」
答えると、門番は一瞬口を閉じた。
「王都へ、お戻りに?」
「はい。国王様に、お話をしたくて」
男は隣の門番と顔を見合わせた。
待つ間、エリナは足元を見た。門のこちら側に立ったまま、帰れと言われることを、身体が先に待っていた。
「王城の門で、お申し出ください」
顔を上げる。
門番は、道の奥を示していた。
「こちらからも、お戻りになったことは伝えます」
エリナは頷いた。
通ってもよいのだと分かってからも、すぐには足が出なかった。テオが箱の蓋を閉じる音に、ようやく歩き出す。
門の陰を抜けると、王都の通りが目の前へ広がった。
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噂は、四人より先に通りを進んだ。
「勇者が帰ってきたらしい」
「あの子だ」
「生きてたのか……」
店先から顔が上がり、窓が開いた。
エリナはなるべく前を見て歩こうとした。けれど、聞こえてくる声が、肩越しに何度も触れる。
「何で、また……」
「あの呪いは、どうなったんだ」
続いた声は、小さかった。店の奥へ消えた顔を追うより先に、エリナは襟を押さえていた。指に触れるのは布と、その下にある自分の肌だけだった。首元まで広がっていた黒い痕は、もう残っていない。それでも、噂を聞いた人が、傷の治ったところまで知っているとは限らなかった。
「また魔物が来たら……」
「あの子は、門で魔物を止めてくれてたんだよ。呪われているなんてのもただの噂らしいじゃないか」
隣の店先からの会話が聞こえてきた。全員が呪いのことを信じているわけではない、そう考えるだけで、息がしやすくなった。
「エリナさん!」
別の声がした。
振り向くと、露店の脇にいた女が、両手を前掛けで拭いていた。こちらへ来ようとして、人の間で一度止まり、それから小さく頭を下げる。
「身体は、もう大丈夫ですか?」
「……はい。前より、ずっと」
エリナが答えると、女の顔が緩んだ。
何かを言いかけたようだったが、結局、気をつけて、とだけ声をかけた。
右にはミアがいた。
左にはテオがいた。
やどかりは少し前を歩き、ときどき、振り返らずに歩調を緩めた。エリナへの視線を少なくしてくれているのだろう。
通りが狭くなったところで、壁際にいた男が一歩出てきた。
エリナの首元を見ていた。唇が動き、前を通らせまいとするように腕が伸びた。
呼吸が止まった。
開いていた指が、エリナの袖へ近づくにつれて曲がった。
テオの手が、横で上がりかけた。
「やめろよ」
声は、別の場所からした。
露店の柱に板を打ちつけていた男が、木槌を下ろしていた。
「その手、引っ込めろ。通るだけだろ」
道を塞いだ男が顔を向けた。
周囲の人々が二人を見る。誰かが子供の肩を抱き、店先へ引き寄せた。
しばらくして、伸ばされていた手が下がった。男は壁際へ戻った。
服には、触れられなかった。
エリナは、それでも肩を縮めてしまった。
ミアが、歩幅を合わせたまま顔を寄せる。
「少し、休みますか」
エリナは首を振りかけて、やめた。
自分の息を一度確かめる。
「……あの角まで、ゆっくりでいい?」
「はい」
テオの手が下りた。
彼は男を追いかけることも、言い返すこともしなかった。ただ、エリナと壁際の間に、半歩だけ入った。
角を曲がってから、エリナは長く息を吐いた。
やどかりが足を止め、三人を待っていた。
「……触られても、いないのに」
エリナは自分の腕を押さえた。
「また、掴まれるかと思った」
誰も、考えすぎだとは言わなかった。
少し休んで、呼吸が戻ってから、四人はまた歩き始めた。
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王城へ続く通りに入ると、人の声が遠くなった。
広い道の先に門があり、その向こうへ白い石段が伸びている。
エリナは、門の前で一度立ち止まった。
あのときも、ここへ来た。
前に相談するように言われたからと伝えた。けれど、門番は槍の先を見たまま、帰れと言った。
誰の命令なのかは、教えてもらえなかった。
今日も、兵士が二人立っていた。
近づく四人を見て、片方が槍を持ち直す。
「ご用件は」
エリナは口を開いた。
一度、息だけが出た。
「……国王様に、お目にかかりたいです」
兵士はエリナの顔を見た。
その視線が、肩口を繕った上着と、普通の剣へ下りる。
「お名前を」
「エリナです」
兵士の表情が変わった。
隣の男と短く言葉を交わし、それから、少し声を落とした。
「以前の、治療についてのお申し出でしたら……お取り次ぎはできません」
エリナの指が冷たくなった。
門は、まだ閉じていた。
何日も歩いて戻ってきても、その向こうにある返事までは変わっていなかった。
ミアが隣で息を吸う音がした。エリナは小さく首を振り、自分の膝を見た。今は、立っていられる。指を曲げれば、左手も動く。けれど、閉じた門を前にすると、声を出すまでに息を継がなければならなかった。
「今日は、治療のお願いではありません」
兵士が顔を上げた。
「もう一度、魔王を倒しに行きます。そのことで、お話をしたいんです」
「討伐の、ご相談ですか」
「はい。今度は、一人で行くつもりはありません」
エリナは、後ろの三人へ目を向けた。
「一緒に来てくれる人がいます。その人たちとも考えたことを、国王様に聞いていただきたいんです。そう、伝えてもらえませんか」
兵士は三人を見た。
しばらくして、槍を隣の男へ預けた。
「……そのご用件で、確認してまいります。こちらで、お待ちください」
くぐり戸が開き、兵士が中へ入った。
扉の閉まる音に、エリナは目を伏せた。
待つと言われた。
帰れとは言われていない。
それだけの違いを、何度も自分に言い聞かせた。
残った兵士が、壁際のベンチを示した。
「お掛けになって、お待ちください」
エリナは頷き、腰を下ろした。
ミアが隣へ座る。テオは荷物を足元へ下ろし、やどかりは門のそばに立ったまま、空を見上げた。
「……何も、言ってくれないんだね」
しばらくして、エリナが言った。
やどかりが顔を向ける。
「何をだ」
「私が怖がってるから、代わりに話すとか」
男は少し考え、エリナを見た。
「話せなくなったら、そう言え。手は貸す」
エリナは膝の上の手を見下ろした。
「今は、お前が話してるだろ」
頷くまでに、少し時間がかかった。
任せきりにされているわけでも、取り上げられているわけでもない。その間に、自分の座る場所があった。
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「エリナが?」
国王は、報告に来た男へ顔を向けた。
卓には、街道の警備と食料の輸送についての書類が並んでいた。開いた一枚へ目を落としかけ、それから、もう一度男を見る。
「何を求めている」
「魔王討伐へ再び赴くにあたり、ご相談があると」
国王の手が止まった。
「治療ではないのか」
「本人は、そう申しております。今回は連れの者が三人おり、一人ではない方法で討伐へ向かいたい、と」
国王は椅子へ背を預けた。
魔王に敗れたという報告を受けてから、長い時間が経っていた。初めは、治療の効果を聞くたびに、まだ見込みがあるかもしれないと思った。薬を替えても改善が続かなくなると補給を減らし、最後には治療への支援も止めた。再起の見通しが立ったという知らせは、それきり届いていなかった。
今、その本人が、違う方法を持って来たという。
「勝てる手立てがあると、言っているのか」
「詳しい話は、陛下に直接申し上げたいとのことです」
国王は卓の書類を閉じた。
提案を聞くことと、支援を約束することは別だった。何も変わらぬまま物資を求められるのであれば、断ればよい。けれど、討伐へ向かう手立てが変わったという話まで、聞かずに退けるわけにはいかなかった。
「会おう。連れの者も通せ」
男が頭を下げ、部屋を出ていった。
国王は残された書類を一度見下ろしてから、席を立った。
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門が開いたのは、やがて影がベンチの脚へ届いた頃だった。
戻ってきた兵士の後ろに、別の男が立っていた。こちらを確かめるように一礼し、国王が会うと伝えてきた。
「討伐についてのお話を、お聞きになるとのことです。お連れの方々も、ご一緒に」
エリナは立ち上がった。
開いた門の向こうに、白い石段が見えた。
前に求めた治療が、今になって認められたわけではなかった。今日、聞いてもらえるのは、これから魔王を倒しに行く話だった。
その違いは、胸に残った。
今度は、その先へ歩いた。