ボロボロ勇者とカッコつけおじさん   作:時々、たくあん

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第34話 私一人なら

 王城の中は、外より静かだった。

 磨かれた床へ靴音が落ち、壁に掛けられた布が高い窓からの光を受けている。通された部屋で荷物を下ろし、武器を預けるよう言われたとき、エリナの手は剣の柄に残った。

 兵士は急かさなかった。

 

「退出の際に、お返しします」

 

 エリナは頷き、剣を渡した。

 やどかりも続いた。テオは工具の入った箱まで見せ、尖ったものは全部ですか、と尋ねていた。

 係の男が、少し困った顔をした。

 

「箱ごと、お預かりしても」

「その方が早いですね」

 

 エリナは、ほんの少しだけ笑った。

 ここまで来ても、テオはテオだった。

 

 案内の男が、扉の前で立ち止まった。

 エリナの名前が告げられる。

 重い扉が、内側へ開いた。

 

 玉座へ続く床が、思っていたより長かった。

 

 三年前は、どこへ立つのか、いつ膝をつくのかを、何度も教えられた。その通りに動くことに必死で、国王の顔をきちんと見た記憶が薄い。

 今日は、何を言うかを教えてくれる人はいなかった。

 

 エリナは前へ進み、示された場所で足を止めた。

 国王が座っていた。

 王冠の下の顔は、石の像ほど遠いものではなかった。目の下には陰があり、肘掛けに置かれた指が、こちらを見るうちにわずかに曲がった。

 

「……エリナか」

 

 名前を呼ばれた。

 エリナは頷いた。

 

「はい」

 

 国王の視線が、彼女の顔から肩へ、そこから足元へ移った。

 

「魔王に受けた傷は、どうした」

 

 エリナの手が、胸へ動きかけた。

 治療のためにここへ来たことを、この人は覚えている。けれど、その後どうなったのかは、今ここで尋ねていた。

 

「治してもらいました」

 

 エリナは答えた。

 自分を探し、手紙を届けてくれた人がいた。傷を治したあとも、自分の話を聞き、手を伸ばしてくれた人がいた。聞きたいことは喉元へ集まったが、最初に伝えたいことだけは、決まっていた。

 

 声が、広い部屋へ落ちた。

 

「生きています」

 

 国王は何も言わなかった。

 エリナは、自分がちゃんと立っていることを確かめた。胸の奥まで息が入り、両足で床を踏めていた。

 背後には、三人がいた。

 

 -----------------------------------------------------------------

 

「何を、求めて来た」

 

 国王が尋ねた。

 エリナは一度息を吸った。

 

「兵を、貸してください」

 

 玉座の脇に立っていた男が顔を上げた。

 国王は肘掛けの上で手を止める。

 

「……何?」

「魔王を倒しに行きます。今度は、一人ではなく、みんなで」

 

 声が震えそうになり、エリナは言葉を区切った。

 

「ここまで、一緒に来てくれる人が増えました。でも、まだ足りません。戦う人も、治療する人も、食料を運ぶ人も必要です」

 

 国王の目が、エリナの後ろへ向いた。

 ミアと、テオと、やどかりを順に見る。

 それから、エリナへ戻った。

 

「何人だ」

 

 エリナはやどかりを見た。

 男は頷き、口を開いた。

 

「千人」

 

 国王の顔から、言葉が消えた。

 脇に立つ男も、同じように動かなくなっていた。

 

「……私も、初めて聞いたときは、そういう顔をしました」

 

 エリナが言った。

 笑い声は上がらなかったが、自分の喉に詰まっていたものが、少しだけほどけた。

 

「でも、私一人では勝てません。三年間、やってみました。何度も怪我をして、剣を振って、それでも、届きませんでした」

 

 国王は黙って聞いていた。

 

「この前、町を襲った魔物と戦いました。私一人では倒せませんでした。でも、テオがそこを開けてくれて、やどかりさんが動きを止めて、ミアが私を立たせてくれたから、倒せました」

 

 背後を振り返らなくても、三人がいることは分かった。

 

「一人を、もっと強くするだけじゃなくて……足りないところを、ほかの人に助けてもらいたいんです」

 

 国王は、娘の話を確かめるように尋ねた。

 

「そのときも、聖剣で戦ったのか」

「いいえ。普通の剣です。私の剣が届くところを、テオが作ってくれました」

 

 テオが、背後で短く頷いた。国王はそれを見てから、もう一度エリナへ視線を戻した。聖剣の力を待つ話ではなかった。刃の届かない相手に、別の者が手を貸す。そのやり方を、娘たちは道中で確かめてきたのだった。

 

 国王の指が、肘掛けの縁を掴んだ。

 

「それで、千人か」

「はい」

 

 短い返事のあと、沈黙が広がった。

 エリナは待った。

 この人が頷けば、遠くまで続く道の形が変わるかもしれない。鍋も、薬も、剣も、それを運ぶ人も、一緒に行けるかもしれなかった。

 

「認められぬ」

 

 国王が言った。

 

 -----------------------------------------------------------------

 

 エリナは、唇を閉じた。

 聞こえなかったわけではない。けれど、今、何と返せばよいのかが見つからなかった。

 

「……私が、一度負けたからですか」

 

 ようやく尋ねると、国王は首を振った。

 

「それだけではない」

 

 それも理由にはあるのだと思った。

 エリナは否定しなかった。負けたのは本当だったし、次には必ず勝てると、証明できるものを持ってきたわけでもなかった。

 

「千人を送り出すとは、どういうことだと思う」

 

 国王の声が、少し低くなった。

 

「その者たちがいなくなった場所を、誰が守る。道を、門を、食料を運ぶ馬車を。魔王城までの道中で食わせるものは、どこから出す」

 

 王城の小さな会議室で、地図を示された日のことを思い出した。兵はそれぞれの町を守っていると、前にも教えられた。一人旅は神殿の習わしだとも。その説明を聞いた同じ城で、今、自分は千人を求めていた。

 

「その千人が留守にする場所を守り、遠征する者を食わせ、負傷すれば連れ帰る。そこまで定めて、初めて出せる。勇者が必要としているというだけで、その備えを省くことはできぬ」

 

 国王は、脇に置かれた地図へ手を伸ばした。街道の交わる場所には印があり、その幾つかを、指先が順に辿った。エリナが求めた千人を集めるときにも、この印の下で暮らす人々は、そこに残るのだった。

 

 エリナは、昼前に通ってきた門を思い出した。

 荷車の中身を確かめていた兵士。テオの箱を覗き、自分の名を聞いて道を空けた男。

 ここにいる兵を連れ出せば、その場所に立つ誰かが減る。

 

 国王は続けた。

 

「そして、送り出した者が帰らなければ」

 

 そこで一度、言葉が途切れた。

 エリナが顔を上げると、国王は彼女を見ていた。

 

「千人の兵には、千人の暮らしがある。帰りを待つ者がいる。お前の言う千人は、紙の上の数ではない」

 

 テオの工房が浮かんだ。

 隣の老女がいて、暖房を使う老人がいて、帰ったら使うと言って預けた鍋があった。

 ミアの町にも、引き継いだ患者がいた。

 千人いれば、それが千人分ある。

 

「お前たち四人が、そうすると決めたことは分かった」

 

 国王は、肘掛けから片手を離した。

 

「だが、私に千人を出せと言うなら、私は、その先を考えなければならない。勝つかもしれぬという望みだけで、彼らを死地へ送ることはできぬ」

 

 エリナは、何も言えなかった。

 それは、自分がテオへ言いたくなかった言葉と、同じところに触れていた。

 強いから。必要だから。世界のためだから。

 それで、誰かの暮らしを片づけてよいのか。

 

 国王は、エリナを見たまま言った。

 

「彼らを送り出す以上、私には、その命に責任がある」

 

 迷いのない声だった。

 国王は、自分の席から守らなければならないものを語っていた。エリナには、それが間違っているとは言えなかった。

 けれど、その言葉の中に、傷ついてこの門へ戻ってきた自分が見つからなかった。治療の相談をしたいと頼んだときには、その先に続く帰り道を、誰にも尋ねられなかった。

 

 -----------------------------------------------------------------

 

 玉ねぎの薄皮が、指に貼りついていた。

 不意に、そんなことを思い出した。

 

 神官が食堂へ来た日、自分は仕事の途中だった。父は鍋をかき混ぜ、母は客へ料理を運んでいた。明日も同じことをするつもりで、エリナは玉ねぎを膝へ載せていた。

 そこから、ここへ来た。

 銀色の剣を掲げ、たくさんの人の前で、約束した。

 

 千人の兵士には、帰りを待つ人がいる。

 テオには工房があり、ミアには患者がいた。

 

 自分にも、あった。

 

 帰っておいでと抱き締めてくれた母がいた。食べきれない料理を並べ、持っていく包みの紐を何度も結び直した父がいた。

 あの扉の開き方を知っている常連客も、旅立つ朝に名前を呼んでくれた近所の人たちも。

 

 エリナは、国王を見た。

 千人を送り出すことを恐れる顔が、そこにあった。

 その怖さを、間違っているとは思えなかった。だからこそ、あの日、立っているだけで精一杯だった自分には、なぜ帰れと言えたのだろうと思った。助けてほしいと伝える相手がいなくなったあとのことまで、この人は考えていたのだろうか。

 

「……一人なら、よかったんですか」

 

 国王が顔を上げた。

 

「何?」

 

 エリナは、自分の手を握った。

 剣は持っていなかった。ここでできるのは、言葉にすることだけだった。

 

「私一人なら」

 

 喉が震えた。

 けれど、今度は飲み込まなかった。

 

「死んでも、よかったんですか」

 

 衣擦れの音が止まった。

 国王の口が、わずかに開いた。その先にある言葉を、エリナは待った。

 

 やどかりも、ミアも、テオも、代わりには話さなかった。

 エリナは顔を伏せず、玉座を見ていた。

 

 あの日、自分の前で閉じた門の向こうから、今度こそ返事が来るのを待っていた。

 

 

 -----------------------------------------------------------------

 

 国王は、肘掛けに置いた手を動かさなかった。

 目の前の娘は、返事を待っていた。問いを口にするだけで力を使い果たしたように、唇の色が薄くなっている。それでも俯かず、玉座を見上げていた。

 

「……お前が死んでもよいと考えたことはない」

 

 国王は、娘の顔を見て答えた。声を強めはしなかったが、玉座の脇で動きかけた男は、その一言を聞いて姿勢を戻した。

 

「神殿に掛け合い、仲間を伴うことは認められた。供も募ったが、応じる者はいなかった。剣を教える者をつけ、街道で支える場所を用意し、その先で共に歩む者を探せるようにと考えた。お前を一人で送り出すと決めたのは、私だ」

 

 国王は続けた。

 

「それでも、千人を送り出すことはできぬ。」

 

 娘は唇を結んだ。背後の魔法使いが何か言いかけたが、彼女は片手を下げて止めた。国王は口を挟まず、もう一度こちらを向くまで待った。

 

「兵のお願いとは、別に聞いてもいいですか」

 

 国王が頷いた。

 エリナが言った。

 

「私が治療の相談に来たとき、門を閉めるように命令したのは、国王様ですか」

 

 脇に控えた男へ、国王は目を向けなかった。

 

「そうだ」

 

 エリナは、すぐには次の言葉を出さなかった。

 問いの答えを予想していても、本人の口から聞くのは違うのだろう。息を吸い直すまで、国王は待った。

 

「どうして、会うことも駄目だったんですか」

「初めは痛みが薄れ、街道へ戻れたと聞いた。その後は、薬を替えても効果が続かなかった。見込みの立たぬ治療を続ける許可は出せぬと判断し、同じ申し出も取り次がないよう命じた」

 

 国王は、その言葉を使った日のことを覚えていた。書類には治療の経過と、この先に望める効果が記されていた。読み終えてから署名した。誰かに急かされて目を通さなかったのでも、ほかの者が代わりに決めたのでもなかった。

 

「治せないって、話してもらうことも、駄目だったんですか」

 

 娘の声は大きくならなかった。国王は開きかけた手を肘掛けへ戻し、その顔を見た。

 

「面会も、治療を再開するための申し出と受け取った。それ以外に何を求めていたか、私は聞いていない」

 

 エリナは床へ一度目を落とし、息を吸い直した。治してほしかったのは本当だった。その願いを断られたあとにも、痛む身体と、今夜を越さなければならない自分は残っていた。

 

「少なくとも、次にどこへ行けばいいのか、一人で考えなくて済んだと思います」

 

 国王は、返そうとしていた言葉を止めた。

 

「治らないなら、もう戦えないなら、どうすればいいのか。私には、分からなかったんです」

 

 後ろの女が、娘のすぐそばへ寄った。触れはしなかったが、その距離だけで、娘の背中から少し力が抜けたように見えた。

 国王は書類の内容を思い返した。治療の効果、費やした薬、今後の見通し。どれも確認している。軽い気持ちで止めたのではなかった。

 しかし、その中に、今の問いへの答えがあったかは思い出せなかった。

 

「……お前への支援をどう終えたのか、記録を確かめる。だが、兵を出せぬという今日の判断は、変わらぬ」

 

 やがて、国王は言った。

 娘は長く彼を見たあと、頷いた。

 

「分かりました」

 

 納得した顔ではなかった。

 国王も、それ以上の返事を求めることはできなかった。

 

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