王城の中は、外より静かだった。
磨かれた床へ靴音が落ち、壁に掛けられた布が高い窓からの光を受けている。通された部屋で荷物を下ろし、武器を預けるよう言われたとき、エリナの手は剣の柄に残った。
兵士は急かさなかった。
「退出の際に、お返しします」
エリナは頷き、剣を渡した。
やどかりも続いた。テオは工具の入った箱まで見せ、尖ったものは全部ですか、と尋ねていた。
係の男が、少し困った顔をした。
「箱ごと、お預かりしても」
「その方が早いですね」
エリナは、ほんの少しだけ笑った。
ここまで来ても、テオはテオだった。
案内の男が、扉の前で立ち止まった。
エリナの名前が告げられる。
重い扉が、内側へ開いた。
玉座へ続く床が、思っていたより長かった。
三年前は、どこへ立つのか、いつ膝をつくのかを、何度も教えられた。その通りに動くことに必死で、国王の顔をきちんと見た記憶が薄い。
今日は、何を言うかを教えてくれる人はいなかった。
エリナは前へ進み、示された場所で足を止めた。
国王が座っていた。
王冠の下の顔は、石の像ほど遠いものではなかった。目の下には陰があり、肘掛けに置かれた指が、こちらを見るうちにわずかに曲がった。
「……エリナか」
名前を呼ばれた。
エリナは頷いた。
「はい」
国王の視線が、彼女の顔から肩へ、そこから足元へ移った。
「魔王に受けた傷は、どうした」
エリナの手が、胸へ動きかけた。
治療のためにここへ来たことを、この人は覚えている。けれど、その後どうなったのかは、今ここで尋ねていた。
「治してもらいました」
エリナは答えた。
自分を探し、手紙を届けてくれた人がいた。傷を治したあとも、自分の話を聞き、手を伸ばしてくれた人がいた。聞きたいことは喉元へ集まったが、最初に伝えたいことだけは、決まっていた。
声が、広い部屋へ落ちた。
「生きています」
国王は何も言わなかった。
エリナは、自分がちゃんと立っていることを確かめた。胸の奥まで息が入り、両足で床を踏めていた。
背後には、三人がいた。
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「何を、求めて来た」
国王が尋ねた。
エリナは一度息を吸った。
「兵を、貸してください」
玉座の脇に立っていた男が顔を上げた。
国王は肘掛けの上で手を止める。
「……何?」
「魔王を倒しに行きます。今度は、一人ではなく、みんなで」
声が震えそうになり、エリナは言葉を区切った。
「ここまで、一緒に来てくれる人が増えました。でも、まだ足りません。戦う人も、治療する人も、食料を運ぶ人も必要です」
国王の目が、エリナの後ろへ向いた。
ミアと、テオと、やどかりを順に見る。
それから、エリナへ戻った。
「何人だ」
エリナはやどかりを見た。
男は頷き、口を開いた。
「千人」
国王の顔から、言葉が消えた。
脇に立つ男も、同じように動かなくなっていた。
「……私も、初めて聞いたときは、そういう顔をしました」
エリナが言った。
笑い声は上がらなかったが、自分の喉に詰まっていたものが、少しだけほどけた。
「でも、私一人では勝てません。三年間、やってみました。何度も怪我をして、剣を振って、それでも、届きませんでした」
国王は黙って聞いていた。
「この前、町を襲った魔物と戦いました。私一人では倒せませんでした。でも、テオがそこを開けてくれて、やどかりさんが動きを止めて、ミアが私を立たせてくれたから、倒せました」
背後を振り返らなくても、三人がいることは分かった。
「一人を、もっと強くするだけじゃなくて……足りないところを、ほかの人に助けてもらいたいんです」
国王は、娘の話を確かめるように尋ねた。
「そのときも、聖剣で戦ったのか」
「いいえ。普通の剣です。私の剣が届くところを、テオが作ってくれました」
テオが、背後で短く頷いた。国王はそれを見てから、もう一度エリナへ視線を戻した。聖剣の力を待つ話ではなかった。刃の届かない相手に、別の者が手を貸す。そのやり方を、娘たちは道中で確かめてきたのだった。
国王の指が、肘掛けの縁を掴んだ。
「それで、千人か」
「はい」
短い返事のあと、沈黙が広がった。
エリナは待った。
この人が頷けば、遠くまで続く道の形が変わるかもしれない。鍋も、薬も、剣も、それを運ぶ人も、一緒に行けるかもしれなかった。
「認められぬ」
国王が言った。
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エリナは、唇を閉じた。
聞こえなかったわけではない。けれど、今、何と返せばよいのかが見つからなかった。
「……私が、一度負けたからですか」
ようやく尋ねると、国王は首を振った。
「それだけではない」
それも理由にはあるのだと思った。
エリナは否定しなかった。負けたのは本当だったし、次には必ず勝てると、証明できるものを持ってきたわけでもなかった。
「千人を送り出すとは、どういうことだと思う」
国王の声が、少し低くなった。
「その者たちがいなくなった場所を、誰が守る。道を、門を、食料を運ぶ馬車を。魔王城までの道中で食わせるものは、どこから出す」
王城の小さな会議室で、地図を示された日のことを思い出した。兵はそれぞれの町を守っていると、前にも教えられた。一人旅は神殿の習わしだとも。その説明を聞いた同じ城で、今、自分は千人を求めていた。
「その千人が留守にする場所を守り、遠征する者を食わせ、負傷すれば連れ帰る。そこまで定めて、初めて出せる。勇者が必要としているというだけで、その備えを省くことはできぬ」
国王は、脇に置かれた地図へ手を伸ばした。街道の交わる場所には印があり、その幾つかを、指先が順に辿った。エリナが求めた千人を集めるときにも、この印の下で暮らす人々は、そこに残るのだった。
エリナは、昼前に通ってきた門を思い出した。
荷車の中身を確かめていた兵士。テオの箱を覗き、自分の名を聞いて道を空けた男。
ここにいる兵を連れ出せば、その場所に立つ誰かが減る。
国王は続けた。
「そして、送り出した者が帰らなければ」
そこで一度、言葉が途切れた。
エリナが顔を上げると、国王は彼女を見ていた。
「千人の兵には、千人の暮らしがある。帰りを待つ者がいる。お前の言う千人は、紙の上の数ではない」
テオの工房が浮かんだ。
隣の老女がいて、暖房を使う老人がいて、帰ったら使うと言って預けた鍋があった。
ミアの町にも、引き継いだ患者がいた。
千人いれば、それが千人分ある。
「お前たち四人が、そうすると決めたことは分かった」
国王は、肘掛けから片手を離した。
「だが、私に千人を出せと言うなら、私は、その先を考えなければならない。勝つかもしれぬという望みだけで、彼らを死地へ送ることはできぬ」
エリナは、何も言えなかった。
それは、自分がテオへ言いたくなかった言葉と、同じところに触れていた。
強いから。必要だから。世界のためだから。
それで、誰かの暮らしを片づけてよいのか。
国王は、エリナを見たまま言った。
「彼らを送り出す以上、私には、その命に責任がある」
迷いのない声だった。
国王は、自分の席から守らなければならないものを語っていた。エリナには、それが間違っているとは言えなかった。
けれど、その言葉の中に、傷ついてこの門へ戻ってきた自分が見つからなかった。治療の相談をしたいと頼んだときには、その先に続く帰り道を、誰にも尋ねられなかった。
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玉ねぎの薄皮が、指に貼りついていた。
不意に、そんなことを思い出した。
神官が食堂へ来た日、自分は仕事の途中だった。父は鍋をかき混ぜ、母は客へ料理を運んでいた。明日も同じことをするつもりで、エリナは玉ねぎを膝へ載せていた。
そこから、ここへ来た。
銀色の剣を掲げ、たくさんの人の前で、約束した。
千人の兵士には、帰りを待つ人がいる。
テオには工房があり、ミアには患者がいた。
自分にも、あった。
帰っておいでと抱き締めてくれた母がいた。食べきれない料理を並べ、持っていく包みの紐を何度も結び直した父がいた。
あの扉の開き方を知っている常連客も、旅立つ朝に名前を呼んでくれた近所の人たちも。
エリナは、国王を見た。
千人を送り出すことを恐れる顔が、そこにあった。
その怖さを、間違っているとは思えなかった。だからこそ、あの日、立っているだけで精一杯だった自分には、なぜ帰れと言えたのだろうと思った。助けてほしいと伝える相手がいなくなったあとのことまで、この人は考えていたのだろうか。
「……一人なら、よかったんですか」
国王が顔を上げた。
「何?」
エリナは、自分の手を握った。
剣は持っていなかった。ここでできるのは、言葉にすることだけだった。
「私一人なら」
喉が震えた。
けれど、今度は飲み込まなかった。
「死んでも、よかったんですか」
衣擦れの音が止まった。
国王の口が、わずかに開いた。その先にある言葉を、エリナは待った。
やどかりも、ミアも、テオも、代わりには話さなかった。
エリナは顔を伏せず、玉座を見ていた。
あの日、自分の前で閉じた門の向こうから、今度こそ返事が来るのを待っていた。
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国王は、肘掛けに置いた手を動かさなかった。
目の前の娘は、返事を待っていた。問いを口にするだけで力を使い果たしたように、唇の色が薄くなっている。それでも俯かず、玉座を見上げていた。
「……お前が死んでもよいと考えたことはない」
国王は、娘の顔を見て答えた。声を強めはしなかったが、玉座の脇で動きかけた男は、その一言を聞いて姿勢を戻した。
「神殿に掛け合い、仲間を伴うことは認められた。供も募ったが、応じる者はいなかった。剣を教える者をつけ、街道で支える場所を用意し、その先で共に歩む者を探せるようにと考えた。お前を一人で送り出すと決めたのは、私だ」
国王は続けた。
「それでも、千人を送り出すことはできぬ。」
娘は唇を結んだ。背後の魔法使いが何か言いかけたが、彼女は片手を下げて止めた。国王は口を挟まず、もう一度こちらを向くまで待った。
「兵のお願いとは、別に聞いてもいいですか」
国王が頷いた。
エリナが言った。
「私が治療の相談に来たとき、門を閉めるように命令したのは、国王様ですか」
脇に控えた男へ、国王は目を向けなかった。
「そうだ」
エリナは、すぐには次の言葉を出さなかった。
問いの答えを予想していても、本人の口から聞くのは違うのだろう。息を吸い直すまで、国王は待った。
「どうして、会うことも駄目だったんですか」
「初めは痛みが薄れ、街道へ戻れたと聞いた。その後は、薬を替えても効果が続かなかった。見込みの立たぬ治療を続ける許可は出せぬと判断し、同じ申し出も取り次がないよう命じた」
国王は、その言葉を使った日のことを覚えていた。書類には治療の経過と、この先に望める効果が記されていた。読み終えてから署名した。誰かに急かされて目を通さなかったのでも、ほかの者が代わりに決めたのでもなかった。
「治せないって、話してもらうことも、駄目だったんですか」
娘の声は大きくならなかった。国王は開きかけた手を肘掛けへ戻し、その顔を見た。
「面会も、治療を再開するための申し出と受け取った。それ以外に何を求めていたか、私は聞いていない」
エリナは床へ一度目を落とし、息を吸い直した。治してほしかったのは本当だった。その願いを断られたあとにも、痛む身体と、今夜を越さなければならない自分は残っていた。
「少なくとも、次にどこへ行けばいいのか、一人で考えなくて済んだと思います」
国王は、返そうとしていた言葉を止めた。
「治らないなら、もう戦えないなら、どうすればいいのか。私には、分からなかったんです」
後ろの女が、娘のすぐそばへ寄った。触れはしなかったが、その距離だけで、娘の背中から少し力が抜けたように見えた。
国王は書類の内容を思い返した。治療の効果、費やした薬、今後の見通し。どれも確認している。軽い気持ちで止めたのではなかった。
しかし、その中に、今の問いへの答えがあったかは思い出せなかった。
「……お前への支援をどう終えたのか、記録を確かめる。だが、兵を出せぬという今日の判断は、変わらぬ」
やがて、国王は言った。
娘は長く彼を見たあと、頷いた。
「分かりました」
納得した顔ではなかった。
国王も、それ以上の返事を求めることはできなかった。