その夜、国王は勇者への支援に関する記録を取り寄せた。部屋には、いつも使う灯りが二つとも点いていた。供への応募はなかったと、出発前の報告に記されていた。旅立ちの記録には、剣の稽古と、最初に向かう宿場の名がある。その先で経験を積み、共に行く者を探す。道を決めるための支度は、確かに用意していた。
魔王に敗れたあとの頁には、治療の経過が続いていた。傷は塞がっても、左腕は動かない。肩の黒い痕は、年を追うごとに広がっていた。薬を替えた日と、その後の報告を確かめても、痕が薄れたり、指が動いたりしたという記載はなかった。治療を終えると決めた理由は、今読み返しても消えなかった。
国王は灯りの芯を少し上げた。昼間、エリナが兵士へ教えていた道が、何度も目の前に浮かんだ。その兵士が遠征へ来られない理由を、自分は知っていた。代わりの者を確かめ、帰郷も認めていた。
エリナについても、できなくなったことは繰り返し報告を受けた。けれど、その報告から読み取ろうとしていたのは、討伐の旅を再開できるかということだった。左腕が動かなくなってから、彼女が何を望んでいたのか。頁を戻しても、その問いを向けた記録は見つからなかった。
国王は、最後の報告の次をめくった。
別の案件が始まっていた。
「打ち切ったあとの記録は」
控えていた男が近づいた。
「治療に関するものは、そこまででございます」
「治療の話ではない。その後、あの娘をどうした」
男は帳面へ目を落としたまま、答えなかった。
「滞在先は。故郷へ戻る手配は、誰がした」
「……確認いたします」
国王は頷きかけ、止めた。
「私から、その指示を出した記録はあるか」
男は、開かれた頁を見た。
国王も見ていた。自分の署名があった。支援の終了と、同じ申し出を取り次がないこと。その先に続く指示はなかった。
「ございません」
返事は、小さかった。
国王は椅子へ背を預けた。
もう戦えないという報告を受けていた。
その娘が一人で帰れるのか、歩けるのか、食事を取れているのか。確かめるよう命じた覚えはなかった。魔王を倒す見込みについては繰り返し尋ねたのに、彼女の行き先は一度も尋ねていなかった。
門を閉ざす理由を、彼は幾つも説明できた。
その門の向こうへ残した娘をどうするつもりだったのかと問われれば、説明するものがなかった。
「陛下。当時は、各地からの要請も重なっておりましたので」
男の声に、国王は目を開いた。
「分かっている」
強く言ってから、息を吐いた。
そうだった。確かに忙しかった。どれも放置できぬ話だった。それを理由にして済ませれば、また帳面を閉じられた。
「……それは、分かっている」
二度目は、男へ言ったのではなかった。
男が退出したあとも、国王はすぐには席を立たなかった。昼間の地図を開き、兵士の故郷へ続く細い線を見た。それを教えた娘にも、帰る道があった。
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翌日、エリナは呼び出しを受けた。
昨日の説明で何か間違えただろうかと、宿を出る前に紙を読み返した。テオは、一度の説明で全部決まる方がおかしいです、と言ったが、それで緊張がなくなるわけではなかった。
通された部屋には、国王と、いつもそばにいる男が待っていた。
卓の上の帳面を見て、エリナは用意してきた紙を取り出した。
「昨日、答えられなかったところなんですけど――」
「その前に、話したいことがある」
国王は彼女の紙を見てから、顔を上げた。
「今日は、以前の治療と、面会についてだ」
エリナの手が止まった。
隣で、ミアがわずかに身を寄せた。
「記録を確かめた。支援を止めたあと、お前の行き先を確かめる指示を、私は出していなかった」
エリナは、返事をしなかった。
何と答えればよいのか、分からなかった。
「治せぬという報告を受け、こちらから差し出せるものはもうないと判断した。治療の申し出に答えられぬことを、そのまま、面会を断る理由にした」
国王は、開かれた帳面を閉じた。
「だが、治療を続けられなくとも、お前がその後どう生きるかを、考えることはできた」
エリナの指が、紙の端を折った。
「……できたんですか」
国王の唇が、一度結ばれた。
「できた」
彼は答えた。
「少なくとも、お前に会い、何に困っているのか聞くことはできた。帰りたいのであれば、帰るために何が必要か調べられた。私は、そのどちらも命じなかった」
エリナは、胸の奥が痛くなるのを感じた。一度でも話を聞いてもらえていたら、自分は何を話しただろう。その言葉を今から選び直すようで、すぐには息が吸えなかった。
「兵を出すかどうかは、今すぐには答えられぬ。それとは別に、お前に謝らねばならぬことがある」
国王はそこで一度言葉を切り、エリナが顔を上げるのを待った。
「治療を続けられぬという判断で、お前のその後を考えなかったことは、正しかったことにはできぬ」
国王の手が、帳面から離れた。
「戦えなくなったお前を、どう助けるか考えるべきだった。私は、それをしなかった」
エリナを見たまま、国王は頭を下げた。
「すまなかった」
エリナは動けなかった。
脇の男も、仲間たちも、何も言わなかった。顔を上げてくださいという言葉を、自分が言わなければならないのかと思った。けれど、口からは出なかった。
「……あのとき」
ようやく声にできたのは、それだけだった。
国王が顔を上げる。
「あのとき、そうしてほしかったです」
国王は、目を逸らさずに聞いた。
「すまなかった」
エリナは目元を拭いた。許せたのかと聞かれれば、分からなかった。三年が短くなることも、門を閉じられたときの心細さが消えることもなかった。
それでも今日は、何も言えないまま扉が閉じるのを見なくてよかった。
国王は、今の滞在先と、そこで暮らすのに困っていることがないかを尋ねた。エリナは宿と仲間のことを話した。故郷へ戻るために必要な手配もすると告げられると、膝の上で手を握った。
「……まだ、帰る日は決められません」
「急いで決めよとは言っておらぬ。必要になったとき、どこへ話を持っていけばよいかは、今日ここで決めておこう」
国王は脇の男へ顔を向け、その際は相談を受けるよう命じた。
エリナは、そのやり取りを聞いていた。帰っておいでと書かれた手紙は、今も荷物の中にある。そこへ向かう道を選ぶ前から、誰にも相談してはいけないのだと思う必要はなくなった。あの日に欲しかった返事が、今、自分の行き先を決める命令にならずに、目の前へ置かれていた。
やどかりが口を開きかけていた。王がそちらを見ると、やどかりは目を落とし、唇を閉じた。
「お前にも、申し出があるのか」
「……俺はいい。先に、昨日の話の続きを」
王は頷き、やどかりの話も後で聞こうと言ったが、やどかりは短く礼を言っただけだった。エリナが顔を見ても、何かを言いかけた口元は、もう動かなかった。
手の中の紙が、くしゃりと鳴った。
昨日、四人で書き足したものだった。まだ答えの出ていない問いが、幾つも残っている。
「……兵の話は、また、聞いてもらえますか」
国王は、彼女の手元へ目を下ろした。
「聞こう。ただし、集まったというだけで送り出すわけにはいかぬ。残る者の守りも、行く者が帰るための備えも要る」
エリナは紙を広げた。
「そこを、教えてください。私たちだけでは、分からないことがたくさんあります」
国王は椅子を引き、卓の上の地図を開いた。
そばに控えていた男が、数枚の紙を卓へ置いた。
「まず、これを見よう」
一番上には、食料のことが書かれていた。
その下には、運ぶ人と、帰る人のための支度が続いていた。