紙の上で、千人が食事をしていた。
もちろん、そういう絵が描いてあるわけではない。人の数に日数を掛け、食べる量を掛けた数字が並んでいるだけだった。けれどエリナには、その数字の向こうに、空になっていく鍋が見える気がした。
「……こんなに、食べるんですね」
「お前も食うだろ」
隣からやどかりが言った。
「食べるけど。一人分ずつなら、分かるんだけど」
家の食堂で、仕入れの量を母と確かめたことはあった。雨の日は客が減る。祭りの日には足りなくなる。残った野菜を翌日にどう使うか、父と相談したこともある。
ただ、それは明日も店に食材が届く場所での話だった。
道の途中には、市場がない。
「食料を運ぶ者も食べる。馬にも餌が要る」
国王が紙の一行を指した。
「帰りに通る町で買えばよいと考えて、そこに食料がなければどうする。あっても、軍が買い尽くせば、町の者が飢える」
エリナは頷き、書かれている数字をもう一度見た。小麦だけでは同じ値段で出せなくなり、父がパンに混ぜる粉を変えた年のことを思い出した。倉から袋を運び出せば、その量だけ、翌朝に粉を挽けない家ができるかもしれない。自分たちが食べる分を揃えることだけ考えては、いけなかった。
千人いれば心強い。けれど、その人たちの食事を用意するために、留守の家の食卓を空にはできない。紙の向こうにある鍋が、遠征する者の数だけでは足りなくなった。
国王は、食料の一覧の下から別の紙を引き出した。各地に残す兵の数と、そこへ送る荷の予定が並んでいた。鉛筆の線が幾つも引かれ、脇には、次の報告を待つ町の名が書かれている。
「ここにある分は、遠征の荷に加えない。町の者と守備の兵が、次の収穫まで食べる分だ。それを残して、何を運べるかを決める」
エリナは紙へ顔を寄せた。国王の前には、自分たちが連れていきたい人だけでなく、その人がいなくなる町の暮らしも並んでいた。
「足りなかったら、どうするんですか」
「別の場所から運べるか調べる。日数が要れば、出発を延ばす。行くために、留守の者を飢えさせるわけにはいかぬ」
国王は空いた紙を一枚取り、出発までに用意する荷と、途中で運び足す荷を分けた。脇に、帰路へ残す分も書き入れる。エリナは、その手元を見ながら鉛筆を取った。自分が魔王城まで歩いた道が、幾つもの町の倉とつながっていく。
「では、途中で補給する場所を決めておくんですね」
テオが地図へ身を寄せた。
「食べ物を傷みにくくする箱なら、作れます。ただ、箱そのものも重いですし、何でも入れれば済むわけではありません」
「そんなものがあるのか」
「どの荷に使うか、後で分けましょう」
ミアは、薬の欄へ指を置いた。
「こちらも、運び方を考えたいです。濡れたら使えなくなるものがあります。それから、怪我をした人を、どこまで運べるのかも」
「治療を受け持つ者とも、話してくれ」
国王はミアへ、別の紙を渡した。
「町の治療院を空にすることはできぬ。残す者を確かめたうえで、遠征に同行できる者を募る。必要な薬と、運べる怪我人の数を詰めてほしい」
ミアは頷き、治療の順は傷の状態で決めることも確かめた。国王が同意すると、運ぶ人へ何を伝えてもらうか、紙の脇へ書き足していく。エリナはその手元を見た。前で剣を振る者も、荷を運ぶ者も、傷つけば治療を受ける場所まで戻らなければならない。そのための仕事を、ミア一人へ任せるわけにはいかなかった。
エリナは別の紙を取った。
答えが出るたびに、次の問いが増えていく。けれど今日は、その問いを一人で抱えて帰る必要がなかった。
国王は、並べられた紙を一枚ずつ見たあと、食料の一覧へ手を戻した。
「これだけの備えが要る。そのうえで、確かめておきたい」
視線が、やどかりへ向いた。
「最初に千人と言ったのは、お前だったな。なぜ、それほどの人数が必要だ。少数で向かう方が、運ぶ荷も少なくて済む」
エリナも顔を上げた。
国王は続けた。
「勇者は、一人で魔王のもとまで辿り着いている。今は、仲間が三人いる。精鋭を少数つけることで、済ませられぬのか」
やどかりは、すぐには答えなかった。
空いている紙をエリナの前へ置き、鉛筆を寄せる。
「前は、どうやって入った」
エリナは紙を見下ろした。
魔王城のことを思い出そうとすると、まず、あのときの左肩の痛みが蘇った。けれど、やどかりが聞いているのは、その前のことだった。
「……正面からは、無理だった」
紙の上に、城壁を描いた。
自分が見たところしか分からないと断ってから、門の位置と、そこへ続く道を書き加える。
「道にも、門の前にも、魔物がいたから。離れたところに隠れて、動くのを待ったの」
「どのくらいいた」
国王の問いに、エリナは鉛筆を止めた。
「数えきれませんでした。門の前にいた群れが出ていっても、奥から別の群れが来て……いなくなったと思ったところにも、まだいて」
城壁の内側に点を打った。打ち終わる前に、また隣へ足した。
途中で手が止まった。こうして描くと、まるで数が分かっているように見える。
「ここだけじゃないです。私に見えたところだけで、これくらいで。奥は、分かりません」
国王は、その言葉を控えの男に書き留めさせた。
「それを、倒して通ったわけではないのだな」
「はい。全部と戦っていたら、入れませんでした」
エリナは城壁の脇へ、細い線を引いた。
「見つからないところを探して、少しずつ進みました。通れそうな場所があっても、魔物が来たら戻って。隠れられるところで、また待って」
湿った土の匂いを覚えていた。
物音を聞くたびに息を止め、剣を抱えて身体を小さくした。食べ物を包んだ布を開く音まで気になって、空腹のまま待ったこともあった。
「一人だったから、隠れられたところもありました。何度か見つかって、そのときは戦ったけど……倒したら、すぐ逃げました。ほかの魔物が来る前に」
卓の向こうで、故郷へ帰る兵士が、城壁の線を見つめていた。
「城に着く前から、消耗していたのですな」
エリナは頷いた。
「眠れるときに眠っていたつもりなんですけど。音がすると、起きてしまって」
そこで一度、言葉を切った。
あのときは、辿り着けただけで、ようやく終わりが見えた気がした。
そこから戦わなければならないのに。
「……魔王と会ったときには、もう、疲れていました」
やどかりが、描かれた群れの外側へ指を置いた。
「今度は四人いる。前より倒せる敵は増える。だが、ここにいる連中を全部相手にできるかは、別だ」
エリナはテオを見た。
川辺で放たれた魔法の光を思い出した。あれほどの力があればと思いかけて、魔法を放ったあとの、震えていた手も思い出した。
「……テオの魔法でも?」
「群れをまとめて攻撃することはできます」
テオは答え、紙の上の点を見た。
「ですが、そのあとに別の群れが来たら、また撃つ必要があります。次も、その次も。僕の魔力は、その間に元へ戻るわけではありません」
「魔王と戦う前に消耗しますね……」
「それに、全方向を同時には見られません」
やどかりが、テオの指す場所と反対側へ指を置いた。
「一匹倒せるのと、囲まれて勝てるのは違う。斬ってる間に後ろから噛まれりゃ怪我をする」
やどかりは何でもないことのように言った。
エリナは、その腕に巻いた包帯を思い出した。いつも前に立ってくれるからといって、傷つかないわけではなかった。
「私も、治療を続ければ疲労します。」
ミアが静かに続けた。
「もし誰かが歩けなくなったら、運ぶ人も要ります。その人が戦えなくなる分、残った人の負担も増えます」
紙の上には、たくさんの点が残っていた。
四人で魔物を倒したときのことは、エリナも覚えている。互いに助け、足りないところを補ったから勝てた。
けれど、倒した直後に同じ敵がもう一体来ていたら。治療をしている間も、休む間もなく、次が来ていたら。
「また、避けて進むのは……」
口にしてから、エリナは自分の描いた細い線を見た。
「できるかもしれねえ」
やどかりは答えた。
「だが、四人で隠れる場所が見つかるとは限らん。見つかって戦い続けることになれば、魔王の前に立つまでに力を使う。お前が前にやったのと、同じことになる」
エリナは鉛筆を置いた。
仲間ができたことは、心強かった。だから、そのまま前よりうまくいく気がしていた。
目の前の紙には、自分たちの人数とは比べものにならない敵がいた。
「……じゃあ、今度は、あの魔物たちに勝てるだけの人が必要なんだね」
「ああ。向こうが群れで来るなら、こっちも大勢で受ける。誰かが一匹と戦ってる間、その横を別の奴が守る。倒れそうになる前に、交代する」
やどかりは国王へ顔を向けた。
「俺たち四人を城まで送り届けてくれって話じゃねえ。俺たちも、その中で戦う。四人じゃ勝てねえ相手だから、手を貸してほしいんだ」
国王は、エリナの描いた城を長く見ていた。
「大勢ならば、敵にも気づかれる。隠れて通ったときより、多くを相手にすることになるぞ」
「だから、百人ほど増やして安心するわけにはいかねえ」
やどかりが答えた。
「見つかる人数にはなったのに、押し寄せてくる敵を受け止められねえんじゃ、かえって苦しくなる」
国王は兵士を呼び寄せ、地図の脇に新しい紙を置かせた。
話は、どこで戦いになるかへ移った。道で襲われる場合と、城の前まで進めた場合。正面へ出す人数を置くと、兵士が側面にも必要だと言った。交代する者を書き加えれば、同じ者を負傷者の搬送には使えなかった。
国王が数字を削るたびに、そこを誰が担うのかを確かめた。やどかりが人数を足すと、今度は国王が、何をさせるつもりかと尋ねた。
エリナは、知っている道幅や、見た魔物の動きを話した。分からないところは、分からないと答えた。
何度も書き直したあと、紙には、数百人では賄いきれない役目が並んでいた。
「……戦う者に、交代と後方の働きを担う者を加えれば、千人ほどにはなるか」
国王は言ったが、その紙へ署名はしなかった。
「ただし、これで勝てると決まったわけではない。敵の数も、現在の道の状態も、確かめる必要がある。お前の見ていない場所もある」
エリナは頷いた。
やどかりも、今度は軽口を挟まなかった。
「千人と言ったのは、そのくらいの構えが要ると思ったからだ。足りるかどうかは、詰めなきゃならん」
「では、用意できるかを確かめよう」
エリナは、何度も書き直した紙を見た。
「前に、供を募ったときは、誰も来なかったんですよね」
「そうだ。ただ、前回と状況は違う、来てくれる者もおるかも知れぬ。国が徐々に弱っているのは民も兵も知っている。今回は、お前たちが何と戦い、どこに人手が要るかも伝えることができる」
国王は、城壁の前に書いた数を指した。
「仲間を伴うことは、あのとき神殿も認めている。軍の討伐遠征を組むかは、私が決める。人が集まったというだけでは動かせぬ。残る守りも、帰るための備えも、私の責任で整える」
国王は地図の向きを変え、控えていた男を呼んだ。街道の報告とエリナの見た敵を照らし合わせること、各地の守備を残して動かせる兵を調べることを命じる。
「一つの町から出せぬなら、別の隊と交代できるかを見よ。遠征の間、どの道を誰が守るか、そこまでつないで確かめるのだ」
続いて、荷を運ぶ者と治療を担う者が、同じ道を通れるかも確かめるよう告げた。
「役目ごとに人数を足すだけでは足りぬ。負傷者を運ぶときに、同じ荷車を食料にも使うことはできまい。帰ることも考えた計画を立ててくれ」
男は指示を確かめると、必要な者を呼ぶために席を離れた。玉座の前では越せない壁のように聞こえた問いが、今は、誰が何を調べるかという仕事に変わっていた。
国王は食料の一覧を地図の隣へ置いた。
エリナは二枚の紙を見比べた。
あの魔物の群れと戦うために、大勢の力が要る。その人たちに戦ってもらうなら、食べてもらわなければならない。休んでもらい、傷を治し、帰る道も用意しなければならなかった。
「……たくさん来てもらえば、それで済むんじゃないんですね」
国王が顔を上げた。
「来てもらった人たちが、ちゃんと戦えて、帰れるようにしないと」
エリナは、脇へ寄せていた食料の紙を、自分の前へ戻した。
今度は、その数字を飛ばさずに読んだ。