机を片づけ始めたとき、入口に人影が残っていた。
エリナが顔を向けると、男は一度、通りの方へ身体を向けた。帰るのかと思ったが、二歩進んで止まり、こちらへ戻ってきた。
「……まだ、やってるか」
低い声だった。
エリナは机から紙を下ろす手を止めた。
「はい。どうぞ」
男が近づいてきた。
日に焼けた首、太い指、片側の眉に残った傷。その顔を見たとき、エリナの身体が先に覚えていた。
喉が狭くなった。
男の右手が動くと、肩が勝手に強張った。
石畳の上で、同じ手に腕を掴まれたことがある。首元の黒い筋を指され、町へ呪いを持ち込むなと囲まれたとき、説明を聞かずに殴った男だった。頬を打たれたあと、視界のすぐ近くに、この眉の傷があった。今は拳を握っていない。それでも、その手が自分へ向くだけで、あのときと同じ距離まで近づかれた気がした。
男も、彼女の反応を見た。
足が止まった。ポケットへ入れかけた手を、ゆっくりと外へ出した。
「……覚えてるか」
エリナは返事をしなかった。
ミアが隣へ来た。やどかりは、片づけていた椅子を静かに置いた。
「俺、あのとき……呪いが魔物を呼ぶって、聞いて」
男はそこまで言い、口を閉じた。エリナは彼の手から目を離せなかった。指が開いていると確かめても、昨日のことのように、頬を打たれた痛みと唇の血の味が戻ってくる。
「……確かめもしねえで、俺が殴った。すまなかった」
男は下を向いた。謝られているのだと分かったが、頷くために顎を動かすことも難しかった。噂が間違いだったと分かれば、それで怖さも消えるのなら、こんなに手を握り込んではいなかった。
「何の、ご用ですか」
自分の声が、知らない人の声のように聞こえた。
男は告知の紙へ目を向けた。
「荷を運ぶ仕事をしてる。戦えねえけど、重い物なら持てる。だから……」
言葉が続かなくなり、男は俯いた。
エリナは机の端へ手を置いた。来てほしいと言ったのは、自分だった。けれど、来た人の顔を見て怖くなることまで、考えていなかった。
「それで、なかったことにしてもらおうとは、思ってねえ」
男が言った。
「そう言っても、信じてもらえねえだろうけど」
エリナは唇を結んだ。
隣で、ミアが小さく声をかけた。
「私が、お話を聞きましょうか」
代わってもいいのだと分かって、ようやく息が入った。
エリナは頷いた。
「……お願いします」
男の顔が上がった。
エリナは、その目を見るのに少し時間がかかった。
「今、私が普通にお話しするのは、難しいです」
男は何度も頷いた。
安心させる言葉を、自分から渡すことはできなかった。
「でも、何ができるかは、ミアに話してもらえますか。参加のことは、それを聞いてから、皆で相談します」
ミアが、隣の机へ男を案内した。
エリナは空いた椅子へ座った。膝の上で手を握っていると、テオが水を置いた。
「飲めますか」
「……うん」
杯を持ち、少しずつ飲んだ。
向こうの机では、ミアが運んだことのある荷や、扱える道具について尋ねていた。男は時折言葉に詰まりながら、それに答えている。
自分を殴った男が、働くときの話をしていた。
エリナはその声を聞いていた。怖さが消えたわけではなかった。ただ、隣の人に聞いてもらうことはできた。
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城へ届ける紙をまとめる頃には、中庭の石が夕焼けに染まっていた。
遠征への参加を希望した者は、まだ片手で数えられた。準備だけならと申し出た人の名前は、別の紙に続いている。
「千人は、遠いね」
エリナが呟くと、やどかりは紙を覗いた。
「今日は、こいつらの話を聞いたんだろ」
「うん」
最初に来た荷車の男の名前の横には、明日の時刻が書いてあった。荷を渡す場所で待つ者も、確かめておかなければならない。
天幕を持ち帰った女には、布を届ける必要がある。鍛冶屋は、剣を見せに来いと言っていた。
数えるだけでは済まない用事が、紙いっぱいに増えていた。
入口の方で、兵士と誰かが話す声がした。
エリナが顔を上げると、大きな籠を抱えた女が立っていた。中庭を見回し、片づけかけた机に眉をひそめる。
「もう終わりかい」
「お話なら、まだ聞けます」
「そうかい。じゃあ、ちょっと聞きたいんだけどね」
女は籠を机へ置いた。
布の隙間から、玉葱が一つ転がった。エリナが受け止めると、女は彼女と、後ろの三人を順に見た。
「あんたたち、晩飯は食べたのかい」
誰もすぐには答えなかった。
女は大きく息を吐き、籠を覆っていた布を外した。
「千人の飯を考える前に、そこの四人を食わせないとね。台所は、どこを借りられるんだい?」
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借りられた台所は、中庭の奥にあった。
城で働く者の食事を用意する場所で、夕方の仕事を終えたばかりらしい。竈にはまだ熱が残っており、女は使ってよい鍋を確かめると、早速そこへ水を張った。
「四人分なら、すぐだよ。玉葱、剥けるかい」
「はい」
エリナが袖をまくると、女は籠から包丁も出した。
「私はベルタ。市場の食堂で働いてる。あんたは、エリナだったね」
「はい。あの、私の家も食堂で」
「なら、話が早い」
丸い玉葱が、まな板へ転がった。
エリナは根を落とし、皮を剥いた。顔を近づけすぎないようにして包丁を入れると、隣からベルタの視線を感じた。
「ちゃんとやってた手だね」
「……最近は、あまり」
「簡単に忘れちゃいないさ」
エリナは小さく笑った。
今日は、何度も自分のできないことを説明した。知らないことを尋ね、答えを書き留めた。そのあとで、包丁を握った手が迷わず動くのは、少し嬉しかった。
背後では、やどかりが棚へ手を伸ばしていた。
「皿はこれでいいか」
「深いのを四つ。真ん中に重なってるのは水切りだよ」
「似てるだろ」
「底に穴が開いてるでしょう」
テオが言うと、やどかりは皿を裏返した。
ミアが笑いながら、別の棚から器を取った。
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煮えるのを待つ間に、ベルタは中庭の机へ残された紙を見た。
「料理をする人も募集するって、書いてあっただろ。どんな支度を考えてるのかと思ってね」
エリナは、食料の一覧を差し出した。
ベルタは一通り読んでから、顔を上げた。
「薪は?」
エリナの指が止まった。
「……別の紙に」
「あるならいい。雨の中で千人分煮るとなりゃ、鍋があれば済む話じゃないからね。水を汲む人も、器を洗う人もいるよ」
テオが、鞄へ手をかけた。
「火を使わずに温める道具ならあります。ただ、今のものは四人分なので、これをそのまま大きくするのは――」
「じゃあ、それは四人で使いな」
テオが口を閉じた。
ベルタは紙へ目を戻し、ごく当たり前のように続けた。
「大鍋のことまで、あんた一人でどうにかしなくていいんだよ。こっちでも考えるから」
エリナはテオを見た。
彼は鞄の口を閉じ、代わりに鉛筆を取った。
「……次は千人分の鍋を作ります」
鍋から湯気が上がった。
ベルタが立ち上がり、エリナもついていった。味を確かめるための匙を渡されると、熱い汁を少し冷まして口へ運んだ。
玉葱が甘かった。塩が、身体に沁みるようだった。
「おいしいです」
「なら、座りな。自分の飯まで冷まさないの」
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翌日、ベルタは一人の男を連れてきた。
同じ食堂で働く料理人だという。二人とも来てくれるのかと思ってエリナが椅子を出すと、ベルタは首を振った。
「私が留守にするなら、こっちは店に残るの。その相談もあるから、一緒に来てもらったんだよ」
男は腕を組み、まだ承知したわけではない、と言った。
ベルタは、分かってるよ、と椅子へ座った。
その日は、出発した場合に店を何人で回せるかという話から始まった。
エリナは二人の会話を聞きながら、遠征の日程とどんな危険があるのか答えた。分からない点は分からないと伝えると、男は眉間に皺を寄せた。それでも席は立たず、休む日を増やすか、出す料理を減らすかと、紙の上へ指を置いた。
中庭には、そういう相談が少しずつ増えていった。
荷車の男は、午前のうちに城への運搬を終え、次に来られる日を伝えて帰った。天幕を縫う女は、仕事を分けられる相手を連れてきた。鍛冶屋は、手入れの悪い剣を並べてやどかりを叱り、その横でテオと金具の形について言い合った。
兵役を終えた者や、普段は街道の護衛をしている者も来た。話を聞いて参加を申し出る者もいれば、行けるのは途中までだと言う者もいた。
エリナは、名前を覚えるのに必死だった。
顔を覚えても、仕事を取り違えた。ミアに教えてもらい、紙をめくり、謝ってからもう一度聞いた。
「名前の横に、何でも書きすぎじゃないですか」
テオが、彼女の手元を覗いた。
「だって、忘れちゃうから」
「『娘さんが豆を嫌い』は、今、必要ですか」
「昨日、その話をしたの」
テオは何か言いかけたが、紙を返した。
「せめて、出発できる日と同じ欄に書かないでください」
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自分を殴った男の名前は、ダンだった。
エリナがそれを知ったのは、ミアから面談の紙を受け取ったときだった。
荷運びの経験、使ったことのある荷車、持ち上げられる重さ。それらの下に、出発前の仕事も引き受けられると書かれていた。
数日後、彼は倉庫から天幕を運んでいた。
エリナと目が合うと、足を止めかけた。けれど抱えた荷の向こうから別の男に声をかけられ、そちらへ向き直った。
「右を先に下ろすぞ」
「ああ」
二人で荷を置き、縄をほどく。ダンは次の荷を取りに戻っていった。
謝るために、エリナを追いかけては来なかった。
エリナは彼の背中を見ていた。
近づかれれば、まだ身体が硬くなると思う。それでも、今日どんな仕事をしたのかは、ミアから聞けた。
「明日も、運搬をお願いしています」
隣でミアが言った。
「うん」
それ以上、何かを決めることはできなかった。
今はその返事でよかった。ミアは紙を閉じ、一緒に次の相談者を迎えた。